■ホワイトノート

-02




「……お前ら、ケンカでもしたのか?」
「へ? してませんよ、別に」
 それから二日後、金曜日の早朝練習の後に、二口はキャプテンの茂庭からそう尋ねられた。すぐに否定したのは、事実ではないからだ。だがそれ以上に、傍からはそう見えるだろうなという予測があったので、いつか誰かに尋ねられることを想定していたことが大きい。
 夜の部室で初めてセックスをしてから、青根の態度がおかしくなった。二口も多少は意識したが、青根ほど顕著ではないし、なにより二日も経てば衝撃は過ぎる。だが、青根はまだ動揺が続いているらしい。茂庭など、周囲からも分かりやすいのは練習の前後での行動が別々のことが多いからだろう。
 翌朝の木曜日に関しては、二口は茂庭から預かった鍵で部室を開けるために普段より早く来る必要があったので、仕方がなかった。正確には、いつもの待ち合わせはしたものの、青根がそわそわして何もしてこなかったので置き去りにして登校したのだ。
「でも、なんだか別行動が多いよね?」
「まあ、それは否定しませんけど……。」
 それがショックだったのか、昨日の早朝練習後は、他の部員と共に部室を出る二口に、青根は少し離れてついてきただけだ。放課後の部活には、ちゃんと迎えに来た。だが偶然にも他の部員とも部室前で合流したので、二年生からは団体行動として映っただろう。更に昨日の放課後は早く帰る用事があったので、青根にもそうと断った上で部活が終わると一人でさっさと帰宅した。
 今朝は今朝で、いつもの時間と場所に待ち合わせで現れた青根は、やはり何もしてこない。そわそわして、視線を合わせない。嫌悪からなどではない、照れているだけだ。それは実に分かりやすいので二口も放置していたが、やがて早朝練習に向かう時間になったので歩き始めようとすれば、慌てた青根にいきなり抱き締められた。体を重ねて以降、初めての接触だったので二口も驚いている間に、青根はパッと腕を離すと学校に向かって走って行く。結果的に、今朝も別々に登校することになった。
「何かあった?」
「……いえ、特には」
 そして、今度は早朝練習が終わった途端、すぐに着替えた青根が一番に部室を飛び出したのだ。同じクラスの小原は特に急いでいないし、授業に率先して参加したいような性格でもない。誰もが呆気に取られている中で、茂庭だけが二口に尋ねてきた。
 だが正直に言えるはずもないし、実を言えば二口も自信がなくなりつつある。喧嘩ではないことは事実だが、青根がここまで引き摺るとは思っていなかった。行為に衝撃を受けても、せいぜい一晩経てば落ち着くだろうと高を括っていたのだが、これは予想外だ。
 放課後にでもたっぷりと時間を取れればいいのだろうが、生憎それはしばらく無理だ。そうなると、青根と二人になれる時間は極端に少ない。唯一可能な早朝練習前もあの調子だったしとため息をついたとき、携帯電話が鳴った。
「あ、もしかして青根から?」
 茂庭は何故か嬉しそうに尋ねたが、青根は相変わらず携帯電話を持っていない。だがそれを忘れて尋ねる茂庭に呆れるより、自分と青根には意外に繋がりが少ないのだと気がついて落ち込みそうになった。クラスも違うし、部活以外では会うこともない。それ以外で連絡の取りようもない。ため息をつきながら受信したメールを確認したためか、つい口が滑りかける。
「いや、エミから……。」
「え?」
「……なんでもないです」
 青根からではないと否定するために、本当の送信者を告げる必要はない。すぐに気がついて流した二口は、届いたメールの内容にもため息が出た。
 ともかく、しばらくは仕方ないのだ。自分に言い聞かせて、教室に向かうことにする。そろそろ予鈴が鳴りそうな時間だ。かなり気が重いままで茂庭たちと共に部室を出た二口は、そこでとっくに教室に戻ったと思っていた相手に引き止められた。
「……!!」
「……青根?」
 声に出して呼ばれたわけではない、いきなり腕を掴まれた。どうやら部室の外でずっと待っていたらしい。そんなことをするぐらいなら部室で話しかければいいのにと思うが、今の青根には二重に無理だろう。茂庭は喧嘩の仲直りをするとでも思っているのか、やたら微笑ましそうに手を振って去っていく。それを見送ってやや部室から離れたところで、二口はようやく尋ねてみた。
「どうしたんだ?」
「……。」
 青根は、相変わらず動揺していた。興奮しているとも言える。だが昨日までと違うのは、今朝も抱き締めてきたし、今も腕を掴んだり視線を合わせられるようになったからだ。二口からもじっと見つめ返せば気配がやや揺れたが、青根は必死に耐えている。そして、やっと用件らしい行動に出た。
「……なにこれ? 映画のチケット?」
「……。」
「その辺で拾ったのか?」
 手に紙のようなものを押し付けられる。見てみれば、公開中の映画のチケットなのだと分かる。しかも二枚。
 怪訝そうに尋ねてしまったのは、青根からは映画の話題が出たことなど一度もなかったためだ。勝手に興味がないのだと思っていたが、違うのだろうか。二口は人並みには見るものの、さほど熱心ではなく、またこの作品に関しては青根と話したことはない。
 そのため、拾ってしまったので対処に困っているのかという、妥当な判断をしたものの、青根の雰囲気が目に見えて沈んだ。
「……。」
「違うのか。じゃあ、お前が買ってきたんだよな、オレにくれるのか?」
 二枚押し付けられたので、誰かと行けという意味なのだろうか。たとえば親などからもらったものの、自分で行く趣味はなく、もったいないので人に譲る。そういうことかと尋ねれば、一瞬頷きかけた青根が今度は泣きそうになったので、やっと二口も分かった気がした。
「オレと行きたいのか?」
「……!!」
「いいけどよ、オレ今週はあんまり時間ないぞ?」
 平日では時間が遅くなりすぎて無理なので、どうしても土日になるだろう。休日でも自主練習はあるが、どちらか一日は体を休めることを推奨されている。普段は無視して両方出ることも多いが、午前だけ、あるいは午後だけのこともあるので、さほど問題はない。先ほど届いたメールのことを思い出しながら、二口はざっと予定を立ててみた。
「そうだな……土曜日なら、午前中、というか昼飯くらいまでなら大丈夫だけど、それでいいか?」
「……!!」
「映画はお前が奢ってくれるんだろ? だったら、昼はオレが出すから」
 既に二枚も買ってきたということは、そういうことだろう。本来はいちいち言わずに奢り返すのがスマートな男なのだろうが、青根にはそういうことは通じないので、予めきちんと決めておいた方がいい。
 具体的であればあるほど、否定も肯定もしやすいのだ。提案をしてみれば、青根は少し驚いた後、何度も大きく頷く。部活以外に用事があるのか疑問な青根なので、やはり大丈夫らしい。それにほっとしつつ、二口はチケットを返しておいた。
「……?」
「オレが持ってるのも変だろ、お前が明日持ってこいよ。どうせ会えるんだから」
 渡そうとすれば一瞬不思議そうにした青根も、二口がそう説明すれば嬉しそうに頷く。財布にチケットを戻した青根は、手持ち無沙汰そうに手を揺らしている。抱き締めたいのだろうなと分かってはいたが、ここは部室のすぐ近くで、もうすぐ予鈴も鳴るのだ。
「じゃあ、映画館と上演時間、調べといてやるから。後で待ち合わせの場所と時間を決めて伝える。それでいいよな?」
「……。」
 青根は携帯電話を持っていないので、待ち合わせはきっちり決めないと危険だ。しかも、どう考えても映画館がある周辺には疎そうなので、分かりやすい場所で落ち合ってから移動した方がいいかもしれない。上映時間も、アクセスも、携帯電話ならすぐに調べられる。昼休みまでには決めて、放課後の部活が始まる前に伝えれば充分だ。念を押せば、青根はまた嬉しそうに頷いた。それを見ると二口も嬉しくなって、初めて部活とは関係なく二人で出かけるという予定に、図らずも浮かれてしまった。




 どうして青根が急に映画に誘ってきたのか。
 その理由を、二口は深く想像しなかった。考えが軽いとは、いつも鎌先を筆頭によく指摘されることである。だがそれは楽観的だという場合と、考えること自体が足りていない場合がある。今回は、完全な後者だった。いつにないことに二口も心がそわそわと落ち着かなくて、青根はそうは見えないだけで映画好きだったのだくらいに流してしまった。
「……。」
「お前なあ、誘っといて盛大に寝てんじゃねえよっ」
 だからこそ、映画の半分を過ぎた頃には熟睡していた青根に、二口はまた深く考えずにそう非難した。
 翌日の土曜日、普段よりはずっと遅い朝に駅の近くで待ち合わせて、朝一番の回に見に行くことにした。青根が持っていたのは鑑賞券であり、窓口で座席指定のチケットを発行してもらわなければならない。たまに映画を見に行くときは携帯電話から予約して劇場で端末から発券する二口には、窓口が混雑していることも考えて時間には余裕を見て合流することにした。
 それでも、早朝練習がある平日よりは、二時間も遅い。睡眠時間は長く取れるはずなのに、待ち合わせ時間のギリギリに現れた青根は顔が怖かった。単純に寝不足なのだろうが、元々顔が怖いので凄みが増している。この時点でやや嫌な予感はしたものの、この映画を指定したのは青根なのだ。きっと楽しみにしていたのだろうと二口は思った。
「いびきかいて寝てなかったのだけは評価してやるけどよ、お前、半分も見てねえだろ」
「……。」
「つか寄りかかんなっ、普通に重い」
 公開してだいぶ経つので朝一番の回は客も少なく、比較的いい座席を指定することができた。ただ、自分たちの身長を思えば、後ろに座った客はスクリーンが見えにくいだろう。既に埋まっている席の真ん前だけは避けて選び、館内を進めば青根は物珍しそうにずっとキョロキョロしていた。
 それだけでも、青根が映画館に慣れていないことは分かる。ただ、青根の性格を思うと、たとえ映画好きでも人混みが嫌で自宅で見るような気もした。つまり、わざわざ足を運んできたということは、そんな青根がやはり大きなスクリーンで見たいと熱望する作品だということだ。
 ちなみに、普段の二口であれば自ら見たいと思うことがない系統だった。アクションでも、恋愛ものでもない。動物たちの生態をリアルに撮ったドキュメンタリーである。珍しい趣味だと思ったが、一周回ってそういうものかと納得する。やたら猛獣に喩えられがちな青根なので、野生動物には親近感があるのかもしれない。
 大して気にせず鑑賞した二口だったが、実際に始まるとその映像の壮大さに圧倒された。分かりやすいストーリーがあるわけでもないのに、引き込まれてしまう。つい夢中になって見ていれば、急に肩にドンッと重みがきてひどく驚く。ちょうどスクリーンでは豹が木の上で食べていた獲物を地面に落としたところだったので、余計に声が出そうになった。
「だいたいなあ、誘った側が寝不足ってどういうことなんだよ。待ち合わせだっていつもより遅いだろ、楽しみにしてたんじゃないのか」
「……!!」
 不満は二つ、寄りかかられて驚いた件と、見たばかりの映画の感想を言いたくとも青根が見ていない後半は話題にできないことだ。もちろん、ああだった、こうだったと、説明してもいい。だが青根が足を運ぶほど見たかったはずの映画なのだ、たとえ自業自得だとしてもまだ見ていない後半の楽しみを奪う気にはなれない。
 再び映画館に来るかは別として、いずれまたあの映画は全編を通して見るのだろう。そんな配慮の結果としても、純粋な心情としても、二口は不満をぶつける。青根がしゃべらないのはいつものことなので、反論はなく、一人で愚痴っているようなものだ。
「ああ、それともあれか、やっぱ誰かにもらった券だからほんとは見に行くのに興味はなかったのかよ」
「……!?」
「そうだとしても、やっぱ付き合わせといて寝るなって話にはなるんだけどな」
「……。」
 映画館のある商業施設を出て、人通りの多い道を進みながら二口はそう呆れる。ちなみに二口は私服だが、青根は学校のジャージだ。窓口で座席指定券と引き換える際に高校生だと疑われないための配慮かと勘繰ったが、どうやら単に昼食を取ってから自主練習に行くためらしい。
 二口は午後から用があるので、今日は不参加を既にキャプテンに伝えてある。コーチから話は通っているようで、特に理由を尋ねられることもなかった。
「ともかく、途中で寝るんなら二度と映画には来ないからな」
「……!!」
 仕方ない事情があるとはいえ、いつも出ていた自主練習を休むのは不安になる。それだけで、周りが上手くなって置いていかれそうだ。特に青根との差がまた開きそうで怖い。焦りはするものの、自宅近くでできるロードワークでも増やすかと二口は考えていた。
 ボールを使った練習は一人では難しいが、基礎体力をつけることは可能だ。寒くなってきたこともあり、寒すぎる時期になってからいきなり無理するのは良くない。時間を作れそうなときを考えながら歩いていた二口は、青根がついてきていないことに気がつくのが遅れた。
 二人で歩くときも、青根の位置は精神状態に左右される。腕を引いて率先するときには感情が先走っており、ろくなことにならないので自制させるのが必要だ。逆に横に並ばす、やや後ろを歩くときは二口に対して不満や不安を抱えていることが多い。足を止めて離れるほどであれば、後ろ向きな思考で雁字搦めになっている証拠だ。
「……なに突っ立ってんだよ」
「……!?」
 頭では分かっていたはずなのに、二口はやはり深く考えていなかった。落ち込んでいるように見えた青根は、楽しみにしていた映画を半分見損ねて、ショックを受けているのだと簡単に思っていた。そうであれば完全に青根の自業自得であるし、下手に慰めても同じことを繰り返すだけだ。呆れて声をかければ慌てたように駆け寄ってくる青根を、二口は駅の連絡路で冷めた目で眺めてしまう。
 映画館のあった商業施設とは駅を挟んで反対側に、ファミリーレストランがある。食事をするだけならば商業施設内にもたくさんあるが、どうしてもそこがいいのだと主張する者がいるので仕方がない。昼食には少し早いがもう向かうと宣言して移動していた二口に、青根は何も言わずについてきていた。だが土曜日の午前中、人通りが妙に少なくなった連絡路で、青根はひどく顔色が悪い。まさか寝不足ではなく体調不良なのかと察した二口は、やっと追いついた青根にまた呆れた。
「じゃあなんで映画なんか誘ったんだよ」
「……!?」
 体調が悪いなら、断れば良かったのに。
 そう思いはしたが、昨日の段階で予兆がなかったのであれば、青根には無理だと分かっている。仮に今朝起きて、体調が悪いと分かっても、青根には連絡する手段がないのだ。だから仕方がないと納得しかけて、さすがにこちらの携帯電話の番号は教えていると思い出す。自宅にいたのであれば、固定電話からかければすんだ。ただその場合も声に出して話すことにはなるので、それなら不調をおしてでも出かけた方がマシだと選択したのであれば、また自業自得である。
 無理に連れ出したような罪悪感も沸くが、それは青根が肩から掛けている部活用のバッグを見るとまた揺れ戻る。さすがに体調不良の自覚があれば、自主練習は休むのではないか。だがほぼ強制になっているので、欠席の連絡が出来ないので仕方なくという、同じ理屈を想像していたとき、雑踏の中で久しぶりの声が聞こえた。
「……こいびと、だから」
「は?」
 ただ、今まで耳にしていたときより、ずっと掠れて小さく、何より予想していなかった言葉で二口は面食らった。
 苦しそうに吐き出した言葉は、青根にとってはよほど伝えたいものということだ。だがそれが、『恋人だから』というのは、どういう意味なのか。聞き違いかと首を傾げたが、確かにそう聞こえた。唇を噛み締めて今は俯いている青根を眺めていた二口は、急に理解できて思わず叫んだ。
「……お前っ、バカじゃねえの!!」
「……!?」
 坑道のような連絡路ではその声が響き、あまり多くない通行人もチラチラとこちらを見ていた。だが青根の外見が怖すぎるのか、誰もがすぐに目を逸らして去っていく。それには安心したものの、なんとか自らを落ち着けて考えてみた結果は、非常に不愉快でしかない。
「……ああいうこと、したからか」
「……!!」
「だから、恋人らしく振る舞わなきゃって、焦ったのか」
 青根は、別に映画に行きたいわけではなかったのだ。ただ、セックスした以上は恋人なのだろうし、それらしいデートをする。デートの定番は映画だろうという、それだけのことだった。
 ああいう映画が好きなのかとか、そもそも部活とは関係のない用事で出かけることに浮かれていたことを思い出すと、二口は恥ずかしくなる。青根はどこまでも律儀で、誠実で、昔で言えば傷物にしたので責任を取るような強迫観念で、苦手なことに足を運んだだけだ。
 少し考えれば分かりそうなものなのに、青根から映画に誘ってもらえたというだけで本当は嬉しくて何も邪推しなかった自分がとてつもなく情けない。みっともなくて、動揺する。とにかく格好悪くて居たたまれなかった二口だが、それでも青根が次にこんな反応をしなければ、もう少し冷静になれたと思うのだ。
「誰が恋人になれって頼んだんだよ、誤解すんな」
「……!?」
「……。」
 そんなこと、ねだっていない。
 男同士で付き合えると思うほど、おめでたくもない。
 それでも、ああいうことをして、いつも一緒に居たがる。こうして、二人で出かけもする。世間一般的な男女のカップルとは違うかもしれないが、もしかすると青根と恋愛じみた関係になれるのかもしれないと少しでも想像してしまったことが、二口を最も打ちのめした。
 恋人になれなどと言っていない。そう突きつけた二口に、青根は明らかにほっとしたのだ。肩の荷がおりたと、面倒なことをしなくてすむようで嬉しいと、痛いくらいに雰囲気で分かる。それまで体調不良を疑うほど顔色が悪かったのに、急に晴れ晴れとした顔になっていく青根を見ていられなくて、二口は目を逸らした。
「……エミか」
「……!?」
 取り乱しそうになった二口を繋ぎとめたのは、急に鳴りだした携帯電話だ。映画の間は切っていたが、終わってからはそれを教えるために一度メールをしている。それを見たのだろうが、待ち合わせにしている時間にはまだ早い。大方寝過ごして謝ってくるのだろうと思った二口は、表示された名前に一度呆れてから通話ボタンを押した。
「……どうした?」
「……。」
 だが電話に出てみると、予想外に音がうるさい。どうやら外にいるらしい。迷ってかけてきたのかと勘繰るが、どうやらそれも違うようだ。
「は? ……なんでもういるんだよ、十一時半に来いって言ってあっただろ」
「……。」
「ああ、いい、分かった、オレもすぐ行く。エミはそこで待ってろ、いいな?」
 本当は、青根と先にファミリーレストランに入って、そこで待つつもりだったのだ。だがうっかり余計なことを昨日伝えてしまったため、楽しみすぎて随分早く家を出ていたらしい。もう到着したという無邪気な報告に一通り呆れた二口は、電話を切る前に一度チラリと青根を見た。
「……?」
「……それと、紹介するって言ってた、『部活の友達』な? 映画には来たんだけどよ、どうも体調悪いみたいでメシ食わねえで帰っちまった」
「……!?」
「まあいいだろ、オレがいれば。声かけられてもついていったりするなよ、すぐ行くから」
 何度も念を押してから電話を切った二口は、大きく深呼吸をする。今日は何もかもが狂ってしまった。いや、今日だけでなく、もうすべてが崩れたような喪失感がある。
 結局、嬉しかったのも、楽しかったのも、自分だけだったのだ。恋人まがいのことをしていて、それが幸せだと思えたのは二口だけだ。青根は、物珍しさだか単なる快楽だか知らないが、少なくとも恋人じみたことをするのは嫌だったらしい。少し想像すれば納得できる事実をすっかり忘れていた自分に、一番腹が立つ。だからこそ、青根にまともに顔を向けられないまま、ため息をついて断っておいた。
「ほんとはエミにお前を紹介するつもりだったけど、もうナシでいいよな。どうせエミはお前の顔も知らねえし、どっかでメシ食って一人で帰れ」
「……。」
 街中でうっかり遭遇することは極めて確率が低いが、そもそも青根の写真などを見せたことがないので万一のときも嘘はばれないだろう。今はそれだけでもよかったと思いながら、二口はくるりと踵を返し、連絡路を駅の反対側へと向かって進む。
 もちろん、青根はついてこない。本当に、これで終わりなのだ。
 求めたことへの代償は大きかったと思いつつ、仕方がなかったとも同時に思う。
 あのときは、どうしても青根に抱かれたかった。セックスまですれば何かが変わることを期待し、変わり方が希望とは違うものだっただけである。
「……。」
 体を重ねてから距離を取るようになったのは、照れや動揺ではなく、ただの嫌悪感だったのだろうか。
 昨日の朝、練習前に抱き締めてきたり、練習後に映画のチケットを渡してきたときは、青根は精一杯の我慢をしていたのだろうか。
 そんなことは、分かっていたはずだ。どちらのときも、青根はやけに思いつめてから行動を起こしている。それだけ気合いを入れなければできないことだったのだと素直に解釈すれば、うっかり視界が歪みそうになった。
「……情けねえな、マジで」
 大きく深呼吸をして、なんとか堪える。万一涙がこぼれてしまっても、映画が実に感動的だったと言うしかない。
 別のことを考えて必死に気を紛らわそうとするのに、脳裏には青根のことばかり浮かんでしまう。
 自分がもう少し我慢していれば、三日前の夕方までの関係を続けられていたのだろうか。
 あるいは、責任を取る心境の青根に無理をさせ続けていれば、表面的にだけでも恋人めいた関係になれていたのだろうか。
「……。」
 どちらも、現実味がなかった。
 連絡路を抜け、やっと地上に出れば、秋の澄んだ空が不愉快なくらい青くて目に突き刺さる。
 それにすら苛々しながら、二口は足を進めた。目的に向かっているのか、早く逃げたいだけなのか、自分でもよく分からない。だが心配をかけないためにもファミリーレストランに着く頃には笑えるようになっていようと心に決めて、青根のことは思い出さないことにした。




「お前ら、やっぱ喧嘩したんだよな?」
「……してませんよ、別に」
 数日前と同じ質問を茂庭からなされて、こちらも同じ返しをする。だが声が明らかに不満で沈んでおり、二口も内心でため息をついた。
 青根と映画に行った先週の土曜日、二口は自主練習に出ていない。青根が出たのかは知らない。翌日である日曜日には行ってみたが、青根は普通にいた。ただ、会話はなかった。
 それ自体は珍しいことではないし、練習内でのやりとりはある。だが一歩コートから離れると、二口は話しかけない。青根も不満がって視線ですがるようなこともない。そもそも、青根が二口を全く見ようとしないのだ。完全に嫌われたなとため息をつきつつ動揺していた二口に、珍しく話しかけてきたのは二年生の笹谷だ。
『そういや二口よー、昨日女の子と駅前を歩いてなかったか?』
『なんだそれ!? どういうことだ説明しろよ微に入り細を穿って!?』
『……ただの妹っスよ』
 少し動揺したのは、その前に青根といたところを見られていたのではないかと焦ったからだ。だが歩いていたと言うくらいなので、ファミリーレストランで食事をした後だろう。青根と連絡路で別れてから随分と時間も経っているので、きっと大丈夫だと安堵している二口に、何故か鎌先が騒ぐ。
『妹って、そんな、お前言い訳が定番すぎるだろ!? ……笹谷っ、どんな子だった!?』
『え。あー……えっと、可愛かった』
『可愛かったのかー!!』
 鎌先が笹谷を追及している間に、二口はすっと足を進める。青根のすぐ傍に立つが、用があるのはキャプテンの茂庭だ。だが青根にも聞こえるようにはっきりと告げておく。
『キャプテン、明日からの早朝練習なんですけど、オレ、来たり来なかったりになると思うんで』
『ああ、了解、了解っ』
 だから、待ち合わせはもうしない。振り向かない青根の肩もビクッと震えたので、確かに伝わったはずだ。
 青根とのことを清算するための嘘ではない。本当に、分からないのだ。毎朝茂庭にメールをしてもいいのだが、名目は自主練習になっているのでいちいち報告しても鬱陶しいだろう。予め分かっていることであるし、監督やコーチにも伝えてある。寝坊すれば来ないだとか、体育の授業がある日は来ないだとか、そういうレベルでの不参加もあるので、目くじらを立てられることもない。軽く了承されてほっとしたところで、いきなりガシッと腕を回された。
『わっ!? ……鎌先さん?』
『あれかっ、こないだの、メールがきてた……エリちゃん、だっけ、ユミちゃん、だっけ、ええと』
『エミです、エミ』
 金曜日の早朝練習後、エミからメールが届いておりつい名前を口にしてしまったが、鎌先はちゃっかり聞いていたようだ。まさに正解だと適当に流している間に、青根はいなくなっていた。
 日曜日は他の部員より早めに練習を切り上げ、翌月曜日は宣言どおり早朝練習に出なかった。同じクラスにはいまだバレー部員である者はいないし、特に追及されることもない。少し不思議な感覚で授業を受けていても、クラスが違う青根とはすれ違うこともなかった。
 部活しか接点がなければ、そんなものだ。
 なんとか自分に言い聞かせて、これが普通になるように努める。だが実際に苦しかったのは、放課後になってからだ。ぼんやりしているうちに、部活が始まる時間が近づく。仕方なく教室を出て、廊下に立ち尽くして待っている姿がないことに、傷つかないようにした。E組は授業が長引いているだとか、体調不良が本物で部活には出ないのだとか、ありえないことを想像しながら部室に行けば、ちょうどジャージに着替え終わった青根が小原たちと体育館に向かうのとすれ違った。
 わざわざ迎えに来なくていい。
 同じクラスの部員と部活には行けばいい。
 あれだけ言っても全く聞き入れなかったのに、青根は平然とそれを実行した。小原には、掃除当番で遅くなったと適当なこと言って手を振り、部室で一人着替えるときも頭の中はぐちゃぐちゃでどうしようもなかった。
「ほんとに?」
「……してませんって、ほんとに」
「そうなのかなあ……。」
 それでも、部活中は平気だった。むしろいつもより集中していると、あの鎌先にも褒められたくらいだ。
 きっと、練習に没頭すれば嫌なことを考えずにいられるからだろう。最初の二日くらいはそう自己分析していたが、どうやら違うらしい。もちろんその部分も大きいが、練習中は以前と戸惑うほど変わりなく青根が接してくれる。
 それが、嬉しいだけだ。
 自覚してしまうと情けなさは増し、また頭を抱える。だが部活に出ると青根もこちらを見てくれるので、足が遠のくことはない。できるだけ自主練習にも参加したい。だがそれがままならない状況に、またストレスが募った。
「だいたい、仮にオレたちが喧嘩してたとしても、先輩たちには関係ないじゃないスか。部活中は今まで通りなんだし」
「それはそうなんだけど、やっぱり喧嘩してたんだなっていうか、部活中は休戦しようって決めてたんだなっていうか」
 この日はもう木曜日で、放課後の練習が終わったところだ。着替えながらの会話に二口がどう返そうかと思ったとき、カバンの中で携帯電話が震えているのが分かった。嫌な予感がしつつも届いたメールを開いて見れば、案の定催促だ。
「でもさ、どういう理由で喧嘩したのか知らないけど、やっぱり……?」
「……すみません、キャプテン。人待たせてるんで、先に帰ります」
「あ、うん……?」
 携帯電話をカバンに戻し、着替える手を急いで身支度を整えた。すぐにカバンを担ぎ、挨拶をして部室から出ようとしたところで面倒くさい先輩に捕まる。
「じゃ、お先に失礼しま……?」
「またエミちゃんかー!!」
 幸い、叫ぶだけで腕までは回されなかったので、二口は呆れつつ鎌先には返しておく。
「違った方がおかしいじゃないスか。そんじゃ、お先でーすっ」
「……くそっ、二口のヤツ、自慢しやがって、くそおっ」
 本当に急いでいたので、二口はそのまま部室から出た。
 そのため、残っていた部員たちが微妙な空気になったことを、当然知らない。
 悔しそうにジャージに八つ当たりしている鎌先を除き、全員の視線が一人へと集まる。青根はジャージを脱ごうとした格好のまま、完全に固まっていた。どこかを睨みつけているのではなく、呆然としている。喧嘩の原因は分からないと言ったばかりの茂庭だが、さすがに少しくらいは想像がつく。
 まず間違いなく、『エミちゃん』の所為だ。そしてそれは二口が悪いのではなく、どうしようもないことだ。
「……もしかしたら、今までべったり仲良くする友達っていうのが、いなかったのかもしれないけど」
「……!?」
 できるだけ刺激しないように、慎重に話しかけてみたが、青根は驚いて開いたままのロッカーの扉に額をぶつけた。それにまた驚いている様子には居たたまれなくなってくるが、茂庭は穏やかに続けておく。
「でも、そういうものだよ。青根も受け入れなきゃな?」
「……。」
「二口と友達なんだろ?」
 青根は、頷かなかった。
 ただこのところは改善されていたのに、また荒れるようになった唇を血が出るほど強く噛み締めている。よほど二口には懐いていたらしいと、茂庭は感心した。いや、この青根を懐かせていたらしい二口に、いっそ感動した。
 だが親離れを促すには、少し早くて方法もまずかったようだ。そんなふうに青根たちのことを思っていると、反対側から深いため息が聞こえる。
「……なあ茂庭、オレも今の二口を受け入れなきゃなんねえのか」
 それには茂庭もため息をついた。
「鎌ちは元々二口と仲良くなかったんだし、それ以前の問題じゃない?」
「え。……えっ、オレあいつに嫌われてんの!?」
「嫌われてるというか……凄く面倒くさい先輩だとは思ってると思うけど……。」
 どうやら全く自覚がなかったらしい鎌先は、素でショックを受けている。そういうところが面倒くさいのだと言いたくなるが、同級生のよしみとしてぐっと堪えておく。
 ともあれ、今はチームの中核となるべき二人が、微妙な状態にある方がキャプテンとしては気にかかる。いくら部活では普通とはいえ、やはり問題だ。簡単に言えば、士気に関わる。
「ま、まあ、なんにせよっ、二人は早く仲直りするといいな!!」
「……。」
「鎌ちの言うとおりだよねえ……。」
「青根が怖いしな……。」
「青根が不気味だし……。」
「青根が不憫にもなってきますし……。」
「あと二口がうざい」
 他の部員たちもため息をつく中で、堂々と早く彼女にふられればといいのにと公言するから、鎌先は二口に面倒くさがられるのだろう。今度は我慢できずに指摘してしまい、また頭を抱えられて茂庭も困った。




 自分が帰った後の部室でそんな話をされているとは思いもしない二口は、それから二日後の土曜日、朝から自主練習に出た。先週は休んだので、今週は出ておきたい。その主張が通ったのには、別の要因もある。
「二口、なんか今日機嫌がいい?」
「分かります?」
 昨日の夜、やっと今の状態から抜け出せる兆しが見えたのだ。具体的な日付まで出たので、珍しく来ていたコーチへ練習終わりに早速報告に向かった。コーチは良かったなと言ってくれたし、二口もほっとする。気分も浮上して部室に戻ったときには、ほとんどの部員はもう着替えを済ませていた。
 鍵を預けられてしまう前に早く着替えようと、二口も自分のロッカーへと向かう。そして茂庭とそんな会話をしながら携帯電話を確認して、ふと思い出した。
「あ、そうだ。……茂庭さん、蘭花女子学園って知ってますか?」
「へ? あの、私立のお嬢様学校のこと?」
「そーそー、それっス」
 この辺りでは、そこそこ有名な女子校だ。突然の話題に面食らった茂庭だが、すぐに申し訳なさそうな顔をする。
「いや、名前しか知らないなあ……。」
「そっスか。なんか、来週の土日、文化祭らしいんですよ。どっちかだけでいいから予定開けろってうるさくて」
「……誰が?」
「え? だから、エミが」
 今日は休日なのでジャージのままで帰ってもさほど咎められないのだが、汗が気持ち悪いし、何よりだいぶ季節が進んでいるので汗が冷えて風邪を引きそうだ。一応下だけは制服に着替えて、上は私服も同然のシャツに手を通しながら、二口は嘆いてみせる。
「で、地図とか調べたんスけど、どうも駅からちょっと遠い上に……。」
「……凄い坂だぞ、あの学校」
「えっ、笹谷さん、マジすか!!」
 茂庭はどうやら情報がないようだが、意外なところから返事がきて二口は驚く。硬派を自認している鎌先より、ずっとその言葉に相応しいのが笹谷だ。青根の場合は、硬派を通り越して任侠の域にいる。
 ともかく、そう思っていた笹谷からの情報に二口は驚くが、当人は淡々としていた。
「あの学校、オレん家の最寄駅の裏側にあるんだよ。もう卒業したけど、近いからって姉貴も行ってたし。ただ、最初の頃はとにかく坂道がつらいって毎日愚痴ってた」
「へえ、やっぱそうなんスか……。」
 学校の概観写真や、地図の表記を見てそんな気はしていたのだが、やはり山の上にあるお嬢様学校らしい。一気に文化祭に行く気は失せるが、そもそもはそれと交換条件で今週は解放してもらったのだ。しかも、運が良ければ行かなくてよくなる可能性もある。あまり現実味がないままで、思わぬ情報提供者に二口は食いついた。
「どんな感じの学校なんスか」
「どんなって、そりゃあ……幼稚舎から短大まである、お嬢様学校。学費が高い」
「私立ですもんねえ。あ、でも制服は可愛いんでしょ?」
「みたいだな、オレにはよく分かんねえけど。高校から入った姉貴も半分は制服が着たかったって理由だったみたいだし、女の趣味は理解できん」
 憧れの対象であることは客観的な事実として認めるが、共感はできない。そんな態度に見える笹谷は、もしかすると単に家では姉の方が立場が上で辛抱強くなったのかもしれないと想像した。だがふと思い出す目をした笹谷は、珍しく笑いながら続ける。
「……けど、文化祭、か。そういや姉貴が蘭花の高校にいた頃、うるさいから行ったことがある」
「え、そうなんですかっ。意外っスね、どうでした?」
 何年か前だとしても、来週には行かざるを得なくなるかもしれないので実体験の情報が得られるなら欲しい。そう思ってきいた二口は、笹谷の笑みは虚勢だと知った。
「表向きは誰でも行っていいことになってるんだが、明らかにナンパ目的の集団とか、とにかく保護者世代じゃない男だけの場合は、校門前にいる教師が竹刀を持って追い返すんだよな」
「……。」
「オレはそれを見て、引き返せば良かったんだ。行くには行ったが教師に阻まれたと姉貴に言えばよかったのに、驚いたオレは、つい姉貴に電話してしまった」
「……それで?」
「心配した姉貴が、門まで迎えに来てくれた。で、また教師に誤解されちゃいけないからって、手を繋がれて、行く先々で弟だと紹介されて、面白がった姉貴の女友達たちに頭を撫でられて、中学生だったオレは心に深い傷を負った」
 どうやら相当、トラウマになったらしい。伊達工は男子校だと思っていたのにとぼやく笹谷は、確か茂庭と同じく唯一女子のいるA組だ。硬派なイメージは、そのときの影響らしい。もちろん文化祭の最中のことであるし、それこそ姉の同級生たちは可愛い可愛いとでも言いながら頭を撫でたのだろう。だが多感な時期である中学生男子には、いろいろと刺激的すぎた。性的な方に目覚めるか、逆に屈辱として刻まれて距離を置こうとしてしまうか。
 笹谷はどうやら後者だったらしい。だが同じ状況にあれば確実に前者になりそうな別の先輩が、突然項垂れる。
「……なんなんだっ、こないだから!! 二口に続いて、笹谷まで!! 同類だと思ってたのに!!」
「笹谷さん、鎌先さんから勝手に童貞友達にされてますよ」
「鎌先はむしろなんで伊達工に来たのか不思議だ」
 てっきり鎌先も推薦だと思っていたが、違うのかもしれない。一般組で今のレギュラーの座を確たるものにしたのであれば、相当な努力の賜物だろう。そこは素直に尊敬できるのに、他のところは呆れるほど面倒くさい。構うと火に油を注ぎそうだったので、二口は実にいい笑顔で笹谷に礼を言って話題を終わらせることにした。
「笹谷さん、貴重な情報、あざーすっ」
「まあほんとに行くんなら、あの坂は覚悟しとけよ。この時期だから雪はねえだろうけど、雨だったりしたら、相当つらい」
 そんなところを、女子生徒たちは毎日登っているらしい。密かに感心しつつ、二口は笑って返しておく。
「まあ、できれば行かなくてすむように説得してみますけど。でもオレ、エミにあんまり逆らえないんスよね」
「……気持ちは分かる。頑張れ」
「今日も、来週の件と引き換えでフリーにしてもらったはずなのに、メシに連れてけってやっぱメールが入ってるし。寂しいのは分かるんスけど、最近は我儘すぎるっていうか、まあ可愛いから仕方ないかって感じで諦めてるんですけど、でも……?」
 笹谷は少しだけ同志なのだと確信して、愚痴を言ったつもりだった。普段さほどおしゃべりではない笹谷がこんな話をしたのも、そんな意識が二口にあるからだろう。
 だが適当な言葉で苦笑してみせたとき、突然ロッカーがドンッと鳴った。
 強く閉めたのではない、既に閉まっているところを拳で殴った。てっきりまた鎌先が自慢かと見当違いに暴れているのかと思いかけたが、轟音をさせた犯人は怖いくらいに殺気立っている別人だ。
「青根……?」
「……。」
 体育館以外では、一週間ぶりに思わず名を呼んでしまう。それくらい、青根の様子は尋常ではなく、ロッカーを殴った状態で微動だにしない。
 顔が怖いと言われている青根だが、二口はあまり怯えたことはない。だがこのときは、本当に怖いと思った。既に着替えていた青根は、カバンをベンチへと置き、ロッカーを閉めた。そこでいきなり拳を叩きつけたようだ。金属製の扉は少し凹んでいるし、手も痛そうだ。それなのに、青根は注意がいかないらしく、じっと何かに耐えるように荒い息を繰り返している。
 怒っている。
 それだけは、二口にも分かった。だが原因も、その発露の仕方も、何もかもが分からなくて混乱する。不可解な青根が、本当に、こわい。
「……青根、怪我しなかった?」
「……!?」
 誰もが困惑して見つめるしかない中、震える声を抑えて穏やかに尋ねたのは茂庭だ。
 それに青根はようやくハッと気がつき、自分の右手を見ている。ロッカーから離して握ったり開いたりした後、茂庭へと向き直って何度も頷いた。
「そっか、それならいいんだけどさ、でも……青根!?」
「……。」
 だがもう一度深く頭を下げて、青根はいきなり走り出した。呆気に取られて誰も止められないまま、バタンと部室のドアが閉められ、あっという間に青根は出て行ってしまう。ちなみにベンチに置いた荷物もそのままだ。
 青根が部室からいなくなってからも、しばらくは嫌な沈黙が占める。だがやがて深くため息をついてみせたのは、先ほどまで頭を抱えていた鎌先だった。
「……今のは、どう考えても二口が悪いだろ」
「へ? ……なんでですか?」
「なんで、て、お前……。」
 鎌先に呆れられると、何故だが悔しい。そもそも二口は青根と話していないし、笹谷に蘭花女子学園の情報をきいていただけだ。それでどうして青根があんな反応をするのか、そもそも本当に自分の会話の所為で青根はああいう行動を起こしたのか。さっぱり理解できずに首を傾げるが、鎌先以外の部員も皆呆れたように見てくるので、どうやら犯人にされそうだという雰囲気だけは察した。
「いや、だって、オレはただ笹谷さんに……?」
「そうじゃなくて、惚気すぎなんだよ。お前の所為で他校の女子はふることになったようなものなのに、お前はちゃっかり彼女作ってたら、そりゃあ青根だってキレるだろ」
 だが解説してくれた鎌先には、『それは違うと思う』という視線が集まっていた。どうやら鎌先だけは推理が他とはずれているようだ。
 そこには安堵したものの、今話しているのは鎌先なので、二口も間違いは訂正しておく。
「青根にコクってきた他校の子がふられたのはオレの所為じゃないと思いますけど、それとは別に、オレ彼女とかいませんけど?」
「嘘つくな!!」
「そんな嘘つきませんよ、鎌先さんじゃあるまいし」
「オレもつかねえよっ、虚しくなるだけだからな!!」
 どうして自分に彼女がいるという話になっているのだろうか。不思議すぎて首を傾げるが、今度は他の部員たちも疑わしげに見るのは二口だ。どうやらこの点は鎌先の弁が採用されているらしい。だが本当に理由が分からなくて困惑している二口は、よくよく見れば一人だけ同じように怪訝そうな部員を見つけた。
「……笹谷さんは、信じてくれるんですか」
「信じるも何も、いくら二口の趣味が悪いといっても、小学生に手を出すとは思えないし」
「は?」
「先週一緒にいたエミちゃんての、妹なんだろ?」
「そうっスよ?」
「……マジで妹!?」
 だがいきなりまた絶叫した鎌先と、声こそ出さないが勝手な動揺を広げる部員たちに、二口はようやく理解できた気がした。
 確かに、先週の日曜日、笹谷から目撃情報を出された。彼女なのかと鎌先が詰め寄るので、妹だと答えておいた。そこで誤解はきちんと修正されたと思い込んでいたが、鎌先を始めとして、実際にエミを見た笹谷以外は照れ隠しの否定とでも思われていたらしい。
「だから、妹ですって」
 呆れながら念を押せば、鎌先はやたら焦っている。
「い、いや、でも、だって……いや妹はほんとにいてっ、彼女もいるってことか!?」
「それが事実だったら、実の妹と同じ名前の子と付き合うって、結構微妙じゃないスか」
「贅沢言うなっ、オレなら母親と同じ名前だって付き合える!! ……いや、それはどうかな。いやそうじゃなくてっ、誤魔化すな、じゃあなんで妹がメシ連れてけとかそんなにメールしてくんだよ!?」
 誤魔化したつもりは更々なかったが、勝手により困難な状況を想像して苦しみだした鎌先から尋ねられ、二口はまた首を傾げそうになった。視線を向けたのは、笹谷ではなく茂庭だ。てっきり二年生のレギュラー陣くらいには、茂庭から話が伝わっていると思っていた。
「……ああ、オレは言ってないよ? 家庭の事情だし、個人的なことかなあって思って」
「別に言ってくれてよかったんスけど……?」
 どうやら気遣われていたようだが、部活に多少でも影響が出ることなので二口として言ってもらって構わなかった。だが茂庭は本当に微塵も話していなかったようで、鎌先が追及する強さは同じままに矛先を変える。
「家庭の事情ってなんだよ!?」
「えっと、二口のお母さんがいないから」
「……!?」
 だから、食事を作る人がいない。父親は仕事が長引いたり、早く帰れたりとまちまちなので、小学校から帰って一人で待つことになる妹は、寂しくなるとメールをしてくるのだ。
 一言で説明した茂庭に、鎌先は二口には不思議なくらい意気消沈していきなり謝ってきた。
「そ、そうだったのか……いや、二口、すまん、オレはそんなつもりじゃ……。」
「今時父子家庭も珍しくはないと思いますけど、そうじゃなくて、オレの兄貴が入院してるから」
「……は?」
「遠くで就職したお兄さんなんだって。で、入院しちゃったから、お母さんが面倒見に行ってて、今は自宅にいないから食事作る人がいないんだってさ」
「……二口っ、まぎらわしいこと言うんじゃねえええ!!」
 本当にまぎらわしいことを言ったのは茂庭のような気もするが、興奮している鎌先に反論すると面倒くさそうだったので、二口は流しておいた。
 ともかく、そんな事情で二口はできるだけ家に居るように求められている。食事に関しては妹が頑張ると言ったが、誰も見てやれない状態で包丁や火を使わせるのは心配だったので、長い期間ではないのだからと止めさせた。そのため、外食やコンビニ、出前などになっているが、まだ十日ほどなので耐えられているようだ。ついでに来週には兄も退院して、母親が戻ってこれそうだと昨日連絡があり、それを二口はコーチに報告してきたばかりである。
「じゃあ蘭花女子の文化祭ってのは!?」
「エミはまだ五年生なんスけど、中学を受験したがってて。で、文化祭で学校を見てみたいからついてきてって頼まれてるだけです」
「それだけのことかよっ、びびらせんな!!」
 どうやら、鎌先の中では『エミちゃん』が蘭花女学園に通う同年代の恋人ということになっていたらしい。
 そんなに紛らわしい話し方だっただろうかと思い返してみても、二口はずっと妹のこととして話していたつもりなのでよく分からない。ただ、やっとエミが妹だと他の部員たちも納得してくれたようで、安堵の息をついている。それがまた不可解だったとき、パンパンと茂庭が手を叩いた。
「はいはい、じゃあ真実が判明したところで、今日は帰ることにしようっ」
「キャプテンがオレの事情言っといてくれたら、誤解もなかった気がするんスけど……。」
「結論として、二口が悪い」
「……へ?」
「だから、ちゃんと青根に謝って説明してきてね」
「はああ!?」
 爽やかに宣言した茂庭は、青根が忘れていった荷物を押し付けてくる。反射的に受け取ってしまったが、二口は納得できない。どうして自分が謝らなければならないのか、仮に鎌先たちと同じ誤解をしていたとしても青根の責任だ。そもそも、エミを妹ではなく彼女だと思っていたとしても、ロッカーを殴って逃走する理由にはならない。
 自分には関係ないと主張するが、茂庭以外の部員からも肩を叩かれた。
「ちゃんと妹だって言ってやれよ、二口。オレたちのクラスに名字が『江見』って男がいるんだけど、そいつが呼ばれるたびに、青根が反射的に睨んで震え上がらせてたし」
「知らねえよっ、それオレに関係ないだろ小原!?」
「オレも自信がなくて妹だとは言い切れなかったから、説明は頼んだぞ」
「いや妹でしょっ、見て小学生って分かったんなら自信は持てたでしょ、笹谷さん!?」
 よく考えればあのとき笹谷が妹だと後押ししてくれていればと逆恨みしそうになるが、本当の元凶は別だ。
「とにかく青根に謝ってこい、お前にだけ彼女がいてずるいって拗ねてるはずだから」
「……それだけは絶対にない気がしてますけど」
「そんで、これが解決したらオレを『面倒くさい』から『面倒見がいい』先輩に昇格させろ」
「無理っス」
「即答か!!」
 相変わらず一人別の観点で暴れる鎌先は、頼もしいキャプテンが引き摺って行ってくれる。だがすっかり部室を閉める気なのは本当のようなので、二口もそこは諦めて二人分の荷物を担いで部室から出た。そして外から鍵を掛けている茂庭に、恨みがましく言っておいた。
「……でも説明しようにも、無茶じゃないスかね。あいつまだケータイ持ってないし、どこ行ったのか分かんないし」
 家にまで帰っていれば、さすがに場所を知らないので追いかけられそうにない。荷物を持っていないことに気がついて部室に戻ってくるというのが一番遭遇できそうだが、こうして閉め出された状態で待つのは寒くてうんざりする。平日の練習より上がるのは早いが、もう日は暮れかけており、秋の気配も深まってだいぶ気温が低い。完全に日が落ちればますます寒いのだろうとため息をつく二口に、茂庭はなんでもないように返した。
「探しに行ってあげればいいじゃない」
「……いや、だから、ケータイないから」
「なくても、青根が考えることなら二口が一番分かってるだろ? 今こそ名通訳の本領を発揮しなよ、オレたちはきっと仲直りできるって期待してる」
「……。」
 じゃあ頑張れと、適当な笑顔と励ましで、茂庭たちは帰って行った。
 それを仕方なく見送ってから、深いため息をついて二口は部室の前でしゃがみこむ。
 久しぶりのあだ名は、思った以上にダメージを受けた。何もしゃべらなくとも、雰囲気と仕草、何より目で考えていることが分かって時期など、二口の中ではとっくに遠い過去だ。
「……オレにはもう無理っスよ」
 青根の考えていることなど、何も分からない。
 ただ、無理矢理渡された青根のカバンに、いまだにリップクリームと制汗剤が突っ込まれているのが見えて、分かりたいとは思った。








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