■思春期





 中学の頃、二年生の春の大会で青根が当時いた中学と二回戦で当たった。実は小原がいたらしい一回戦とは全く違い、打っても打ってもスパイクは決まらない。半分にも届かない点数で、ストレート負けをした。身長の伸び始めが早く、中学から始めたにも関わらずたった一年で弱小校とはいえエースと呼ばれるまでに成長していた二口を完全に止めたのは、当時はまだ身長がほぼ同じくらいだったのに圧倒的な存在感を放つ青根高伸という選手だった。
 そのことを、二口はもちろん忘れていない。観客席から見ていた小原は好意的な解釈もしてくれているようだったが、あのとき二口が笑っていたのは味方を鼓舞するためではない。どちらかと言えば、笑うしかなかった。エースだなんだと持ち上げられても、所詮は井の中の蛙で、本物の実力者の前では無様に潰されるしかない。
 そんな現実を突きつけられて、二口は笑っただけだ。
 小学生の頃からバレーに打ち込み、期待や人望、なにより自尊心を持っていれば悔しくて泣いたかもしれない。あるいは、自信をなくして呆然と項垂れたかもしれない。二口がそういう反応に至らなかったのは、単純に自らに対して何の根拠もなかったためだ。
 ああ、やっぱりこんなものか。
 ああ、やっぱりダメなんだなあ。
 競技経験の短さと、試合経験の少なさで、練習でいくら褒められてもいまいち実感がない。練習試合ではどこまでも相手が手を抜いたからに思えた。一回戦を大差で突破しても、小原には悪いが、たまたま強くないチームと当たっただけのラッキーだと考えていた。
 だからこそ、二回戦で惨敗して、やっと現実になった気がしただけだ。悔しさより、苦しさより、どこかほっとした。たった一年頑張ったくらいで、簡単に勝てるような甘いスポーツではない。よほどの才能があるか、驚異的な努力をすれば別かもしれないが、自分はそのどちらも持ち得ていない。それでも、あまりに周りが褒めてくれるので、少しくらいは自分は特別かもしれないと思い始めていた時期でもあった。
 片足を突っ込みかけていた自意識過剰な勘違いも滑稽だったし、あれだけ期待の目で見ていたチームメイトたちが失望したように視線を逸らすのも面白かった。
 どうして、自分はここにいるだろう。
 試合を終えて相手チームと挨拶をしてもずっと不思議で、世界中が自分を騙していたというネタばらしでもされたような気分で、笑ってしまった。そんな状態だったので、負けたくせに、一番のブレーキになったくせに、へらへら笑っている二口は相当目立っていたようだ。観客席にいて、しかも一回戦の活躍を目の当たりにしていた小原のような者は、好意的な解釈もしてくれたらしい。だが最も近くで二口を見ていて、その性格も知っていたチームメイトたちはよほど腹に据えかねたのだろう。控え室代わりに指定されたロビーの一画まで戻り、着替えようとしたところで三年生から殴られた。次の試合が始まっていたので、大会の関係者などはいない。周囲にいた大人は顧問や学校の関係者だったが、自業自得だと言わんばかりで見て見ぬふりをされる。
 ちなみに、殴られたのはその一発だけで、当時のキャプテンからだ。何故か泣いていた。引退は夏の予定だったのに、他のスタメンの三年生と共に数日後に退部する。そのときも殴られそうになったが、自制された。逆を言えば、試合直後はさすがに我慢ができなかったということなのだろう。キャプテンを始めとした主力の三年生が抜けてから、下級生でもそこそこ上手かった者から辞めていく。残ってくれたのは、すぐに引退してしまう控えだった三年生が二人と、小学校からの友人で付き合いで入ってくれただけの二年生が二人、それに初心者同然の一年生が四人だ。試合はできる人数なので、二口としては特に気にならない。
 ただひたすら練習をして、部活を続けた。負けるたびに殴られてはさすがに親やクラスメートに誤魔化すのが大変なので、残った部員は試合中も試合後も笑っている二口を咎めないでくれたことは助かる。かなり早い代替わりをして以降、二口がいた中学は公式戦で勝つことはなかった。いくら二口が点を稼いでも、それ以上に取られてしまうのだから仕方がない。負けて泣いたり、悔しくてたまらなかったという記憶もない。ただ、いつもそんなものだと笑って結果を受け入れた。きっと、自分はそれほどバレーに執着がないのだろうとも思っていた。
「……。」
 それなのに、家からの近さがあるとはいえ、強豪校の伊達工業に進学した。中学の頃以上に厳しい練習に打ち込み、一年生で部室を使える一人にも入った。
 まだ三年生が居た頃、二口は途中交代で高校初の公式戦に出たことがある。一セットの半分くらいの時間で、特に活躍も大失態もしていない。勝敗に影響するようなプレーはできなかった。だが試合に負けて、初めて悔しいと思った。笑えなくて、泣きそうになった。
 中学の頃と、何が違うのだろう。あのときも、実力こそ今のチームメイトとは違うものの、誰もが一生懸命で、勝とうとしていた。勝てないと、二口以外は悔しくてつらそうだった。
 ふと気がついたのは、まさに『実力』だ。もちろん中学のチームメイトも頑張っていたが、チームとして勝てる実力ではなかった。だから負けても不思議ではないので、平然としていられたのだ。今の伊達工業は鉄壁と称されるほど防御に特化したチームであり、実力はかなり高い。ただ個性がある分、組み合わせによっては発揮具合に差が出る。そのため、もっと特性を出せていれば勝てていたかもしれないという想像が、そこに結果を導けなかった悔しさに繋がる。
 決して自分ほどには上手くない中学時代のチームメイトを見下していたのであれば、まだマシかもしれない。自分は、本当にただ客観的に、チームが強くないことを知っていた。だから勝てなくとも悔しくなかった。
 自分はなんと残酷だったのだろうと、今ならば分かる。
 殴ってきた先輩も、辞めていった部員たちも、きっとそれに気がついていた。青根がいた中学に負けて挫折したのではない、唯一のエースにお前たちは弱いのだと笑顔で断罪されて、心が折れただけだ。それで辞めるくらいなので、そこまでだったとも言える。残った部員もいたのだ。だが確実にチームは弱くなった。自分が辞めていれば、もっとチームは弱くなっただろう。
「……。」
 中学の頃に関しては、何が正解だったのか、今でも分からない。
 あのとき二口を殴って辞めた当時のキャプテンは、春高の予選で別の高校のベンチにいるのをたまたま見かけた。伊達工業とは試合はしていないし、当たっていてもあの先輩は出なかっただろう。それでも、まだバレーを続けていたことに純粋に驚いた。部活に残った控えの三年生たちは、高校ではもうバレーをしていないと聞いているので、余計に困惑もした。
 今になっていろいろと当時の自分が見えたと思っているが、そもそもの予感は四月からあった。
 気にしていないと思っていたのに、青根がいることに気がついて知らないふりをした。名前はもちろん、バレー部だとも分からない、当然試合で当たったこともない、全くの初対面として接した。青根がこちらを覚えているとは思えない。相手チームのスパイカーも健闘したと称えられるような試合ではなかったし、仮に記憶の隅にあるとすれば小原のようにまさに負けてもへらへらしていたという不快感だろう。一つ心配だったのは、実は試合後にも青根とは揉めているからだが、そのときは二口もジャージから制服に着替えていたし、少し前まで試合をしていた相手と気づかれたかも曖昧だ。
 二年以上前のあの日、当時のキャプテンから殴られて唇の端を切った中学生の二口は、血が止まってから一人で帰ると顧問に申し出てチームから離れた。体育館は中学校に比較的近かったし、公共のバスでも戻ることはできる。休日だったためか、二口の態度を腹に据えかねていたからか、他の部員にも配慮して顧問は別行動を許可してくれた。チームメイトたちが帰るのを見送ることはなく、二口は少し離れたロビーのベンチでタオルを口元に当て血が止まるのを待った。痛みはあっても出血は少なく、あまりタオルにも滲まなくなったのでジャージから制服に着替えてトイレに向かう。洗面台の鏡に映すと、血が頬や首にもついていたので、仕方なく顔を洗った。水が傷にしみると思いながらタオルで拭いていると、ふと後ろに誰かが立っていることに気がついたのだ。
『……お前さー、試合前とかに相手チームのエースを挑発して、試合になったらブロックしまくってプライド折るのが趣味らしいけどさー』
『……。』
 鏡越しに立つ青根に正直恐怖したが、それは心霊的な意味合いが近い。本物だと分かってしまうと、二口は痛みで引き攣る口元でも笑みを浮かべながら、そう話しかけた。
 この頃から、青根が相手のエースに宣戦布告かのようにロックオン宣言するのは有名だった。ちなみに、二口は試合前にされていない。それほどの選手ではなかったということだ。そのことも悔しくは思わないのに、二口は青根に語りかける。
 このとき、青根はまだユニフォームだった。次の試合があったわけではない。同じユニフォームの選手もいなかったので、このトイレが青根の中学の控え場所に近かったということもないだろう。それでも現れたことに、半分夢のような気がしていた。世界はまた自分を騙すつもりなのかもしれない。非現実的な想像に笑いながら洗面台で振り返り、鏡越しでなく直に見つめて続ける。
『でも、そもそもプライドがない奴は、どうすんの』
『……。』
『オレみたいなのばっかだと、試合も楽しくないんだろ。悪いな、甚振る玩具にもなれなくて』
『……。』
 次第に怪訝そうになっていく瞳に、ぞくぞくしたのをよく覚えている。無言なのは馬鹿にするような口調に怒っているからだと考えていたが、今にして思えば青根は当時から寡黙だっただけだろう。それでも、気配が荒くなったのは察して、二口は洗面台の前から移動した。これで青根にも殴られでもすれば、せっかく勝ったチームなのに迷惑をかけてしまう。
『まあいいや、どうせオレもうバレー辞めるし。引導渡してくれてありがとなっ、どっかのエースさん』
『……!?』
 ポジションはミドルブロッカーだが、最も得点を稼いでいたのは青根だ。エースでも間違いではないだろう。名前ももちろん知っていたが、こちらは知られていないのに呼ぶのも癪で、ひらひらと手を振って二口はトイレから出て行こうとした。
 辞めると言ったものの、このとき二口に部活を辞める気はなかった。ただ、漠然と辞めざるを得ない気はしていた。なにしろ、チームの総意としてキャプテンに殴られている。まさかそのキャプテンたちの方が退部するとは思ってもいなかったので、自分が追い出されるのだろうなあと自然とため息が出たとき、ぐっと手首を掴まれた。
『おわっ!? ……な、なんだよ?』
『……。』
『言いたいことでもあんのかっ、ないなら離せバカ!!』
 当時は身長もほぼ一緒だったのに、体格が明らかに違った。驚いて振り返ったところで、いきなり胸倉を掴み上げられる。手の強さも想像以上で、なんとか慌てて振り解き二口は逃げ出した。
 青根は追ってくる気配はない。しばらくロビーを走って、カバンを洗面台の鏡のところに置いたままだと気がつく。ぐったりして、二口はその場にしゃがみこんだ。まだ試合をしているらしい体育館からの歓声が、なんだかやけに遠くからに聞こえる。
『……なんなんだよ、あいつ』
 思わず呟けば、また切れた唇が痛む。
 手首を掴んだ大きな手が、やけに印象に残っていた。まだ握られているような錯覚もして、制服のシャツを引っ張って調えてから二口は反対の手でゴシゴシと擦る。どうしてだか分からないが、胸の奥がざわざわして仕方がなかった。
 今にして思えば、単純に悔しかったのだろう。チームとしての実力差は納得したつもりでも、二口は一対一で何度も青根に止められた。当時のセッターにブロックをかわしきる技術はなく、二口は自分だけで青根に立ち向かわなければならない。避けることも、ぶち抜くことも、当時の二口にはできなかった。完全に青根に負けた。あまり落ち込んでいなかったのは、チームとしての勝敗にばかり意識がいっていたためだ。より敗因として大きいチーム全体の実力差に安堵して、個人としても負けたことから目を逸らしていた。
 それを約二年ぶりに教えてくれたのは、入学してからの青根への自分の接し方だ。
 面識がないと装ったのは、情けない対戦相手だと思い出させくなかった。そもそもこちらが説明しても記憶に残っていないことも予想できて、それが悔しくて予防線を張った。ほとんど無意識にその態度を選択したのだから、自分はあの一件で相当傷ついていたのだと嫌でも思い知らされる。
 それなのに、当時は平気なふりをして笑っていた。
 それが、余計に中学時代のキャプテンや他の部員を追い詰めた。最悪なのは、そうではないかと気がつき始めたのが高校に入ってからで、確信に至ったのが最近ということである。
「……オレ、ほんと性格悪いんだなあ」
 思わず独り言が出るほど、二口は深くため息をついた。
 あの一件を、青根には知られたくない。あれが二口だったのだと分かると、当時の無自覚さも、それが引き金でチームが崩壊したことも、何もかもを知られて幻滅されそうだ。先日ファストフード店でばらされた交際関係は、ある意味において二口は純潔を守ったとも言えるので、周りの評価はどうあれ青根はあまり気にしないだろう。だが、バレーに関することはまずい。しかも、直接の面識まであって、黙っていたのだ。
 青根がこんな性格だとは知らなかったし、まさか好きになられて付き合うとは想像だにしていなかった。
 絶対に、別れたくない。
 だからあの件は思い出さないでほしいと願うほど不安は大きくなり、特に青根が傍にいないときはそれがひどくて憂鬱になったとき、横から不思議そうに声がかけられる。
「どうしたんだ、そんな今更のことでため息をついて?」
「……いや、まあ、自覚してなかったわけじゃないんですけどね、オレも」
 これが鎌先であれば、やっと分かったのか遅すぎるが許してやるから今までの暴言を謝罪してもっとオレに優しくしろくらいのことを意気揚々と叫ぶだろう。そんな鎌先なら二口も無視できる。だが比較的真面目な笹谷から言われると、なんとなく落ち込んでまたため息をついた。
 今日は土曜日で、休日練習が終わったところだ。着替えがすんだ二口の傍に、青根はいない。自主練習という建前になっていても、青根はこれまで休んだことはなかった。だが今週の土曜日は休むのだと、昨日の段階で伝えてきた。体調不良などではなく、家の方で用事があるようだ。早く終われば途中からでも来るという話だったが、結局青根は姿を見せなかった。
「つか、青根が休みなのって珍しいよな。あいつ、休日練習に来なかったことあったか?」
「……たぶん、ない気がします」
 笹谷もかなり出ているが、さすがに全日ではない。特にどちらかの、せめて午前か午後だけでも休んで休養も取るようコーチから進められていることもあり、隔週で一日ずつ完全休日を作っている。もちろん学校に来ないだけでロードワークなどはしているのかもしれないが、上級生が休まないと下級生が休みにくいという事情もあり、特に部室の鍵を持っている三人はローテーションで休んでいる。いくら練習はすべきでも、高校生なので過度になって体を壊しては意味がない。強豪校なので余計にそういった視野の狭さに陥りそうなところを、今のコーチは心配して休息の大切さを常に説いていた。
 そんな中で、真面目に聞き入って一切行動には反映させないのが、青根だった。二口は家の都合や体調不良で半日か全日休んだことが何度かあるが、青根は確か休むのが初めてだ。
「ああ、それコーチも気にしてたみたいなんだよねえ。そろそろ強制的にでも休ませろって言われてたから、オレもちょうどよかったよ」
「そうなのか。でも、家の近くで走ったりしてそうだよな?」
 着替え終わってロッカーを閉めながら、茂庭も苦笑していた。少なくとも、代替わりして茂庭がキャプテンになってからは休んでいないのだろう。その前から継続しているとコーチは知っているので、心配していたようだ。だがそこまで熱心な青根なので、練習に来ないだけでロードワークなどはしていそうという笹谷の想像も分かる。それに、茂庭は首を傾げた。
「どうなのかなあ、資料がどうとかって言おうと頑張ってたから、ほんとに何か家の用事とかあったのかも。途中から来たい雰囲気だったし、練習にはならない理由っぽいね」
「なんだ、ちゃんと用事があるのか。……何の用事か、二口は聞いてるのか?」
「……いえ」
「ああ、だから凹んでるのか」
「……。」
 その通りだと言えなくて、二口はまたため息をついた。
 元々、青根は『理由を説明する』という行為が非常に苦手だ。普段の、会話相手がいくつか可能性を示し、是非で意図を伝えるという手法が使えるのは、尋ねる側にある程度の予測が立つ場合のみである。
 今回で言えば、あの青根が休むくらいなので、体調不良か家の用事だろう。この二つを提示すれば、後者だとは分かった。だが更に具体的にするには、山のようにある可能性を延々と挙げていくしかない。それではいつまでも正解に辿り着かないと思うからこそ、青根は言葉で茂庭に伝えようとした。だが上手く説明できないし、それほど休むことに理由も必要なかったので茂庭は流してやる。伝えなければ大事になるという自覚があれば、さすがの青根も文字で書いてくるぐらいのことはできるので、今回はやはり大したことではないだろう。
「で、しかも途中参加もなくて、また凹んでるのか」
「……。」
「笹谷、やめてあげてよ。二口ってあれだけの武勇伝があっても純情なんだからさ、青根には」
「……いや、だから中学の頃のは武勇伝じゃないっていうか」
「そうだったな、何十人もの女子にした仕打ちは棚に上げて、青根には純愛だったな」
「……だから、オレも反省してるっていうか、純愛とか言うのマジでやめてくださいよ、間違ってないですけど」
 深くため息をつきつつも、焦ったりしないのはもう部室に茂庭と笹谷、それに小原しかいないためだ。鎌先も練習には来ていたが、青根がいなくて大人しいように見えたらしい二口に温かい飲み物でも買ってきてやろうと言い出した。それに二口より先に茂庭たちが喜び、希望の銘柄を言って小銭を渡す。数日前に奢ってもらったばかりなので二口たちも申し訳なく、小銭を出した上で頼んだことで、結果的に鎌先はパシらされているようなものだ。部室を出て行く背中は、少し哀愁が帯びていた。
「でもよ、あの話って奥手どころか絶対箱入りだった青根には、衝撃的だったと思うんだよな。……それで、ケンカになったのか?」
「……。」
 今日はやけに笹谷が手厳しいと思っていたが、どうやらあれがきっかけでまた冷戦状態に入っていることを心配してくれていたかららしい。
 実を言えば、二口もそれを危惧していた。ファストフード店では取り乱して帰ったものの、携帯電話を持たない青根には連絡が取れない。対戦していることは思い出さなかったとしても、やはり何をしていなくとも交際人数だけはやたら多かったことが後から不愉快になるかもしれないのだ。取り繕う術もない二口は、ひどく不安だった。だが翌朝、早朝練習前のいつもの待ち合わせ場所に行くと、青根はちゃんとそわそわしながら待っていた。
『……青根っ』
『……!!』
 つい普段より弾んだ声で名を呼べば、青根は嬉しそうに手を伸ばしてくる。素直にギュッと抱かれ、こちらからも腕を回して安堵した。更には急かすようにキスへと促され、唇を重ねて二口は確信する。
 青根は、怒っていない。むしろ、恋人ならば触れてほしいと願ってしまうという話を、ちゃんと理解してくれた。うっとりしてキスを受け入れる二口に、青根はちゃんと朝から好きだとも囁いてくれる。それが挨拶よりずっと嬉しくて、二口はまた安心したものだ。
「……いえ、ほんとにケンカはしてないです。むしろ、あいつ、前より撫でてくる感じだし」
「そうなのか? まあ、それならいいんだけどよ」
 どちらかといえば、あの日から青根の機嫌はいいような気すらする。平日なので泊まりにくることはなく、体こそ重ねてはいないが、登下校では青根はずっと二口をゆるく愛撫する。抱き締めたり、顔や耳を撫でたり、キスまでしかしなくとも、充分に嬉しかった。
 そうしてやっと週末なのだ、期待していたことは否定できない。生憎、家族は金曜の夜は帰省しなかったが、土日のどちらかは祖父母のところに行くだろう。そう思っていると、土曜日に行くと前日に言われた。つまり今日が泊めてやれるはずだったのだ。家の用事で休日練習は休む予定でも、途中から来れれば来るといったことも曖昧にしていたので、実は期待していた。てっきり昼からでも練習に合流して、一緒に自宅へと帰れるのだと思い込んでいた。
 女子との交際遍歴も許し、対戦に至っては思い出すこともない。最高の反応を見せた青根にすっかり安心して、早くいやらしいことをしたくて堪らない。欲求ばかりが溜まっていく中で、それを吐き出させてもらえないと分かることは、落差が大きすぎて本当に憂鬱になる。
「じゃあ、今日青根が休んだのって、本当にただの偶然なのか」
「……はあ、たぶん」
「まあずっと休んでほしかったしね、少し心配にはなったけど二口とのことに影響がないならオレたちも安心したよ」
「すみませんね、まだ不安定な関係で」
 傍からもそう見えてしまうので、何かあると心配されるのだろう。今は交際遍歴も過去の対戦も流されたのでしっかりと抱き合えているが、後者に関してはまだ地雷としては健在なのだ。だからこそ二口は不安になるし、それが透けて見える茂庭たちも気遣う。よくないと分かっていても、できるだけ先延ばしにしたいと思ったとき、少し離れた場所でドサッとカバンが床に落ちた。
「……小原?」
「えっ!? ……あ、ああ、いや手が滑って!?」
 小原もとっくに着替えており、服やタオルを畳んでカバンに片付けていた。それが終わったので、カバンを出してロッカーを閉めようとしていたのだろう。鎌先を待っているので帰るつもりではなく、準備だけしてベンチにでも座る気だった。そこでうっかり床に落としたことはあまりおかしなことではないが、振り返った二口にビクッと肩を震わせて異様に萎縮している。
 大人しい性格の小原だが、決して小心者ではない。ましてや、二口に怯える理由もない。だがどこか気まずそうに視線を逸らす小原は、どう考えても怪しい。追及してもいいものか迷っていると、頼りになる茂庭が穏やかに尋ねてくれた。
「小原、どうしたの? そういえば、小原もここ数日大人しかった気がするけど」
「キャプテン……。」
 それに、小原はすがるような声を出す。やはり何かがあったらしい。カバンを出したロッカーを閉めた小原は、一度大きく息を吐く。そして、何故かチラリと二口を見てから、茂庭へと答えた。
「なんだよ……?」
「……茂庭さん、オレ、青根と同じクラスなんですよ。で、鎌先さんに奢ってもらった翌日、青根から質問された、というか、質問が書かれた紙を渡されたんですよね」
 そんな話は初耳だ。だがあまり不思議でもない。授業にとことん興味がない青根は、課題やテスト日程などをよく素で忘れる。二口はクラスが違うので、教えようがない。仕方なく、同じクラスの小原に尋ねるため、言葉に出す代わりにメモに書いて渡したというのは珍しいことではない。
 ただ、問題はそれがあの日の翌日で、しかも小原が怯えていたということだ。茂庭に答えてはいても、明らかに二口の様子を気にしており、だんだん声が緊張していく。
「どんな質問だったの?」
「それ、が……『中二の春の大会の一回戦の相手校』、て」
「……!?」
「……え、それって、要するに」
「……二口がいた中学を確認してきたってことか?」
「わっ、悪い、二口、でもオレも本人に直接きけばとは言ったんだよ!? でも、なんでか知らないけど青根は首を横に振って嫌がるし、オレだって嘘は書けないし、仕方なく書いて渡したら凄く喜んでて、でも怒ってるとかじゃなかったぞ!? それはほんとだからな、許してくれ!!」
「……。」
 必死に訴える小原の言葉は、二口の中で素通りしていた。
 青根は、どうして二口がいた中学を知りたがったのだろう。やはり覚えていなかったのだということは、あまりショックではない。自室にうっかり飾っていた写真を見ても黙っていたくらいなので、忘れていることは分かっていたつもりだ。
 だが本当に忘れており、何も思うところがないのであれば、どうして二口に尋ねないのか。そもそも、何故知りたくなったのか。分からないことが多すぎて二口の思考が固まりかけたとき、急に部室のドアが開け放たれた。
「……!?」
「みんなっ、心優しい先輩のお帰りだぞ!! 涙して喜べー!!」
「……チッ」
「なんだ、鎌ちか……」
「鎌先かよ、びびらせやがって……。」
「ああ、鎌先さん、おかえりなさい……。」
「なんだよそのテンション!? この寒い中オレを買い出しに行かせやがったくせにっ、特に二口!! おめーの指定の缶だけ売りきれてて、わざわざ遠い自販機まで行ってきたのに舌打ちすんな!! 青根じゃなかったからってがっかりすんな、泣くぞ!!」
 ドアのところで喚きながら、鎌先は熱い缶飲料を投げてきた。勢いはなく、ちょうど取りやすい放物線を描いている。難なく受け取った二口も、さすがに舌打ちは失礼だったと思い直した。買って来てくれたのは間違いないので、礼を言おうと顔を上げたとき、今度こそ呆然としてしまう。
「……。」
「な、なんだよ、そんなにそれが飲みたかっ……ぬあっ!?」
 怪訝そうにする鎌先は、まだ部室のドアを開けたままだった。それを閉めるべく振り返ろうとしたところで、すぐ後ろに立っていた人物にやっと気がついたらしい。驚いていくつかの缶を落とした鎌先に、いつものスポーツバッグ以外にも大きめの紙袋を持った青根はすかさず拾って渡していた。
「お、おお、サンキュ……つか、もう練習は、終わって……?」
「……。」
 そして一礼をしてから部室に入った青根は、ずんずんと中へと進んでくる。そしてベンチに座る二口の前に立つと、軽く身を屈めてからいきなり抱き締めてきた。
「わっ!? ……あ、青根?」
「……。」
「……つかっ、バカ、堪えろ、みんないる!!」
 かなり走ってきたのか、息は荒く、顔もやや紅潮している。中学のことを小原に聞いたらしいと知り、怯えたばかりだったのに、嬉しくてつい背中に腕を回せば顔を上げた青根にキスされそうになった。不安が頭の隅になければ、受け入れていただろう。慌てて止めると、寸手のところで青根は耐えた。ただ、不満ではあるようで、二口の首筋にぐりぐりと顔を擦りつけるように甘えられると、これはこれで困る。
「青根のヤツ、今頃来てどうしたんだ……?」
「鎌ちはそれより早くドアを閉めてよ、寒いし」
「あ、ああ……いやっ、だからお前らひどくないかオレに!?」
 その間に鎌先がドアを閉め、持っている缶飲料を笹谷が受け取ってそれぞれに配っていた。三人がしっかりと礼を言えば、鎌先も機嫌を良くしている。自分も言わなければと二口は思うものの、とにかく青根が懐いてくるので、そちらにばかり気を取られていると茂庭が穏やかに尋ねてくれた。
「……青根、どうしたの? もう練習は終わっちゃったよ?」
「……。」
 茂庭からの言葉に、ようやく青根は首筋に顔を埋めるのをやめてくれた。二口の腰には腕を回したままで、すぐ横に腰を下ろしてくる。ぴったりくっつく距離感は、やはり怒っている雰囲気ではない。抱きついてきたことからも、むしろより接近したままだろう。だが茂庭から本日の練習が終わっていることを告げられて、青根は寂しそうに頷いた。どうやら練習が終わる時間であることは分かっていたらしい。
 では、何故急いでやってきたのか。むしろ終わる時間だからこそだろう。いまだに携帯電話を持たない青根は、誰かと会うにはそこに行くしかないのだ。この時間であれば、練習は終わっていても部室にいるか、その周辺を歩いている可能性は高い。遭遇できることを期待していた相手は、嬉しそうに抱き締めた二口以外にありえない。
「用事が長引いちゃったんだね、まあ仕方ないよ。コーチからもたまには体を休めるように言われてたよね? また明日からちゃんと参加すればいいし」
「……。」
「でも、それでも来たのは、どうして? 二口に会いに来た?」
「……!!」
 同じことを茂庭が確認すれば、練習に参加できずに肩を落としていた青根が、パッと顔を上げて何度も嬉しそうに頷く。
 予想通りではあるが、少し喜びすぎだろう。ちなみに、今日なら泊まれることを二口はまだ青根に告げていない。下手をすれば、これから数時間しか一緒に居られないかもしれないのに、わざわざやってきた青根は興奮していた。
 茂庭たちはどこか微笑ましそうだが、なんとなく二口は不可解さが増していく。青根が二口に会って嬉しがるのはいつものことだが、どうにも異常だ。すれ違うかもしれないと心配だったので、ちゃんと捕まえられて喜んでいるだけなのだろうか。怪訝そうにする二口と違い、茂庭は実に表面的な質問をする。
「じゃあ、会えてよかったね。あ、その紙袋を渡しに来たの?」
「……!!」
「……ああ、オレにくれるのか?」
 授業がある日でも部活道具しか持ってこない青根が、珍しく別の荷物を提げている。それが、少し大きめの紙袋だ。茂庭の指摘で大きく頷くと、青根は向き直り、紙袋を渡してきた。
 これには予想がつく。先週外泊連絡をしたときに、青根の父親が恐縮してまた御礼をすると言っていた。覗いてみれば、二口家宛という熨斗がついた高級そうな箱が入っている。また菓子折りと礼状がついているのだろう。二口の両親はあまり気にしないのでむしろ恐縮するが、渡してくる青根はやけに自慢げだ。お前が買った物ではないだろうと呆れなかったのは、紙袋にもう一つ別の袋が入っていたからである。
「青根……?」
「……。」
 菓子折りは家族宛だが、布袋の方は二口の個人宛になっていた。だが何故かそれを青根は出し、立ち上がる。向かったのは壁につけるようにして置かれたテーブルで、どうやらそこに広げたいらしい。
 青根の両親が息子の友人にと別に用意した品を、この場で改める意味は何なのか。自然と全員がテーブルの方に集まる中で、二口はどんどん嫌な予感がしていく。だがいつになく誇らしげな青根は、布袋からいくつかの品を慎重に出して並べた。
「……。」
「……アルバム?」
「……果たし状?」
「……あと、CDか」
「それに、クリアファイルに書類が……あ、書類じゃなくて、写真、というか映像を印刷したものですね。というか、これって、試合中の……?」
 薄めだが開かなくともアルバムと分かる冊子と、果たし状に見えるのは恐らく母親からの直筆の手紙だ。相変わらず、横に長い和紙に書いているらしい。だがやけに厚みがあるので、今回は単なる礼ではないのかもしれない。
 そう考えていた二口は、CDロムと書類にはあまり警戒していなかった。だがひっくり返すと、確かに映像を印刷したようなものが何枚か入っているようだ。『見本』とクリアファイルにマジックで書かれているので、CDロムに入っている映像から出力したのかもしれない。
 一見してバレーの試合中だと分かったようで、茂庭たちと一緒に眺めていた小原がそう言いかけて、じっと用紙を眺める。だが二口は先にCDロムの方をひっくり返し、そこに書かれていた日付と、対戦校の名前に、ザッと血の気が引いた。
「……これって、例の二回戦の映像だよな? 青根の両親が撮影してた?」
「……。」
「あー……えっと、学校の顧問とかが?」
「……。」
「もしかして、今日はそれを中学に取りに行ってたのか?」
 懐かしそうに確認をした小原に、青根は最初は頷き、次は首を横に振った。そしてまた頷く。二口の中学は弱小校だったが、青根のところは強豪だった。もちろん、試合も撮影していたのだろう。よく見ればロムには『コピー』とも書かれているので、複製してきてもらったようだ。確認するには再生機が必要なので、なくとも分かるように予め一部を印刷しておいたのだろう。
 二年以上も前のものがよくあったなとか、卒業してだいぶ経つのによく快く中学の顧問か何かが応じてくれたなとか、言いたいことはたくさんある。だが、どれもまともな言葉にならない。
 青根は、この映像を見ているはずだ。
 試合のことも思い出したのだろうか。その後のことは、まだ同一人物だと繋がっていないのだろうか。
 そうでなければ、あの話をした翌日からたった今まで、どうして青根が殊更懐いてくれていたのか、二口には分からない。
「なんだ、この試合ってこないだ言ってたスマイル・スパイカーのときのものなのか?」
「変なあだ名つけないでよ、鎌ちは。でも、オレも興味あるなあ」
「そんなに大きくない体育館でしたから、結構ちゃんと映ってるみたいですね……。」
「あ、マジで笑ってる」
「……!?」
 クリアファイルから出した紙をめくっていた笹谷が端的に言った瞬間、息を飲んだのは二口だ。青根はむしろ誇らしげだ。見つけてきたという自慢もあるのだろう。
 一際はっきりと顔が分かる場面が印刷されたものを覗き込み、勝手なことを言う面々の言葉は二口の耳に入らない。
「ほんと、一人だけ体格いいな。動いてなくても、巧いのは分かる。……いや、というか」
「……なんだか、可愛い、よね」
「……女子に見えるとかじゃないけど、可愛い、よな」
「……当時のオレはとにかく笑顔がこわいばっかりでしたけど、今見ると、可愛い、ですよね」
「そんなの今よりガキなんだから幼くて可愛く見えるのは当たり前だろたとえ二口でもなとは思っててもっ、くそ、これが五十人斬りのスマイルなのかよおおおおお!!」
「だから数が増えてるのと斬ってはないのと中学時代なんて運動できて背が高くてよくしゃべってれば誰でもモテるじゃないスか」
「オレだって背が高くて運動もできてよくしゃべってたぞ!?」
「あ、『女子とも』よくしゃべる、です」
「……。」
 本当は逃げ出したいくらいに震えていたが、がっちりと鎌先に二の腕を捕まれてそれは叶わなかった。しかも的外れに非難されて、少しだけ二口も余裕を取り戻せる。青根は不機嫌な様子がないので、きっと、試合後のこととは繋がっていないのだ。
 こんな動かぬ証拠を持ち出された以上、認めないわけはいかない。二年以上も前に、二口と青根は試合で会っていた。だが入学してから初対面のように振る舞ったのは、これしか理由はない。
「……つか、小原に言われたときは半信半疑だったけど、ずっと前にほんとに試合してたんだな。オレ、すっかり忘れてた」
「……?」
 戦ったが、記憶には残らなかった。青根もそうであれば、二口もまたそうであったとしても不思議ではない。
 できるだけ平然と言ってみたが、青根は首を傾げる。それに二口は内心で動揺が増しつつも、表面的には余裕を保つ。
「いや、だってお前も忘れてたんだろ? 一回試合したくらいじゃ、普通は……。」
「……。」
「忘れてたじゃねえか!!」
「……!?」
 まずいと分かっていたのに、青根も忘れていたはずだと念を押せば首を横に振られ、二口は声を荒げてしまった。すると、ハッと息を飲んで青根は大きく頷く。明らかに怒られて意見を変えただけであり、どちらなのか分からなくなってますます混乱してしまう二口に対し、まだ用紙を眺めている茂庭が穏やかに言う。
「ああ、青根は忘れてたよね、中学校の名前は」
「……。」
「だから、小原にきいたんだろうしねえ」
 青根の出身中学でどういうふうに試合映像を保管しているのか分からないが、最低でも対戦校の名前は正確でないと探しようがない。二口が認めなかった以上、もし小原の勘違いであれば別の大会や、学年ということもありえる。『二年生春の大会二回戦』が見たいのではなく、あくまで『二口の中学との対戦』を探していたのだ。万全を期するために中学校名を小原にも確認した。そして、これを見つけてきた。
 忘れていたくせにという批判に対し、否定も、肯定も、一部ずつ真実なのだ。なんとか気持ちを落ち着けようとしている二口に、用紙からは顔を上げた鎌先がざっくりと抉ってくる。
「……でも、二口って青根のこと知らなかったんだよな? 入学して、クラスは違うけど食堂かなんかの前で困ってるのに声かけたら懐かれたって、よく説明してたよな?」
「それは……。」
 入部したばかりの頃、当時はまだ引退前だった三年生を中心に、どうして無口な青根とコミュニケーションが取れるのかとよく質問された。
 それに、二口はいつも困ったように返した。
 そもそも自分は青根がバレー部のスポーツ推薦とも知らずに話しかけ、たまたま懐かれてしまった。同じ中学からの友人ということはなく、いっそ自分も面食らっている。
 尋ねられるたびに繰り返した答えを、鎌先たちも当然知っている。つまり、入学したときは気がつかなかった。つい先日になって疑問を持ち、今それが判明しただけだ。お互い様ということにまずはしておきたいのに、鎌先はふいっと青根に視線を向ける。
「青根も、気づかなかったのか?」
「……。」
 それには、青根は微妙な顔をした。首を動かさないということは、消極的な肯定だ。
 気づかなかった、と、言えなくもない。
 つまり、そうではないかと勘繰ることがあっても、中学校名も覚えていないくらいなのだ。確信がずっとなかったのかもしれない。それならそれでいいと納得したかったのに、急に青根が口を開く。
「……うまく、なってたから」
「は? ああ、中学で試合したときより、二口が上達してて、だから……?」
「……やめて、なかった」
 校舎内で、制服で会ったときは確かに分かりにくかっただろう。同一認定まではされていなくとも、青根にあの記憶があれば相手がにこやかに話しかけてくるとも思えないだろうし、自信がない。その最大の理由が、実際に入部して二口が巧くなっていたからというのは、ギリギリのところで堪えた。だがどこか安堵したように、バレーをやめてなかったことにも驚いたのだという反応をされ、二口はもう一歩後ずさる。
 青根に心を折られ、バレーをやめてしまった選手もいるだろう。だが辞めてやると当人に宣言した者は、ほとんどいないはずだ。
 それなのに、辞めていなくてよかった。
 そう呟けるのは、最初から試合もその後も覚えていて、かなりの確率であれは二口だったと青根は思っていたということになる。
「『辞めてなかった』? なんだ、二口って部活辞めそうだったのか?」
「そういえば、次の大会で、オレたち二口の中学の横で試合しましたけど。ほとんどの学校はまだ三年生がいるのに、引退したのか、物凄く部員が減ってて、エースと周りの落差がひどくなってたから次は当たっても勝てそうだなって思った記憶が……?」
「……ねえ二口、中学のとき青根のところと試合して、何かあったの?」
「……!?」
「……?」
「そりゃあ、何かあったんだろ、ボロ負けしたみたいだし。……でも、どんな理由があったとしても、残ってバレー続けた二口の肩をオレは持つけどな」
 一人だけ最後まで用紙をめくって試合の流れを確認していた笹谷の言葉が、逆に胸に痛かった。
 きっと、本当に残りたかったのは辞めた先輩たちの方だった。背が高いことで中学の入学式で声をかけられ、入部した。あっという間に上手くなった二口に、周りはあの試合になるまでにもう複雑な思いを抱いていたのだろう。
 それでも、完全に止められて悔しがったり、取り乱したり、落ち込んだりすればきっとあんなことにならなかった。二口も自分たちと同じだと、認めてもらえた。だが当時の二口にはそれはできず、ただ現実に笑うしかなくて、他の部員たちも気がついたのだ。
 二口は、自分たちとは違う。仲間にはならないのだと分かり、去っていった。
「……いえ、オレは」
 自分が、辞めるべきだったのだろうか。
 当時のキャプテンが退部を申し出る前に、二口から身を引くべきだったのだろうか。
 殴られた翌日も、それまでと全く変わらず平然と練習に出てきた二口を見て、特に三年生が驚いていたことを今になって思い出す。元々の友人以外とはほとんど会話もないのに、練習を休まない二口を遠巻きにして数日後、キャプテンは辞めた。
 何故か顧問の次に報告され、面食らった後に『はあ、お疲れ様です』と言えば胸倉を掴まれる。また殴られるのかと身構えたが、今度は拳を振り下ろされることはなく、一年前にバレー部に勧誘してくれたキャプテンだった先輩は無言で出て行った。
 深く考えないという性格を生かして、傷つかないようにしていた。
 だが何年も経った今になって、本当は心のずっと奥深くを切り裂かれたままなのだと分かる。
「ああ、その……帰ります」
「え? あっ、二口!?」
「おいっ、待てよお前!?」
 だんだん視界が暗くなってきて、とにかくまずいと思った二口は、そう言い残して部室を出ようとした。
 つくづく成長しない、また逃げてしまうだけだ。
 他人事のように誰かが囁く中で踵を返した二口だったが、その直後にぐっと手首を握られる。
「え……おわっ!?」
「……『練習しろ』」
「……!?」
 そして力任せに引っ張られた後、反対の手で胸倉を掴まれた。
 試合後に、トイレで会って逃げようとしたときと同じだ。だが驚いている間に、今は随分と目線が高くなった青根に告げられ、二口は息を飲む。
 青根が言葉を発するのは、反射的な雄叫びか、考えに考え抜いたときだけだ。
 二口から尋ねたわけでもなく、休日練習も終わったばかりだ。明らかにこの場で告げるにはおかしな言葉に、周りは不思議そうだが、二口には怖いくらいに分かる。
 もう辞めると言い捨てた中学生の二口を、同じく中学生だった青根が引き止めた。
 驚いて、何か言いたいことがあるのかと二口は怒鳴る。反射的な行動だった当事の青根は、すぐに声が出なかった。感情をきちんと言葉にするまで、二年半以上かかったのだ。
「……『周りも、練習しろ』」
「……。」
「えっ、あの、オレたちの練習足りない!? もっとメニュー増やそうか!?」
「今日は休んだくせに偉そうなんだよっ、殺す気か!!」
「……『もっと、強くなれ』」
「……。」
「あの、青根……?」
「というか、そんなにしゃべれたんだな……?」
「……『今度こそ、折ってやる』」
「……!!」
 あれだけ止められても、二口は笑っていた。チームとしての実力差もあったが、もちろん二口の練習も足りない。だからもっと練習をして、強くなって、今度こそプライドを折ってやるという挑発は、一つだけ矛盾している。
 そもそも、プライドなどないと、二口はその直前に言っているのだ。存在しないものは、強くすることも誰かが折ることもできない。
 当時告げられていれば、二口はそう呆れただろう。虚勢ではなく、本気で思っていた。
 だが、今はベンチを温める悔しさも、負けて己に苛立つ苦しさも知っている。
 きっと、分からなかっただけであの頃も持っていた。
 それを二口よりもずっと前に青根は知っていて、試合前にできなかった宣戦布告を、わざわざ体育館中を探してしにきただけだった。
「……でも、もう、折らせない」
「え……?」
 謎が解けていく感覚で少しぼーっとしていた二口に、急に青根の語調が変わる。きつい敵意が消え、厳しいのに優しい。いつの間にか胸倉を掴む手は外され、両方とも肩に置かれている。そして、しっかりと視線を合わせたまま、青根は繰り返した。
「……おれたちで、全部、止める」
「……。」
 その決意は、この伊達工業のバレー部に入部したときの宣言と同じだ。
 加わったのは、『おれたち』という単語だ。同じチームになった以上、こちらのエースを折らせたりはしない。鉄壁は、敵を捻じ伏せるものだけではない。何よりもまず、味方を守るための盾だと繰り返した青根に、しばらくぼんやりと見上げていた二口は、やがてしっかりと頷く。
 きっと、そこそこは強いチームに入りたかったのは、こうして本当はただ一緒に戦いたかっただけだ。また一人にされるのが嫌で、無名校への進学は躊躇った。かといってこんな強豪に入れば今度は自分が置いていかれてもおかしくなかったのに、一番頼りになる核にそう念を押され、二口は胸の内の傷ごとギュッと握り潰された気がする。
「青根……。」
「……!?」
 ほとんど無意識に背中に腕を回せば、青根は慌てたように抱き締めてくれた。
「……いや、『おれたち』って、オレたちは入らねえのか?」
「……仕方ないよ、今は過去の二口を慰めたいだけみたいだし」
「……ポジション的に、鎌先は疎外感が半端ないな」
「……よかった、オレまた余計なこと言って二口に射殺されるかと思ってた」
「つか笹谷!? オレ別に寂しくないですけど!? 全然ハブられた感ないですけども!?」
 そもそも青根と一緒に飛ぶことがないのだからと、分かりきったことを繰り返すことが、鎌先の動揺を示していただろう。
 だがすっかり青根しか見えなくなっていた二口の意識には入らない。しっかりと抱き返して肩の辺りに顔を埋め、青根の体温を堪能した。
 あれだけ不安定に乱れていた心が、すっと落ち着いていくのか分かる。綺麗に整理されたのではなく、強引に潰して青根という軸で新たに組み直された。初対面のふりをしたことも、中学の試合後のことも、何もかもを青根は片付けてくれた上に、ちゃんと好きだと示してくれる。
「……青根?」
「……。」
「ん……。」
 うなじを軽く擦るのは、キスがしたいので顔を上げてほしいという合図だ。甘やかしてくれる体温にうっとりしていたところにそう促され、二口は素直に顔を上げた。そしてすぐに唇を重ねられ、キスが深まる予感に震えながら口を開こうとしたとき、我に返った。
「……。」
「……。」
「……。」
「……。」
「……て、バカッ、なにしてんだよ鎌先さんの前で!?」
「……!!」
 四人分の視線を、痛いくらい感じる。
 どうやら青根もすっかり忘れていたらしい。そもそも、視野が狭くなりがちなのは青根の方だ。自分がしっかりしなければといつも思っていたのに、このところは気分が沈みがちで、コートの上以外でもうっかり青根が頼もしく見えて二口も失敗した。
 懐くまではいいと言われていても、さすがにキスは含まれないだろう。誤魔化しきれない。焦ってぐいっと肩を押し返したが、呆けていた鎌先から怒鳴り返される。
「な、なんでオレ限定なんだよ!? オレが童貞だと思ってバカにしてんだろっ、居間で親とかとテレビ見てるときにドラマとかでキスシーンとか流れたらさり気なく番組変えるとか思ってんだろっ、ふざけんな!!」
「いや、そこまでは思ってないですけど、というかベッドシーンとかじゃなくて、キスシーンで変えるんですか?」
「ベッ……ば、バカかおめーは!? 昼間っから何言ってんだよっ、もっと慎みを持て!!」
 家族でテレビを見ていてそういうシーンで気恥ずかしくなるのはよくあることだが、鎌先の場合はそれがだいぶ多いらしい。しかも口にしやすく言い換えたはずの単語にまで顔を真っ赤にしているのを見ると、なんとなく彼女ができない理由が分かる気もした。
「ベッドシーンを言えない鎌ちほどじゃないけど、でも、オレたちもびっくりしたからね? さすがに、それはびっくりしたよ?」
「ああ、茂庭さんも、ほんとすみません、つい……。」
「つい、て、お前そんなに違和感ないのか?」
「なくてすみません、笹谷さん。せめてベッドシーンじゃないことで許してもらえますか」
「……え、やっぱヤってるんだ?」
 小原の端的な質問で、茂庭と笹谷も顔を背けてしまった。
 青根の背中の引っ掻き傷などを思えば察していると思っていたが、違うのだろうか。それとも、察していることと、当人から面と向かって認められるのは違うという、二口も散々味わったことなのか。
 いくら他人事でも男同士に抵抗はあるだろうし、これ以上繰り返すつもりはない。青根に回していた手を外して、テーブルに広げたままの用紙などを二口は片付けることにする。
「……いや、ヤってることは、分かってたつもりなんだけど、でも、どっちが?」
「……そりゃ二口がされる側だろ、ネコ発言を考えると。でも、あの二口が?」
「……あんな生意気なのに、その気になれるのかなあ?」
「……恋は盲目ってヤツだろ、青根ってたまにあの二口のこと可愛いとか言ってたし」
「さっきは先輩たちもオレの中学の頃を見て可愛いって言ってくれてたじゃないですか。こそこそ推理するくらいなら、直接きいてくれていいですよ、もう」
 別に知りたくはないだろうし、茂庭や笹谷も本当に質問はしないだろう。さっさとテーブルを片付け、布袋にしまってから大きな紙袋に一式を戻しておく。ロッカーからも自分のカバンを出し、呆然と立ち尽くしている青根を促して先に帰ろうとした二口に、別の先輩が尋ねてきた。
「……なあ、二口って実は帰国子女とかなのか?」
「……。」
「……。」
 かなり神妙な顔で、まさに名推理を披露してくれたのは鎌先だ。
 さすがの二口も、青根のように黙ってしまった。
 どうやら、青根とのハグやキスは、外国育ちゆえの文化の違いという結論に至ったらしい。からかっているのではない、鎌先は大真面目だ。それに、今更だが缶飲料の礼を言っていなかったことを思い出した二口は、ニッコリと笑って頷いておいた。
「……ええ。でも、こういう『挨拶』するのは青根に対してだけなんで、安心してください」
「そうか、やっぱそうだったのか、いやそうじゃないかとずっとオレは……。」
「それじゃ、お先っス。……青根、帰るぞ」
「……!?」
 そもそも懐くのもキスしたのも青根からなのに、どうして二口が帰国子女になるのかさっぱり分からない。だが今は青根の腕を取り、ドアへと向かう前にその頬にチュッとキスしてやった。だいぶ混乱していた青根も、目が覚めたように息を飲んでいる。そして泊まって行けと促す二口にまた何度も頷いてから、一度振り返って茂庭たちに頭を下げ、共に部室から出て行った。
 バタンとドアが閉められれば、部室内には静けさが訪れる。いろいろあって誰もが落ち着かない中、大きく肩で息をしたのは茂庭だ。
「……なんていうか、鎌ちは凄いよねえ」
「へ!? な、なんだよいきなり!?」
「いや、マジで感動した。鎌先は凄いよ」
「ええ、本当に驚きました」
「さ、笹谷と小原まで、どうしたんだよ、照れるじゃねえか……!!」
 あんなにお互いうっとりしたキス、しかもちゃんと唇を合わせて深めようとしていたのを見ても、鎌先は二人の仲を邪推することはないらしい。純粋培養すぎて、感動したのは本当だ。
「でもさ、二口が『帰国子女』だったのをずっと言わなかったのには、それなりに理由があるんだろうし。オレたちも黙っておいてあげようね?」
 あれだけ動揺していたので、さすがにもうキスはしないように気をつけてくれるだろう。だが変な気を回した鎌先が言いふらしたりでもすれば厄介なので、そう念を押せば深刻に頷かれる。
「……ああ。オレには分からないけど、偏見とかで苦労したのかもしれねえし。ちゃんと秘密は守る、可愛い後輩たちのためだしな」
「そうなんだけど、本当にそうなんだけど、凄く真っ当で誠実で立派な態度なんだけど、なんだか心苦しくてごめんね……。」
「どうしたんだ、茂庭? あっ、もしかして、みんなは帰国子女のこともっと前から気がついてて、言わなかったのか。そうか、オレだけ鈍くて、悪かったな?」
 それもまた大正解で、茂庭は苦笑するしかなかった。
 ともかく、可愛い後輩たちのことには違いないのだ。恋愛的には二人の間で完全に完結しているので、その意味で巻き込まれることもない。ちゃんと自制してくれるならば、むしろ応援したい。その意志は笹谷と小原には確認しているので、やや認識はずれているが、これで鎌先も輪に入れるならば助かる。
 深いため息を繰り返してから、ようやく鎌先が買ってきてくれた缶を開けることにする。
 もう随分ぬるくなっているが、それがやっと二人がどちらも笑えるようになるのに必要な熱だったのだと思えば、茂庭もどこか微笑ましい気持ちになって安堵した。




 翌日の日曜日、二口は青根と共に休日練習に出た。いろいろな不安がまとめて吹っ切れた上、二人で帰宅してから予想以上の僥倖が転がり込んできて、二口もすっかり浮かれてしまった。青根はそれ以上に得意満面だった。どうやら二口個人に宛てた贈り物は、いずれも青根からの発案らしい。実際に作成したのが両親や中学時代の顧問であっても、青根は褒められたがってうずうずしていた。
 調子に乗らせることは明らかだったので二口も自制を試みたが、あんなものを用意されてそれは無理だ。さすがに中学時代の試合は見る気がしなくて無視するつもりだったが、自分よりも、青根が見たくてつい再生してしまった。すると、何度か大きく写る中学二年生の青根に、思ったよりドキドキした。記憶ではもっと大人っぽかったと思っていたが、今見ればずっと子供だ。身長も今の二口より低い。体格も細くてよく二年半でここまで育ったなと横の青根を感心して見ていれば、視線に気がついた青根は探してきたことを褒めろ褒めろと視線で訴えており、その幼さが可愛くて二口は手を伸ばさずにいられなかった。
「……なあ二口、実は昨日からずっと気になってたんだけどさ」
「なんスか?」
 そのまま押し倒されそうになった二口はなんとか我慢させて、別の贈り物を開けることにしたのだ。
 期待が高いのはもちろんアルバムの方だったので、そちらは後回しにしてまずは書状を開けてみる。息子と仲良くしてくれてありがとうという、前回と同じような文面を予想したが、やはり厚い。長さは数メートルに及びそうだ。一瞬写経という単語も脳裏をよぎったが、実際には全く違う内容だ。前のときより楷書に近い丁寧で見事な達筆で綴られていたのは、もっと個人的なものだった。
「ほら、昨日のもらい物。CDとそれを印刷したのは分かったけど、あと、アルバムと果たし状みたいなのは何だったの?」
「ああ……。」
 戸締りできる鍵を持っているのがこの四人のためか、練習が終わると自然とここに青根と小原を加えた六人になることが多い。それを待ってから茂庭が尋ねたということは、昨日先に二口たちが帰ってから、そういえば残りは何だったのかという話題になったのだろう。興味深そうな視線を複数感じ、二口は緩みそうな口元をなんとか堪えて答えておいた。
「まあ、簡単に言えば、果たし状みたいなのは年表です」
「へ? ……なんの? 青根家の?」
「というか、青根高伸の?」
 もちろん家に関する記述も多かったが、始まりはあくまで青根の出生からだ。
 生まれた日の天気に始まり、名付けの由来、生後三ヶ月で高熱を出して救急車で運ばれたこと、初めてハイハイをしたときの思い出などが、時系列で書かれている。青根の母親は日記をつける習慣があるらしく、そこから息子の記録として記すべき出来事を選んで書き出したらしい。幼稚園くらいまでは本人も記憶がないものが多く、物珍しそうにしていたのが印象的だ。
 幼稚園のときから背の順ではいつも一番後ろだったとか、かけっこは意外に早かっただとか、微笑ましいエピソードが並ぶ。そのうち、小学校の高学年から身長を見込まれてバレーのクラブチームに入り、初めてバレンタインにチョコレートをもらったという記述には、思わず書状を破りそうになった。中学に入ってからは、ほとんど部活に関するものばかりだ。それは高校に入ってからも同じだが、部活以外にやたら出てくる名前がある。
 当然、二口だ。名前まで両親が知ったのは二学期になってからだが、それ以前でも『仲のいい友人』という形で説明はされていたらしい。入学式の翌日から親しくなったことになっていたが、それは両親の希望だろう。あるいは青根が見栄を張ったのかと呆れて見れば、当人は不思議そうにしていた。どうやら、本当にあの日からもう仲良くなったつもりだったらしい。
「えっ、なにそれ、なんでそんな個人情報を!?」
「まあオレのうっかりというか、鎌先さんのおかげというか……。」
「オレの所為なのか!?」
「感謝してますよ、感謝。あざーすっ」
「……そうは見えねえ!!」
 鎌先は不満そうだが、本当にその通りなのだ。
 きっかけは、飼い猫の件だ。鎌先がそれを話させる形になって、不安定だった二口は軽く嫉妬した。そのため、二人きりになってから飼い猫が二匹だという情報を知ることで、自分の方がもっと青根を知っていると納得して嬉しくなったのだ。
 それを、青根はしっかり覚えていたらしい。元より、自分からは情報があまり発信できないことは分かっていたので、二口が教えてくれていること、簡単な家族構成や生い立ちなどを文章にまとめてほしいと両親に頼んだ。
 息子からの思わぬ相談に、両親は戦慄する。そもそも、チームメイトはいても友達がいるかは非常に怪しい息子が、とても楽しそうに週一回は外泊してくるのだ。両親を気遣った故の架空の友達かとまで案じていたところに、実在する二口が電話をしてくるようになって歓喜する。
 二口くんには、是非いつまでも高伸と仲良くしてもらわなければ。
 ある意味では親馬鹿全開の思考で作成されたのが、気合いの入りすぎた個人年表だった。おかげで、それまで漠然としか分からなかったことも、ようやく知ることができる。
「まあそれ読んで、オレも分かったんですけど。青根の母親って、書道の先生らしいんですよ」
「え? ……ああっ、だから、ああいう果たし状みたいなのなんだ?」
 世の中に字が綺麗な人はたくさんいるだろうが、あんなに横にいつまでも長い和紙が日常的に家にある者は少ないだろう。自宅の横に書道教室が並んで建っており、そこで先生をしているらしい。だが本当の驚きは、その続きだ。
「でも、青根は字がきたな……ええと、結構、個性的というか……?」
「……で、息子であるこいつも、段位を持ってるらしくて」
「ええええっ!?」
「お前、嘘だろ!? 柔道とかの段の間違いじゃなく!?」
「青根って、物凄く字が汚いよな……?」
「こないだの質問用紙も、ほんとに解読するの大変だったんだけど、まさかあれは一周回って達筆すぎるとか?」
「いや、あれはマジで汚いだけ。つか筆じゃないと綺麗に書けないんだってよ、オレも意味分かんねえけど」
「……?」
 だが青根も不思議そうに首を傾げていた。
 もちろん、毛筆と硬筆では感触が違うのは分かる。どちらかの方が書きやすいだろう。多くの者は鉛筆やシャーペン、ボールペンなどの方だろうが、青根はそうではないらしい。だがどちらにしろ、それほど極端に差が出るものなのか。
 年表の途中にあった記述に疑いを持ち、二口はリビングで筆記用具を探した。確か、年賀状などで使う筆ペンがあったはずだ。それもやはり本物の毛筆とは違うらしいが、鉛筆などよりはいいらしい。試しに書かせてみれば本当に上手かったので、二口も実に反応に困った。
「まあ信じ難いことも予想してたんで、証拠を持ってきました」
「う、うん、ありが……え?」
「……なんでレシートの裏にオレたちのフルネーム書いてるんだ」
「……上手いけど、上手いからこそ、ちょっと呪いの札みたいで怖いんだけど」
「……つかっ、なんでオレだけ名字のみなんだよ!?」
「へ? ああ、鎌先さんは下の名前が思い出せなかったんで」
 四人分の名前、鎌先だけは名字のみで書かせて、それぞれ渡しておいた。もらっても困るだろう。だが青根は字を褒めてもらえて嬉しそうだ。相変わらずベンチに座って懐いてきており、二口はよしよしと頭を撫でておく。
「それで、その年表に、ところどころ注釈の番号がふられてて。アルバムの方に、その記述の写真なんかが収められてたんですよ」
「ああ、なるほど……というか、このレシート、持って帰らないとダメ?」
 アルバムの方は、主に父親が作成したらしい。まさに年表と合わせて、夫婦の共同作業だ。古い物はフィルムで残っていたようだが、わざわざ焼き増しをしたり、データであれば出力したりして、一枚ずつちゃんと印画紙での写真が収められていた。番号だけでなく、写真の解説がこちらはパソコンで作ったと思われる印字でなされている。
 それこそ、生まれてすぐの頃から、それぞれの入学式、卒業式、バレーで表彰されたものはすべて揃っていた。最後の方では膝を抱えて床に座りこむ青根の後方に、猫二匹が警戒しまくっている写真もあったので、どうやら懐かれていないのは本当らしい。
「写真の方の驚きは、なんつか、青根が普通にすげー可愛いのと、両親はたぶん今の青根より三十センチは身長が低そうなことですかね」
「え、青根のとこってみんなでっかいわけじゃないんだ!?」
「……。」
「むしろ、こいつだけが異常にでかいみたいですよ。元々は書道教室にしてる方が自宅だったみたいですけど、こいつが何度も頭をぶつけて無口になったんじゃないかって心配して、隣に今の天井が高い自宅を建てたみたいです」
 青根がドア枠や梁に頭をぶつけるようになる頃にはとっくにこんな調子だったと思うのだが、そこは親心なのかもしれない。あるいは、単なる口実かもしれない。とにかく、よく頭をぶつけたことだけは本当らしいので、また撫でてやっていれば鎌先が唸る。
「……いや、今聞き流しそうになったけど、昔の青根ってそんなに可愛いのか?」
 それに、二口は大きく頷いた。
「すっごい可愛いですよ、今も可愛いですけど」
「……あ、やっぱいいや、信用できなくなった」
「信用してくれなくてもいいですけどね、どうせ見せるつもりはないし」
「いやおめーそこは見せろよ!? すごい気になるだろ!? つかオレだけ短いレシートだったから名字しか書いてくれなかったんだろっ、なんでオレばっかそんな意地悪するんだよ!!」
 ちなみに、写真の方は本当に持ってきていない。他の者からはどうであれ、二口は本当に可愛いと大興奮したので、もったいなくて大切にしまっておいたのだ。
 息子の友人への贈り物にしては相当奇異だろうが、二口は嬉しくてたまらないので何の問題もない。それどころか、すぐに御礼の電話をして、ついでに外泊連絡もしておいた。その間も青根は嬉しそうに二口に懐いてくる。正確には、自慢ではない。二口が喜んでくれているのが嬉しくて、興奮していただけだ。
「別に鎌先さんだからじゃないですよ、茂庭さんにだって笹谷さんにだって見せないですし」
「そ、そうか……。」
「オレはちょっと見たかったんだけど、残念だなあ」
「オレは怖いもの見たさに近かったかな……。」
「茂庭、笹谷も諦めろ。アメリカ人て職場に絶対に家族写真を貼ってるだろ? よく分かんねえけど、きっと大切なものなんだ」
 最初に騒いだのは鎌先だったのに、何故か妙に友人たちを諭している。何の話かと面食らったが、どうやら二口は帰国子女ということになっているかららしい。だがいつからアメリカ人になったのか、職場に貼るなら同僚に見られるくらいは嫌がらないのではないか、いろいろ指摘したくもなる。だが面倒くさくなりそうだったので、ぐっと堪えておいた。
「まあ、そんな感じですかね。あとは、オレもテンション上がってたんで、そのまま、みたいな」
「……。」
「そのまま、なんだよ?」
「……鎌ち、そこは尋ねなくていいからさ」
「……仲良く遊んだってことでいいだろ」
「……茂庭さん、笹谷さんも、ほんとに鎌先さんてこれでいいんですか」
「なっ、なんだ小原、二口に嫌われてるのはそろそろ諦めがついてきたけどっ、お前まで嫌がんなよ!?」
 少し前にヤりすぎて控えようと痛感したばかりだったのに、精神的にも肉体的にも飢えて仕方なかった二口は思いきり青根とベッドで勤しんだ。おかげで、今日は少し腰が重い。青根は背中に傷が増えただろう。ため息をついてみても昨日までとは違い、幸せが溢れ出しているようだ。
 後ろから懐く青根へと振り返り、正面から抱き締めてやりながら二口は答えておく。
「というか、小原はどうか知りませんけど、オレは別に鎌先さんを嫌ってませんよ」
「え……そうなのか!?」
「ここにきてオレだけが嫌ってるみたいな言い方するなよっ、ずるいぞ!!」
 本当はキスがしたかったが、さすがに昨日失態をしたばかりだ。いろいろ許してもらえていると分かっているからこそ、自制をする。頬などにもキスはしない。帰国子女の挨拶と誤魔化せそうなものでも避けるのだと、昨日改めて青根と約束した。
 それは青根も分かっているので、唇を寄せるようなことはない。代わりに、軽くゴチッと額をくっつけた。
「……ただ、鎌先さんは青根じゃないってだけです」
「……。」
「は? なに言ってんだ、そんなの当たり前だろ……ていうか、熱でもあんのか? 大丈夫か?」
 呆れつつも体調を心配してくれる鎌先は、本当にいい先輩だ。すぐに笑って額を離した二口は、青根の肩に顔を伏せるようにしてギュッと抱きつく。
 いつかは鎌先たちも引退する、このメンバーだけでずっと部活ができるわけではない。
 それでも、今は楽しくて、有り難くて仕方がない。
 二口は調子が軽いので、表面的に合わせてくれる先輩は中学の頃も何人かいた。いずれも、当時のキャプテンが退部するときに一緒に辞めていった三年生だ。厳しく怒鳴り散らすような性格ではないので、下級生に慕われることはあっても、上級生には嫌われてばかりだろうと覚悟もしていたつもりだ。
 だが、今は少なくとも普通には接してくれる。恐らく、この三人はやや面倒だと思っても、青根とまとめて生温かく認めてくれている。なにより今もすぐに抱き返してくれる大きな壁が本当に頼もしくて、大好きで、二口は青根に懐きながら呟いた。
「あー……オレ、伊達工にきてよかった」
「……。」
 スポーツ推薦の誘いはなかったので、逆を言えば選択肢はたくさんあった。自宅からは一番近くとも、さほど変わらない通学時間圏内に他に複数の高校がある。偏差値としても、部活の観点からも、他の学校でもよかった。実を言えば、両親からは共学の普通校の方がいいのではとも勧められた。
 だが、二口は伊達工業を選んだ。
 青根がスポーツ推薦で入ってくることは、本当に知らなかった。
 それでも、『鉄壁』と称される伝統はどこかあの日の脅威を想い起こさせて、自らへの自信など認識できないままに強豪の門を叩いたのだ。
 そこで、過去までこうして癒される。
 しみじみと言う二口を、誰もがそれぞれの労わりで眺める。だがしっかりと言葉で返したのは、二口の背中に腕を回している青根だけだ。
「……きてくれて、よかった」
「……。」
 ポンポンとあやすように背中を軽く叩かれて、二口はまた強く青根へとしがみつく。
 本当に、よかった。
 本当に、このチームでバレーができるようになって、よかった。












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捏造が 過ぎた!!!
でも一番の誤解は 二口さんの選手としての評価かもしれない。

ロボっぽい何か


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