『BNB1-5 再録本』より お試し版 -03.
※注意※
この本は、BNBというパラレルのシリーズの第1−5弾再録本のうちの第1弾です。
BNB6以降を復帰後に発行しているため、既に公開している「BNB1-5 あらすじ」の要約前本文になります
尚、この再録本はオンデマ印刷のため在庫は極めて流動的です。
ご了承下さい。
また、メインは海城(=作中表記はセトジョー)ですが、BNB4以降はバクラ受を含みます。(このお試し版では一切なし)
それぞれのカプが恋愛的に錯綜することは一切ありません。
完全に独立・並存しているWカプですが、苦手な方はご遠慮下さい。
※BNB1-5のあらすじを読めば分かる細々とした注意事項はここに羅列してません、多すぎて… ごめんなさい…
あと、本田と御伽の偽者率がパネェので、ご注意下さい・・・
↓よろしければ、スクロールをしてどうぞ。
■Blue Night BLUE. (BNB-01)
03 心の夜明け
二年前のあの日、セトは初めて王都に行くのが楽しいと思っていた。
カイバ家の血を引いていない義父を追いやり、正当な後継者としてセトが公爵となってから数度王都には呼びつけられていたが、そのどれもが不愉快で堪らなかったのである。向けられる視線は、セトが若いことに対する好奇と、義父とはいえ後見人として君臨していた男を追い落としたことに対する侮蔑ばかりだ。特に同い年である連邦の王とムトー家の当主は、何が楽しいのかせっせとセトに話しかけてくる様子が鬱陶しくて堪らず、立場上恭しく返事はしていたものの、これでは義父が反逆を企てたのも分かるなどと不穏なことまでセトは考えたくらいである。
義父は単純にその権力を狙って反逆を企てたが、セトは単にユーギたちが鬱陶しいだけで、まるで懐かない猫を無理に撫でようとしてくるような扱いが、本当に腹立たしくて堪らなかった。何度断っても義父の代に行なわれた領地替えを戻そうと提案されたり、いっそ王都で学ばないかと誘われても、セトにとってはありがた迷惑どころかハッキリと余計なお世話だった。それでも立場上王都に呼ばれれば行かないわけにもいかず、セトが義父を放逐して実質的に当主となってからしばしば赴いていた王都に、このときセトは初めて喜びを感じていた。
『……。』
慣例として、先代が死んだり実質上公爵家をまとめられなくなれば、その実子で純血の、男女の関係なく第一子が当主となる。セトの場合は正確には先代の当主ではなく、セトの後見人として実権を握っていた義父を追い出した瞬間に当主となったのだが、その後に形式的な授任式というものがあった。
あくまで儀式にしかすぎない上、セトは千年宝物を使いこなせていたのでその授任式が行なわれるまでにしばらく時間ができた。本来ならばその期間に新しい当主は授任式で披露すべく魔物との契約に奔走するのだが、その時点で既に青眼の白龍を従えていたセトにとっては不要な時間だ。
できることならばさっさと授任式を済ませたいと思っていたにも関わらず、その不要な時間にあの不可解な髪型をした双子は、しばしばセトを王都に呼びつけては不愉快にさせてくれる。魔物との契約をする時間だと思っているならば放っておいてくれればいいのだし、既にそんな時間は必要ないのならばさっさと授任式をしてもらいたい。それでも表面上は嫌な顔をするだけで赴いていたセトに、ようやく待ちに待った日が来た。
『……この程度で、よろしいですかな?』
セトが青眼の白龍と契約していることは比較的知れ渡っていたが、まさか三体ともと契約し、あまつさえ究極竜に融合できることまでを知っていた者はほとんどいない。そのため、予め別の場所で召喚して融合させたまま待機を命じ、嬉々として授任式で召喚してみせれば、それまでセトを嘲るように見ていた頭の悪い中央の連中も皆驚愕で慄いた。
そんな状況に、見たことかと内心で吐き捨てつつも、セトは山でも消して見せようかと実は最も驚かせたかった相手に不遜に振り返る。
『いや、余興としては随分楽しませてもらったぜ? カイバ公』
するとセトと同い年の若い連邦の王はそう大らかに返していたが、少し顔が引き攣っていたのを見てセトは充分満足する。この辺りでいいだろうと思い、手にしていた千年錫杖を振るようにして究極竜を戻したセトは、なんだかいろいろと楽しくなって思わず笑い出してしまった。
『ククッ……ワハハハハハーっ!!』
『カ、カイバ公……!?』
実は究極竜を見たときより驚いて恐怖に顔を引き攣らせているユーギにも気がつかず、セトは一頻り気が済むまで笑っていた。
とにかく、なにもかもがおかしかったのだ。
思えばこんな歳でこの場に立っていることも、ここに立つまでの道のりの何もかもがおかしくて、すべて笑い飛ばしてしまいたくなってそれを実行したセトは、次の瞬間息を飲む。
『……!?』
『ど、どうしたんだ、カイバ公……?』
今度は突然笑うのをやめたセトに、ユーギはかなり不審そうに尋ねていたが元々ユーギを毛嫌いしているセトの耳に入るはずもない。セトの視線の先には今無視している連邦の王の双子の兄であるムトー公爵の頭のトンガリの部分だけが見えており、要するにその後ろに立っている人物に目を奪われていた。
『……。』
『お、おい、カイバ公……!?』
鮮やかな金髪に、白すぎることはない健康的な肌をした少年が、なにか訴えかけるような目でこちらをじっと見つめてきていた。その目がやけに印象的で、一瞬この場がどこであったかも忘れさせるほど強烈な印象をセトに与えていたが、
『……では、失礼致します、陛下』
『あっ、ああ……!?』
それを表に出すのは何故か癪に感じられ、セトは社交辞令用の無表情を顔には貼りつかせてそうユーギに一礼し、式典を後にした。
その少年がジョーノであったとセトが知ることになるのは随分と早く、式典の翌日にもう公国に帰ろうとしていたところをユウギと一緒に襲撃されたのだ。いや、別にそれは剣や魔法で襲ったわけではなく、単純にユウギに頼み込んだジョーノがセトに会いにきただけだったのだが、
「……まさに、襲撃だったな」
そうして再会したセトにとっては、そう言い表せるくらいの衝撃となった。
そのときは何故か小さなユウギの後ろに隠れてモジモジと気持ち悪く人見知りをしていたジョーノとはろくに話もしなかったが、それでも本当に帰ろうとした直前に、また来るのかといきなり叫ばれてセトは思わず頷いてしまう。
「……。」
思えばあのときジョーノはユウギたちとグルだったのではないかとセトは思うのだが、そうして授任式を終えて公国に帰ってからも、セトはまたしばしば王都に呼び出される。てっきり授任式さえ終わればもう解放されると考えていたセトは、よくもまあこんなことを思いつくなと感心してしまいそうなほど些細なことで呼び出され、機嫌は急降下するばかりだ。
だが、王都に滞在するのはせいぜい二日程度であるが、そこで会うのはユーギかユウギのどちらかにも関わらず、いつもその傍らにはジョーノがいた。いちいち過敏に反応してくるジョーノが面白くて、つい言葉でからかっているうちにいつしか互いに剣を持ち出す。ジョーノは騎士であったのでその技術はなかなかのものであったが、セトと試合をするときはいつも剣が手につかないようであっという間に勝負はついた。
『チックショーっ、次は絶対勝ってやるかんなっ!!』
『フン、来もせん未来を夢見ていろ凡骨』
それでも、何度地面に転がされても減らず口を叩きながら這いあがるジョーノを、セトは罵倒しつつも実のところはかなり気に入っていた。それをユーギなどにはしばしば揶揄されていたが、駄犬を蹴飛ばすのが楽しいだけだとセトは吐き捨てる。
「……それが」
いつものように王都に呼び出され、さて今回はどんなふうにからかってやろうかと思っていたセトに、真っ先に会いに来たのはジョーノではなくユーギだった。そのことを訝しんだり不愉快に思ったりしつつも一応は連邦の王なので丁重についていけば、通された部屋でセトはいきなりジョーノとの結婚を言い渡された。
「……。」
打診ではなく命令で、既に決定事項となっていたらしいことをセトはユーギに告げられる。その部屋には結婚相手であるはずのジョーノはおらず、そのことがすべてを説明していると思いつつセトは逆らえるはずもない王の言葉に一言諾と伝えた。
「……今では、アレがオレの妻とはな」
笑わせてくれる、とぼやきつつ、セトの顔から笑みがこぼれることはない。
ただ人生何が起こるか分からないものだということを痛感したセトは、王都では夜明けの近い時刻のとっくに白んだ空を私室の執務机に腰掛けたままで眺めていた。
「……よしっ、今度こそ声かけるぞっ」
そうしてセトが朝も早くから仕事をしていた頃、妻という立場のジョーノも実はちゃんと起きてその私室のドアの前に立っていた。
昨日モクバと共に帰宅し、使用人に作ってもらった食事はしたものの、結局深夜近くまで屋敷の主であるセトは帰ってこなかった。モクバにはいつものことなので起きていても返って心的負担になるだけだと諭されたが、ジョーノは笑ってモクバを寝かしつけた後にこっそりと廊下で夫を待った。
『あっ、お……おかえり?』
『……まだ起きていたのか』
モクバの話によれば帰宅するかも怪しかったらしいのだが、運良くこの日はセトも屋敷に戻ったらしく、部屋の前に現れたセトにジョーノはぎこちないながらもそう声をかける。
王都で会っていた頃は、気候が違うこともあり、また一応は王の呼び出しということでおめかしはしていたらしいセトは、どうやら動きやすい服装に薄手のコートを羽織っていた。いかにも私服といったものではあるが、やはり着る者が違うとそう見えるのか、妙に気品には満ちておりジョーノはしばらくぼんやりと見つめてしまう。
『……なにか用でもあるのか?』
『えっ、あ……!?』
だがそんなジョーノの視線を逆に不審そうに睨み返していたセトに、そう尋ねられてジョーノは慌ててキリリと口元を引き締めた。
ジョーノは前日に青眼の白龍で運ばれている最中に気を失っているので、ほぼ丸一日セトとは会っていない。もしかすると連絡はいっているのかもしれないが、昼にモクバと出歩いたりしたことや、この屋敷での生活について一応確認しておきたかったのだ。
『あ、あのよ、昼にモクバと街に行ったんだけど……。』
深夜とはいえ廊下には明かりが灯り、また王都ほどには夜の闇が深くない地域なのが正直ジョーノには助かった。もし真っ暗だったらさすがに待っていられなかっただろうと情けないことを思いつつもそう切り出したジョーノに、セトはしばらく考えるような仕草をした後、思いついたらしく口を開く。
『……ああ、ここは王都よりかなり寒いからな。服がないなら勝手に買っておけ、請求はまとめて屋敷にくるから心配はいらん』
『え……!?』
『服に限らず、必要なものは家具でもなんでも好きに購入しろ。ああ、一人で出歩けんと言うならモクバに案内してもらえ』
モクバにもいい暇つぶしになるだろうと、なんだか見当違いのことを言ってくれるセトに、ジョーノはそういう意味ではなかったのだがと思いつつこの件に関しては口は噤んでおいた。その様子を見て用件は済んだと思ったのか、自分の部屋のドアへと手をかけるセトに、ジョーノは慌てて声をかける。
『なっ、なあ、セト……オレ、ここに住んでていいのか?』
『……。』
それでも、肩を掴んで引き止めるようなことは出来ないので必死になって問いかけてみたジョーノに、セトはドアに向かう足を止め、また考えるような様子を見せていた。だがやがてその明晰らしい頭脳で出てきた答えは、
『……嫌ならば、今は使っていない離れがある。手入れはしているはずだ、勝手に使え』
『なあ、それってお前が嫌だから?』
『……貴様が嫌ならば、離れに移れと言っている』
どうやらジョーノが出て行きたがっているとでも解釈したようで、そんな提案をしてくるセトにジョーノはどこかほっとしてしまった。それは要するにジョーノが出て行きたくないのならばここに住んでいいということであり、今度こそ用は済んだとばかりにドアに向かうセトの背中に、ジョーノは小さく確認する。
『じゃあ……朝、オレが起きた部屋、そこでオレ寝ていいのか?』
『……。』
モクバの話では部屋は有り余っているらしいこの屋敷なので、未明にセトが気絶しているジョーノを転がしておいた客間を、そのまま使えばいいとモクバには言われていた。だがセトもそれでいいのかと、二つの意図からそうジョーノは尋ねてみる。
『……ああ。ならば貴様の部屋はそこでいいだろう、必要なものがあれば好きに揃えろ』
『……。』
だが、少し悩むようにした後に頷いたセトには、きっとジョーノの質問は同じものを二度繰り返された気分だったのだろう。
この屋敷に住んでいいと一度許可したのだから、部屋ももちろん好きなものを使っていい。
そんなふうに答えたのだろうが、ジョーノとしては質問の意図の半分しか汲み取ってもらえていないことは明白だ。だが残りの半分であるこの屋敷での住み込み許可は再度もらえたので、それ以上を今望むのは性急すぎると自分に言い聞かせて笑ってみせた。
『ん、じゃああの部屋使わせてもらうぜ。なあ、お前明日も仕事か?』
『……ああ』
『朝早いのか?』
その質問にセトは適当に頷くだけで、今度こそドアを開けてさっさと自室の中へと消えていってしまう。もちろん引き止めるつもりもなく、ましてやセトの部屋に無理に乱入するつもりもなかった。
『……これがもう一つの理由だぜ、モクバ』
昼間モクバに責められたことを思い出して、ジョーノは閉ざされたドアにそう呟いてしまった。
結局のところ経緯はどうであれ、セトとジョーノの間に結婚しているような状況は全くない。指輪も交わさず、寝室も別である。誓いのキスすらないので初夜などもってのほかであり、それどころか結婚することになって以来まともに顔すら合わせなくなった。
以前も朗らかな笑顔で談笑していたわけではないのだが、たとえ罵り合ったケンカ腰でもずっと楽しく会話をしていたはずなのだ。ユーギに打診された結婚を承諾すればこうなると分かっていても、やはり断ることなどできなかったジョーノは、取り敢えずはお許しをもらった客室に戻って頭からシーツを被って寝た。
「……ま、それはしょうがねえことだし」
結婚したはずの夫と会って会話をするたびに落ち込む新妻もどうかと自分で思うのだが、朝になって目が覚めたジョーノは寝る前の憂鬱な気分は少しだけ晴れていた。それはきっと寝心地のいいベッドのおかげではあるのだが、起きたときに隣に誰かさんの顔でもあればもっと気分は晴れたのにと、慣れたはずの一人寝を寂しく感じてまた気が滅入る。
それでもそんなことをしていてもしょうがないので、ジョーノは自分に気合を入れてベッドから下りて身なりを整えた。そして食堂に向かえばもう用意をしていた使用人に何故か出て行くつもりかと慌てられたが、軽く否定して足を運んだ理由を話せば、カイバ公国がまだ大陸の西の大地にあった頃の屋敷から勤めているらしい使用人にひどく感動される。
「……。」
どうやら事情を詳しく知らない使用人の間では、頻繁に王都に行っていたのは王令にかこつけて意中の人がいるのだと、その人物に主は会いに行っているのだと、そういう噂になっていたらしい。そのおかげでこのカイバ公国の中で唯一に近くセトの花嫁というものに好意的らしい使用人たちは、純血どうこうよりも個人としてのセトの幸福を望んだらしい。ここでもセトの意外な人望を見せつけられたジョーノではあるが、その主が射止めた意中の人とやらと勘違いしてくれている使用人たちに、自分は違うのだとどうしても説明できなかった。
なのでむしろ後押しまでされて用意をしたジョーノは、軽く振り上げていた拳を、やはりドアへは叩きつけられない。
「……まだ、寝てるかもしんねえし」
そう自分に言い訳しつつも、この時間ならば主はとっくに起きているという情報は使用人からもらっているジョーノである。自分が思いついたことではあるが、余計なことだとセトに一蹴されてしまうかもしれない。かといってこのままでは本当にこの結婚になんの意義も見出せないと自分を奮い立たせ、ジョーノは思いきって今度こそドアを叩いた。
「セ、セト、起きてるか……?」
実はジョーノは知らなかったが、このセトの私室は入ってすぐが書斎であり、寝室は更にドアを開けた奥にあるので本当にセトが寝ていればそんな呼びかけは聞こえるはずもなかった。だが使用人の言葉の通り、既に起きていくつかの書類に目を通していたセトは、そのまま静かに歩いてドアを開けた。
「……どうした」
「おわっ!?」
「……。」
だが緊張し過ぎてその足音に気がつかなかったジョーノは、突然開いたドアにひどく驚いてしまう。たとえ起きているにしてもまさかドアを開けてもらえるとは思っていなかったジョーノは、そこに数時間前に同じ場所で別れた夫の顔を見とめて大きく肩で息をする。
「おっ、驚かせんなよ、お前……!!」
「……貴様が勝手に驚いたのだろう。しかも貴様から呼びかけておいて、随分なお言葉だな」
「うっせえ……!!」
既に整えられていたセトの服装に、一瞬あのまま着替えずに寝たのだろうかとジョーノは思ってしまったが、よく見れば昨夜と服装は違うので寝ることは寝たらしい。だが昨日昼過ぎまで寝ていた自分ならいざ知らず、深夜まで仕事をしていたセトが朝も早くから起きて仕事をしているのは確かに使用人には心配だろう。
「それで、なんの用だ?」
なので、当然のように怪訝そうに尋ねてきたセトに、ジョーノは思いきって用事を告げてみる。
「……朝メシ。いっつも食わないんだってな」
「……。」
「コーヒーだけだって厨房の人に聞いたぜ?」
正確には食べないだろうと思って確認してみればその通りだったのだが、そんな経緯はどうでもよかったのでジョーノは少し顔をしかめてそう言ってみる。するとまたしばらく考え込んだセトは、やがて何かを思いついたように口を開いた。
「……モクバは食べているはずだ。この時間では確かになにもないかもしれんな、明日からは貴様の分だけでも作らせておくよう言っておけ」
最近こんな顔を良く見るようになったと、ジョーノがセトのその思案顔に内心で感想を述べていると、セトからはまた少し見当外れの答えが返ってきていた。基本的には何事にも無遠慮に言いきってしまう性格のセトが口を開く前に考えること自体が珍しいのだが、そうしてみせたときに限ってこんなふうに首を傾げたくなるような回答ばかりである。それはこのときも例外ではなく、そんな反応をしっかりと首を傾げて示してしまったジョーノに、セトは更に言葉を足してくれた。
「……言うのが面倒ならば、モクバの朝食時間まで待てばいい。今日のところは今から作らせるか、モクバが起きるまで待て」
「あのさ、セト……?」
オレモクバのことじゃなくてお前のこと言ったんだけどと、ますます不可解な返事をしてくれるセトにジョーノがそう言ってみれば、今度はセトが不思議そうな顔をする番だ。さすがにジョーノとは違い首を傾げたりはしなかったが、明らかに意味を図り損ねているセトに、ジョーノはため息をついてから今度はもっと分かり易くはっきりと言ってやる。
「だからさっ、お前いっつも朝メシも食わずに仕事に行ってんだろ? 結構激務だって聞いたぞ、そんなんで体保つのかよ?」
「……貴様には関係ない」
だが、はっきり言えばはっきり言ったであっさりと断ってくれるセトに、ジョーノは一瞬だけ喉の奥が引き攣るような痛みを覚える。それでもすぐにそんな痛みは押し隠して怒ったような顔を作りながら、ジョーノはビシッと指を差した。
「いいからっ、ちゃんと朝メシ食えよ!!」
「……何故、貴様にそんなことを言われねばならん」
「だって勿体ねえだろうがっ!!」
相変わらず憮然としているセトになんとかジョーノが反論すれば、セトは一瞬怪訝そうな様子を見せる。
「……まさか、もう作らせたのか?」
基本的にジョーノが貧乏性であることを知っていたセトがそんなふうに尋ねてきたので、思わずジョーノは何も考えずに首を振ってしまった。
「んーん、オレが『作った』の!!」
「……貴様がか?」
だが、よく考えれば自分のお手製などと聞いてますますセトが倦厭する可能性は多分にあり、これは失言だったとジョーノは直後に深く後悔する。昨日食べさせてもらった料理はどれも絶品であったので、きっとあの料理人の腕は良く、素人のジョーノが味で叶うはずもない。ましてや出会ったときからバカにされ続け、結婚してからは無視されるようになったジョーノの手料理など、セトにいい印象を与えるはずもない。
「……く、食えない味じゃねえと思うぜ?」
セトの体を心配したというのも嘘ではなかったが、そもそものジョーノの目的は『妻らしいこと』としての一環だったのである。使用人を抱える身分の女性は結婚しても料理などしないのかもしれないが、基本的には田舎育ちのジョーノにとって、他に思いつくことはなかったのだ。
昨夜は暗くて気がつかなかったが、セトの男にしてはキレイなその手に、当然ながら白銀の指輪ははめられていることもない。いくらジョーノの方はそれを左手にしているからといって、ここでは与えられた仕事もなく、ただ毎日惰眠と食事を貪るのも気が引けたというのも本音で、運良くセトが食べてくれればその後に手料理だとバラすつもりだったのだ。
だが食卓につかせる前にそう口を滑らせてしまい、ジョーノはこの計画も失敗かと肩を落としてしまう。そんなジョーノをセトはしばらく考え込むように眺めていたが、やがて口にされた答えはやはりジョーノの予想を裏切るものだった。
「……いいだろう。犬が作った食事とやらを、試食してやる」
「え……て、本気で!?」
「なんだ、その驚きようは?」
まさか毒でもと嫌そうな顔をするセトに、ジョーノはブンブンと激しく横に首を振って否定しておいた。なんの気紛れかは分からないが、取り敢えずセトはジョーノの作った朝食を食べる気になったことは確かなのだ。
「おしっ、じゃあ早速食堂行こうぜっ!!」
ならば気が変わらないうちに、とさっさと連行しようとしたジョーノは、何の気なしにガシッとセトの腕を掴んでしまい、慌ててパッとそれを離した。
「おわっ……え、ええと、じゃあ食堂に……?」
「……ああ」
それは随分と挙動不審にセトの目には映っただろうが、ジョーノは曖昧に笑って誤魔化しておくしかない。それでもジョーノが促すように歩き出せば素直についてきてくれるセトが嬉しくて、思わず緩みそうになる顔を必死で引き締めるのにジョーノは精一杯だった。
03−02 融けゆく空
それから、あっという間に二週間が過ぎた。
当初はもっと息が詰まるような生活だと覚悟していたのだが、思わぬ伏兵がいてくれた。
「なあジョーノっ、今日は東の市場まで行くぜぃっ!!」
「えーっ、こんなに寒いのにか……?」
短い時間にすっかり慣れた一応義弟となる少年に腕を取られ、朝食の後片付けをしていたジョーノは不満そうに漏らす。放っておいてもそんなことは使用人がしてくれるのだが、やはり傅かれることに慣れていないジョーノは、せめてとメイドが用意して待っているワゴンまでは運ぶようにしているのだ。王都にいた頃よりも随分と早起きに慣れてきたとはいえ、今朝は本格的な冬到来を思わせる冷え込みでそんなお誘いにジョーノはかなり気乗りがしない。
「東って、山側だろ? つったら余計寒いじゃねえか……。」
しかもこんな日に限って朝から誘ってくるモクバにジョーノがそう言えば、モクバは呆れたように言う。
「これぐらいで寒いって言ってたら、オマエ、ほんとに冬眠しなきゃいけなくなるぜぃ?」
「えっ、そんなモンなのか? うわーっ、オレ、ほんっと寒いのは苦手なんだけどな……。」
モクバの言葉に最後の皿をワゴンへと乗せてからブルブルと震えてみせると、モクバはますます呆れた顔をしていた。だが呆れていても何度も誘ってくるモクバに、ジョーノはいい加減閉口してしまう。
「モクバ、今日じゃなきゃいけないのか……?」
それでも往生際悪く尋ねてみれば、
「今日じゃないとダメなんだよ、この冬で初霜の朝に生える山菜があるんだから!! その新芽が凄くおいしいんだよ、明日にはどんどん伸びるからダメだって!!」
「えーと、てことは、それが東の市場にしかまだないハズってことか? まあそれならそれでもいいけどよ、だったら誰かに送ってもらえば……。」
「それ待ってたら明日になるだろ!?」
今朝摘んだ初物でないとダメなのだと主張するモクバに、ジョーノはどれだけその山菜が美味いものか興味もわくが、やはり吐く息が白くなるほど冷え込んだ日にわざわざ出向くのは気が乗らない。そんな心情が顔に出ていたのだろう、モクバはすっと隣の人物に話をふる。
「ねっ、兄サマも食べたいよね!?」
すると、以前はもっと遅くに起きていたモクバがこんな時間に朝食を取るようになった原因は、優雅に食後のコーヒーを一口飲んでから頷いてみせた。
「……そうだな」
「ほらっ、兄サマもこう言ってるし!! ジョーノっ、行こうぜぃっ!!」
「う、あぁ……。」
どうやら少し遠出をしたいらしいモクバは兄の後押しも受けて重ねてそう誘ってくるが、本当はジョーノもさほど寒いから嫌だということではなかったのだ。ただやはり結婚してから二週間、そろそろセトの花嫁の名前も街に広がっているだろうし、あまり表に出るのもどうかと思って渋っていたのだが、素っ気無いながらも夫から頷かれてジョーノはそわそわと視線を泳がせてしまう。
「あ、あーっ、えーっと……じゃ、あ、行こう、かな……?」
「おうっ、道案内してやるぜぃっ!!」
ヤッターとガッツポーズをしているモクバには悪いが、これではまるで自分が夫のためならば寒さも省みず出掛ける新妻かのようではないかと、ジョーノは火照りそうになる顔を必死で抑える。だがそうとられた方がいいのだと慌てて思い出し、否定するのも肯定するのもジョーノができずに動揺していると、ガタリと音をさせてその夫が椅子から立ち上がった。
「あっ、兄サマ、もう行くの?」
「ああ。今日は評議会の閉会日でな、嫌でも顔は出さねばならん」
この二週間で学んだこととして、セトはなんだかんだで評議会の実際の議場にいることは少ないらしい。それは良くも悪くも形式的なことに時間を取られるのが嫌だからだそうで、それならば少しでも書類を片付けたり報告を聞いたり視察に訪れたり山で魔物狩りでもしている方が性に合っているようだ。だが本日はその議会も会期が最終日を迎えるので出なければならないらしく、やや億劫そうにしているセトに対し、モクバは嬉しそうである。
「そっか、じゃあ今日は帰りが早いの?」
その笑顔の理由の一つは今尋ねた通りのことで、もう一つは魔物を狩りに行くという危険な仕事がないからだろう。モクバは自分では抑えているつもりらしいが、そんなふうに素直に顔に出して尋ねてみれば、それにはセトは軽く首を振る。
「いや……その予定だが、定刻通り終わった例がないのでな。遅くなるようなら連絡を入れる」
「そうだったね。うん、兄サマ、お仕事頑張ってきてね!!」
「ああ」
確約はもらえなくて少し寂しそうにはしたものの、笑顔いっぱいでそう送り出すモクバは、本当に兄が大好きで尊敬しているのだろう。またそんなモクバをセトもまた大事にしているのも明らかで、繰り返されるそんなやりとりをジョーノはどことなく疎外感の中で眺めてしまった。
「……おいっ、ジョーノ、ジョーノってば!!」
「えっ……!?」
どうやら学校はセトが陣頭指揮を執って作った新設校に通う予定だかで、その開校が年明けにズレたため何もすることがないモクバは、ジョーノが来るまで本当に暇を持て余していたらしい。それを考えても、自分はせいぜい可愛い弟のお守くらいの目的でここにいることを容認されたのだろうなとジョーノは思う。本来新婚であるはずの自分がこなしてもおかしくないような会話をしていた兄弟を、やや複雑な思いで見ていたジョーノは、そう腕を引っ張られて慌てて意識を戻した。
「ほらっ、兄サマがもう出かけるって……!!」
「お、おうっ、そうだな……。」
もしかすると年が明けてモクバが学校に通うようになり、暇潰しの相手が必要なくなれば追い出されるのだろうか。そう漠然と考えていたジョーノは、そんなふうにモクバに促されて慌ててその意図を汲む。取り敢えずセトがどういうつもりであれ、ジョーノはここに妻として乗り込んだ以上、追い出されるまではそうして振る舞わなければならないのだ。目的を達成するには少しでもセトの警戒が解けるようにと朝食を作り始めたのだが、今ではもう一つ仕事が増えていた。
「あっ、でも評議会の仕事なら、今日はそんなに腹減らねえのかもしれねえけど……。」
どうやら朝食どころか一日の食事のすべてが不規則だったらしいセトに、その点は心配していたモクバの威を借りてジョーノは昼食も作ることに成功したのである。もちろん午後からは狩りに行っていることの多いセトについてその場で作ることなどできないので、食事を箱に入れ、更にそれを布で包んだものを持たせることにしている。
「お腹減ってなくてもっ、ちゃんと食べなきゃダメだよ、兄サマ?」
「ああ、努力する」
体裁だけは新妻の愛妻弁当ということなのだが、控えめに渡すジョーノではなく、モクバがしっかりとセトに念を押す。ジョーノも言えるものならそう言ってみたいが、自分が言ったところで無視されるか適当にあしらわれることも分かっていたのでジョーノは無駄なことはしない。いつもキレイすぎるほどに空になって戻ってくる弁当箱に、大方モクバが気にしていることを意識しているセトが仕事先で中身は処分しているのだろうなと思えばジョーノはまた気が重くなる。
「じゃあ兄サマ、いってらっしゃい!!」
「……ああ」
それは単純に食料が勿体無いということもあったが、朝も早起きして自分の手で作る労力の末路があまりに虚しいということだ。それでもそれが自分には当然なのだと言い聞かせ、モクバの言葉には軽く頷いている男の背を見送るでもなくジョーノは逃げるように必要ないと言われている食器の片付けに今更向かった。
結局のところ、最初こそかなり不審そうだったモクバが気を許して懐いてくれたのも、食事や弁当を作ったりたまには片付けまでやっているジョーノを、使用人のような感覚で受け止められたからなのだろう。たった二週間ではあるがモクバの兄への心酔ぶりを実感すれば、大好きな兄のところに嫁いできた男などとモクバは仲良くできるはずもないので、それは明らかだ。
「なあ、ここまできてその新芽とやらがまだ入ってなかったら笑うぞ?」
馬には乗れるがさほど手綱さばきが上手いとは言えないモクバは、市街地より外に行くときは決まってジョーノに馬を出させる。今日も東の、しかもかなり山の麓に入った場所にある市場というので馬に乗せてやったジョーノは、市場の入り口でその馬をカイバの名前で庁舎に預け、徒歩でその市場とやらに向かっていた。
「大丈夫だって、いつも初霜の日って言ってたし!!」
「なあ……それって、この辺りで初霜ってことじゃないのか?」
一時間ほど馬を走らせたその山の麓の町は、屋敷のある公国の都市に比べればかなり田舎の趣を残した場所で、山岳地帯に近いので当然標高も高かった。人口も少ないようでお世辞にも近代的な発展は見えなかったが、それでも人々は皆活気溢れて市場も賑わっている。
「あ。……そ、そうかもしれないぜぃ……!!」
「おいおい……。」
「う、で、でもそうだったらもう並んでるのは間違いないぜぃっ!?」
どうやら初霜ということしか頭になかったらしいモクバのそんな反応に、初物でないとダメだと言い張ったのは誰だとジョーノは少し呆れてしまう。だがひどく恐縮してしまったモクバの頭をポンポンと宥めるように叩いてやり、ジョーノは笑って返した。
「ま、どっちにしろ屋敷の近くの市場とは随分置いてるモンも違うみたいだしよ。珍しいモン買い込んで、メニュー増やすか?」
本来必要なものは屋敷の使用人がまとめて定期的に購入しているのだが、ジョーノが来てからは昼にモクバとふらりと出掛けて街で仕入れる食材で料理を作ってくれるようになったのだ。ジョーノも作ろうとはしているのだが、やはり人に食べてもらうために今まで作っていたわけではないのでどうしてもレパートリーが少なく、今は料理人に習っている最中である。取り敢えずジョーノがあまり見たことのないものを買っていけば、その料理人がいろいろと説明や調理方法を教えてくれるので、必然的に夕食に一品増えることになる。
「おうっ、そうしようぜぃっ!!」
「多くなったら届けてもらえばいいよな。つか、そういうのってできるのか?」
「それは大丈夫だぜぃっ、ここにも流通行き届いてるからっ」
馬一頭でふらりとやってきているので、大量に買い込んだ場合には屋敷の近くの市場では運んでもらっていたのだ。どうやらそれはこの場所でもできるらしいとジョーノは感心しながら、賑わっている市場の中をモクバと歩く。
「あっ、アレだぜぃっ!!」
「なんだ、見つかったのか?」
すると、いくらかも歩かないうちに目的の山菜とやらを見つけたらしく、モクバはスタスタと走り出す。一応治安がいいことは確認していたが、公爵の弟ということで必然的に護衛も兼ねているジョーノは、その幼い背を少し微笑ましく思いながら追ってやった。
そうしてどうやら二日前に出ていた初物の残りを運良く手に入れ、足りない分は今朝採れたというその山菜を買ったモクバに、ジョーノは他にもいろいろと珍しい野菜や果実を追加してもらった木箱に詰めた。何度もこうして市場に来ればこの地方での習慣にもすっかり慣れ、随分いろいろと買い込んでからそれらを市場の端にある運び屋の詰め所で夕方までの配達を頼めば、もう時刻は昼を回っていた。
「あーっ、こんな時間か。モクバ、昼はどうするよ?」
朝冷え込んだ分本日の天気は快晴で、昼には高くなった日差しがそれなりの陽気を運んできてくれていた。しかも木箱を持ち歩いていたので少し汗ばむくらいにはなっていたジョーノがそう尋ねれば、モクバは街の山側を指差す。
「なあ、あっちに美味い店があるんだ!! 一度兄サマに連れてきてもらってそれきりだから、もっかい行こうぜぃっ!!」
「ならそこにすっか。道は分かるんだろ?」
大丈夫だぜぃと胸を張って請け負うモクバに、ジョーノは自然と笑みが漏れる。
どうやらモクバがこの街に来たがったのも、以前セトに連れて来てもらったという楽しい思い出があったのだろう。察するに例の山菜とやらもそのとき食べたもので、きっとモクバはずっと美味しく感じたはずなのだ。
「……そうなら」
「あ、なんだよ?」
もしそうならば、あの山菜は夕食か、せめて朝食に出さないとなと言いかけたジョーノは、不思議そうに尋ね返されてモクバは慌てて誤魔化しておいた。
モクバが例の山菜をセトに食べてもらいたがったのは、セトにもそのときのことを思い出してほしいからなのだろうとジョーノは思う。もし弁当に入れてしまえばせっかくのモクバの思いのこもった山菜も行く末が惨めなので、取り敢えずは屋敷の料理人に頼んで夕飯にでも出してもらおうとジョーノは考え直していたのだ。
「ジョーノ……?」
「あ、ああ、なんでもねえよ。ていうか、その店であの新芽食ったのか?」
「そうだぜぃっ!!」
それでも考え込んだジョーノを怪訝そうにしていたモクバに、ジョーノがそう尋ねてみれば案の定モクバは元気良く頷いた。なのでやはり料理人に頼んで、とジョーノは思っていたのでそれ以上続かなかった会話に、ふとモクバが口を開く。
「……あのさ、ジョーノ」
「おう?」
「……。」
さほど大きな町ではないので、もう少し行けば山になるという手前に、そのレストランらしきものはあった。遠目に店の看板を確認しながらさほど人通りの多くない石畳の通りを並んで歩いていると、モクバはややうつむきがちに呟く。
「……なのかな、て」
「あ? ワリィワリィ、よく聞こえなかったんだけどよ?」
「……。」
だが元々身長差もあるので、下を向いて小さな声で話されても、ジョーノには本当によく聞こえなかった。歩いている人間は少ないとはいえ、下が石畳なのでそれなりに靴音は響く。仕方なくもう一度そう尋ね、少し体も屈めて今度こそモクバの声を拾おうとしたジョーノに、思いきって顔を上げたらしいモクバは足を止めて尋ねた。
「なあ、ジョーノ。オマエ……なんで、兄サマと結婚したんだ?」
「……。」
その話題は、外ではまずいだろう。それがジョーノの直感的な感想だ。
屋敷がある街に比べればモクバの顔は知られていないようであるが、そうは言ってもこの公国の領主である公爵様の弟君なのだ。会話からジョーノが例の中央に押しつけられた花嫁だということが周りにバレれば、面倒なことにしかならないのは目に見えている。
「なあ、なんで兄サマと……!!」
「……。」
だが、そういったこと以上に、純粋にその質問にはジョーノは答えられなかった。もしかすると尋ねてきているモクバよりも今自分はつらそうな顔をしているかもしれないと思いつつ、自然止まっていた足を進めることも出来ず、町外れの街道でジョーノは立ち尽くす。
「なあ、オマエは、オマエの方はなんで兄サマと結婚したんだよ……!!」
「……。」
「やっぱり、兄サマが言うように、ムトー公爵だか連邦の王だかに押しつけられただけで……!!」
押しつけたという単語は的確ではなかったが、そのことよりもジョーノにはもっと新鮮なことがあった。それはセトもやはり『王に押しつけられた』とモクバに説明していたのだなということで、分かってはいたが胸の痛みが収まりそうにない。
「なあ、なんで……!!」
「……さあ、なんでかな? まあ結婚したんだし、好きだったんじゃねえの?」
「ジョーノ!!」
それでも、今はまだモクバにすべてを話せないと分かっていたので、ジョーノはそんなふうに他人事のように軽く返しておく。あまりの回答にうっかり自分でも笑ってしまったが、ようやく足も動き出したのでジョーノは一人さっさと足を進めた。
「ジョーノ……。」
「なあ、さっさとメシにしようぜ? あの山菜がどんなふうに調理されてんのか、オレもちょっと気になるし……?」
だが、軽い調子で続けたようとした言葉は、そのまま飲み込まれてジョーノの口からこぼれることはなかった。ジョーノの返答に納得したわけではなかったのだろうが、それでもさっさと歩き出したジョーノについていこうとしていたモクバは、そんな様子に不思議そうに顔を上げて、叫んだ。
「……うわあああっ!?」
「モクバッ、伏せろ!!」
目に入ったものに思わず絶叫しているうちに、ジョーノに突き飛ばされるようにしてモクバは石畳に押し倒された。モクバは石にぶつかる痛みに思わず目を瞑ってしまっていたが、その直後覆い被さっていたジョーノの背中で空気を切る音の後にザリュッという鈍く皮膚が抉られるような音が辺りに響く。
「ぐあっ……!!」
「ジョーノ!?」
ジョーノの苦痛に満ちた悲鳴が漏れる中、大きな羽音で再び上空へと舞い上がった影に、モクバは愕然として呟いた。
「ワイバーン……!?」
「そう、みたいだな。取り敢えず、路地に入るぞ……!!」
「あっ、うん……!!」
そうジョーノに促され、翼竜の入れない狭い路地の間に走ったモクバは、魔物の奇襲を知らせるサイレンが町中に響いているのにようやく気がついた。
「ジョーノ、大丈夫か!?」
基本的にこの地方に魔物の個体数は少ないが、棲息している魔物はそこそこ強い。しかも山岳地帯を根城にしているものが多いということは翼を持った魔物が多く、その中でも翼竜に属するものはその飛行能力でも随一を誇る。その能力を最大限に発揮し、ほぼ真上から急降下されれば、人間などあっという間にその鋭い鈎爪で獲物として掻っ攫われるという恐ろしさだ。
「ちょっと避け損ねちまったけど、てか、なんであんなのがゴロゴロ街中にいんだよ……。」
「た、たぶん、ここ数日の冷え込みで、目を覚ましたんじゃないかと……!!」
どうやら寒冷な気候を好む種族であるようで、冬眠とは逆のサイクルで起きたばかりの飢えた魔物のようだ。相変わらず街中に鳴り響くサイレンにより街道からは人が消え、皆息を潜めて様子をうかがっている。
「なあ、アレで退治できんのか……?」
サイレンを合図にいくつかの建物の屋上に設置されていた砲台らしきものが空を狙っているのはジョーノにも分かったが、さほど重装備にも到底見えないそれに、痛みを堪えて尋ねる。するとそれにはモクバは一瞬黙り、そして首を振った。
「……ううん、できるのはぜいぜい追い払うくらいしか」
「それじゃ、また狙われるってことかよ……!!」
あんなふうに躊躇なく人間を襲ったということは、これまでそうして襲ったことに対してまともに罰を受けていない証拠である。セトが公爵になってから随分マシになったと言うが、この状況でまともならば以前はどれだけ人々は脅威にさらされていたのか。ジョーノは唇を噛み締める。
「でも翼竜は強いしっ、一度飛ばれるとなかなか追跡もできなくて……!!」
しかも何百年に渡る無法地帯で、たった一人でセトが狩るのも限界なのだとモクバが説明しようとしたとき、再び急降下してきた翼竜が狙ったのは、
「なっ……!?」
「チクショウ、知恵つけてやがんな……。」
建物の屋上にあった砲台だった。石を積み上げて作ったと思われる砲台は翼竜の体当たりを受け、大きな音を立てて崩れ落ちる。しかも運の悪いことに砲台にいた町の自衛団と思われる男も放り出され、二階の高さから石畳の街道へと落下した。
「……!?」
その様子を目の当たりにしたモクバは一瞬息を飲むが、街道に落ちた男がすぐに体を起こしたのでほっと息をつく。だが遠目でも骨が折れているらしい男がすぐにでも体を起こさざるを得なかった脅威は、上空でしっかりとその様子を確認していたようで、次の瞬間には今度こそ獲物を捕えるために急降下していた。
「あっ……!?」
怪我でまともに動けないらしい男に、モクバはもうダメだと思い思わず顔を背けてしまいそうになる
「させるかよっ!!」
「え……あ、ジョーノ!?」
だが続いて響いたのは男の悲鳴ではなく、先ほどまで一緒に路地にいたはずのジョーノの声と剣の音だった。
どうやら直前に路地から飛び出し、怪我をした男の前に立ちはだかっていつも腰に下げている剣で翼竜の爪を弾いたらしい。翼竜の体重や降下速度を考えれば剣一つで弾くことができたのはかなりの技術と腕力があることは明白だ。
「ジョーノ……!!」
だがそれよりも、最初にモクバをかばったときの傷がザックリとジョーノの背中を裂いており、石畳にまでその赤い血は伝っている。
モクバはそうして狭い路地から出ることも出来ず成り行きを固唾を飲んで見守るしかないが、内心飛び出してしまったジョーノはまずいことになったと思っていた。だがこうして出てきてしまった以上、今更後には引けずに仕方なく叫ぶ。
「おいっ、そのオッサン誰か避難させろ!! 後はオレがやる!!」
「で、でもキミ、凄い怪我を……!?」
怪我の程度ならば二階から落ちた男の方が酷かったのだが、後は任されると叫んだジョーノにその男はひどく驚いたように聞き返す。だがいつどこからあの翼竜が狙ってくるか分からない以上、ジョーノは剣を構えて振り返らずに続けるしかない。
「さっさと避難しろ!!」
「し、しかし……!?」
「オレの名はジョーノ、連邦直属の討伐隊に所属する騎士だ。あの魔物は、人間に対する傷害及び器物破損で、オレが、狩る!!」
その口上を待っていたかのように、恐ろしいスピードで今度は後ろから急降下をして狙ってきた翼竜を、ジョーノは間一髪のところで剣で弾く。
「クッ……!!」
「無理だよニーチャンっ、アレには何人もやられてんだ!! 相手は空飛んでんだし、せめて魔法で仕留めねえと……!!」
どうやらあの翼竜の恐ろしさは街の者に浸透しているらしく、いくら叫んでも怪我をした男を誰も避難させようと出てくる者はいなかった。おかげでかばうようにして立ったまま場所を移動できないジョーノは、仕方なく後ろの男へと尋ねる。
「なあオッサン、あの魔物、やっぱ火に弱いとかあんのか……!?」
この数日の冷え込みで目を覚ましたというぐらいであるので、寒冷地を好む種族であることには間違いない。だがその言葉に怪我をした男は悔しそうに返す。
「それはそうだが、並大抵の火じゃあ挑発にしかならねえ……!!」
「……。」
特に火はその制御が難しいため、空中を自在に飛び回る標的に当てるのはかなり困難だ。恐らくはジョーノが『騎士』と名乗り剣を構えていることから、魔術にはさほど長けていないのだろうと思ったらしい男の言葉に、ジョーノは軽く舌打ちする。
「……え?」
「なんでもねえよ、ていうかオッサン、オレの血かかってるか?」
だが男も聞き違いでなければ『この街焼き尽してもマズイし』と呟いたジョーノは、振り返らずに更にそんなことを尋ねる。それに男はまた戸惑うが、なんらかの魔術の関係かと思いうずくまったままで答えた。
「い、いや、かかってないが……?」
「……そっか。じゃあオレはちょっと移動するけどよ」
アレがそっち行っちまったらゴメンなと、無責任なことを言い捨てて、ジョーノは走り出した。
「あっ、おい……!?」
それに男はそんな殺生なと思うより、走ると同時にジョーノの背中からまた噴き出した血に声を上げてしまった。確かにダメージとしては男の方が負っているが、建物から落ちたために今男は落ちた建物の壁にうずくまるようにしているのである。よって翼竜がそこを狙うには建物を避ける必要があって少し難しい。
「やいっ、現行犯モンスター!! このオレが相手だっ、かかってきやがれ!!」
だが広めの街道の中央にジョーノは移動して仁王立ちになっており、そちらの方がよほど上空からは狙い易いはずだった。ましてやこれまでまともに狩られた経験もなく人間を獲物としか思っていない魔物であれば、いくら剣を構えていてもジョーノに襲いかかるのは自明である。
「……。」
普通ならば地上の人間からは視認できないほど上空から滑空してくるはずの翼竜は、まるで余裕を見せつけるかのようにほんの少し上を優雅に旋回していた。それを、怪我をした男も、路地裏で動けないモクバも、息を飲んでなんとか翼竜が気を変えて飛び去ってくれないかと切に祈ってしまう。
だが当然そんな祈りは届くはずもなく、ジョーノが街道の中央で剣を構えてから二周ほど上空を旋回した後、翼竜は威嚇するような雄叫びを上げて一気に降下してきた。
「ニーチャンッ!!」
「ジョーノ!!」
人間を侮っている翼竜は、剣を持っているジョーノの正面から鋭い角度で空気を切って突っ込んできた。先ほどは剣で弾いて難を逃れたようだが、空を飛ぶ巨体相手にそう何度も上手くいくはずがないと男とモクバが悲鳴のような声をあげたとき、
「……空飛ぶのがてめーの専売特許だと思うなよ?」
モクバたちの聞き間違いでなければ、ジョーノは正面に突っ込んでくる翼竜に対してニヤリと笑ってそう呟いた。だがそんな余裕も鋭い爪に顔も心臓も抉られればそれまでだと絶望したモクバたちの前で、信じられないことが起こる。
「……え?」
「なっ、ニーチャン……!?」
それは、剣を構えたジョーノの背中から流れる赤い血液が、一瞬でどす黒く色を変えたのだ。街道の石畳にまで広がっていた血は黒く変色しただけではなく、そのまま生き物のようにグワッと持ち上がるとそれはあっという間に羽のように形を変え、次の瞬間にジョーノは消えた。
「ジョーノ!?」
「うわっ……!?」
それに驚いたのはモクバや怪我をした男だけではなく、狙っていた翼竜も同じだったようで、地上スレスレまできたところでいきなり目標を見失って一瞬の隙が生まれた。ちなみに怪我をしている男は石畳に這いつくばるような格好になっていたため、騎士の少年の黒く変色した血が流れていた箇所はすべて高熱で灼かれたように焦げているのを目の当たりにし、先ほどの言葉の真意を突きつけられたような気分だ。
「……ちょっと、調子に乗りすぎたようだな?」
だが愕然としていた男が消えたはずの少年のそんな言葉に慌てて首を上空に捻り上げれば、
「ジョーノ!!」
「なっ、なんなんだ、あのニーチャン……!?」
非常に不思議なことに、滑空を止められなかったらしい翼竜の真上に、ジョーノと呼ばれる少年が逆さまに浮いていた。その背には身長ほどもある真っ黒な両翼が広がっており、瞬間移動したのかと思うほどのスピードで軽く飛びあがったのだとはこのとき本人以外の誰も、翼竜でさえも気がついていないようだ。歯向かってきた人間を捕えようとしていた翼竜は、一瞬で目的が消えたことを訝しみつつも、地上まであと一メートルという距離で一転上昇に切り替えようとする。だがその翼竜の真上にはジョーノが既におり、頭が下になった状態でまずは両手に持った剣を飛び上がろうとしている翼竜の背に当てる。
「オイタしてんのはっ、この翼かよ!!」
そして翼竜の翼の付け根のちょうど真ん中に剣先を乗せたジョーノは、そのまま今度は足から下へと振り下ろすように姿勢を直しながら、体重をかけてその剣を翼竜の背にザックリと深すぎるほどに突き刺した。それには元々翼竜が上昇しようとしていた力も反作用的に加わってしまったようで、背中に剣を突き立てられた翼竜はその翼を痙攣したようにピンと両翼とも伸ばして苦痛の咆哮を上げる。
「ケッ、いっちょ前に痛がりやがって……!!」
体が一回転したことで翼竜に乗るような姿勢になったジョーノは、剣を刺したときに跳ねた翼竜の血に色濃く人間の臭いを感じ、それが食糧にされてきた証拠であることを痛感する。痛みに暴れる翼竜に刺したままの剣をぐいっと両手で手前へと引き、肉が裂けて溢れた血の中に片手を突っ込んだ。
「これでも食らいなっ!!」
そして生温かい血液と肉が包む翼竜の体に、本来ならば街一つ消せるほどの威力を持つエネルギーを細心の注意で制御して放った。
「黒炎弾!!」
ズドンという鈍い爆音が翼竜の体内で響くと、断末魔の咆哮を上げた翼竜は、事切れたようにドサリと街道の石畳の上に落ちた。肉が焦げる臭いが充満する中で、ジョーノは翼竜の体から手を抜き、剣も返してもらってその背から街道へと降り立つ。そして既に生気を灯していない翼竜の濁った目を見下ろし、
「……共存できねえ竜は、狩るしかねえんだよ」
一度軽く瞳を伏せて弔いの言葉を口にしてから、儀礼に従って翼竜の首を血に塗れた剣を一振りして落とした。
「……。」
この街を何年にも渡り脅かしてたこの魔物には、実はこれまでも何人も派遣された討伐隊を返り討ちにしている。だが冬以外は気配を殺して眠ってしまうのでセトにもこれまで手の打ちようがなかった魔物だったが、そんなことを知らなくともジョーノには騎士という称号があるので狩る権利は持ち得ていた。
だが、そんな脅威が倒された瞬間に、歓喜の声があがることはない。
怪我をしていた男も、実は窓や路地から状況を見守っていた街の人も誰一人声すら漏らさず、恐ろしいまでの沈黙が辺りを襲う。
「……なあ」
「ヒィッ、な、なんだい……!?」
「……。」
それでも、そんなことはある程度予測できていたジョーノには、背中の羽と共に顔からも表情は消える。ただ規約に則り、血に塗れたその剣を、今は怪我をしているだけではない様子で動けなくなっている男に示した。
「所属は連邦、隊はゼロ。ロストナンバーの……。」
そう言いつつも剣の刃が魔物の血で塗れていることに気がついたジョーノは、淡々と自分の服の裾で血を拭う。そしてもう一度剣にある騎士の証の紋章を男へと見せると、口上を続けた。
「……ロストナンバーの、ジョーノだ。称号は騎士、上にはそう報告しておいてくれ」
「あ、ああ、分かった……!!」
「……。」
仕事中でない場合に狩りを行なったときは、状況を証言してくれる人間が必要になる。よって、ジョーノは必要最低限のことを怪我をしていた男に告げると、そのままその場から離れた。
少しだけモクバのことが気にかかっていたが、今までの経験上一般市民の前で狩った場合の反応など分かりきっていたので、自分が姿を消すのが一番だと知っている。いつしか寒さも感じなくなった体で振り返ることもなく、ジョーノは救ったはずの街を後にした。
03−03 囁く闇
「……なあ、話があんだけど」
結局仕事が長引いてしまったらしく日付が変わる前には戻ってこなかった夫を、ジョーノはこの屋敷に来て初めての夜のようにその私室の前で待った。だがそんなジョーノの行動もなにかしら予測するものがあったのか、深すぎる青い瞳はさして驚く様子も見せない。代わりにジョーノが前に立っている自室のドアに手をかけると、
「……奇遇だな、オレも貴様に話がある」
「……。」
「入れ」
そう短く告げてさっさと室内に入ってしまった夫に、ジョーノはしばらく迷った後、思いきって初めて踏み入れる私室のドアをくぐった。
「……なあっ、待てよジョーノ!!」
「!?」
いきなりぐいっと腕を引っ張られ、ジョーノは弾かれたように振り返る。
モクバにせがまれて東の市場に行ったまでよかったものの、買い物を済ませてさて昼食だというときに、こんな街中で魔物に襲われた。最初に狙われたのはモクバだったが、それをかばってジョーノ自身が背中に傷を負った段階で、既にあの翼竜の討伐要件は揃っていたのだ。市民を魔物から守る使命を負った騎士としても、それ以前に一人の混血としても怪我をして倒れる男を襲う翼竜を見過ごすことなどできず飛び出してしまったジョーノは、相手の飛行能力と街中という悪条件下でつい自制が外れてしまった。
「モク、バ……?」
「待てってば、なにそんな急いでんだよ!?」
「え……?」
早く片をつけなければならないという気持ちと、街に被害を及ぼしてはいけないという思いから、ジョーノは持てる力を思う存分発揮して翼竜は倒す。その手順になんの落ち度もなかったが、せっかくの脅威が過ぎ去ったその場が静まり返っていたことで、ようやくジョーノはここが街中であるという意味を思い出せた。
中央の人間としてユーギやユウギの護衛をしている場合、騎士として狩りに赴く場合は、ほとんど要請がまずあって待ち望まれてその場にジョーノは居たのである。魔法を得意とするユウギや、魔物を召喚できるユーギといれば、もちろんそちらの方が派手で目立つのでジョーノが注目されることはあまりない。
だが、今回見かけは人間であるジョーノが、魔法を駆使するのではなく、その姿を異形のものにして人間ではありえない身体能力と純粋な魔力で魔物を瞬殺した光景は、歓喜ではなく畏怖を見ていた者に与えたことは間違いない。以前セトに問われて飛べないと答えたジョーノであるが、それは長距離の移動としての飛行は困難だという意味だ。瞬発的な跳躍は真紅眼の黒龍の血を解放すればかなり飛躍的に上昇するのだが、元々力の制御が苦手だったジョーノがそれをすると、最も『飛ぶ』ことをイメージしやすい『翼』という形となって、具現化した力が視界に現れてしまう。
更にそんなことができるのは真紅眼の黒龍の『血』の所為だと強く思っていることがまた直結し、血液そのものが力の発露になることを自覚していたので、あのとき怪我をしていた男を遠ざけたのだ。今回はむしろ背中を汚して出血していたので良かったのだが、これまで余裕のない状態で飛行しようとして背中の皮膚を内側から裂いて血しぶきを上げてしまったことは何度もある。そんなときは、突然背中から上がった血しぶきが一瞬で黒くなって羽の形となるので、それを目撃した者から距離を置かれてしまうことは珍しくない。
「モクバ、なんでココに……?」
今回も翼竜を真紅眼の黒龍の力で倒してしまったジョーノは、本来感謝されてしかるべきのあの怪我をしたあの男からの怯えた視線も特に感慨もなく、『次の脅威』と思われたに違いないあの場所から淡々と立ち去ってやっただけだ。取り敢えず違法なことはしていないので咎められることはないはずなので、できるだけ早く街から去ってしまおうとそればかり考えていたジョーノは、ようやく見えてきた街の出口でそうして腕を捕まれてひどく驚いた。
だがどうやら不思議そうに聞き返したジョーノに、何故ここにいると分かったのかというふうに受け取ったらしいモクバは、どこか怒ったような目で唸るように答える。
「そんなの、血の痕追ってきたら分かるだろ……!!」
「……ああ」
それでも、モクバにそう言われてジョーノはすっかり忘れていたことを思い出した。
飛ぶための翼も血で発現したならば、当然魔術というほど鍛錬の必要のないただ純粋な魔力をぶつけただけの黒炎弾も、発火点としての血液を必要とする。今回は余裕もなかったので翼竜の体に右手を突っ込んだのだが、その手の平がザックリと裂けてそこから血が流れ出しており、それが延々と街の街道の石畳を細く赤く濡らしていたようだ。
「こっちの力使ったの久しぶりだったから、忘れてたな……。」
「ジョーノ……!!」
いつもならば逆に真紅眼の黒龍の血が高まって回復力も上がっているのですぐに傷は塞がるのだが、やはり肉に手を埋めて爆発させるというのは荒技だったようで、火傷こそするはずはないのだがいまだに手の平は裂けたままだ。一応回復魔法も多少は使えるが、面倒なのでそのまま服でも千切って巻いておこうかということと、翼竜の体内に突っ込んだのが左手でなくてよかったと血には塗れているが傷一つついていない白銀の指輪に考えていたジョーノに、モクバは強く名前を呼ぶ。
「ジョーノっ、なんでそんなどうでもよさそうなんだよ!? オマエすっごい血まみれじゃないかっ、怪我してんだろ!?」
「あ、怪我つっても、そのうち治るだろうし、大したことじゃ……?」
「そんなボロボロでなに言ってんだよ!!」
だがそんなふうに言われても、ジョーノには何故モクバが怒っていたり、あまつさえ泣きそうだったりするのかは皆目見当もつかない。確かに服はボロボロになってしまったが、今はまだ真紅眼の黒龍の血が騒いでいるので寒いということはない。ついでに傷もしばらくすれば治ると分かっていたのでまた首を傾げたジョーノに、モクバは血が流れ続ける手とは反対の左腕をぐっとつかむ。
「モクバ……?」
「いいから来いよっ、手当てしなきゃなんねえだろ!?」
「いや、あんま必要ないってか……?」
それでもぐいぐいと引っ張られる幼さの中の頑なさに、ジョーノはもう諦めてモクバについていってやることにした。
そうして連れて行かれた先が街の出入り口にある役場の詰め所だったので、もしかするとこんな身なりで出歩くのはモクバの護衛というフレコミでいる以上マズイのだろうかとようやくジョーノは思い当たる。確かに血まみれで服もボロボロな上、護衛の対象であるモクバを置き去りにするのは、上司ということになっているモクバやセトの立場上よくないのだろう。そう思ったジョーノは、大人しく浴室を借りて血を洗い流して差し出された服を着込んだ。
「……ジョーノ、寒くないのか?」
「へ?」
どうやら追いかけてくるまでに役所には話を通していたらしく、役所の人間は丁重にジョーノに服を提供してくれた。恐らくはその役人の私物だったのだろうが、もらって構わないと何故かモクバに言われたので、ジョーノはありがたく着込んでから通された休憩室のような場所で腰を下ろす。すると向かいの椅子に座ったモクバからそう尋ねられ、ジョーノはしばらく悩んだ後、自分が寒がりであったことを思い出した。
「ああ、今は、つかしばらくは大丈夫だぜ? むしろ暑いぐらいだから」
「……そうなんだ」
どうやら差し出された服のうち、上はシャツ一枚でいることをモクバは不思議に思ったようだったが、今は真紅眼の黒龍の血を解放したばかりなので単純に言えば血が沸いている。真紅眼の黒龍が炎を操るからなのか、力を使った後は全身が軽く火照るような感覚がしばらく続くので、実際今現在ジョーノは寒さを感じていなかった。
それをあっさりと言ってみればモクバはまた困惑したような顔をしていたが、別に分からなくて当然のことだと思っているのでジョーノも特に何かを言うこともない。それでもどっと疲れを今更のように思い出してため息をついたジョーノに、モクバはもう一つ尋ねてきた。
「……なあ、怪我はいいのか?」
ひどいようなら医者をとまた繰り返すモクバに、ジョーノは少し笑ってしまう。
確かに治癒魔法も使わずに大丈夫だと言われてもにわかに信じられないのかもしれないが、ジョーノは返事の前に軽く右手の手の平をモクバへと見せてやる。
「ほら、もう血も止まってるだろ?」
「……でも、まだ傷が」
着ているシャツの背中が赤くにじんでこないことからも、背中の傷ももう塞がっているか少なくとも出血は止まっているはずである。無茶をしたおかげで治りが遅かった手の平の傷もようやく血は止まり、今は赤い傷口をさらしているだけになっているが、これもじきに消えるとジョーノは笑って流す。
「ジョーノ……。」
それでも心配そうにしているモクバに、ジョーノは少しほっとした。あの翼竜を倒した直後はさすがにジョーノに声などかけられなかったようだが、今モクバは純粋にジョーノの傷を心配してくれているのだ。場合によっては二度と会話もできないほど怯えさせてしまったかもしれないと思っていたので、こんなふうにジョーノを心配して追いかけてきてくれたことは、ひどく嬉しい。
「……モクバ、ありがとな」
「え……?」
なので自然と口を突いて出た言葉に、モクバは不思議そうに顔を上げた。それはモクバからすれば当然のことで、
「なんでっ、なんで助けてくれたオマエがお礼言ってんだよ!?」
「え?、あ……だって、怖かったろ?」
ごめんなと、すまなそうに笑うジョーノを、モクバはどこかやるせない気持ちで見つめてしまう。確かに怖かったが、それはあの翼竜が怖かったのであり、助けてもらったジョーノにそんなことは思っていない。それでも一緒にあの場にいた街の人々の反応はジョーノが力なく笑うには充分だったので、そのことを腹立たしく思いつつも、モクバは搾り出すような声で返した。
「怖かったんじゃ、ない。オレ、ほんとは……羨ましかったんだ」
「……ハァ?」
だがそんなふうに言われて、今度はジョーノが面食らう番だ。
怖くなどないというのは、もしかすると純粋に助けてくれたという感謝から聞かれる言葉かもしれないと予想していた。
だが、怖かったのではなく羨ましかったのだと言われても、一瞬意味が理解できずに首を傾げたジョーノに、モクバはぽつりと呟く。
「……あんなに、強かったら。きっと、兄サマを手助けできるんだろうなって、思って」
「……。」
「オマエが、前に兄サマを手伝えるって言ったとき。オレ、魔法もロク使えない『騎士』がなに言ってんだって、そう、思ったけど……!!」
基本的に『騎士』の称号を持つ者は、剣などで腕が立つ場合が多い。だが同時に魔法もそれなりに達者でなければ魔物相手では刃が立たないこともしばしばなので、一口に騎士と言ってもせいぜい対人間の牽制程度である者もいるのだ。
その点、ジョーノも魔法がさほど長けていないので、騎士という称号をやや揶揄された場合にあてはまる典型的なタイプである。だがジョーノは理論立てた複雑な制御を必要とする魔術は得意ではないが、真紅眼の黒龍の血のおかげでそれを補ってあまりある戦闘能力を持っており、討伐隊の中でも部隊番号のついていない個人で一部隊に匹敵すると目される通称ロストナンバーなのだ。
「あーっ、おう、確かにオレはロストナンバーだけどよ? それって聞いてなかったか?」
「……兄サマには、騎士としか」
ちなみにゼロ隊というのは、ロストナンバーは部隊に所属していないので、第一や第二といった部隊番号がなく狩りの宣言の際に不便だという意見から生まれた通称である。よって、ゼロ隊というのは便宜上ロストナンバーという精鋭の個々人の総称として使われてきた。ジョーノがそんな、王都でも二十人もいない精鋭であると初めて知ったらしいモクバは、どこか思いつめたように見つめてきている。
「なあ、ジョーノ、そんなに強いんなら……!!」
「ん?」
モクバがジョーノの正確な素性を知らなかったというのは、もしかするとセトが言わなかったのではなくセト自身が本当に知らなかったのかもしれない。いくら意に沿わない結婚であっても、そこまで結婚相手に無関心になれるものなのか。やや感心していたジョーノに、モクバは真っ直ぐ過ぎる目でハッキリと訴えかけた。
「なあ、オレにも強くなれるよう教えてくれよ!!」
「無理」
「……。」
だが、かなり思いつめたように告げたモクバに、ジョーノはこちらはひどくあっさりと断った。
兄であるセトを敬愛しつつ、危険な仕事に幼い胸を痛めているモクバが、強くなってセトの役に立ちたいという思いはジョーノにも理解できる。だが理解できるのとだからといって応じてやれるのは別問題であり、泣き出しそうな顔になってしまったモクバに、ジョーノは少し困りながらもその理由を説明してやった。
「ああ、そうだな、だから剣の稽古ならオレでもつけてやれるぜ? でもお前だってこないだ言ってたように、剣だけじゃセトの手伝いはできねえだろ?」
どれほど剣が上達しても、魔物相手に、しかも公爵自らが出向くような狩りで手伝いができるはずもない。
「けどな、オレのアレは、なんていうか、厳密に言うとあんまり『魔術』じゃなくって」
「……魔力、そのもの?」
「そうそう、要するにな?」
どうやらセトはこれもモクバに言っていなかったのか、それともやはり純粋に知らなかったのか。
それはジョーノには分からなかったが、兄の役に立ちたいと思いつめている様子のモクバにはぐらかすことはできず、はっきりと答えてやる。
「……オレ、真紅眼の黒龍のクオーターなんだわ」
「え……え、ええっ、えええええっ!?」
そしてそう事実を告げてみれば、モクバは一瞬目を見開いた後、椅子から転げ落ちそうなほど驚いた。それだけ、いくら混血化の進んだ現在とはいえ、二代前が魔物で、しかも竜族の中でかなり高位に位置する真紅眼の黒龍だというのはかなり稀有の存在なのである。しかもジョーノはハーフと言ってもおかしくないほどの血の濃さがあってこその、先ほどの立ち回りだったのだとモクバに説明しておく。
「ジョーノって、そんな血統だったのか!?」
「血統つー言葉が似合うアレじゃねえけどよ。とにかくオレのは、ただ、魔力を暴発させてるだけにすぎねえから人に教えられる類じゃねえんだよ。つか最初はこの魔力を見込まれて、魔術の方の課程に入れられたんだけどな?」
上手く制御できなくて結局騎士になっちまったと明るく笑うジョーノを、モクバはどこか呆然と見つめている。そんなモクバに、そもそもの理由を思いついてあまり考えずにそれを指摘してしまう。
「それに、お前どっちにしても魔法は……?」
使えねえはずだろと言いかけたジョーノは、悲しそうな顔をしたモクバの表情で、知っていたはずのことをすっかり忘れていた自分に青くなった。
基本的に公爵家は、ムトー家を除いては、人間のみの純血故に魔力を束ねて制御する魔術は使えないのである。よって、現公爵家の当主であるセトの弟ということですっかり思い込んで発言していたが、実はそうではないということをジョーノは以前ユーギに説明されていた。
「あ、えっと……!?」
「……オレは、魔法使えるぜ?」
だって混血だからと淡々と告げたモクバの言葉の通り、実はモクバには魔物の血が混じっている。とはいえジョーノなどと違い近親に魔物がいるということはなく、それでも多少なりとも魔族の血が混じっているということはモクバとセトは両親とも同じの実の兄弟ではないということだ。
「オレ、兄サマとは腹違いなんだ。オレの方の母サマがもちろん後妻で、フツーの混血の人だったから」
「そ、そうだったよな……。」
それは決して秘密の情報ということはなく、公国内でも広く一般に知られている事実だ。むしろそうであるから、現在カイバ家に残っている唯一人の純血であるセトに、男のジョーノが嫁がされて反発されているのだ。もしモクバも純血であるならば、モクバが純血の娘との間で後継ぎを為すことも可能だった。だがモクバが純血ではないからこそ、ただ一人純血を守るセトに民衆は期待を寄せた。
一見しただけでも、セトは髪が暗いながらも茶色で、目は深い空を思わせる青であるのに対し、モクバの髪も瞳もほとんど黒である。外見だけでもあまり兄弟に見えないのは、ただ単純に母親が違うからであることは周知である。それをジョーノもユーギにセトとの結婚を打診されたときに説明されていたのだが、セトの花嫁になるということでいろいろといっぱいいっぱいだったジョーノは、すっかり忘れていた。
「え、ええっと、モクバのお母さんは結構魔法使えたりしたのか?」
それでも、なんだかあまり詳しい事情を聞いてはいけない気がして、ジョーノはそんな質問を口にしてみる。
モクバがセトを手伝いたいと言っても魔物を使役はできないはずなので、可能性があるとすればやはり魔術を駆使してサポートするしかない。魔術に向き不向きもかなり遺伝による部分が大きいのでそう尋ねてみたが、それにモクバは少し考えた後、ゆっくりと首を振った。
「……オレの母サマはオレが五歳の時に死んでるから、よく知らないんだけど。でもただの屋敷のメイドだったって話だから、使えなかったと思うぜぃ」
「……。」
決して偏見があるわけではないのだが、後妻が屋敷で働いていたメイドというのは、まるで当時の当主が妻を亡くした寂しさで手近の女に手を出した陳腐な物語のようだ。だが詳しい事情も知らないのにもちろんそんなことも言えず、ましてや事実だったとしてもモクバにそんなことは口に出来ずにジョーノは黙ってしまう。するとそんなジョーノの様子にモクバは何かを察したのか、少しため息をついて話し始める。
「……ジョーノも、知ってると思うけど。公爵家は純血守らなきゃいけないだろ? 先代、つまりオレたちの父サマなんだけど、純血を守るために若い頃に純血の女の人、つまり兄サマのお母様と結婚したんだ」
その辺りは、簡単に察しはつく。だが淡々と続けられたモクバの言葉に、ジョーノは思わず息を飲んだ。
「兄サマのお母様はイシュタール家の人なんだけど……いろいろ、近親婚を繰り返してたからさ。父サマからみて、それは伯母にあたる人で」
「……え?」
「父サマの母サマの妹、だったかな、そんな感じで。まあ純血守るためにしょうがなくって、で、兄サマを産んですぐに兄サマのお母様は亡くなったんだ」
そもそも兄サマのお母様も体が弱かったからとモクバが続けたことで、その女性自体も近親婚で生まれていたのだろう。一応知識としては知っていたものの、実際に当事者に聞く話は生々しくてジョーノは少し寒気がしてくる。
「父サマは、純血の後継ぎが生まれたからもういいだろうって感じで、兄サマの教育とか全部当時の執事に任せて、すぐにオレの母サマと結婚した。父サマより少し年下で、ずっと屋敷で住み込みで働いてメイドしてて……。」
ほんとは父サマが先妻と結婚する前からの付き合いだったらしいと述べたモクバには、セトの母である先妻が妙な発作を起こして死んだことが、実は夫、つまりモクバたちの父による殺人だという噂があることまでは告げられなかった。
他に想い人がいるにも関わらず、純血を守るという目的のためだけに年も随分と違う近親者の女性と結婚させられた先代に同情していた者も多かったらしく、純血の子供ができた以上はさっさと屋敷のメイドと再婚したことを周りも大きな声では責められなかったらしい。モクバが唯一覚えている父の姿というのは、優しそうな顔で頭を撫でてくれているものであり、その人が実はセトの母を殺していたなどとどうしても信じたくない。
「それで、オレが産まれたんだけど。オレは後継ぎにはならなくていいから、結構普通に育てられて、兄サマみたいな仕打ちはされずに……。」
「……仕打ち?」
「結局父サマが死んで、あの男が母サマと結婚して、義父として後見人気取りでオレたちの公爵家牛耳って、そんで連邦にまで楯突いて公国自体がここに追放されて……!!」
だが、あまりにいろいろと簡略し過ぎて話を進めるモクバに、ジョーノは分からないことが多すぎて首を傾げそうになる。それでも口が挟めなかったのは、いつしかモクバがポロポロとその大きな瞳から涙を零して体を震わせているからだ。
「お、おい、モクバ……!?」
「なのに、全部あの男やオレの母サマや、そしてこのオレの所為なのに、兄サマはなんにも言わずにオレのこと弟だって言って育ててくれたんだ……!!」
どうやら複雑な事情があったことは察することもできるが、それがどうしてモクバの所為というところまで行きつくのかがジョーノには分からない。そんなに思いつめるなと知りもしないのに気安く慰めていいものか、言葉を探しているうちにジョーノはガッと腕をつかまれた。
「モクバ……!?」
「なあジョーノっ、オレに魔法教えてくれよ!! そんで強くならないと、兄サマの役に立てないと、オレ……!!」
いつ兄サマに捨てられるか分からないんだ。
いつしか向かいの椅子から腰を上げ、ジョーノの腕を掴んで涙をこぼすモクバは呆然としたように告白していた。
だがそれに、ジョーノは怪訝そうに眉をひそめると、一言だけ答えてやる。
「……セトは、お前を捨てたりしないと思うぜ?」
セトといた期間はモクバよりも短いが、あんなにもセトが誰かを大事にしているとは思わなかったというのが、初めてセトとモクバが話しているときの印象だった。嫉妬することすら諦めさせられるような、そんな慈愛を一身に浴びておいて何が不安なのか、ジョーノは心から不思議だ。
だがそう答えたジョーノには、モクバは少し黙った後、涙がこぼれ続ける瞳をそっと伏せる。
「……でも、オレのためにあんなに苦労した兄サマに、オレはいつまでもお荷物になりたくない」
「……。」
「兄サマがオレを捨てる気なら、もうとっくにできてたってのも、ほんとは分かってる。でもだからこそ、捨てることもなくこうして育ててくれる兄サマに、オレ、少しでも役に立って何かがしたいんだ……。」
そう消え入りそうな声で呟いたモクバは、やがて腰を浮かせるようにしていた体勢からストンと椅子に再び座り、それきり黙ってしまっていた。
まだ十二歳の子供の体がただ不安やもどかしさで震え続けるのを、ジョーノは止めてやるだけの術は何一つ持っていない。
それでも、なんとかしてやりたいと思ったのもまた事実だった。
初めて入ったセトの私室は、ジョーノの予想に反していきなりベッドが置いてある寝室ではなく、仕事をするための執務机と思われるものが置いてあるような書斎だった。特に勧められたわけでもなかったのだが、上着を置いて来ると言って奥のドアにセトが消えた間に、ジョーノは執務机の前にあるソファーに勝手に腰を下ろす。
「……。」
昼間は結局モクバが落ち着くまで待って、馬に乗って二人でこの屋敷に戻った。そしてもう一度、自分では魔術を教えてやれるほどの技量はないと謝れば、モクバは納得したように頷き、それきりその話題に触れることはない。
だがセトから一身に愛されていると思われていたモクバのあの告白に、ジョーノはお節介だと分かっていてもセトに何かを言ってやらなければならないと思ってしまったのだ。
「……でも、何言ったらいいのかは分かんねえんだけどよ」
一発ビシッと言ってやると思ったまではよかったものの、こうして部屋に乗り込んでもジョーノはいまいちに自分がどうしたいのかは分からない。もちろんあまり立ち入ったことも聞いてはいけないだろうし、モクバも話したことをセトにバラされたくはないだろう。
それでも、あんな小さな少年が思いつめているということだけは知っておいてほしくて日付が変わる頃に帰宅したセトを待っていたジョーノは、やがて奥のドアが再びガチャリと開く音にそちらに顔を向けた。
「……。」
「……それで、話というのは何だ?」
まずはそちらの話を聞いてやると言いながら現れたセトは、帰ったときに着ていた薄手のコートを脱ぎ、完全にラフな格好になっていた。これまで何度かそういった服も見ていたはずなのだが、
「……なんだ?」
「なっ、なんでもねえよ!!」
「……?」
いつもよりラフなその服装に、ジョーノは目を奪われていたとは言えずに慌てて視線を逸らす。そんなジョーノにセトは訝しげな顔をしていたが、考えても分かりそうになかったのでジョーノの妙な反応はすぐに忘れて向かいのソファーに腰を下ろした。
「あっ、ああ、そうそう、例の山菜とかっての市場で売ってたぜ!?」
「……そうか」
そうしてセトが向かいに座ってこちらをじっと見つめてくるので、ジョーノは何か話さなければと思い、取り敢えずはそんな話題を振った。
「夕飯に使ってもらったんだけどさ、ちょっと変わった味だったけどスッゲェ美味かったぜ!!」
「……よかったな」
「お前食ってないよな、今から持ってきてやろうか?」
それとも朝食にと続けるジョーノを、セトは胡散臭そうに眺める。これまでも夜遅くに帰宅することはあったが、夕飯は仕事先で食べていることは既に伝えてある。夜食代わりに少しだけという心遣いが理解できないとまでは言わないが、それだけのために廊下で私室のドアの前に陣取って自分を待っていたとは当然セトには思えなかったのである。
そんな心情をありありと顔に浮かべて無言で続きを促したセトに、ジョーノはしばらく戸惑った後、大きく息を吐いて自分でも何を言いたいのかまだはっきりと分からないままに口を開いた。
「まあ、その、な? その山菜が欲しいっつって、モクバに東の市場まで連れて行かれたんだけどよ」
「ああ、知っている」
「その……そこでな、ちょっとモクバが」
だがそこで言いよどんだジョーノを、セトはやや不思議そうに見つめ返した。それをジョーノは、やはりモクバの話題になると興味が沸くのだなと思っていのだが、セトからすると単に予測していた話題とは違っていたからだ。
「モクバが、どうした?」
「ああ、えーと、なんて言うか……。」
それでも、確かにモクバの話題ならばと聞き返したセトに、実はまだどう話せばいいのか頭の中でまとまっていなかったジョーノは言葉を必死で考える。それでも思いつめていたモクバに肩入れして無責任にセトを責めるのもお門違いな気がして、ジョーノは随分考えた後、一番問題のなさそうな言い方を選んだ。
「モクバが……お前の、役に立ちたいって」
「……なに?」
「ニーサマの役に立ちたいんだってよ」
魔法とか教えてくれってせがまれたぜと笑ってみせたジョーノに、セトはしばらく不可解そうな顔をする。
「騎士の貴様では、教えることなど無理だろうが」
「……それはそうなんだけどよ。つか、気にするところはそこかよ?」
なんとなく失礼な視線で呆れたようにセトに言われ、ジョーノは思わず声を低くする。そんなジョーノを見て、セトはしばらく黙った後、珍しく軽いため息をついて視線を下へと落とした。
「その件に関しては、もうモクバと話し合いはついている。年明けから新設校に通うと聞いていないか?」
そこで魔術も学べると続けたセトに、ジョーノは少し驚いた。今は確かに魔術を学んでいないのかもしれないが、あと数ヶ月もして入る学校で履修できるならそれでいいのではないか。モクバが焦っていただけかと早合点しかけて、付け足されたセトの言葉であっさりと覆された。
「……まあ、その学校では魔術師養成コースには進ませんがな」
「え……て、それじゃ意味ねえだろ!?」
「別に専門コースに進まずとも、基礎程度のものは授業に組み込まれている。最低限の治癒魔法が使えるようになれば、それで充分だろう」
どうやら魔術とは言っても、一般市民と同レベルのものしか習得させるつもりのないらしいセトに、ジョーノはひどく呆れた。よく考えればあのモクバが魔術を学びたいと兄に訴えていないはずもなく、それをダメだと言われたので学校ではなく個人的に習いたいとジョーノに頼んだのだろう。可愛い弟のためなら何でも許すのかと思っていたセトが、敢えて進路を制約するのに何か訳があるのだろうかとそんなふうにも考えたジョーノは、一応セトに尋ねてみた。
「なあ、そこまでモクバに魔術学ばせない理由とかってあんのか?」
だがそう尋ねてみたジョーノに、セトの答えはひどく簡潔なものだ。
「危険だろう」
「……ハ?」
「きちんと学ぶということは、必然的に警察ではなく討伐組織に入るということだ」
所詮人間相手の警備機構である警察と違い、魔術を真剣に学んだ場合は、自ずと将来の職業までが決定する。もちろん学校に入ったからといって魔術が大成するとも限らないが、セトと腹違いとはいえカイバ家の子息ならば、精神鍛錬が最も大切である魔術をモクバが習得できる確率はかなり高い。
だが、そんなことを一切無視して『危険だから』という理由で許可をしていないらしいセトに、なんだかんだで似たもの兄弟だなとジョーノは感心してしまう。相手を心配する思いは崇高だとやや呆れながら思いつつ、できるだけ穏やかに切り返した。
「でも、モクバは学びたいって言ってるんだろ?」
「……。」
「お前の役に立ちたいって、危険な仕事してるニーサマを手伝いたいって。それって、兄として嬉しくねえの?」
あくまで兄思いのモクバの意思を尊重してやってはどうかとやんわりと言ってみたジョーノに、セトはしばらく怪訝そうな目で睨んできた。そしてもう一度ため息をついたので、少しは考えてやる気になったのかとほっとしかけたジョーノに、セトはぽつりと呟く。
「……アレは、単に怯えているだけだ」
「え?」
それは短い言葉だったが、まさにモクバの心情を見抜いたようなセリフで一瞬ジョーノは固まってしまう。まさか聡いモクバがそんなことを口にして魔術を学ばせてほしいとせがんだと思えなかったが、純粋に驚いてしまったジョーノを見て、セトはやはりなと頷いた。
「えっ、あ、もしかしてオレ、今カマかけられたのか!?」
だがやけに納得したように頷いたセトに、ジョーノはうっかり自分がモクバの本音をバラしてしまったかと焦る。それにセトは軽く首を振ると、どこか疲れたようにどっかりとソファーの背もたれによりかかって口を開いた。
「いや、元から知っていたことだ。いかに貴様が単細胞な作りですぐに顔に出る単純バカであっても、今回のことはオレは前から知っていた」
「う、なんかフォローしてもらってるようには聞こえねえんだけどよ……!!」
「しているつもりはないからな」
聞こえたとすれば貴様は頭だけでなく耳も悪いと淡々と続けられる方が、テンション高く罵倒されるよりよほどタチが悪い気がしてしまうジョーノだった。だが今はそんなところに噛みついている場合ではないので、ジョーノはやや不貞腐れながらも続けてみる。
「お前、モクバとは腹違いの兄弟なんだってな。モクバの奴それで引け目があるのもしれねえけど、随分お前の役に立ちたいって必死だったぜ?」
そんな純粋な思いを聞き届けてやらないのかと尋ねたジョーノに、セトは淡々と返す。
「確かに母親は違うが、モクバはオレの弟だ。なにも心配することはない、そういつも言い聞かせている」
「けどよ……。」
「……モクバが、本当に魔術師になりたいと望んでいるのなら、オレも反対したりはせぬ」
だが、これまでの頑な一辺倒の会話から、いきなり認めるかのような発言をしたセトを、ジョーノは首を傾げて見つめてしまった。何度も学校で魔術を習いたいとモクバが訴えていたのならばその思いは本物だろうし、今更なにを疑っているのかと思ったジョーノに、セトは抑揚のない口調で続ける。
「だが、モクバが魔術を究めたいと望んでいるのは、自らの中の不安を払拭するためのものにすぎない。オレの役に立つということで、犯してもいない罪滅ぼしをしたいのだろう」
「……。」
「そんな理由で中途半端に究めた魔術でオレの傍らにいても、モクバは自らの身よりまずオレの身を案ずるだろう」
どれほど技量を上げようがそんな状態の者を狩りに連れては行けない。そう断言したセトに、ジョーノはしばらく黙ってしまった。
実は、今セトが言ったようなことは漠然とであるがジョーノも感じていたのである。自発的に兄を助けたいという思いもあるのだろうが、モクバの場合それよりも手助けでもしなければ自分が兄の傍に居てもいい理由を見つけられないのだろう。どうしてそこまでモクバが思いつめているのかはジョーノには詳しくは分からなかったが、今セトが口にした言葉がやけにしっくりとくる気がして、怒られるかと思ったがおずおずと尋ねてみた。
「……『犯してもない罪』滅ぼしって?」
「……。」
昼間にモクバも多少口にはしていたが、自分の為に兄がひどい仕打ちをと言われても、ジョーノにはピンと来なかった。正当な血筋で後継者でもあるのはセトの方であり、いわば後妻とはいえ妾の子であるモクバが冷遇されたのならまだしも、モクバはちゃんと子供らしく育っているような気がする。
だが、そんなことを尋ねても、セトに『貴様には関係ない』と一刀両断にされることは、ジョーノにも分かっていた。一応結婚した以上家族ではないかと言い返すこともできるが、この件に関してはそんな実体のない関係を振りかざすことはできないと思っていたジョーノに、セトは少し考えるような顔をした後すっと向かいから視線を上げてきた。
「……貴様、モクバにどこまで聞いた?」
「え?」
モクバが話した事によってはモクバを叱責するつもりなのだろうか。そうジョーノは思ったが、静かに尋ねられた言葉にそんな空気は感じ取れない。なのでジョーノは昼間の会話を思い出しながら、ひどく簡潔に答えた。
「ええと、お前は先妻の子で、モクバは後妻の子で混血で。だからお前があんな仕打ちを、みたいなこと言ってたけど、お前の方がこの家継いでるよなあ?」
「……。」
「モクバが苛められたとかなら、まだありそうな気がするんだけどよ。なんでモクバの方が気に病んでるんだ?」
血統を重んじる公爵家にあって、純血のセトと混血のモクバでは随分と扱いが違ったはずなのだ。今でこそセトはモクバを弟として大事にしているが、それはセトが当主になってからなのだろうしと思っていたジョーノに、セトは軽く瞳を伏せてどこか他人事のように話し始めた。
「……聞いたかもしれんが、先代、オレたちの父はオレの母とは純血を残すためだけに結婚させられた。つまり産まれた子は『愛する息子』ではなく、『カイバ家の跡取』にすぎん」
「え……?」
それはなんとなくモクバの話からも察していたが、その当事者であるセトがなんの感慨もなく話している様が、ジョーノには何故か震えを感じさせる。
「よって、父がオレに望んだことは『カイバ家の跡取』として問題なく育つことであり、執事に処遇を任せてオレを当時の屋敷の離れに住まわせた。そこには家庭教師や使用人がずっとオレを監視していたが、オレが覚えている限りその離れで父や母の姿を見たことはない」
「え、ええ……!?」
「離れからオレが出れるのは、月に一度の乗馬の訓練だけだった。次にオレが父と顔を合わせたのは、モクバの母である女との再婚の結婚式だったな」
初婚のときは単なる政略結婚だったので式もしなかったらしいと告げるセトに、ジョーノはいくつもの疑問が頭に浮かぶ。確かに互いに望まない相手との結婚だったのかもしれないが、そこで生まれた子供をいわば軟禁して父母とも平気なのかと思ったのだが、少なくとも父親の方は役目は終わったとばかりに元々想いを寄せていたモクバの母といることの方が重要だったのかもしれない。
「で、でもお前のお母さんは……!?」
だがたとえ父親はそうであっても、母親の方はお腹を痛めて産んだ我が子なのだから愛してくれていたのではないかと、少し自分の身の上を振り返ればそれも幻想でしかないことをジョーノは尋ねてしまう。だがそれにセトから返された言葉はひどく淡々としたままで、とんでもない内容だ。
「ああ、父が再婚するまで知らなかったが、とっくに死んでいたようだ。妙な発作を起こして死んだらしいからな、父が毒殺したというのが専らの噂だ」
「……!?」
「モクバの母である当時の屋敷のメイドと再婚したいが為に、ということでモクバは気に病んでいるようだが、大方繰り返した近親婚で血が濃くなっていただけだろう」
それに万一そうであっても、産まれてもいないモクバが毒を盛ったはずもないので気に病む必要はない。そう言いきったセトは本当に気にしていないのだろうが、普通の感覚ならば多少なりとも負い目を感じるだろう。特にあれほどセトを敬愛しているモクバならば、父が自分の母と結婚したいがためにセトの母を殺したのだという話は、噂だけでも充分重荷のはずだ。
「まあ、再婚してすぐにモクバは産まれたが、当然混血なので後継ぎにはなれんからな、オレと違って離れに監禁されることもなかった。オレからすれば父という感覚も義母という言葉の実感もない二人だが、あの屋敷でモクバに愛情をかけて育てていたことには感謝している」
「……。」
このときセトは語らなかったが、当時のモクバはセトという兄がいることすら知らなかった。ただ敷地の外れにある離れには絶対に近づいてはいけないのだと、そればかりを父母には言い聞かせられていたようだった。
「だが、父があまりにモクバを可愛がり過ぎて、一つ問題が起きた」
「な、なにが……?」
ちなみにセトの方は、後妻との間に子供が生まれたらしいということは当時聞いていたが、それが弟なのか妹なのかすら知らされていなかった。毎日ただひたすら次期当主となるための知識を詰め込まれる日々で、顔も見ることのない兄弟のことなど覚えておくに値しないからだ。
「父が、モクバを後継ぎにしたいと言い出したのだ」
「……へ?」
だが、淡々と返されたセトの言葉には、ジョーノは暗い空気を忘れるほど呆気に取られて聞き返してしまう。既にセトが先に産まれて後継ぎとして教育されていたのではないのか、ということよりも、
「でも、モクバって混血なんだろ……?」
「ああ、母にあたる女が混血だったからな」
ならばそもそもモクバには公爵家の当主になる資格はないのではないか。首を傾げたジョーノに、セトは淡々と説明を続ける。
「確かに当主は純血を求められるが、このカイバ家では比較的千年宝物を扱える者が少なかったのでな。現にオレより前の六代ほどは触ることもできなかったし、ただのお飾りにしかすぎなくなっていた」
「あ、ああ……?」
「どうせ純血でも扱えるとは限らんのならば、誰が公爵家を継いでも一緒だと考えたようだ」
純血そのものはセトに子供でも作らせて存続させ、公爵家の次期当主にはモクバを据えたいと先代である父は考えたらしい。それは公爵家と、千年宝物を預かる血筋を分かつということであり、愛する女との我が子可愛さ故に本末転倒の願望としか言いようがない。
「だが、やはり後継ぎは純血であるべきだと主張する者もいてな。その筆頭が執事、つまりオレの教育をしていた責任者だが、その男が強硬に反対し、モクバの母も抱き込んで結局は父も殺された」
「……え?」
「一応オレの母と同じ発作ということになっているが、同じ毒を盛られたというのが噂で、そうだとするならばオレの母の方もあの執事だった男に殺されたのかもな」
真相は分からないにしろ、その時点で純血である者はカイバ家にはセトしかいなくなったのである。モクバの母は義母にあたるが、後妻であり、また混血であるので家をまとめる権利はない。そこでまだ幼いセトの後見人という名目で、執事だった男がモクバの母と再婚し、これで父母共にセトとは血縁関係のない者となった。
「父が死んですぐにモクバの母は執事だった男と婚姻したが、だいぶ気が触れ始めていたらしいからな、父に毒を盛ったのはモクバの母だという話もある。まあどちらにしろ、オレの後見人ということでまんまと当主代理に収まった元執事、あの男が、好き放題を始めても、オレはさほど興味がなかった」
「……。」
このとき九歳だったセトはかなり聡明だが冷めた子に育っており、相変わらず籠の鳥の生活を続けていた。既に家庭教師ごときが教えられる知識など吸収し終え、仕方なく自分でいろいろな分野を研究して時間を過ごす毎日だった。
一応はセトの後見人として実権を握った義父は、セトに対して目に見えるような虐待を行うことはない。確かにまだ父が生きていた頃は後継者として育て上げる教育が半ば暴力だったことは否めないが、この時期にはセトも表面上は従順なフリをすることを覚え、また義父もようやく手に入れたカイバ家の権力にのめり込んでいった。セトはセトで既にカイバ家の権力など興味はなく、義父も反抗しないセトを野放しにしておくようになる。
「やがてモクバの母が自殺したが、オレはそのことも後で聞いただけだ。父や義母の葬式には出なかったし、人前に出せる子ではないという方が義父が後見人を買って出る後押しにもなるからな」
「セト……。」
淡々と時系列を説明してくれるセトの言葉に、憎しみも悲しみもなく、思い入れが本当にないことは明らか過ぎて、逆にそれがジョーノの胸には痛い。モクバは『仕打ち』という言葉を使っていたが、セト自身はさほど気にはしていないのだろう。自分はただ純血を遺すために、カイバ家の当主というものになるために生まれてきたのだと教え込まされ、閉鎖的な空間で育ったセトだが、そこまで聞いてジョーノはふと気がつく。
「……ていうか、待てよ、じゃあお前っていつモクバと会ったんだ?」
「……。」
親の世代があまりに血なまぐさい話だったのですっかり忘れかけていたが、義父が一人でセトの後見人となって横暴をしていた頃も、セトはその離れとやらで引き篭もって暮らしていたようなのである。モクバは少なくとも母が生きていた頃までは屋敷の方にいたのだろうし、今のような兄弟関係を築いたのは一体いつなのか。
「……モクバの母が死んで、しばらく経った頃だな。義父はモクバを苛烈な虐待こそしなかったが、後継者であるオレに比べればどうでもよかったようで、広い屋敷でモクバはただ義父の気に障らないように声を殺して過ごす日々だったらしい」
「……。」
元々後妻の子供であり、また後継ぎにもなれない混血の子供であるモクバは、その母が当主であった父に毒を盛ったという噂まであれば居辛くなるのは当然だっただろう。ましてやその母もどういった理由でかは分からないがすぐに再婚し、やがておかしくなって自殺したということは、周りはモクバに同情するよりも腫れ物に接するような感覚だったことは簡単に推測できる。
モクバの話によればそれはモクバが五歳の頃であるらしく、それまでは父母の愛を一身に受けて育ったモクバにすれば戸惑うどころの話ではなかったことは容易に想像がつく。
「オレは弟がいたことすらすっかり忘れていたのだがな、あるときモクバが離れまで一人でやってきた」
それは、幼い頃に離れがある方には行ってはいけないと何度も母に言い聞かされていたからだ。行ってはいけない場所と分かっていたからこそ、死んで目の前から消えた母が、そこで待ってくれているような気がモクバにはしたのだ。
義父の機嫌を損ねないように顔色を伺うだけの息の詰まる毎日に、幼いモクバはただ優しかった母に会いたかった。行ってはいけないと言われていた敷地の森を抜けていくと、こじんまりとはしているがきれいな建物が見え、モクバはそこに母が居ると信じて疑わない。
そして、その日心地よい陽気に珍しく外で読書をしていたセトは、小さな侵入者と粗末なテラスで遭遇した。
『……?』
見たこともない子供を前にして、セトはいろいろと考えを巡らせる。閉鎖された敷地内の更に奥にある離れであるので、町の子供が紛れ込んできたとは考えられない。ならば使用人のうちの誰かの子供が迷子にでもなったのかもしれないと考えていたセトに、
『……とうさま?』
『……!?』
『いつ、おもどりになったの?』
かあさまがまいにちないてたよと言って悲しそうな顔をしたその子供は、続いてそのかあさまはどこだとセトに尋ねた。
両親が死んだことも満足に理解できていなかったモクバのそんな言葉で、セトはこの子供が自分の弟であることを直感した。このときは名前すら知らなかったが、父は一年前に、義母も半年前には亡くなっていたことを知っていたセトは、どうやら父と思っているらしい子供に思わず答えてしまう。
『……お前の父も母も、とうに死んでいる』
『……。』
『オレは、お前の父ではない』
今にして思えばもう少し言葉の選びようもあったとセトは思うのだが、このときいきなり心の準備もなく弟と初めて遭遇したセトは、尋ねられたことに答えるので精一杯だった。
こんなところまで幼い弟がやってきたということは、当然父や母に会いたかったからだろう。なので、その二人ともが死んだと告げられ、てっきり泣き出すかと思った弟は、少し目を見開いた後、ぽつりと謝った。
『……ごめんなさい』
『……。』
それが何に対する謝罪なのか、セトには直感的に分かる気がした。普通ならば聞き分けなく泣き叫んでもいいところを、あっさりと謝って口を閉ざしたこの弟は、そうすることで自分を守っている。その直感はほぼ正しく、義父はモクバが少しでもぐずったり意に沿わない言動をすれば簡単に手をあげた。モクバは聡かったのですぐにどうすると殴られるかを学び、殴られないためにはどうすればいいのかを常に気を張り詰めて実践していた。
だが、セトには謝ったまま許しを乞うモクバの姿が、ひどく不愉快だった。
母が違うのでお世辞にも外見は似ていなかったが、子供らしい造形の中でただ一つ死んだ魚のような濁った目だけが自分とそっくりだったのだ。大人に怯え、そんな目をしてすべてを諦めている人間がどれほど醜いのか、セトはそれを眼前に突きつけられた。
『……お前、名前は?』
この頃十歳にしていまだに敷地の外はもちろん、この離れからもほとんど出たことのなかったセトは、漠然と一生このまま飼い殺されるのだろうと思いつつ、それに対して抗うことがひどく格好悪いような気もしていた。どうせ何かをしようにも、後見人として好き放題しているらしい義父から逃れられるはずもない。ならばとっとと諦めてこんな小さな箱庭のような離れで、自己満足に没頭する方が気楽だと思い込んでいた。
だがそんな自分と同じように、心を凍らせて思考すら停止させて従順にしている様が、これほどまでに矮小で醜いものだと教えてくれた弟に、セトは愕然としたままでそう問う。すると名を尋ねられると思っていなかったらしいモクバは驚いたような様子を見せ、少しだけ戸惑いつつも口を開く。
『……モクバ』
『そうか、モクバか……。』
続けて呼べば激しく語呂の悪いその名前に、とっくに死んでいる奴らは何を考えてつけたのかとセトは内心舌打ちしてしまう。だが不思議と愛着もわくその名前を口にしたセトに、モクバは何か言いたそうな視線を送ってきていた。
『あ、あの……!!』
『……?』
それでも、下手なことを尋ねて怒られたらどうしようという恐怖からか、結局言いたいことを口にはできなかった様子のモクバに、セトはまたなんとなく分かってしまった。膝に置いたままだった本を閉じ、カウチから体を起こしたセトは、幼いモクバの視線の高さに合わせてやってから答える。
『オレはセトだ』
『セト、さま……?』
すると、モクバはせっかく教えてもらった名前を忘れないようにと、そんなふうに反芻した。だがそんな呼び方は不適切だと思ったセトは、モクバにもう一つ教えてやる。
『オレは、お前の兄だ。聞いていないか?』
『え……?』
弟の名前すら知らなかった自分が言えた義理はないのだが、そんなふうに尋ねたセトにモクバは目を丸くして驚いた。だがやがて鮮やかな笑顔を満面に浮かべていったモクバに、セトは思わず息を飲む。
『セト、にいさま……。』
ただそう呟いて、それまで虚ろでどこか生気のなかった目を輝かせたモクバに、自分と同じように心を閉ざしていても、何か一つでまだその心を生き返らせられるということをセトはまざまざと見せつけられた。確かにモクバは息苦しい生活を強いられた期間はセトに比べれば短かったかもしれないが、最初からすべてを諦め、慣れることと従順に振舞うことだけを会得していたセトにとって、モクバは反面教師からただ一つの希望に変わった。
「それからオレは、ただモクバが生き易いようにと、いろいろと調べることから始めた。それまでカイバ家の現状やあの後見人にもさして興味はなかったのだがな、モクバが笑えなくなっていたのはあの義父の所為であるし、身の程を知らぬ反逆を企てて危うく家の取り潰しを招きかけた張本人でもある」
「……。」
「まあ、公爵家が存続してこの北の地に領地替えになったのは、むしろ好機だったがな。当時ひどく慌てていたあの男を追い落とすきっかけにもなったのだし、と……なにを泣いておる、貴様?」
モクバとの出会いから現在までを淡々と話していたセトは、そこでようやく向かいのソファーに座ったままえぐえぐと袖で涙を拭っているジョーノに、かなり不審そうな視線を送ってしまう。すっかり鼻水も垂れているその泣き顔に、セトはどうしたものかとかなり困惑する。
「だ、だってよ、お前いいニーチャンじゃねえか……!!」
「そうか? だがオレがもっと早く気がついていれば、あるいはモクバの母がくだらん元執事と再婚する前に当主になっておけば、モクバがあんなふうになることは……。」
どうやら感動でもしたらしい様子のジョーノに、涙を誘うような展開だったとは思えないセトはひちすら首を傾げてそっと向かい合ったソファーの間にあるテーブルの下からティッシュを取り出してジョーノの前に置いてやった。するとそれを遠慮なく数枚手にしたジョーノは、ずびずびと鼻を噛んでから、まだ赤く腫れた目蓋で一人大きく頷いた。
「セト、お前がそんなに前向きないいニーチャンだとは思わなかったぜ!!」
「……。」
「てっきり人を人とも思わず、偏屈で可愛げもない、人を見下すことだけを教え込まれた無駄に裕福な家で育ったボンボンかと思ってたけどよ!!」
お前も苦労してたんだなとまた浮かんだ涙を拭っているジョーノに、そこまで言われると逆に本当に感動しているのか疑問に思ってしまうセトだった。だが一人で納得したように頷いているジョーノを胡散臭く眺めたセトは、やがて軽くため息をつくと独り言のように続けた。
「……要するに。オレは、モクバにオレのすべきことを示してもらったようなものだ。唯一人モクバを守ってやりたいと思い、そうすることであの檻から抜け出すことができた」
「セト……?」
それは先ほど、モクバが初めての希望だったと告げたことからも、セトの本心だったのだろう。もしあのときモクバに出会わなければ、あるいは出会った弟がモクバでなかったならば、自分はいまだにあの離れに閉じこもったままだったかもしれないとセトは考えている。
「モクバはオレに恩返しや罪滅ぼしをしたいようだが、オレはそんなことは求めておらん。ただこの生活がモクバにとっていいものであればいいと、それだけを願っている」
「……。」
「故に、モクバがただの負い目からわざわざ危険な職業に繋がる場所へ、身を投じようということに対しては反対なのだ」
モクバの心情としては、セトの母や自分たちの父が殺された原因と、自らの母が自殺した原因も自分にあると思っているのだろう。いくら幼かったとはいえ義父に怯えて暮らすだけの毎日から救い出してくれたのは紛れもなく唯一人の兄であり、その兄に対しては感謝だけでなくお返しをしなければならないという強迫観念に駆られているようだ。
だがセトからすれば自分が両親に愛されなかったのも離れに隔離されたのも、ましてや誰が死んだのももちろんモクバの所為ではなく、微塵も恨む気持ちはない。むしろ飼い慣らされていた自分に気づかせ、またその状況から抜け出そうとする希望にもなってくれたモクバに感謝こそすれ、見返りを求める気持ちは全くない。
「……なあ、そのこと、モクバに言ったのか?」
「……。」
それでも、昼間ジョーノに打ち明けた際のモクバは、ひどく負い目を感じて追いつめられている印象が強かった。セトがどれだけその慈愛をジョーノに対して吐露したところで、当のモクバが知らなければ意味がないことである。
「……伝えてあるつもりだが?」
だがジョーノが念の為尋ねてみれば、しばらく黙り込んだセトからはなんとも頼りない言葉しか返ってこず、ジョーノは盛大にため息をついてしまった。
「ったく、しょうがねえニーチャンだな!! 自分の気持ちも満足に伝えられてないなんてよ!!」
「喧しいわっ、凡骨に言われずともモクバはちゃんと分かっているはずだ!!」
普段から口にしていれば単に恩着せがましいだけだが、弟が真剣に悩んでいるときぐらいは先ほどのようなことをきちんと伝えるべきである。なのでそんなふうに呆れてみせればどこかムキになったように反論してきたセトに、ジョーノはしてやったりと思わず笑った。
「あ、そうなんだ?……じゃ、ちゃんとお前の気持ちを理解してる『はず』のモクバが魔術師になってニーサマの手助けしたいってのは、純粋な夢や希望だよな?」
「クッ……!?」
「それともモクバがまだ罪滅ぼしだのって思ってるて言うんなら、それはお前がちゃんと気持ちを伝えられてないってことだろ?」
モクバは年の割には聡いので、本当にセトの気持ちを聞いていれば、罪滅ぼしだと思うことの方が兄を悲しませることぐらいすぐに気がつくはずである。それでもモクバはただひたすら、兄に申し訳ないことをしたといったふうに気負っていたので、恐らくそんなセトの思いは通じていないのだろう。
そのことを揚げ足を取るようにして突きつけたジョーノに、セトはしばらく口惜しそうに唇を噛んでいた。だがやがてふっと体から力を抜き、いつのまにか前のめりになっていた姿勢から、再びソファーの背へと体を埋めていた。
「……凡骨に、言い包められるとはな。いいだろう、モクバにはオレからもう一度きちんと話してみる」
そして面白くなさそうにそう言ったセトに、ジョーノも心からほっとしていた。なので少し意地悪そうに笑いながら、セトに念を押してやった。
「おーおーっ、そうしろって。そんでそれでもモクバが魔術学びたいって言ったらな、そんときは許してやれよ?」
「……考えておく」
吐き捨てるように言ったセトの言葉の裏には、もしそうしてせがまれてもやはり危険なのでやめさせたいという思いと、そこまでして兄の役に立ちたいと言ってくれる弟を無下にはできないという両方の思いが滲み出ていた。セトからすればそれはひどい葛藤なのだろうが、ジョーノにすれば『兄バカだなあ』という一言に尽きる。
「ま、じゃあとにかくお前がじっくりモクバとは話してみるってことで? あーっ、これでオレも一安心、枕高くして眠れるぜっ」
思ったよりいい解決策ができて嬉しく思ったジョーノは、ソファーから立ちあがりついでに両手を高くあげて思いきり伸びをした。普段から堅苦しいことや頭を使うことは苦手なので、モクバの悩みをなんとかしてやりたいとは思いつつ、この部屋に入った時点ではなんの方向性も見出せていなかったので、セトの意外な過去も聞かせてもらっていろいろ満足していたジョーノは、そのままニッコリとセトに笑いかける。
「そんじゃっ、おやすみな!!」
「……待て」
だが、すっかりこのまま自分の部屋に戻って寝るつもりだったジョーノに、セトは低く制止していた。もう自分が座っていたソファーからは歩き出していたジョーノは、一瞬聞き違いかとも思ったが、一応足を止めて振り返る。
「……なんか言ったか?」
「貴様、自分の言いたいことを言っただけで終わるつもりか?」
「へ?」
するとセトはやや不機嫌そうにそんなことを言ってきており、ジョーノは立ち尽くしたままで首を傾げてしまってた。先ほどの生い立ちに関してはセトはしゃべり倒していたではないかと思っていたジョーノは、そこでようやくセトも『話がある』といったようなことを口にしていたことを思い出す。
「あ、ワリィワリィ、なんか話があるって言ってたっけな?」
「この凡骨め、駄犬ではなく鳥頭だったか……!!」
「なにそんな怒ってんだよ?」
ちょっと忘れてただけだろと唇を尖らせて拗ねるジョーノに、セトは疲れたようなため息をわざとらしくつく。それに噛みつきたい気がしないでもなかったが、確かに自分の話をするのに精一杯でセトの話とやらの存在すらすっかり忘れていたことを申し訳なくも思ったので、少し機嫌を窺うように尋ねた。
「あ、だったら、もっかい座った方がいいか……?」
きちんと話すべきことがあるならば、先ほどのようにセトが座っている向かいのソファーに腰を下ろすべきかと尋ねたジョーノに、セトは軽いため息をつくと、それを遠慮させた。
「いや、どうせ夜も遅い。言いたいことは少しだけだ、取り敢えずはこちらに来い」
「お、おう……?」
何を言われるのだろうかということよりも、傍に来いと言われて純粋にどきどきしてしまったジョーノだが、ソファーの横に立ってもセトはまだ口を開く様子がない。どうやらもっと近くに来いと言われているらしいと分かったジョーノは、少し迷ってからソファーの後ろに回ることにした。
「……なんだよ?」
「手を出せ」
「手……?」
セトのちょうど後ろに立てば、相変わらず素っ気無い口調でそう言われ、ジョーノは何も考えずに右手を出してみた。もしかすると何かくれるのだろうかと思ったが、差し出されたジョーノの手首の辺りをセトはいきなりつかむ。
「なっ、なんだよ……!?」
「……まだ、痕が残っているな」
「……!?」
そして右手の手の平にうっすらと残る筋を見てそう言ったセトに、ジョーノはようやくセトの言いたいこととやらが分かった。よく考えれば昼間にモクバがジョーノに打ち明けたことは二人だけしか知らず、セトの耳に入るような大事件ではない。もし評議会で仕事をしていたセトの耳に入ったとすれば、その前の街中での狩りのことに他ならなかった。
「あっ、あ、もしかして狩っちゃまずかったのか!? 一応怪我人も出たし、オレまだ騎士の称号はあるからいいかと思ったんだけどよ!?」
「……その点は問題ない」
まだこの公国内のことを熟知しているとは言いがたい自覚もあったので、てっきり今までの連邦直轄地やムトー公国内と同じ振る舞いをしてしまったが、それがまずかったのだろうかとジョーノは慌てる。だが淡々とその心配は否定したものの、セトは後ろから伸ばされる格好になるジョーノの手首を掴んだままで不機嫌そうだ。
「えっ、あ、じゃあ魔術じゃなくって真紅眼の黒龍の血でやっつけたのがまずかったのか!?」
「……それも問題ない。規約に反することは何もない、通例通り処理されている」
「そ、そっか、ならいいんだけど……!?」
だが問題ないと言いつつ、セトは相変わらず機嫌が悪そうである。ソファーの後ろに立つジョーノはいまだに右の手首を捕まれているので仕方なく左手をソファーの背に置き、やや前屈みになるような姿勢になりながらも、セトは前を向いたままなのでその後ろ頭を眺めることしかできない。
「……だが、貴様の所属に関しては疑問がある」
「えっ!?」
そんな物言いに、ジョーノは少し驚いてしまった。実はジョーノは自分の所属についてはちゃんと確認しておらず、一応結婚する前までのものを語ったのだが、まさかとっくに連邦直属のゼロ隊からは除名されていたのだろうかと青くなるが、
「貴様は、確かに連邦直属のようだな」
「……だからそう名乗ったんだけど?」
「……。」
セトの言葉にジョーノはほっとしつつ、また首を傾げることになる。てっきりもう籍のない所属を騙って偽証罪にでも問われているのかと思ったが、そういうわけではないようだ。
そうなると、セトの言わんとしているところや、そもそも何故いまだに手首をつかまれたままなのかが分からず困惑していたジョーノに、セトはどこか吐き捨てるように言う。
「……それが気に入らんと言っているのだ」
「ハァ……?」
「……まあいい、とにかくもう狩りはするなよ?」
だが、あっさりと告げられた言葉に、ジョーノはすぐに反応が出来なかった。
所属にも手順にも落ち度はないと言っておきながら、セトはジョーノの狩りを禁止した。禁止とは言っても所属が連邦である以上権利を剥奪したり、狩りを実行したジョーノをそのことによって処罰はできないのだが、別件をこじつけることぐらいはカイバ公国内ならば簡単である。
「あ、なんかオレ、気に障ることしたか……?」
「……。」
何もしていないのに連邦直属の騎士の称号などを剥奪できないことは知っているはずのセトがそんなふうに言うということは、法律とは別のところで機嫌を損ねてしまったのだろう。ジョーノはあまり感じたことはないが、地方に行くほど討伐組織にも管轄意識があり、流れの騎士などに魔物を退治されることを歓迎しない風潮があるらしい。そういったことであの町を担当していた組織から文句でも出たのか、あるいはもっと大きな討伐作戦でも練っていたところだったのかもしれない。特に新しい隊員が入った際に慣れるために大きな作戦を組むことがあり、その対象であった魔物をうっかり狩ってしまったのであれば心底申し訳ない。
だがそうであっても、ジョーノにはちゃんと狩る権利も力もあり、なにより目の前でモクバや屋上から落下した男が襲われたりと、守るべき理由もあったのだ。セトにもこの国を治める公爵としてなにか不都合があったのかもしれないが、これからも目の前で誰かが襲われているのに、それを助けられる力を行使せずにただ指をくわえて見守るなど約束できない。
「ああ、気に入らんな……こんな、怪我をしおって」
「……怪我?」
どんな理不尽な理由を告げられるのかと緊張していたジョーノは、そんなふうに言われて首を傾げてしまう。だが取り敢えずセトが不機嫌であることは事実だったようで、ギリギリと骨が折れそうなほどの力で手首を握られてジョーノは慌てて後ろからその肩を叩く。
「このバカッ、痛いって、離せっての!!」
「馬鹿は貴様だ」
「イダダダダダダ……!!」
どうやら思わず言ってしまった馬鹿という単語が気に障ったらしく、更にギリギリと力を込められてジョーノはまた悲鳴をあげてしまった。だがすぐにその力は緩められ、思わずにじんでいた涙をぐしぐしと拭ってからジョーノは拗ねたように言う。
「怪我ったって、魔物にやられたのは大したモンじゃねえし、あとは真紅眼の黒龍の力を……て、痛いっての、なに怒ってんだよ!?」
それでも怪我などすぐ治ると主張していたジョーノは、まだ離してくれない手首に再び力を込められてまた悲鳴を上げた。
「……貴様、真紅眼の黒龍の力を使うたびに怪我をするというのは本当か?」
そして相変わらず振り返らないままでそう尋ねられ、ジョーノはどこか冷たいその背中に怒鳴るようにして頷いてやる。
「ああそうだよっ、つっても、他の奴がちゃんとした『魔術』てカタチでやるような魔力がかかる場合に限るけどなっ、て、ああもうなんなんだよっ、また力込めんなって……!!」
「……ならば、もうその力は使うな」
「それこそバカ言うなよっ、この力使わなくてどうやって魔物とやりあうってんだよ!?」
確かに空を飛んだり黒炎弾を撃ったり、かなりの魔力を必要とする場合でしか皮膚を裂いて出血するような事態にはならない。通常でも身体能力はかなり高い方なので剣一つで人間相手ならば充分だが、騎士という立場からも魔物相手の狩りでは真紅眼の黒龍の力を発動せずに仕留めるというのは無茶な話だ。なのでそうジョーノが叫べば、いまだにジョーノの手首を掴んでいるセトは淡々と返す。
「だから、もう狩りをするなと言っている」
「ハァ!? 怪我が怖くて力使えねえからっ、だから狩りもするなってか!? バカにすんなっ、オレは自分の怪我なんか今更気にしてねえよ!!」
だがそう叫んだ途端、ジョーノはぐいっと思いきり手を引っ張られてソファーの背もたれに引き倒されるような格好になった。
「うわっ!?」
「……貴様が気にせずとも、オレが気にする」
「……!?」
それは当然手首を掴んでいたセトが引っ張ったからだが、ソファーの背もたれにしがみつくような体勢だったジョーノは、予想だにしない言葉が頭上から降ってきて一瞬驚いて声も出なかった。それでもソファーの背に乗ったまま顔を上げれば、ジョーノの手はつかんだままで振り返ってソファーに膝を乗せるようにしていたセトは真面目な顔でじっとジョーノを見下ろしてくる。
「なん、で……?」
先ほどの言葉は都合のいい聞き違いだったかと思ったが、その青い瞳がどこか悲しげに見えて、それがまるで本当に自分の怪我を心配しているかのように感じられてジョーノは呆然と尋ねてしまう。するとソファーの腰掛ける部分に膝を置いて振り返っていたセトは、ゆっくりと腰を落として背もたれにしがみついているジョーノと視線の高さを合わせた。
「……貴様が、オレの妻だからだ」
「ん……。」
そしてまるで夢のような言葉を真剣に呟いた唇で、ジョーノは驚く声さえ次の瞬間には塞がれてしまった。
まるで、キスしてるみたいだ。
間近すぎる青い瞳にぼんやりと考えていたジョーノは、やがてそれが比喩ではなく現実そのものだと気がついたとき、どうしようもない感情で思わず涙が溢れそうになって掴まれていた手を振り払って部屋から飛び出した。
まるで本当の妻のような些細な触れ合いが、どうしようもなくジョーノは悲しかった。
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