死に至る病。
『スキャンダル。』収録1本目 - 01.
| 00 僕が死んだ日。 |
その日は、朝からついていなかったことを覚えている。 毎度の如く暴れる父親に、いつしか自分は殴られても体が吹っ飛ぶほどの子供でも なくなっていた。 「うっ、あ‥‥!!」 抵抗など、ましてや反撃などするつもりはなかったのだ。だが思わず振り払った腕 が父親を突き飛ばすかたちになり、そんな自分の行動に驚いているうちに父親からは 拳ではなく椅子で殴られていた。 ゴッ、と鈍い音がしたその衝撃に、思わず自らの額に手をやればぬめりとした赤い 液体が妙に温かく感じられていた。普段素手で殴ることの方が多かったので、珍しく 無機質な椅子という物質で殴られても、流れる血はやっぱり生ぬるいんだなと思って いるうちに更にその椅子は自らの腹部へとめり込まされていて、今度こそそれまでと 同じように自分の体は軽く吹っ飛んで壁にぶつかっていた。 「うあ、ああ‥‥!!」 思えば、そんなことがそもそもの原因だったように思うのだ。 母親と離婚してからますますひどくなった父からの暴力は、いつものことと言えば いつものことだった。もう堪えることで慣れてしまおうとまで考えていたのに、思った より縮まっていた体格差に、自分も、そして父も、戸惑ったのだろう。 いつもよりは少し大きな痛みで、いつもよりはひどく強く唇を噛み締めて、自分は ふらつく足で自宅である安アパートから逃げるように出ていった。 「うっ、ぐ‥‥!?」 家庭環境のみを逃げの口実にするつもりはないが、自分は中学に入ってからそれと なく悪い連中と称される者たちと付き合うようになり、いわゆる不良というグループに 色分けされる人間になっていた。 特に親しい者がいたからとか、つっぱるのが楽しかったとかいうわけでもない。 それでも敢えて理由を挙げるならば、一つはケンカをする相手に困らなかったという ことと、他のどこよりも居心地が悪くはなかったというだけだった。一応つるんでいる 連中には、ヤクだのなんだのと犯罪に手を染める者もいたが、自分はそんな金の かかることに興味はなかった。金がかかることのために、非合法で金を手に入れたい とも思わなかった。 中学三年生という健康男子で、更に不良と言われる立ち振る舞いでありながら むしろ奇特だったのかもしれないが、このときの自分は煙草も酒も女も金も、興味が なかった。ただ、ケンカがしたかったのである。 「ぐ、あ‥‥ああっ‥‥!?」 だから、あまりグループでつるむということも、本当は興味がなかった。ケンカの 相手をより多く得たいとするならば、いっそ一匹狼などというスタイルでもよかった のかもしれない。だが心のどこかで、味方ではなくとも敵ではない存在が欲しかった、 というのも真実で、そんな思いも自分の甘さである気がしてひどく嫌だったが、 その情けなささえ自分などには似合っていると自嘲的に考えていたことも事実だった。 「あ、がぁっ‥‥!?」 いろいろと理由をつけても、結局はただ、自分はケンカがしたかったのである。だから 今日もふらりと制服のまま足を向けた先は学校などではなく同じような人種の集まる ゲームセンターで、父親に椅子で殴られた額の傷からの出血が止まっているかも 確認しないままでそこに赴いたのだ。 外は家を出たときから雲行きが怪しく、ゲームセンターに着く頃には小雨がぱらつき 始めていた。昼間だというのにひどく薄ら暗いその場所に、平日からたまっている奴に まともな人間はいない。一歩足を踏み入れただけで元々目つきの悪い自分は見慣 れない男たちに顎をしゃくるようにして、裏の路地へと誘われていた。 「くっ、そぅ‥‥!!」 はっきり言って、相手は三人であったのに相手にもならないほど弱かった。そのこ とがむしろ腹立たしく、あまりに手応えのない相手に自分も少しいらついていたこと は認めるし、少し殴りすぎた自覚もある。だが、 「卑怯だぜっ、光りモンは反則だろ‥‥!!」 空が曇ってもう雨が降っていたので実際抜かれたナイフの刃が光ることはなかった が、そうにしてもいきなり腹部に突き刺すというのは卑怯だ、と本当はそうも思って いないことを自分は血反吐と一緒に口から吐き出していた。 「うっ、ガハッ‥‥!!」 刺した当の本人は、手にしたナイフが骨をかすめるようにして肉をえぐった感触 に、刺された自分以上に驚いた顔をしていた。きっと、今まで人を刺したことも、こ れから刺す予定もなかったのだろう。あまりといえばあまりに簡単に自分の腹にナイ フを突き立ててくれた相手に、自分は思わず、これでテメーの人生も終わりだよ?、 と皮肉を言ってやろうと思ったが、さすがに殴られるのとはわけの違う激痛に言葉は 血に濡れて音にはならなかった。 「ガハッ、う、がぁ‥‥!!」 自分の腹に刺さったままのナイフを、刺した当人が慌てて引き抜き、そして悲鳴を あげて投げ飛ばしていた。悲鳴を上げたいのはむしろ刺された自分だと思ったものの、 激痛と微妙に喉に絡まっていた血の所為で再び言葉はうめき声にしかならず、次第に 強くなってきていた雨の音に消されていた。 「うっ、あ、あぁ‥‥!!」 そして刺された腹を押さえてうずくまった自分をしばらく呆然と眺めていた男たち は、そのまま蜘蛛の子を散らすようにして走り去っていた。 少し奥まった路地裏で、昼間にはあまり人通りもない場所である。顔を打つ雨より もリアルに液体の流れを感じるのは傷口を押さえた手の方で、既に制服は肘の辺りま で両腕とも真っ赤に染まっていた。 「ああ、あぁ、なんで‥‥。」 少し、父親のことで混乱していたことは認めよう。 全く見たこともない相手に、ケンカを売ったことも認めよう。 だがそれがここまでの結果を招くほどの自分の失態だっただろうかと、次第に感覚 のなくなっていく体でぼんやりと考えていた。 「‥‥。」 雨で濡れて寒いはずなのに、変な熱さを感じる体は、その実本当に熱を持っている のは流れ続ける血液だけのような気もして、どこか安心している自分がまた分からな くなる。 どうしてこんなことになったのか、と問われれば、まさに自業自得というやつだろ う。自らが招いたことだと諦めようとするが、そんなにも自分が悪かったのかと往生 際悪く考えてもしまう。しょうがないと自嘲したい自分と、なんて可哀想なんだと不 幸ヅラしたい自分とのどちらもがひどく不愉快で、ぐるぐると思考がそろそろ濁りか けていたときに、ガッと膝が崩れ落ちた自分に正面から思いきり泥水が引っ掛けられ ていた。 「うあっ‥‥!?」 感覚が鈍っていたのであまり気がつかなかったが、どうやら近くをかなりのスピー ドで車が通ったらしい。そのタイヤが跳ねた雨水を盛大にぶっかけられて頭に血が上 るが、さすがにこの状態では文句の一つも怒鳴ってやることはできなかった。 「あ、あぁ、情けねえなあ‥‥!!」 近くの汚い公園の土をかぶってアスファルトにたまる雨水は泥水と化してしまって おり、そんな場所で自分は膝で立つような格好のまま腹を押さえるだけだった。 このまま意識が落ちたとして、次に意識が持ちあがるときはくるのだろうかと呆然 と考えてしまう。もしかすると、このまま自分は崩れてしまうのかもしれない。 「チクショウ、いきなりすぎるぜ‥‥!!」 腹から流れ落ちた鮮血は、地面に落ちると泥水に混じってすぐに汚い色に変色して いた。そんな様を見ながら、ああ、自分はやはりこんな血の色が似合ってるんだろう なあ、とよく分からないことを考えていたときに、ふと、自らの前に立つ人物の存在 に気がついていた。 「‥‥?」 「‥‥貴様、なにをしている?」 「あ‥‥?」 薄ら暗いことに加えて視界が落ちかけていたので、自分にはその人物がよくは見え なかった。だが腹を抱えてうずくまる状態でなんとか視界に入った相手の膝から靴に かけてを見ると、どうやら身なりのいい人物らしい。 「貴様、なにをしているときいてるんだ」 「あ、うん‥‥?」 なんとなく、さっき自分に水を引っ掛けた車の主なのだろうな、と漠然と分かって いた。車もチラリと視界の隅で捕らえただけだであるし、ましてやこの人物がその車 から降りてくるところなど見てはいない。だがそうであっても、この人物はあの車の 主で、ひどく身なりが良さそうなことから金持ちではないだろうかと見当をつけてい た。 「どうした、答えられんのか?」 「あ、う‥‥。」 思いの他若い声に、自分の中でふっとつるんでいた連中の言葉が思い出されてい た。 相手が金を持っていそうだったら、こっちが怪我したのなんだのと言って絡めばい いと。ちょっと脅せば金持ちなど、なんでも金で解決したがる人種なのだからすぐに 巻き上げられると。 「おい‥‥。」 「‥‥。」 別段このときも金が欲しかったわけでもないし、そういったことをこんなときにわ ざわざ試してみたいという気もなかった。だが、金持ちというものは元来気紛れなも のである。ほんの少しこんな偶然が面白くなった自分は、うずくまったままでゆっく りと顔を上げていた。 「なあ‥‥。」 「‥‥。」 「なあ、アンタさあ、人間‥‥?」 思ったより強くなっていた雨が目に入って、元々ぼんやりとしていた視界は更にぼ やけて歪んでしまい、相手の顔はいまいちよく見えなかった。だがそんなことを口に した自分に、相手が怪訝そうにしている雰囲気だけはなんとなく伝わっていた。 「‥‥まだ、貴様のお迎えではないぞ」 「ああ、そっか、生きてるし、まだ‥‥え、だから、アンタさ‥‥?」 「‥‥人間だ、一応」 しかも、次第に肩を震わせるようにして笑い始めた自分は、相手からすればさぞか し不気味だっただろうと思うのだ。だがこのとき笑っている自覚はあったものの、ど うして自分が笑っているのかは分からなかったので、体を揺するように笑えば傷がひ どく痛むことも分かっていながら自分は相手を見上げながら笑っていた。 「人間てさあ、平等?。こう、助け合いとか、優しい生き物‥‥?」 「‥‥なにを言ってる、貴様」 そんなことを不機嫌そうに返されても、自分でさえなにを尋ねているのか分からな いので、自分に返答のしようもなかった。だがぼんやりと虚ろな目で見上げている と、少し黙った後耳を打つ雨音でもしっかりと低く響く相手の声が、そんな言葉に律 儀に返してくれていた。 「‥‥平等、そんな概念はただの理想、しかも弱者の盲信だ。生まれつき万人が平等 なワケがないだろう、そうでないから這いあがることにどいつもこいつも血眼になる んだ」 「‥‥。」 「まあ、平等なのだから自分も人並みの生活ができるはず、と自己欺瞞の目標に据え るのは勝手だがな。少なくとも俺はそんなことは信じやしない、俺が今在るのは神が 約束し給うた平等の結果などではない。俺の、力だ」 なんだか、やはり金持ちはどこか変わった奴が多いんだな、と自分は状況も忘れて 聞き入ってしまっていた。言い回しが自分には難しいのかそもそも耳も思考もだいぶ 緩慢になってきているからか、言っている内容はほとんど分からなかったが、要する に平等でなどあるはずない、と相手は言ったらしい。 そうすると、やはり自分がここで不幸にも死んでしまったとしても、そんな奴もい るさ程度のことなのだろう。 「そっかあ、そうだよなあ‥‥。」 「‥‥ついでに、助け合いだのなんだのというのは、反吐が出るな。人間社会など弱 肉強食だろう、無償で他人に構っていてどうする」 取り敢えず、この人物が、いわゆる世間一般のおキレイな『常識人』ではないこと は、自分にもぼんやりと分かっていた。自分は実に運がいい、と思いながら、もう本 当に意識がなくなってしまいそうな激痛のなかで、急速に体が冷えていくのを感じな がら自分は笑ってもう一度相手をしっかりとこの目で見てやろうとしていた。 「あ、そう、じゃあ‥‥なあ、なあアンタ、俺のこと、助けてくれよ‥‥?」 だがどんなに目蓋を押し上げても相手の顔がよく見えないのは、既に視界が閉ざさ れ始めているからで、あるいは目に水が入っているからだとしても、それは雨水だけ であると自分に言い聞かせながらそんなことを口にすれば、 「‥‥なにを聞いていた、貴様」 案の定、相手からは怪訝そうに返されてしまっていた。たった今助け合いなど偽善 だと切り捨てたのになにを言ってるんだという態度が前面に出ている相手に、自分は もう笑いながら腹を押さえていた片腕を外し、相手の方へと伸ばす。 「なあ、アンタ、俺のこと見返りなく、お優しい気持ちで、可哀想に思って助けてく れよ‥‥。」 「‥‥。」 「人間まだまだ捨てたモンじゃねえなあ、て、一回くらい、言ってみてえじゃん‥‥!!」 言いながら笑い声が大きくなり、声に嗚咽が混じり始めていることもばれなければ いいと自分はぼんやりと思ってしまう。 もしここでこの相手が助けてくれたからといって、本当はなにも変わらないことは 分かっていた。こんな憂鬱な毎日も、億劫な環境も、自分と未来に一番失望している 境遇もなにひとつ変わりはしない。 それでも、たったひとつ、希望というものは持っていた。 人間はみんな平等で、誰もが幸福になれると神様だか誰だかが約束してくれている とするならば、 「なあ、なあ、俺のこと憐れんで助けてくれよ‥‥!!」 ある日突然、すべてが変わるかもしれない。 父親は以前のような優しい父に戻り、母も妹もまた一緒に楽しく暮らすことになる かもしれない。 「なあ、いいじゃん、カンペキな善意だけでできる人助けなんて、そうザラにない ぜ‥‥!?」 生活に困らない程度のお金を父が稼いでくれて、ちゃんと学校に通って。 そして普通の中学生のように、勉強や、異性や、友情なんかで悩んで青春とかいう ものを送れるかもしれない。 「金持ちなんだろう、つまんねえ生活してんだろう?。いいじゃんかようっ、たまに は人のために金使ってみろよう‥‥!!」 「‥‥。」 「どうせ腐るほど持ってんだろうが、俺助けるのに使ったって、どうでもいいじゃね えか‥‥!!」 そんな、魔法でもかけない限り起こりえないような劇的な『幸せ』を夢見ること が、自分にとっての唯一の希望だったのだ。 別段、この相手がそれを叶えてくれるとは思っていない。 だが、このときこのちょっと変わった男で、賭けをしてみたくなったのだ。 「いいだろう、俺を助けてみろよ‥‥!!」 もし、あんな平等だの助け合いだのといったものを完全否定しているこの男が自分 を助けてくれたならば、なんとなく、まだ夢を見ていい気がしていた。 「俺を、助けてくれよ‥‥!!」 ある日突然すべてが救われるような、そんな実現可能性の低すぎる希望を持ってい てもいい気がしていた。だからこそこの男に助けてもらうことが、そんな『まぐれ』 のような奇跡の可能性を信じ続けられる要素になると思い、すがっているはずなの に、どうして自分は男の腕さえつかめないのだろう。 血塗られた手は宙をさまよったままで、雨に打たれて次第に鮮血を削がれていく。 笑っているはずの喉は既に嗚咽を隠しようもなく、雨とは明らかに温度の違う水が 瞳から溢れて自分の頬を伝っている。 「なあ、俺を‥‥!!」 浅ましくすがることも、プライドなくたかることも、もうどうでもいいほどに自分に 失望しているはずなのに、どうしてだか涙が止まらないのだ。だがそうして伸ばし ていた手をすり抜けるようにして、男は一歩こちらへと足を進めてきていた。 「え‥‥?」 「‥‥どうしてだ?」 「え、あ‥‥?」 伸ばした手で服がつかめるほどの距離に立ったその男は、左手をそっと頬に添える ようにしてきてからそうぽつりと尋ねていた。男がそう尋ねてくることも、そして自 分などの頬に触れてくることもひどく意外で驚いてしまった自分に、男は重ねて尋ね ていた。 「‥‥救いが欲しいのか?」 「あ、あぁ‥‥!?」 ここで頷けば、本当に助けてくれるのだろうかと一瞬思ってしまった。だが思わず 弾かれたように自分が絶叫してしまったのは、もう一度両腕で腹を押さえざるをえな いほどの激痛からだった。 「痛いっ、痛いんだよっ、痛いんだ、痛い‥‥!!」 「‥‥。」 「痛い、痛い、痛い、痛い‥‥!!」 最後の方は、もう悲鳴に近く明確な単語にはなっていなかったように思う。それほ どまでの激痛とようやく向かい合った自分は、叫ぶだけ叫ぶと必死で男を見上げてい た。 「痛い、痛いんだ、頼む‥‥!!」 「‥‥。」 「も、ダメなんだ、分かるんだ、痛いんだよ‥‥!!」 雨と涙と失血でほとんど確認できない男の顔は、今にして思えばひどく呆れていた か、蔑んでいたか、見下していたのだろう。 だが、このときの自分はそうは思わなかった。男はきっと、憐れみと慈愛に満ちた 表情で、自分の頬に手を添えて見下ろしているのだろうと思っていたのだ。 「‥‥そんなに、痛いのか。まあその出血だ、そうだろうな」 「なあ、俺、もういいから、だから、だから‥‥!!」 本当は、このとき本当に助けてもらいたかったのか、自分は今でも分からない。 純粋に痛みから助けてもらって、勝手に賭けた夢見がちな希望を持ち続けたかった のか。 それとも、こうまで他人に無力さをさらすことで違った生き方を模索していたの か。 「俺、俺、本当はもう‥‥!!」 それとも‥‥。 「俺を‥‥!!」 「‥‥楽にしてやる」 男がそう低く言って右手で胸元から抜いた拳銃を、自分はどこかほっとしたように 見つめたとは思いたくない。だがゆっくりとした動作でピタリと額にその銃口が押し 当てられたとき、自分はさすがに恐怖から体が仰け反ってしまっていた。 「う、あ‥‥!?」 「‥‥どうした、一瞬で楽になれるぞ?」 そう言った男の声に笑いが混じっていることからも、その言葉は本気だったのだろ う。だがもう自分は上体がバランスを崩しており、膝をつくような格好からそのまま 道路に後ろ向きに倒れてしまっていた。 「いっ‥‥!!」 倒れる際に伸ばすかたちになった腹がまた裂けた気がして激痛が走ったが、ドサリ と固いアスファルトの上に仰向けになってみれば、曖昧な空からは大量に雨が降り注 いできていた。 「‥‥。」 そして、そのまま視界を閉じれば、なにも聞こえなくなっていた。 このまま意識を失えばきっと死ぬのだろうなと思いながらも、思わず呟いてしまう。 「‥‥嘘つき」 こんなときは確か、楽しい思い出が早送りになって見えるのだと誰かが言ってい た。 だが思い出すのは今朝父親に椅子で殴られたことと、さっき自分を刺した相手がそ のナイフを投げ捨てたことぐらいである。 「‥‥。」 それでも、それもしょうがないかとどこかで囁く自分もいる気がしていた。 こんなときに思い出せるほどの楽しい思い出とやらが、そもそも自分にはない人生 だったということなのだろう。 「‥‥。」 ああ、雨が冷たい‥‥。 「‥‥。」 ああ、体が冷たい‥‥。 「‥‥。」 それでも、こんなときでも、自分で押さえた腹の傷口からねっとりとまとわりつく 血液だけは、変に生温かいのだなと最後に考えていた。 |