■年下彼氏







 三月にしては、やたら暑い日だった。
「くそっ、あっちぃなー……。」
 先週までは最低気温が氷点下だったというのに、この差は何なのか。三寒四温で春に向かうと朝の天気予報では言っていたが、そうにしても暑すぎだろう。長袖上下のジャージに身を包んだまま外周に出た二口は、学校裏手の路地から更に進んだ先で汗だくになりながらそうぼやいた。
 三学期は短いので、伊達工業では定期テストが一度しかない。期末テストと呼ぶにはまだ早い二月末にその試験があり、今はやっと終わって部活も通常に戻ったところだ。ただでさえテスト中は部活禁止なので久しぶりの練習は堪えるし、それに加えてこの気温差だ。鍛えているので体力には自信があったつもりだが、やけに疲労した。だれていれば当然叱責され、休憩前の外周を一人だけ倍に追加される。
「誰が真面目に走るかっての……。」
 そう深くため息をつけば、このまま座りこんだアスファルトに同化していきそうだった。
 そもそも、今日はテスト後で久しぶりだということと、この気温を考慮して比較的軽めに練習は組まれていた。一時間半ほどの全体練習後、少し長めの休憩が挟まれているのはそのためだ。二口以外の部員は学校の外回りを一周してから、それぞれ体育館に戻り、休憩する。だが二口は外周に行く前から既に息が上がり、座り込みそうだった。
『おいっ、そこ、二口!! しゃんとしろ!!』
『うぃーっス……。』
 程度の差はあっても、ほとんどの部員はいつもより疲労が早い。その中で変わらず暑苦しい二年生から怒鳴られ、仕方なく腰を上げる。二口も、外周に行かないつもりではなかった。他のチームメイトたちからは遅れるだろうが、なんとか一周回って、休憩はしたい。ただ、その休憩をするにも少し時間がかかることを思えばまたため息が出て、屋外用のランニングシューズに履き替えていれば背中を叩かれる。
『そんな態度でどうする!! お前だってもう先輩になるんだぞ、いつまでも後輩のつもりでいるな』
『……んなこと言っても、オレ、まだ一年ですもん』
 少なくとも、あと一ヶ月は一番下の学年だ。既に三年生は引退して久しいので、今の部活を仕切っているのは二年生だ。キャプテンの茂庭は基本的に優しいが、やたら絡んでくるのは鎌先である。よく言えば真面目で、正確には単細胞の熱血漢なので、調子が軽い自分は目をつけられていると二口は思っている。
 そんなに目障りならば、無視すればいいのに。
 二口の練習態度は褒められたものではないかもしれないが、誰かを巻き込むことはない。一人だけ集中力を欠いているようなことが多い。視界に入れればイラつくだろうが、そのことで技術的な鍛錬に繋がらず不利益を被るのは二口自身だ。その意味では、周りに迷惑をかけていない。駄目な部員は放っておけばいいのにと心底思っていれば、また横で鎌先に呆れられる。
『一年だろうが、もう後輩ができるんだよ。いいから、さっさと外周行って来い』
『は? なんで一年生なのに後輩が……?』
『あと二口だけ二周な』
『なっ、横暴だ!! ひどい!!』
 しかも、どうやら二年生、特に鎌先を含むスタメンかベンチ入りのメンバーは外周に行かないようだ。靴を履き変えて立ち上がったところでさらりと告げられ、力いっぱい抗議するといきなりジャージのポケットに手を突っ込まれた。
『ギャー!?』
『いいから、さっさと走って来い。いくらテスト明けだからって、マジで気い緩ませてんじゃねえぞ』
『……うーっス』
 何事かと焦ったが、鎌先はさっさと手を抜いた。ジャージのポケットの中では、小銭がぶつかるような音がする。
 どうやら、久しぶりの練習で飲み物を忘れたことに気がつかれていたようだ。伊達工業のバレーボール部は、大きすぎて日々の練習ではマネージャーが飲み物を用意することはない。完全に個人の準備となっている。もちろんたまに忘れる者はいるし、水呑場で賄ったり、申し出れば途中に買いに行くこともできる。
 だが、二口はそのどちらもしなかった。まだ練習も半分なのに既に疲労して水呑場に向かうことすら億劫だったのと、忘れたことを言えば常々怒られている部活への態度をまた叱責されると知っていたからだ。だからこそ、外周を頑張ってもそこから水呑場に向かったり、飲み物を買うために部室に置いたカバンから財布を出しに行かなければならない。気が重いと思っていれば更に外周を追加されて唖然としたところで、こうして小銭を渡されても二口は素直に礼など言うことはできない。
 そもそも、本当に鎌先が気がついていたのかも怪しい。いろいろなことに鈍感な先輩なのだ。ただ、それでも人一倍後輩への面倒見は良く、それがまた鬱陶しかったはずなのに、二口はポケットに手を突っ込んで学校の外へと向かった。
「……先輩、か」
 外周が終わった者から休憩なので、他のチームメイトたちはとっくに走り出しており、その背中もほとんど見えなかった。伊達工業は学校の規模こそさほど大きくないが、部活に力を入れているのでグラウンドはやたら広く、また工業高校なので実習用の施設など普通校にはない建物もある。更には繋がりがある工業大学とも提携した研究施設だか何だかまで最近作ったらしく、外周という意味ではどんどん拡張していくのが地味に迷惑だった。
 中途半端な時間なので、他の部活や、下校する生徒もほとんどいないまま、二口はゆっくりと歩き始めた。暑さと水分不足で少しふらふらする。ポケットの小銭を確認すれば三百円あり、自動販売機でも150ミリリットルのスポーツドリンクが二本は買える額だと気がついて、ほっとした。
 同時に、妙に気が重くなった。
 面倒くさい先輩代表の鎌先に借りを作ったことだけではない。こういうのが『先輩』だと言われると、靴を履き替えている間に言われたことがやけに重く圧し掛かってくる。
「……。」
 金銭的な意味ではなく、気遣いという方向で、自分は『先輩』になれるのだろうか。
 中学時代もバレー部だったが、部内をまとめるキャプテンも、後輩を主に指導する役割も、他のチームメイトに丸投げした。二口はエースという肩書きを免罪符にして、ひたすら自分の練習だけに打ち込む。弱小だったので、二口の出来がそのまま試合の勝敗に影響することは、誰もが分かっていた。
 だからこそ、後輩たちには嫌われてはいなかったと思う。だが、好かれてもいないし、コートの外で頼りにされることもない。調子は軽いので話しにくい先輩ではなかっただろうが、かといって決して慕われることがないのもまた事実だった。
 ちなみに、二口が下級生だった頃もそうだ。一人だけずば抜けて上手い後輩エースを、当時の先輩たちはみんな持ち上げてくれた。優しく、丁寧に、気遣いをもって接してくれる。暴力的なことは一切なく、何故かずっと君付けで呼ばれていた。同じ学年のチームメイトたちが、失敗をして小突かれたり、気合いを入れろと背中を叩かれたり、またミスをしても自分たちがカバーしてやると励まされたりしている中でも、二口はずっと一人でコートに立っていた。
 そんな状態だったので、伊達工業への進学を決めたとき、周りは感心すると同時に、初めて憐れんだだろう。
 さすがは二口だ、あんな強豪校に臆せず進むとは。
 特別扱いされない学校に進むなんて、本当に、バカだったんだな、と。
「……鎌先さんも、オレなんかほっとけばいいのに」
 弱小校に進んでいれば、中学のときほどではないにしろ、ただの一部員として扱われはしなかっただろう。自惚れでも謙遜でもなく、客観的にそう思う。だがそれでも、二口は強豪校に進んだ。どうせ埋没すると想像していたが、特別扱いされないからこそ、練習に引っ張り出され、吐くまで鍛えられ、苦しくて何度も膝をついたのに腕を引っ張られて脱落させてもらえない。そうしているうちに、三年生の引退前には部室組になっていた。世代交代してからは、スタメンに固定した。今の一年生で、部室組は小原もいるが、スタメンに確定しているのは二口だけだ。次のエースと当然目されている。
 それなのに、練習中に一番叱責されるのもまた二口なのだ。鎌先は真面目なので、他の一年生に示しがつかないと思っているのだろう。だが他の一年生にすれば、二口が勝手にサボり、勝手にだらけて、勝手に失速して自滅していく方がスタメンの座を狙うにはいいはずである。憎まれ役も先輩の仕事だと考えている節もある鎌先だが、完全に裏目に出ている。馬鹿な先輩だと呆れるのに、鎌先に叱責されるか、茂庭に優しく諭されるか、笹谷から無言で既定路線として練習に戻されると、二口はなかなか抵抗できない。
「……。」
 結局、今日も外周の途中で部活を抜けるという考えは浮かんでも実行できそうになかった。
 ちょうど学校の真裏に来たところで、二口は住宅外に入る路地へと進む。この辺りは大きな道路からも離れており、本当に人通りが少ない。狭い道を二本曲がった先に、おそらく地元の人しかあまり知らないクリーニング店があり、その入り口の横に自動販売機が設置されていた。
 記憶の通りに発見し、更にはいつも飲んでいるスポーツドリンクを見つける。鎌先にもらった小銭でちょうど二本を買ってから、二口は少し先のブロック塀に寄りかかるようにして腰を下ろした。自宅で水筒に入れてくるときは粉末を水で溶かしているので、少し味が違って感じる。だが今はとにかく喉が渇いており、あっという間に一本は飲み干してからため息をついた。
 休憩時間は長めに取られているし、二口は外周が倍にされたので、なかなか戻らなくても不審がられないだろう。もう一本も蓋を開けたが、飲もうかどうしようか迷う。今日は休憩後に少しミーティングをしてから、普段より短い全体練習もあるようなのだ。この気温を思うと、練習中に水分補給ができなければ今度こそ倒れてしまうかもしれない。いや、いっそ倒れた方が練習をサボれるだろう。だが鎌先や、特に茂庭が後輩の体調に気づかなかったと責められるのは可哀想だ。それならばいっそ、このままサボッてしまおうか。だが今この現状では練習に戻れないほどの疲労ではない。認めるのは癪だが、鎌先たちも、練習に戻ってくると信じているからこそ外周にも堂々と送り出してくれたはずなのだ。
「ああもう、どうすっかなあ……。」
 悩むほどのことではないのに、二口は路地に座りこんだままでまたため息をついた。塀の陰にはなっているが、やはり三月とは思えないアスファルトからの照り返しで、この辺りはやたら暑い。休憩するにしても、風通しのいい体育館に戻るかとため息をついたとき、ぬっと別の影が近づいてきたことに二口は気がつくのが遅れた。
「……え?」
「……。」
「なっ、なんだよ……!?」
 気配を感じ、ゆっくりと顔を上げると、知らない男が立っていた。
 見慣れない学生服を着込み、正面に立ったまま二口を無言で見下ろしてくる。その迫力にはやや驚いたが、同時に不思議にもなる。
 男が着ているのは、学ランだった。首元まできっちりと留められた詰襟には『V―2』というクラス章がついているので、三年生なのだろう。だがこの付近で、学ランの高校はほとんどない。電車で数駅離れればあったはずだが、そこに進学した中学時代の同級生と最近再開し、クラスの名称が伊達工業と同じくアルファベットだったことを珍しく思った記憶もあった。
 ともかく、どこの高校だかは別として、少なくとも二口はこの男とは知り合いではない。こんなに顔が怖くてでかい知り合いなどいない。何より、威圧感は凄いのに、何故かあまり怖くないのだ。怖いのはあくまで顔の造形に限っており、敵意や殺気というものは感じられなくて、二口はまた戸惑った。
「オレに何か用か……?」
「……。」
 もしかすると、二口が道で倒れているようにでも見えて、心配になったのだろうが。
 だがそうであれば、大丈夫かと声をかけてきても良さそうだ。あるいは、二口が顔を上げ、平気そうだと分かれば立ち去ってもいい。
 それなのに、顔だけが怖い男はじっと無言で見下ろしてくるばかりである。よく見れば、少し顔色が赤く、また汗ばんでいるようだ。この気温で、真っ黒な学ランをそれだけかっちり着込んでいれば暑くて当然だろう。だんだん相手の方が心配になってきたところで、微動だにしない仁王像のようだった男が、いきなりしゃがんみこんで胸倉をつかんできた。
「おわっ!? ……あ?」
「せん、ぱい……!!」
「……は?」
 やはり喧嘩を売られるのか、それともカツアゲか。
 生憎部活の途中なので小銭すら持っていない。たった今、すべて使ってしまった。証明するために飛んでやろうかとまで思っていた二口は、いきなり苦しそうに呟かれて面食らった。
 よく聞き取れなかったが、この男は、『先輩』と言ったようだ。だが二口は面識がないし、そもそも一年生だ。中学時代にも、こんな顔だけ怖い後輩などいなかった。一度見れば忘れられそうにない外見だ。だが相手にもふざけている様子はなく、アスファルトに片膝をつくようにしてしゃがみこんだまま、胸倉というか、正確にはジャージの上着を掴んでくる。
「えっと、人違いじゃね? オレ、お前のこと知らないんだけど……?」
「……。」
 あまりに悲壮な雰囲気に、茶化すことも怒ることもできず、できるだけ優しく言ってみたのに男は首を横に振った。
 否定するにしても、言葉ですればいいのに。
 怪訝になりつつ、二口はなんとか想像してみる。
「いや、違うって、だってオレ一年だし? ああ、でも、オレが忘れてるだけで、実は同じ中学、とか?」
「……。」
「違うのか、いや違うよな。だったらやっぱり、オレはお前の先輩じゃないだろ?」
「……。」
「それも違うのかよ!! つかお前っ、なんなんだよ、いきなり絡んできやがって!!」
 中学の後輩という説はやはり否定されたが、一年生だと言ってみてもやはり先輩だと繰り返される。
 暑さもあって次第に苛々してきた二口は思わずそう声を荒げるが、ビクッと驚いた相手は、そこで何故か顔を歪めた。
「……迷子」
「はあ? ……ああっ、もしかして、伊達工に行こうとして迷ったのか!?」
「……!!」
「なんだ、だったら早く言えよ、もう……。」
 そして悲しそうに呟かれて、二口はようやく合点がいった。
 伊達工業に足を運ぶにはいくつかのルートがあるが、電車にしろ、バスにしろ、最寄からそれなりに歩くことになる。特にバスの場合は路線によっては学校の裏手、更に狭い路地をいくつも抜けた先に停まるので、知らない者はまず迷うだろう。早朝ならば同じ制服の上級生についていけばいいだろうが、今はそんな時間帯でもない。何度も大きく必死に頷く様に、どこか微笑ましくなりながら呆れた二口は、やっと相手が握っているのがジャージに書かれた学校名の刺繍だと気がついた。
 この辺りは住宅街なので、人通りは少なく、また店舗などもほとんどない。性格的にも、あまり人に道を尋ねられそうないことを思うと、相当長く迷っていたのかもしれない。そこに、道端で休憩しているジャージ姿の二口を見つけた。近づいてみると、ちゃんと目的の学校名が刺繍されている。安堵と喜び、なにより寂しさから脱出できた嬉しさが爆発した結果だったのだろうが、そうにしても分かりにくい。もう一度ため息をついた二口は、いまだにジャージを握ってくる手を外させ、代わりに軽く引いて隣を示した。
「……?」
「ちょっと座れって。だいぶ歩き回って暑いんだろ? ほら、これやっから」
「……!!」
 大人しく横に腰を下ろしたのを見上げても、やはり自分より大柄だと分かる。もしかすると、190くらいあるのではないか。何より身長だけでなく、肩幅や筋肉がちゃんとついているのが分かる。運動部なのは容易に想像がつき、まだ開けていなかったペットボトルを渡せば、驚いた後、かなり戸惑っていたので、押し付けておいた。
 そもそも鎌先にもらった小銭で買ったものであるし、これからの練習中は意地を張らずに水呑場に行けばいいだけだ。今は明らかに熱中症でも起こしそうな相手の方が心配で、素直に受け取ったところで手を伸ばす。
「つか、こんなにきっちり着てるから暑いんだろ」
「……!?」
「お前、全然そうは見えないけど中学生なんだよな? 来年、じゃなくて、来月か。四月からうちに入学するってことか?」
「……。」
 詰襟に指を引っ掛けてみれば簡単に外れたので、二口はそのまま首元のボタンも二つほど開けておいた。どうやら学ランの下のシャツもきっちりすべてボタンを留めていたようで、これでは暑いのも当然だと呆れてしまう。そうして二口がボタンを外すまで硬直したように待っていた新一年生は、大きく頷いてから、やっとペットボトルを開けた。
 受験したのであれば一度は来たことがあるはずだろうと思うが、そこは黙っておく。わざわざ制服であることを思うと、この大きな新一年生は中学校からそのまま来たのだろう。卒業式だったのかもしれない。その場合、受験のときとは使った路線が違う可能性もある。そうだとしても道くらい調べておけばよかったのにとは思うが、ごくごくと一気に半分以上を飲み干している相手には、もっと別の疑問もあった。
「けどさ、まだ三月の始めだろ? 中学も、せいぜい卒業式が終わったくらいじゃねえの?」
 そう言ってみれば、少し迷う顔を見せてから、新一年生はペットボトルの蓋を閉めている。
「……さっき」
「ああ、やっぱ卒業式だったのか。それから直接来たのか? つか、全部飲んでいいっての、中途半端に返されても困るし」
「……!!」
「けどよ、そもそもなんで来たんだ? 入学手続きとか? いやでも、そういうのってもう終わってんじゃね? まだだっけ? 終わってなくても、本人が来ないといけないものだったか?」
「……。」
 卒業式は午前中に終わっただろうが、それからクラスで食事会などもあるだろうし、友人たちと別れを惜しむなど、いろいろ予定は考えられるので時間的なものはおかしいと思わない。
 ただ、そもそもどうして来なければならなかったのか。一年前に入学したことを思い出しても、少なくとも二口は受験日の次に登校したのは入学式だった。その間に、合格発表や、学校説明会もあったようだが、いずれも生徒本人の参加が必須ではないので教師や母親が行ってくれた。もちろん本人が直接足を運ぶこともあるだろうが、そもそも今年はまだ合格発表自体もまだのはずだ。学校によっては公立の合格発表より卒業式の方が先だが、合格発表が早まることは考えにくい。
 そのことを思い出せば、まだ合否前で、厳密には新一年生ではないのかと首を傾げたところで、残りも飲み干した相手が小さく呟いた。
「……推薦」
「あっ、なるほど!! そっか、推薦だったら、もう合格は出てるよなっ」
「……。」
 だが謎は一気に解ける。一般入試ではなく、推薦ならばもう確定していて当然だ。場合によっては、去年のうちに判定も出ていたのだろう。
「じゃあその手続きに来たのか?」
「……。」
 二口は一般入試組だったので、推薦での入学手順をよく知らない。何か本人が参じなければならない手続きでもあるのだろうか。そう尋ねれば、少し悩むようにした後、ゆっくりと首を横に振られる。
「手続きとかじゃなくて? じゃあ、学校の雰囲気を見に来ただけとか?」
「……。」
「つっても、それは推薦で受けにきたときでも分かるか。じゃあなんで……?」
 更に質問を重ねようとしたとき、遠くからチャイムが鳴り響くのが聞こえた。
「あっ、やべ、戻らねえと!!」
「……!?」
 通常の下校を知らせる午後五時の合図だ。今日の練習は変則的なので、休憩は五時十分までと言われている。学校の真裏に位置しているので正門まで戻れば走ってもギリギリだが、この近くに通用門がある。そこを抜ければ体育館はすぐそこで、歩けば充分に間に合う距離だ。
 立ち上がってみると、意外にも回復していることに気がついた。なんとか全体練習も大丈夫そうだ。空になっている一本目のペットボトルを少し戻って自動販売機横のゴミ箱へと入れる。そして一度大きく伸びをしてから、二口は不思議そうに振り返った。
「……なにしてんだよ、伊達工に行くんだろ?」
「……!!」
「もしかして、立てないくらい疲れてんのか? えっ、熱中症とか起こしてないよな?」
 心配になりながら戻ってみるが、顔の赤みは少し引いている。しゃがみこんで額に手を当ててみるが、熱いのかどうなのか、よく分からない。
「……!?」
「……ま、いっか、最悪それなら保健室に行かせればいいし。ほら、立てよ?」
「……。」
 少なくとも、意識を失って倒れるようなことはないはずだ。先に立ち上がって手を伸ばせば、新一年生はだいぶ迷うようにした後、手を重ねてきた。やたら大きな手だ。体重をかけるようにして引っ張り上げれば、やっと背筋を伸ばした身長はやはり二口より随分と大きい。
「お前、でっかいなあ。何センチあんの?」
「……190、くらい」
「マジで!? いいなあ、羨ましいっ」
「……。」
 汗ばんだ手はすぐに離し、もう一本のペットボトルも捨てに行く。そして、さて通用門に向かうかと路地を進みかけたところで、ジャージの上着を引っ張られていることに気がついた。
「……どうした? また迷いそうで不安なのか?」
「……。」
「大丈夫だって、一度覚えちまえばそんなに複雑な道じゃねえし。登下校の時間帯なら他にもいっぱい生徒がいるから、間違えねえよ」
「……。」
 正確には、上着の裾、背中側をしっかりと握られていた。引きとめているのではなく、まさに迷子になって不安になった子供が、ようやく迎えに来てくれた母親の服を掴んでいるような状態だ。見えなくとも中学三年生なのだろうし、なにより図体は二口よりも大きい。それでも、まだ迷子になった寂しさが抜けていないのか、俯いたままついてくる様を見せられると払いのけることもできない。
 仕方がない、せめて通用門まではこうしてやろう。
 学校の敷地内に入ると体育館が近いので、特に鎌先などに見つかればうるさそうだ。その前までならばいいだろうと歩いていれば、後ろから小さく尋ねられる。
「……先輩、部活」
「あ? ああ、オレか? オレはバレー部」
「……!!」
 何故か驚かれたので、屋内スポーツのバレーボールでは、外周りなどしないと思っていたのかもしれない。実際には、ランニングを狭い体育館内でぐるぐるするのは効率も悪く、外周は日常的に練習に含まれている。
 驚きの理由を誤解していたので、てっきりこの新一年生は違う部活なのだと思った。それがどうしてだか残念にもなりつつ、二口は尋ねてみる。
「で、お前は?」
「……。」
「あっ、そういや名前も聞いてなかったよな。オレは二口堅治、今の一年生。四月から後輩になる予定のお前、名前は?」
「……。」
 だが、部活は違っても学校としての後輩には違いない。ごく自然と尋ねれば、何故かやけに緊張したように唇を噛まれた。どうやらしゃべるのは苦手らしい。こういう性格だと、入学して環境が変わると苦労しそうだなと思っていたところで、ようやく名乗られた。
 名前より、身長より、バレー部のスポーツ推薦なのだと気がついたとき動揺した理由は、二口にはまだよく分からなかった。




「それにしても、だいぶ青根も部活に慣れてきたねっ」
「……。」
 あれから約一ヶ月、もう四月になっている。春休みを経て、二口は二年生となった。
 三月の始めのやけに暑い日、学校の近くで迷っていた新一年生は、バレー部の青根高伸という選手だった。どうやらスポーツ推薦で獲った逸材らしい。そもそもあの日は中学の卒業式で、翌日から練習に合流するために挨拶にやって来たようだ。
 本来はもっと早く青根が来て茂庭たちと顔合わせをする予定だったが、いつまで経っても来ないし、遅れるという連絡もない。当時の青根は携帯電話を持っていなかった。どこに連絡すべきか茂庭たちも迷い、とにかく中学校に電話をするためにやや長い休憩時間を取る。そして、取り敢えずは卒業式を終えて伊達工業に向かったことまでは中学の顧問に確認ができたところに、二口が青根を連れて現れたのだ。
『茂庭さーんっ、なんか、迷子連れてきましたーっ』
『……!?』
『え? ……あっ、もしかして、青根くん!?』
『……!!』
『そーそー、そうみたいっス。じゃあ、オレはこれで』
 休憩はあと数分あったので、できれば部室に戻って財布を出し、鎌先には金を返した上で自分の飲み物を確保しておきたい。体育館の隅で監督たちと難しい顔をしているところに遠慮なく声をかけ、そのまま置き去りしようとするが、何故かそれは叶わなかった。
『……あ?』
『……。』
『あのっ、青根くん、こんにちは!! オレが伊達工バレー部のキャプテン、茂庭要だよ。よろしくね?』
『……。』
 やはり外見が怖かったようで、やや怯えつつ挨拶をした茂庭に、青根もまた緊張しように頷いている。
 ただ、右手は相変わらず二口のジャージの裾を握ったままだ。そのまま離れるように歩いて自然と外れるような強さではない。それに戸惑っているうちに、ふと茂庭からのすがるような視線に気がついた。
『あの、二口……?』
 そして、青根をチラリと見て言いよどむ様子に、なんとなく察して答えておく。
『ああ、なんかこいつ、あんましゃべらないみたいですね。まあこっちが言ってることは理解してるから、頷くとか首を振るとかで判断すればいいんじゃないスか』
『……!!』
『そ、そうなんだ? というか、二口はもうそんなに仲良くなったの?』
『は? いえ、さっきそこで保護しただけっスよ。オレ、後輩とか苦手ですもん。別に仲良くなったりしてません』
『……。』
『あ、青根くん、大丈夫……?』
 元々先輩も後輩も苦手というか、接し方はよく分からなかったが、この一年間で先輩に対しては不覚にもだいぶ解消された。だが後輩に関しては、やはりよく分からないという印象が強い。この青根に対しても、部活を知らないうちはなんとなく好意的だった。だが通用門に向かう途中で聞いてしまってから、どう接すればいいのか分からなくなって混乱する。早く解放してほしいのに、青根はつらそうに俯き、ジャージをつかむ手も外してくれない。それにまた混乱していると、体育館に入ってきた鎌先と笹谷がこちらに気がついて駆け寄ってきた。
『茂庭っ、そこの学ランて、もしかして、見つかったのか!?』
 特に猛ダッシュしてきたのは鎌先だ。相変わらず暑苦しいと眺めていれば、茂庭に頷かれて更に鎌先は興奮する。
『そうみたい。やっぱり迷ってたんだって』
『なんでだよっ、だったら電話してくればよかっただろ!?』
『……!?』
『それかその辺の人に尋ねろよ!! 遅れるなら遅れるでちゃんと連絡しろっ、ガキじゃねえんだからそれぐらいできるだろうがバカ!!』
『……!!』
 肩を掴まれ、ついでに頭もはたかれて、青根はかなり驚いた後にまた俯いてしまった。そんなに痛くはなかっただろうが、やっと辿り着いた先の部活で、初対面の先輩に怒られれば萎縮して当たり前だ。茂庭は心配そうにしていたので、おそらく予定の時間になっても現れない青根が事故にでも遭ったのではないかと不安だったのだろう。それは鎌先たちも同じだ。だからこそ、ちゃんと連絡はしろと怒る。何から何まで鎌先に同意できるのに、初めて青根が先輩と唸ってジャージの学校名を掴んできたことを思い出すと、どうしても言ってやりたくて仕方なくなった。
『……ちょっと、鎌先さぁんっ。こんな外見でも、こいつ、卒業式終わったばっかの中学生なんスよ? 四月一日までは、まだ入学してないんでしょ? オレじゃないんだから、あんまり初っ端から厳しくして、部活どころか学校にも来なくなったらどうするんスか』
『……!!』
 急に焦ったように青根は顔を上げたので、そこまでではないと否定したかったのだろう。だが二口の言葉に、青根以上に焦ったのは鎌先だ。
『い、いや、でも、だから、遅れるとしても、連絡を、だな……!?』
『たぶんケータイ持ってないですよ、こいつ。まあ人に尋ねられないのは性格の問題だから努力してもらうにしても、今日はオレを捕まえてちゃんと案内させたんだからいいでしょ? こいつだって反省はしてるだろうし? ……ほら、適当に謝っとけ』
『……すいま、せん』
『お、おう!? いや、分かってくれるんなら、別にいいんだ!? 次からは、ちゃんと連絡しろよ、なっ!?』
『……。』
 強引に青根の頭を下げさせてみたが、途中からは自発的になった。深々と頭を下げて謝罪する態度に、鎌先も怒気を削がれたようだ。簡単な先輩だなと内心で思いながら二口はこの場から離れようとするが、相変わらず青根の手がジャージを掴んでいる。いい加減に外せとやっと手を離させたところで、それまでじっと見ていた笹谷が突然言った。
『……二口、お前、青根くんの世話係に決定な』
『……!!』
『はあ!? なんでですかっ、オレがそういうの向いてないの分かりきってるでしょ!? だいたい、こいつ、スポーツ推薦で獲ったんですよね? オレみたいなダメ部員になったら先輩たちだって困るじゃないですか!!』
『……?』
 実際のプレーは見ていなくとも、この体格と、スポーツ推薦という情報だけで青根の実力は証明されているようなものだ。不真面目代表のような自分に預けていいはずもない、ちゃんと先輩たちが大切に育てるべきだ。青根も不思議そうにしているしと、何故かそこは悔しく思いながら反論するが、笹谷がもっと不思議そうに返す。
『なに言ってんだ、今の一年で唯一スタメン固定してる二口が適任だろ』
『……!?』
『……なんか、こいつ、また驚いてますよ。これはこれで失礼だと思いません?』
『……!!』
『おめーがそんなだから実力者に見えねえんだよっ、せっかくできる後輩なんだからちゃんと面倒見てやれ!!』
『嫌ですってばっ、オレそういう面倒なの御免ですもん!! ていうか鎌先さんっ、ドリンク足りません!! もう一本奢って!!』
『ふざけんなっ、そもそも部活あんのに忘れてんじゃねえよバカ!!』
『痛ぁっ!!』
 途中から鎌先が入ってきたので、ついでにねだってみれば青根により強く叩かれた。理不尽だ。不満そうに睨んでいれば、横でおろおろしている青根に茂庭が言う。
『……あのね、いつものことだから?』
『……!?』
『鎌ちは理由なく怒るわけじゃないし、まあ、二口はいつもこうだからさ? 仲が悪いわけじゃないから、あんまり不安がらないでさ、よろしくね?』
『……!!』
 ぶんぶんと青根が大きく頷いている間に、二口は今度こそ部室に向かうことにした。このままいると、本当に勝手に世話係に認定されてしまいそうだ。有耶無耶のままずらかろうとしたのに、ちょうど休憩が終わってしまい、笹谷に後ろ襟を掴まれて逃走し損ねる。それに暴れようとすれば、ドリンクは分けてやると言われたので、二口も大人しく従うことにした。
 その日は挨拶だけという話だったが、一応は全体練習に参加予定だったらしい。教室がないので仕方なく部室の一画、入れ替え制のことを考えていつも少し余らせてある部室のロッカーまで青根を案内させられた。高校の体操服すらなく、中学の名前が入ったジャージなどはとても違和感だ。青根の外見もあって、集合して紹介された際には思わず笑ってしまう一年生などもいた。
 だが、実際に練習が始まれば、笑っていた者ほど顔が引き攣った。
 どのプレーも、到底中学生のものではない。あの体格から打たれるサーブやスパイクは、かなり重くてほとんどの一年生は取れない。レシーブはまだ練習が必要そうだったが、際立っていたのはブロックだ。身長があるので、高いのは当然だ。だが鍛え抜いた体格は決して負荷になっておらず、むしろより高く、より早く、スパイカーの心を折るほどのブロックを支える動力になっている。顔がいかつく、またほとんどしゃべらないことも、その威圧感に拍車をかけた。全体練習の後半で軽く試合形式をした後、その前と変わらない態度でいられた一年生は、二口も含めて、一人もいなかった。
「え、そうスかね?」
「……!!」
 青根はそのまま、部室組となった。スポーツ推薦なので当然だろうが、実際にその実力を見れば誰も文句は言わない。授業がまだあったうちは、放課後の練習開始に合わせて青根はやって来る。翌日だけは、バス停で時間を確認してから待ち合わせをし、二口が学校までの道のりを教えてやった。春休みに入れば練習も終日となり、ようやく学校指定のジャージは入手したらしい青根は、到底入学前とは思えない風格で馴染んできていた。
 最初は戸惑っていた練習にもついてきているし、四月になって他の新一年生も入部してくる。すっかり慣れたようだと、部活終わりの部室で言った茂庭に二口がつい反論すれば、横で着替えていた青根が息を飲んでいる。
「いや、慣れてるだろ、さすがに」
「もう一ヶ月も練習に合流してんだ、慣れてない方がおかしいだろうが」
 自然と固定スタメンで残ることが多くなった部室で、青根は二口の隣のロッカーだ。基本的に空いているところに次の者が入っていくので、学年ごとやポジションごとで並んでいるわけではない。二口は特に世代交代後の自動昇格ではなく、まだ茂庭たちの上の代がいた頃に部室組となったため、空いていた一番端のロッカーとなった。青根はある意味では自動昇格だが、ロッカーはあまり空きがないので自然と二口の隣だ。せっせと着替えつつも、こちらの様子を気にしているのが分かりながら、先に着替え終わってから二口は鎌先たちに返す。
「そっスよねえ、もう一ヶ月ですもんね。慣れない方がおかしいですよね」
「そうだろ、だったら青根だって……?」
「ま、正直オレだって青根はだいぶ慣れてると思いますよ。……いまだに青根に慣れてないのは、先輩たちの方じゃないですか」
「……!!」
 バサッと青根がジャージを落とす。慌てて拾おうとして、開けたままのロッカーの扉に額をぶつけていた。
 動揺していると分かりやすい態度に、鎌先たちもやっと気がついたようだ。少しばつが悪そうに顔を見合わせる。
「いや、それは、まあ……だって、やっぱ顔怖いし……。」
「……!!」
「相変わらずしゃべんねえから、なに考えてるかいまいち分かんねえし……。」
「……!!」
「こらっ、笹谷も、鎌ちも!! 青根、ごめんね? もうちょっとしたら、慣れると思うからさ?」
「……。」
 慰めてくれる茂庭が、本人はどうあれ、全体的な段階としてまだまだ青根と馴染んでいないと証明しているようなものだった。
 だが、笹谷や鎌先、それに茂庭たちは、いずれ慣れるだろう。顔の怖さや寡黙具合しか問題にしていないからだ。ただ、多くの部員は、それでも青根に気を遣って一歩引く。単純なとっつきにくさではない、実力という途方もない壁を感じてしまうからだ。遠慮し、気遣いという名の距離を置かれる。嫌われているのであれば憎んで反発もできるが、多くはそうではない。本当に青根を尊重するが故の、触れ難さが原因だ。
 きっと、中学の頃からもそうだったのだろう。これだけ無口でもやってこれたのであれば、腫れ物のように扱われてきたことは容易に想像がつく。練習を頑張れば頑張るほど周囲が遠のいていく感覚には二口も覚えがあり、気がついたときには赤くなっている額に手を伸ばしていた。
「……!?」
「怖い怖いって言いますけど、別にそこまでじゃなくないですか。眉毛だって、剃ってるわけじゃなくて、単に薄すぎてないように見えるだけだし」
「えっ、そうなの!?」
「そうなのか!?」
「そうだったのか!? オレてっきり剃ってるんだと思って、ちょーこええってずっと思ってた!! 青根すまん!!」
「……?」
 ロッカーにぶつけたところを軽く撫でてからギュッと頭を引き寄せれば、近づいた顔で二口は確認する。少し前から気がついていたが、やはり青根は剃っているわけではない。色素も薄いので、ないように見えるだけだ。それを改めて言ってみると、茂庭たちがいきなり間合いに入ってきて珍しそうに覗きこんでくる。鎌先に至っては、急に謝った。それがまた青根を困惑させているようだが、頭を引き寄せたことで二口は別のことにも気がつく。
「……つか、青根、石鹸の匂いがする」
「……!?」
「お前、もしかして髪まで石鹸で洗ってんのか? 傷むからやめとけよ、鎌先さんみたいにハゲるぞ?」
「……!!」
「誰がハゲだっ、ハゲじゃねえよ、ハゲてねえよ、オレのなにをもってハゲだって言うんだ、つかなんか兆候とかあんのか、もしかしてオレが気づいてないだけでそういう予兆的な何かが……!!」
 ただの悪口だったので二口は泣きそうな鎌先は無視し、笹谷たちに返しておく。
「それに、青根は確かに無口ですけど、なに考えてるのか分からないってほどじゃないし」
「そ、そう?」
「試しに、今はなに考えてるんだ?」
「へ? ……ああ、今は鎌先さんみたいに禿げたくないからちゃんとシャンプーで洗おうって思ってます」
「……!!」
「だからオレはいつ禿げるんだよっ、予感があるなら教えてくれよ、二口……!!」
「あと、そろそろケータイ買おうかなって思ってるところですかね。……青根、選んできたか?」
「……!!」
「やっぱ無理か。じゃあこれから店舗行って、いろいろ実際に見せてもらえ。触らせてもらった方が決めやすいだろうし」
「……。」
「ん? ああ、ついていってやるって? どうせお前一人で行ってもまた決めらんないだろうし、任せろ」
「……!!」
 シャンプーの件は適当だったが、携帯電話は元々話していたことだ。初日の挨拶に遅れてきたこともあり、携帯電話を持つように勧めた。しばらく買った様子がなかったので親から駄目だと言われたのかと勝手に思っていたが、どうやら許可は出たらしい。だが親もあまり詳しくないようで、欲しい機種を決めてくるようにと言われた。仕方なく店には行ったものの、いろいろ説明されすぎてよく分からないし、質問しようにもどう尋ねればいいのか分からなくて困惑する。結局カタログだけをもらって落ち込む日々だったとようやく聞き出せて、二口は呆れつつもいくつかに絞ってこいと言ったばかりだ。
 青根のことなので真面目にカタログには向き合っただろうが、今まで全く使ったことがないので、選ぶ基準すら分からないのだろう。泣き出しそうな目で見られて呆れれば、青根はギュッと袖を掴んでくる。それにまた呆れて頷けば、青根はパッと表情を華やげた。
「ああ、やっとケータイ買うんだ?」
「……。」
「ええ、取り敢えず今週中には契約させます。通話はともかく、メールができればだいぶ助かりますよね? こいつを遠巻きにしてるのも、もう少しの辛抱ですよ。中身が分かれば、警戒したり特別扱いしなきゃいけないわけじゃないって、きっと分かりますから」
「……?」
 なんとなく青根を引き寄せ、ポンポンと背中を叩いてやっておいた。
 もう、一ヶ月経つのだ。青根のこの無口さは、人見知りや緊張からではない。そういう性格なのだ。そう諦めてしまうか、そう認めて信頼関係が築けるかは、他の一年生が入ってきて一週間になる今が勝負だと二口は思っている。できれば春休み中に携帯電話を買わせておけばよかったと思いつつ、二口は自分の携帯電話を出して時間を確認し、青根の親に連絡する帰宅予定時刻を計算した。
「じゃあ茂庭さんたち、お先に失礼しますっ。……青根、帰るぞ」
「……!!」
 カバンを担いで軽く肩を叩けば、青根もハッとしたように茂庭たちに頭を下げていた。
「お疲れっ、また明日ね」
「お疲れさんっ」
「というか二口っ、結局オレはハゲるのかよ、どうなんだよ、教えてくれよこの野郎……!!」
 鎌先だけは引きとめたがったが、二口は笑顔で無視して青根の手を引いた。
 そうして部室から二口と青根が出て行ってから、残された三人は深くため息をつく。
「……なんていうか、ただの世間話くらいのつもりだったけど、痛すぎる反撃で、オレ、どうしようかと思ったよ」
 まずそうぼやいたのは茂庭だ。後輩を気遣っているようで、自分たちが壁を作っていることには薄々気がついていた。だが、時間の問題ではあっただろう。特に今部室にいる三人はそうだ。だからといって見逃すこともなくあっさりと指摘してきた二口は、どういう心境だったのか。
「……世話係に指名したオレたちのずるさを非難したいのかと思ったけど、どうも、あれ、違うな」
「うん。たぶん、青根のことを気遣っただけだよね……。」
 同じようにため息をつく笹谷も、同感のようだ。初日に迷子になった青根を連れてきたのにも驚いたが、そこまでは偶然としてもいい。二口はどうでもいいことには比較的流されるので、同じ方向なのでついでに案内しただけというのはさほど不自然でもない。
 だが、あの一件で、随分と青根は懐いてしまったようだ。二口も分かってはいるようで、それなりに面倒を見てくれているのは助かる。
「つかっ、青根に周りが馴染めねえのはっ、半分は二口の責任だろ!! ……なあ茂庭、笹谷、遠慮とかいらねえんだけど、ハゲてない? オレ、ハゲてない?」
 苦笑したところで、部室に残っていたもう一人、鎌先からガシッと肩に腕を回されて尋ねられた。やけに頭を下げているのは、謝っているのではなく、髪を確認してほしいらしい。
「大丈夫、ふさふさだよ」
「ほ、ほんとか!?」
「今はまだな」
「なんで笹谷はそういうこと言うんだよっ、ストレスでハゲたらどうしてくれんだ!?」
 鎌先はストレスも一瞬で消える羨ましい性格なので大丈夫だろうが、それより前の発言が気になった。
 青根が練習に合流してから、まだ一ヶ月。茂庭たちも含めて、完全に青根に慣れたとは言えない。悪い人間ではないとまでは判明しているが、しゃべらないというのは圧倒的な足枷になるものだ。だからといって、分かろうとして積極的に踏み込んでいかないのは、青根の隣にはいつも二口がいるからだ。
 外見で怯えることもなく、上手く伝えられない青根にも根気強くきいている。通訳であり、防波堤だ。周りも、本人ではなく、二口を介してなんとなく理解できた気になってしまうことが多い。二口はそれに気がつき、春休み中も何度か距離を置こうとしていた。だが、青根の方がきっと無理なのだ。休憩や昼食は二口の横からぴったりとくっついて離れないし、先に部室に来れば着替えても二口が来るまで待っている。帰るときも、必死で追いかける。とにかく傍に居たがる様は、生まれたばかりの雛が、初めて見た動く物を親だと思う現象に似ている。
「そういえば、春休み中の任意練習で、二口が休んだときも大変だったよね」
 ふと思い出したのは、三週間ほど前のことだ。長期休暇中の休日も練習はあるが、本来は一応休みとなっている。ただ、軽めでも練習をしに出てくる者は多い。レギュラー陣と、そこを狙う者はまず参加する。むしろ茂庭たちが参加率をチェックして、定期的に休ませなければならないほどだ。
 ただ、二口は一年生の頃からよく休んでいた。授業がある時期の土曜日は必須参加なので休まないが、任意の日曜日はまず来ない。春休みなどは土日が任意なので、両日休むことはよくあった。元々任意なので強くは言えないが、せめて片方だけでも全日出てくれないか。茂庭も言ってみたことはあったが、二口は気のない返事をするだけだ。どうも、休みたいというより、練習がしたくないらしい。肉体的な疲労ではなく、練習を続けると上手くなっていく気がして、どうしても精神的に参るようだと知ってしまうと、強くは言えなくなった。
 二口が中学時代に傍から見えるほど部活内で上手くいっていなかったことは聞いている。孤立してはいなかったが、最後まで仲間とも言えなかった。鎌先などは実際に上手くなって高校でも孤立してから休めと暴れたが、所詮は二口がいない場所でだ。そう簡単に乗り越えられないと分かっていたのだろう。だがやはり次の世代を引っ張るのは二口になるし、どうしても休みがちだと周りに不満が出る。実際に代替わりするまでは無駄かもしれないと、春休みに入って最初に土曜日に二口が来なかったとき、茂庭は諦めたつもりだった。
『……あれ? 二口、珍しいね』
『うーっス……。』
 だが、翌日の日曜日、任意練習にも関わらず二口はやってきた。しかも、半日ではなく、朝からちゃんといる。部室で顔を合わせると、非常に不機嫌そうで、どうしたのかと首を傾げていれば二口はため息をつく。
『……鎌先さんが、余計なこと言うから』
『鎌ちが?』
 ただ、それにはまた不思議になった。任意練習の参加率が低いことを、これまで鎌先は何度もトラウマには触れない表現で窘め続けてきた。それでも、無理だったのだ。だが急に来る気になったのはどうしてだろうと思ったとき、部室のドアが開き、まだ入学前だった青根が現れた。
『あっ、青根、おはよ……?』
『……!!』
『……離せっ、風邪じゃねえよ!! 鎌先さんが適当に言っただけだ!!』
『……!?』
『つか土日は任意参加だろ、出ても出なくても、て、だからそういうのいらねえから!?』
『……!!』
 挨拶も聞こえない様子で、青根はいきなり二口に抱きつく。驚いている間に心配そうに額に手を当てているのを見て、なんとなく理由を察した。青根はまだおろおろして額に張る冷却シートを渡そうとしているが、二口は断固として拒否している。だが、それも数秒だ。すぐにため息をつくと、仕方なさそうにもらっていた。
『……分かった。今度、ほんとに熱が出たりしたときに使うから、もらっとく。ありがとな』
『……!!』
 受け取ってもらえて青根が嬉しそうに頷いた頃、どうやら原因を作ったらしい鎌先が部室に現れた。
『おっはよー……て、おお、二口、マジで来たな?』
 そして珍しい顔に気がつき、ニヤニヤしながら尋ねれば、二口は本当に嫌そうに返す。
『鎌先さんは、純粋な後輩騙すのやめてくださいよ』
『誰が純粋な、て、ああ、青根の方か。いや、オレは別に騙してねえぞ? 連絡もなく練習に来ねえから、風邪でも引いたのかもなって想像を言っただけで』
『……!?』
『だーかーらっ、春休み中の土日は任意練習でしょ!? 来なくても連絡なんかいつもしないじゃないスか!!』
『……!!』
『そうだったか? 冬休みまでのことは忘れたな、なんせオレ記憶力が悪いからっ』
 そういえば、前日に二口がいないことに気がついて青根がおろおろしているところに、鎌先が慰めに行っていた。そのときに、適当なことを言ったのだろう。だがこの時期、青根は携帯電話を持っていない。休んでいる二口に直接の連絡はできない。それでも二口が知っているということは、鎌先が青根に風邪だと答えたと教えたのであり、それが久しぶりに任意練習にも出るきっかけになったのだと思うと、喜ばしくもなる。
『……ああ、青根のこと、心配させたくなかったんだ?』
 ついそのまま尋ねれば、案の定二口には嫌そうな顔をされた。
『そんなんじゃないです。ただ、毎週風邪引くとか、そんな軟弱なふうに思われたくなかっただけです』
『そっか。でも二口がいないと青根も寂しそうだし、来れるときはできるだけ来てね?』
『……はい』
 あれだけいつも適当に流していた二口が、初めて前向きに頷いてやや感動した。実際に、それからの休日練習には、二口はちゃんと参加している。ずっと出続けるのもよくないので、休養日を決めてやれば、青根と合わせているらしい。結果的に、いつも二人は同じように練習に出るようになった。
「あのときは、青根が慌てすぎてくれたおかげで、二口も気軽に休めなくなったし。今じゃどっちが世話係が分かんねえよな」
「さすがにそこまでじゃないと思うけど、でも、青根が懐いてくれたおかげで、先輩としての自覚が二口にも生まれたのかな? 全然期待してなかったことだけど、これはこれでよかったね」
 そんなことを笹谷と言っていると、ロッカーの扉の裏に掛けた鏡で髪をチェックしていたらしい鎌先が、耳に痛いことを言う。
「でもあれ、『先輩』の接し方か?」
「……言わないでよ、鎌ち」
「……ちょっと踏み込みすぎだとは思うけどよ、青根にはあれくらいがいいんだろ」
「まあ、笹谷の言いたいことも分かる。二口って後輩慣れしてないしな、青根は青根で先輩慣れしてないみたいだし。今はいいだろうけどよ、あいつら、絶対、そのうち別れるぞ」
 言葉の選択はどうかと思うが、茂庭たちにも鎌先が言いたいことは分かる。
 二口はまだ、他の後輩とは会って一週間なので親しくないだけだ。青根も同級生のチームメイトと親しくなれば、学年の違う二口だけを異常に頼ることはなくなるだろう。
 そうしてどちらかが離れて行ったとき、残された方はどうしても傷つく。そういうものだと、青根の方は割り切れないかもしれない。
「二口は、まだ、友達も多いみたいだし。青根があんまり懐いてこなくなっても平気だろうけど、青根の方は心配だよね……。」
 二口が周囲の警戒を指摘したり、携帯電話を早く持たせようとしているのは、その不安も大きいのかもしれない。本来であれば、キャプテンである自分が気遣うべきところだった。実力のあるプレイヤーほど、その人間性に難を抱えていることはよくあることだ。不甲斐なさを反省してため息をついた茂庭だったが、鎌先には不思議そうにされる。
「いや、明らかに二口のがヤバイだろ?」
「……そうかな?」
「青根はスポーツ推薦だし、不器用だからバレーしかねえ。でも二口はいざとなったら部活を辞められる」
「……。」
「……さすがに、そこまでは」
「分かんねえぞ、あいついまだに中学のトラウマ引き摺ってるくらいだからな。今まで堪えられたのが、オレとしては不思議なくらいだ。たぶん、先輩に対しての抵抗は薄れてるから、オレたちの引退と同時に辞めかねねえな。……ったく、ほんと、手がかかるヤツだよな、あいつも」
 困ったようにため息をつく鎌先を、茂庭たちは黙って見つめてしまった。
 生徒の中ではこの三人だけの秘密になっているが、実はコーチから、二口はスポーツ推薦の候補だったことを引き継ぎの時に教えられた。弱小校で、公式戦では一回戦突破が最大の結果である。自己推薦ならばまだしも、学校からスカウトする形でのスポーツ推薦には、普通は引っかかるはずもない。
 逆を言えば、そのたった一回の勝ち試合で、二口は才能の片鱗を見せたのだ。自己推薦ではないので、推薦用件はどうとでもなる。だが、最終的に見送られた。実力に関しては未知数が多かったことも事実だ。だがそれ以上に、調査の結果、二口が部内で特別扱いという名の孤立をしていたことが判明する。問題視されたのは、当人がそれを認めたがらないことと、それでいて改善しようとした節がないことだった。協調性、及び向上心に難有りとされ、コーチもリストから外したらしい。その後、一般入試で二口が入ってきたのは、ただの偶然である。コーチは中学時代の調査結果を知っていたので、とにかく鎌先たちに二口をチームに繋ぐよう指示した。多少強引でもいい、とにかく繋ぎ留めておく。上級生に諦められることに慣れている二口は、気を抜くとあっという間に心を離してしまう。
 今を思えば、コーチの予想は正しかったのだろう。茂庭たちも傍ではらはらするほど鎌先が頭ごなしに命令しても、二口は文句は言うものの必ず従う。屈したのではない、明らかに喜んでいた。鎌先は真面目すぎるので、その点では客観的に理不尽な事は命じない。そこへの信頼が生まれれば、二口もやっと、少なくとも茂庭たちの世代には尽くそうという雰囲気が見えるようになったばかりだ。
「……青根に、話した方がいいと思う?」
 それが、次のトラウマに直面して、二口が混乱しているのはよく分かる。
 とにかく、後輩に懐かれたり、慕われたりしたことがないらしい。少なくとも、二口はそう思っている。実際のところは、つれないが実力のある先輩というものは一定の支持を集めるため、中学時代も一番憧れた先輩として名をあげた後輩も多かったようだ。
 ただ、部活内の人間関係に消極的な二口には、伝わっていない。だからこそ、あからさまに懐いてくる青根には、必死に返したいと気負ってしまうのだろう。
「やめとけ、青根だって混乱するだけだ」
「そう、だよね……。」
「今はまだ、比べれば青根の方が落ち着いてない時期だしな……。」
 思わずぼやくと、当然のように鎌先に止められた。それに、また自分の情けなさを示されたようで茂庭はため息を重ねるが、鎌先は笑ってなんでもないように続ける。
「それに、二口だって『先輩』なんだぞ? 後輩に格好悪いところ見せたくないだろうが」
「……物凄く納得できるのに、鎌ちはその後輩の前でいつも格好悪いよね」
「……まったくだな」
「えっ、そんなことないだろ!? オレかなり格好よくね!? あれ!? 腹筋見る!?」
 鎌先の自己評価はともかくとして、悩みが増えたのも事実だ。
 どうか、仲良くやってほしい。
 茂庭たちのささやかな願いは、その一ヵ月後にはあっさりと崩れた。





 インターハイ予選に向けた合宿も終えた五月半ば、二口は練習終わりに部室で着替える。一年生は片付けがあるので、少し遅れて青根も戻ってきた。緊張はしていたが、青根がちょうど着替え始めてすぐには逃げ出せない頃を見計らい、声をかけてみる。
「……なあ、青根」
「……!?」
「今日さ、紅白戦で頑張ってたよな? ご褒美に……?」
 だが言っている間に、隣から驚いたように見下ろしていた青根は着替えようとしていた制服を戻し、そのままカバンを掴むとバタンッとロッカーを閉める。
「おいっ、青根!?」
「……!!」
 そのままドアまで走っていくと、一度振り返って鎌先たちにはペコリと頭を下げ、ジャージのままで飛び出して行った。
 それを、二口は呆然と見送る。察していなかったわけではない、むしろ確信にも至っていた。だがまだ練習中は我慢していた様子だったのに、こうまであからさまに避けられると驚きすぎて頭が回らない。部室組に一年生はまだ青根しかおらず、そろそろ作並を入れるかという話が出ている段階だ。他の部員たちも気まずそうにしたまま、黙って着替えるとさっさと部室から出ていった。
 だが、二口はなかなか着替えられなかった。格好悪いし、恥ずかしいし、居たたまれない。なにより、はっきりと拒絶されて寂しいと感じることに苛立ち、思わずロッカーを殴ったところで、体育館の施錠をしてきたらしい茂庭が戻ってきた。
「わっ、びっくりした。……二口、どうしたの?」
「……なんでもないです」
 茂庭は先ほどのやりとりを見ていない。だから誤魔化せると思ったが、甘い期待だったらしい。
「そこで青根がジャージのまま校舎に歩いて行くのが見えたけど、何かあった?」
「……いえ、何も」
「単に青根にふられただけだよ、ご愁傷様だなっ。……おわっ!?」
 笑いながら説明した鎌先には腹が立ち、取り敢えずは脱いだばかりのジャージを投げておいた。
 ただ、二口にも傍目からはそう見えることを充分に理解している。
 四月の半ばくらいまでは、青根はまだ懐いてくれていたと思う。だが携帯電話も買い、教室での授業も始まった。クラスメートや、同学年のチームメイトとも仲良くした方がいい。そう説いたのは、他ならぬ二口自身だ。それに青根は不安そう、または不満そうだったが、頷きはしてくれた。実際に少しずつ交友関係は広がっていったようで、寂しくもあったが二口は嬉しかった。
 喜べていたのは単純に、どれだけ他の先輩や同級生と親しくなっても、二口だけは別だとあからさまに示してくれていたからだ。他の先輩とも、チームメイトとも違う。まずは二口が最優先で、断られたり、他からの申し出があって二口が許してくれればそちらにも行く。ただこちらしか見えていないときより、視野が広くなった上で二口を選んでくれる方が、ずっと嬉しかった。本当に可愛い後輩だと思った。だからこそ二口としてはますます撫でて特別に可愛がっていたが、それが合宿前の四月の下旬、唐突に終わりを告げる。
「鎌ち、からかうのはやめてあげなよ……。」
「だって本当のことじゃねえか、話しかけただけで逃げられてたし」
「……鎌先さん、ジャージ返してください。オレももう帰ります」
 朝も部室で待っていないし、柔軟体操なども絶対に組まない。休憩や休日練習の昼休みでも、傍には絶対に来ない。合宿中は、練習以外で話しかけても無視されることがほとんどだった。苛々して怒鳴ると、聞こえなかったのではなく話したくないのだとばかりに逃げられる。
 とにかく腹が立って仕方がなかったが、練習に合流してから二ヶ月以上が経つ青根は、もう二口の通訳がなくとも問題がない。
 唐突にそれが気がついて、二口も納得した。
 もう、青根に自分は必要ないのだ。
 だからそっとしておこうと思ったのに、定期的に浅はかな欲求がわいてくる。要するに、青根はたまたま機嫌が悪かったりしただけで、もう普通に接してくれるのではないか。以前ほど撫でさせてはくれないとしても、頷いたりするだけでいいので練習以外でも会話がしたい。目を見て話したい。そんな願望に抗いきれなくて話しかけると、また逃げられる。
 何度も繰り返していたのに、今回はその中でも最悪だ。よりによって、部室内で、他の部員もいる前でやってしまった。ただこれは失念ではない。他の先輩たちがいれば、青根も我慢して接してくれるのではないか。そんな打算からの行動だったからこそ、余計に情けなくなってくる二口は、深くため息をついて手を伸ばした。
「つか、お前ら何があったんだよ?」
「……何もないです」
 だが鎌先は投げたジャージを持ったままだ。返してくれそうにないので仕方なく取りに行くが、その途中でベンチに座っていた笹谷に腕を引っ張られた。
「おわっ!? ……さ、笹谷さん?」
 座れという指示かと思ったが、実際にはしっかりと抱き締められて二口は焦る。体格差があるので、うっかり押し倒しそうになった。だが慌てて顔を上げようとしても、笹谷にはがっちりと抱え込まれ、何故か頭を撫でられた。
「……なんですか、これ」
「二口が青根にやってたことの真似」
「……。」
 しかも、怪訝そうに尋ねれば簡潔に答えられ、二口はなんだか泣きそうになった。
 確かに、四月の半ば過ぎまでは、こういうことをよくしていた。青根は過度なくらいのスキンシップで懐いてくれるし、二口はいい先輩でありたくて必死に応えようとする。それを、後輩として青根も喜んでくれていると、ずっと思い込んでいた。
「……じゃあ、オレもそのときの青根の真似です」
 虚しさからこみあげてくるものを堪えたくて、二口は笹谷の背中に腕を回した。
 自分より小さいはずの笹谷に抱き締められているのに、やけに大きく感じた。胸に顔を埋めているのではっきりと鼓動も聞こえ、安心する。
 青根は、そうではなかったのだろうか。
 二口がこうして抱き締めてやっていたときは、本当は嫌で嫌で堪らなかったのだろうか。
「どうしよう、笹谷も二口も死ぬほど羨ましい……。」
「鎌ちだと二口より大きいから教える材料にならないでしょ? ……それはともかくとして、二口、ちょっと落ち着いた?」
「……はい」
 茂庭に優しく話しかけられ、ようやく笹谷から腕を離すと急に気恥ずかしくなった。
 先輩たちの前で、何をしていたのだろう。いや、その先輩の方からしてきたことなので、構わないのだろうか。自然と顔が赤くなってくるが、取り敢えずはいまだにジャージを握り締めたまま複雑に悔しそうにしている鎌先に破られそうだったので、それは回収してから二口は笑ってみた。
「なんか、すみません。もう大丈夫です……。」
 後輩の一人から嫌われたくらいで、本当に情けない。そう笑ってみせたつもりだが、ベンチに腰を下ろした茂庭は不思議そうだ。
「でも、実を言うとね、オレたちも意外だったんだよ? ……なんていうか、青根の面倒を見るのが嫌になって二口が放り出す方が先かな、て」
「……オレは、そんなつもりはありませんでしたよ」
「まあ、そうなんだろうね、うん、オレたちもちょっと誤解してた。実際に、青根が他の部員とも仲良くなり始めても、二口のことは一番に思ってるみたいだったし。二口もちゃんと可愛がってはくれてるみたいだから、よかったなあ、て、思ってたんだけどなあ……。」
 どうやら、茂庭たちも似たような感想だったらしい。
 四月に入り、青根にも少しずつ親しい人はできていった。だがたとえそうであっても、二口は変わらず一番だ。それを当然だと当時は歓迎したが、よく考えればその時点では出会って一ヵ月半くらいである。それなのに、思い込んでいた方がバカなのだ。鬱陶しがられていたと気がつかなかった自分が情けなくて堪らないとため息をつくが、急に心配になってバッと顔を上げ、笹谷を見る。
「オレは別に毎日二口に懐かれてたわけじゃないから問題ない」
「……あざーすっ、ていうか、笹谷さんて意外に勘がいいですよね」
「お前が分かりやすすぎるんだよ」
「茂庭、どうしよう、オレまた羨ましすぎてどっちかを殴りたい……!!」
「鎌ちはさあ、そうやって本音がダダ漏れだからさあ、二口は安心もするけど尊敬もしきれなくて扱いが雑になるんだよ……。」
 実に的確なことを言っている茂庭だけに、二口はまた尊敬を深めておく。だが、再び視線が合った茂庭がニッコリと笑う。こういうときは、優しいが、胸に突き刺さるようなことを言われることを知っており、覚悟はしたのにやはり抉られた。
「でもさ、青根の態度も急に変わりすぎじゃない? 徐々に離れていったんなら、まだしもさ? ぴたっといきなり距離を置いたよね?」
「……ええ」
「四月の、終わり頃だったかな? ……青根と、何かあったの?」
「……。」
 それは、今まで他の部員にもコーチなどからも何度も尋ねられた。
 そのたびに、二口はよく分からないと笑った。やがて、答えるのも苦しくなってきて、懐いてた頃が異常だったんだろと吐き捨てる。不機嫌だと態度に出せば、合宿が終わる頃にはそのことを尋ねられなくなる。気遣いであり、厄介ごとに関わりたくない保身であり、また青根が二口を避けることが日常になっていった証だろう。
 きかれたくないのに、きかれないと不安になって、次第にすべてが夢だったような気すらしてきた。すると、痛みはどんどん鈍化していき、遂には避けられていることまで夢だった気がして、また話しかけては突き落とされる。その繰り返しだ。
「もし明確な理由が分からないんならさ、オレたちから青根に尋ねてもいいよ? 二人ともスタメンなんだし、ここまであからさまに不仲なのはオレたちも困っちゃうから?」
「……。」
 ただ、茂庭たちだけは一度も尋ねてこなかった。きっと示し合わせていたのだと思う。
 いずれ元に戻るかもしれない、あるいは決定的になるまでは動かない。
 もし後者が理由で見守っていたのであれば、自分はもう同情される状態なのだとつきつけられたようで、喉の奥が引き攣りそうだ。
 悩んでしまう二口の背中を押したのは、茂庭が敢えて個人的な興味からではなく、部活のためだと全面に出したことだろう。これは、労わりではない、ただの義務だ。茂庭たちに、部内不和への不安以外の心配はかけていない。そう思い込むことで、二口はなんとか言葉にすることができた。
「……オレが、怒ったのが、原因だと思います」
「そうなんだ? どうして?」
「……あいつが、手紙を、渡さなかったから」
 当然の追及を受けて、二口はまた悩む。だがふと顔を上げると、ベンチに座る笹谷が、後ろから鎌先の口を手で塞いでいた。どうやら話すのは茂庭に任せるつもりらしい。それがまた逃げ切れないという予感を二口にさせ、仕方なくまた説明を続ける。
「正確には、その何日か前から、そわそわしてるっていうか、やけに落ち着かないっていうか。こう、オレといても上の空って感じのことがたびたびあって、不思議だったんですけど……ちょうど、四月の終わりくらいに。部活が終わって、部室出たところで、いきなり手紙を渡されたんです」
「そうなんだ……。」
 青根は二口に手紙を押し付けると、そのまま走って帰ってしまった。
 呆然と見送ったが、思えばその日が終わりの始まりだった。青根が部活に合流してから初めて一緒に帰らなかったが、それがずっと続くとは二口も思っていなかった。
「その手紙には、何て書いてあったの? きいてもいい?」
 深くため息をついている間に、茂庭からはそう促される。それに、二口はあっさりと答えておいた。
「正確には、覚えてないですけど……ありきたりな、『好きです。付き合ってください。』みたいな感じのことが」
「……え」
「……おい、待て」
「……それってつまりっ、ラブレターてことか!?」
「へ? ああ、まあ、そうですよ……?」
 いつの間にか、笹谷は鎌先から手を外していた。それだけ驚いたらしい。だが二口には、何がそんなに不思議なのか変わらない。むしろ最初からラブレターの意味で手紙と言っていたので、追及されても首を傾げるばかりだ。
「で、断ったってことか!?」
「そりゃあ、断りますよ、だって……。」
「しかもっ、怒っちゃったの!?」
「へ? ええ、まあ、青根には怒ったというか、まあ……?」
「つまり、青根があの態度なのって、失恋したからなのか!?」
「……やっぱりそうなんですかね?」
「知るかよっ、オレらに訊くな!!」
 何故か鎌先たちは頭を抱えて、嘆いている。そんなにも、いけなかったのだろうか。だが二口はバレーに集中したいし、交際などする気はない。再びため息をつきながら愚痴っておく。
「だいたい、一年生てことは、入学して二週間くらいだったんですよ? で、オレとは話したこともないんですよ? それで、たまたま校内だか体育館だかで見かけて、告白して付き合いたいって、オレが悪い男だったらどうするつもりだったんですかね……。」
 昔から距離が遠い女子にほど告白されがちなのは、性格の悪さの証拠のような気がしてしまう。学年が違ったり、学校が違ったりするほど、想いを寄せられるのだ。知らない相手を断るのは、知っている相手よりも苦労する。なにしろ、どう言えば一番揉めずに引き下がってくれるのか、予想すら立たない。本当に面倒くさいとため息を重ねたとき、ようやく茂庭たちが怪訝そうにしているのに気がついた。
「……なんですか」
「ねえ、その手紙ってさ……青根から、じゃなくて?」
「は? なに言ってんスか、青根のクラスの女子ですよ。ほら、あいつ、A組だから女子がいるでしょ? で、いつも一緒にいるから渡してくれって頼まれたみたいです」
 そもそも青根に頼んだくらいなので、大した度胸の一年女子だとは思う。他のバレー部員ではいけなかったのだろうか。確かに二口と最も一緒にいる一年生は青根なので、よく見ているということなのかもしれない。だがやはり普通は青根の外見と性格ならば怖気づくと思うので、そこだけは感心するが、何故かまた茂庭たちの方が大袈裟なため息をついた。
「よかったぁ、さすがに、失恋が原因だったらオレたちも慰めようがないからどうしようって思ってたから、よかったあ……!!」
「もし青根が失恋してあの態度なんだったら、そらもう百戦百敗の鎌先にしか励ましは託せなかったよなあ……!!」
「いや待てお前らオレは別にそんなにふられてるわけじゃないしそもそもふられたくないから告白もしないからだから」
「鎌先さんの言い訳もどうかと思いますけど、でも、青根だって誤解した方がおかしいでしょ? いくら懐いてても、あいつ、男ですよ?」
 茂庭と笹谷は肩を叩き合っているが、二口にはそもそも疑問だ。確かに青根が女子から託された手紙とまでは言わなかったが、普通は分かるだろう。だがそれには笹谷から淡々と指摘される。
「でもよ、お前だって青根が失恋したからってオレたちが誤解したら、やっぱりって言ってたじゃねえか」
「だから、それは……。」
 そう言われると、二口もぐっと言葉に詰まる。どうにも説明しづらいのは、時系列が逆のためだ。仕方なく一度肩で息をしてから、話を整理することにした。
「ええとですね、まず、最初に言っておきたいんですけど。青根はその女子に手紙を託されてから、何日か、持ったままだったんですよ」
「そうなんだ? 渡しそびれてた?」
「オレとしては、単純に忘れてただけという説も捨てきれませんけど、まあ、態度もおかしかったし、たぶんそうだと思います。で、実際にその手紙がオレに渡ってきたとき、オレは何日も前のだって知らなかったんです」
「うん……?」
 手紙の内容は、好きです、付き合ってください、だけではない。
 返事を聞きたいので、校内のある場所に、時間を指定して待っているとあった。非常に面倒くさかったが、その時間とは部活が終わって二十分ほどしたものだ。辺りは暗くなっているし、女子なので早く帰してもやりたい。何より、青根が託されたものなので、先輩として教室での青根の立場を悪くはしたくなかった。
 かなり不愉快さはあったものの、表面的には押し隠して二口は指定の場所に向かった。ちょうど時間的にはぴったりだった。だがその場所に女子はおらず、仕方なく待つ。十分待ち、二十分待ち、三十分待ったところで、二口はもう一度手紙を読み返した。
「オレがというか、青根がからかわれただけなんじゃないかと思って、すげー腹も立って。手紙には、一応携帯番号もあったんで、まあこれも適当なヤツかなと思いながらかけてみたんですよ」
「う、うん、そしたら……?」
 出たのは、不審そうな女子だった。名乗ると、いきなり泣き出された。
 非常に鬱陶しかったが、手紙が悪戯なら青根を巻き込まないでくれと言ってみたところ、また泣かれる。そして、ようやく途切れ途切れに訴えられたことで、二口はその手紙が何日も前に託されたものだと知った。
 その女子は当然、その日のうちに青根は二口に渡してくれるものと思って指定の場所で待った。だが、当然二口は来ない。がっかりして翌日に青根に尋ねようとすれば、あからさまに避けられる。その態度を見て、手紙は渡してくれたが、二口は嫌そうだったのだろうと予想した。それでも念のため翌日も待ってみたが、やはり二口は現れなかった。
 二日も待ちぼうけを食らった女子は深く傷つき、もう青根に尋ねることはなかった。もちろん三日目からは指定の場所にも行かない。密かに失恋の傷みを癒していたところに、当人から電話がかかってきた上、悪戯ならやめてくれと言われれば余計に泣いても仕方ないだろう。
「……でもさ、その女子もちょっとあれじゃない? ちゃんと二口に渡ったか確認しないで、待ってるなんてさ?」
「オレもそう思ったんスけど、どうも、青根に託した時にできるだけ早く渡してくれって言ったみたいなんスよ。だから、当然当日中に渡してくれると思ってて、それが青根にとってはできるだけ早いってのが数日だっただけで、その女子にも悪い点はあるんですけど、差し引きしたら青根のがどうかと思いません?」
「うーんっ、まあ、ねえ……青根は、毎日二口と会ってたんだしねえ……。」
 休日を挟んでいないので、本当に青根は二口と朝と放課後、最低二回ずつは顔を合わせていたのだ。それなのに、渡すのが遅すぎだろう。最初に誤解したことは謝り、改めてお断りすれば、更に泣かれて二口は本当に困った。
「その女子とは、オレはそれきりです。ただ、青根は同じクラスだし、ほら、女子って人数少ないから、どの学年でも大抵は結託してるでしょ? で、責められたんじゃないなあって」
「ああ、ありそう……。」
「凄くありそうだな……。」
「あいつら、マジで怖えよな……。」
「鎌先さんが何をして女子から総スカン食らったのかは聞きませんけど、オレはオレで、怒っちゃったんです。部活終わってから三十分も待たされたし、知らない女子には三段階で泣かれたし。さすがにうんざりしてたから、手紙とかはさっさと渡せって言ったんですけど、でも、青根は中身を読んでないわけだし、そんなに急ぎだとはやっぱり思ってなかったんですよね」
 二口としては、怒ったというより、愚痴に近いものがあった。だが真に受けたらしい青根は、顔を真っ青にして何度も頷いた。少し泣きそうになっていた。言いすぎたかと反省したが、早朝練習の終わりだったのですぐに授業に向かい、青根とは別れる。
 そして、放課後の練習でまた会ったときは、もう今のような状態だった。
「青根もきっと理不尽だったんだとは、オレも分かってるんです。勝手に頼まれて、勝手に怒られて。しかもオレやあの女子と違って、それを言葉で相手にもぶつけられないし、ストレスは溜まる一方だよなって」
「まあ、そうだよねえ……。」
「だからオレ、謝ったし、機嫌取りたくて飲み物とか買って渡そうとしたりもしたんですけど、全然ダメで。あいつ、ケータイ買ったでしょ? 何度もメールもしたんですけど、返事が返ってきたの、一回だけでした」
「……なんて?」
 あの一件から、練習中の事務的なこと以外で、青根とコミュニケーションらしきものが取れたのは、このメールだけだ。とにかく謝ったり、事情を説明したり、ときにはそれこそ茂庭たちの名前も勝手に出してなんとか会話を試みた二口に、青根は短いメールだけで心を折った。
 ベンチから立ち上がり、二口はロッカーに入れたままのカバンから携帯電話を取り出す。そして、こんなメールでも保護したまま大切にフォルダ分けしているが情けなくなりつつ、画面に呼び出して茂庭たちに見せた。
「……『せんぱいは わるくありません ごめんなさい』て、これ、青根から?」
「そうです」
「全部平仮名なのは青根らしいからいいとして、なんで青根が謝ってんだ?」
「オレが怒ったのをまだ真に受けてるのかなって思ったんですけど、そうだったら、オレはもう撤回してたから、伝わってないとも思えなくて。だから全然意味が分からなかったんですけど、ずっと考えてたら、ある可能性に気がついちゃって」
「ああ……?」
 メールの画面を閉じ、制服のポケットへとしまえば二口はまたため息が出る。この可能性を思いついたときは、何故か本当に少し泣いてしまった。
「……青根って、オレに告白してきた女子のこと、好きだったんじゃないですかね」
「え。……えっ、それはどうかな!?」
「青根ってバレーと二口以外に興味があんのか……?」
「つまり、好きな女子から他人へのラブレターを預かっただけでも傷心なのに、更に頑張って渡しても好きな女子と尊敬する先輩から詰られて、青根もさすがに心が折れたってことか?」
「まあ、そんな感じです。いや青根の心は折れてなくて、単に向きを変えただけって感じですけど、オレ、まさか、青根がずっと渡してこなかった理由がその女子へ好意だなんて微塵も思わなくて……。」
 ため息を重ねてみるが、今になって思い返せば手紙を渡すまでの数日間、やたらそわそわしていたのだ。あれは、手紙を渡すことで、二口がその女子と交際してしまうのではないかと、不安だったのだろう。
 普通に断っただけであれば、あの女子もきちんと手紙を渡してくれたという点で青根への評価を高めたかもしれない。だが渡すのが遅れたことで、何もかもが悪い方向に転がった。青根も自業自得という意識があるからこそ、二口は悪くないと言い、謝った上で避けているのだろう。
「……オレはさ、二口の説が正しいとは思えないけど。でも、そうだとしても、それじゃ青根は二口を逆恨みしてるようなものだよね?」
「そんだけ恋愛感情ってのは厄介だってことじゃないんスか、オレは知りませんけど……。」
 正直に言えば、青根はもっと淡白というか、疎い気がしていた。明らかに童貞だろうし、そもそも色恋沙汰に興味があるように見えない。だがそうであっても、もう高校生なのだ。あの外見であれば、女子から積極的に話しかけられることはまずないだろう。例の女子は、二口のことを知りたくて、青根にそれなりに話していたのかもしれない。女子との接点が少ないほど、わずかな出来事で惚れてしまうという一般論は理解しているのに、それが青根にも当てはまると思うとまた泣きそうだ。
「あのさ、二口? この件、オレたちが青根に尋ねてもいい?」
 動揺するのも悔しくてロッカーの端を睨みつけていると、茂庭からそんなふうに申し出られる。
「……いいですよ、これ以上悪くなるってこともないですし。せめて理由が分かれば、オレも納得します」
「うん、分かった。じゃあ何か分かったら二口にも教えるね」
 迷う仕草こそ見せたが、本当は茂庭からの申し出が嬉しい。もう自分ではどうにもならないと痛感していた。
 だから諦めるつもりだったのに、先輩たちが間に入ってくれる。部活内のことではあるが、結局は個人的なトラブルであり、茂庭たちに解決の義務まではない。それでも、たとえキャプテンとしての責務であってもそうしてもらえることは、二口にとっては戸惑うほどの優しさだ。
「お前はお前で、ちょっと我慢してろ。今のままだと、青根を追い詰めるだけみたいだし、お前もしんどいだろ?」
「笹谷さん……。」
「そうだぞ、つらいなら先輩の胸を借りて泣け!!」
「いやそれは遠慮します」
「なんでだよ!?」
 頭を撫でてきた笹谷にまた何か張り合いたくなったのか、両手を広げて待ち構える鎌先には丁重にお断りしておいた。
 そうして再びため息をつくと、少しだけ気分が浮上しているのが分かる。少なくとも、これで理由は分かるはずだ。そう期待して、二口はカバンを肩に掛けた。
「じゃあ茂庭さん、オレ、もう帰ります。青根の件、よろしくお願いします」
 軽く頭を下げて頼めば、茂庭たちは手を振って見送ってくれた。
 何日かすれば、理由は分かるだろう。あわよくば、青根が説得されてまた懐いてはくれないだろうか。
 すっかり日が落ちた学校内を歩きながら、うっかり想像して口元が緩んでしまう。少なくとも、茂庭たちは青根の失恋説に懐疑的だった。青根はあの女子を好きだったわけではないのかもしれない。そうと期待するだけで、また胸の奥が軽くなる気がする。
 早く青根をまた撫でてやりたい。
 そんなふうに願った自分が、いかに楽観的だったかは、翌日には思い知らされた。








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