■思春期
それは何気ない一言から始まった。
「……青根って、猫とか飼ってるのか?」
「……?」
いつもの練習終わり、部室で着替えていたときだ。汗で濡れたTシャツを脱ぎ、別のものを手に取る。今ではすっかり着替える習慣もついた。ちゃんと替えを用意していることに少し離れて感心していたところに、別の声がかけられる。
青根は、猫を飼っていただろうか。
実を言えば、青根の家や家族のことを二口はあまり知らない。週に一度は外泊許可で電話をし、両親とも会話をしているが、それでも分からないことは多い。
電車で四十分、そこからバスで二十分。乗り換えの具合によっては、片道で一時間半近くかかるらしい。だが最寄駅も路線も知らない。当然行ったこともない。一軒家なのか、マンションなのかも知らない。両親の職業などももちろん知らない。一人っ子のようだというのは、電話で話したときの印象なので、もしかすると年の離れた兄か姉がいて、もう独立していて実家にはいないだけかもしれない。訊かれない限りは話さないという態度が徹底しているため、こちらは知られていることでも青根に関しては知らないというのは、全く珍しくない。
きっと、尋ねれば教えてくれる。その確信もあったので、疑問になるまでは放置していた。だがこの日は鎌先がいきなりそう尋ねたのだ。猫の毛でも服に付いてたり、あるいは買い物を頼まれた猫缶でもカバンに入っていたのだろうか。自然と会話に意識が向き、視線もやったときに二口は息を飲んだ。
「……。」
「ああ、やっぱ飼ってるのか。つか懐かれてないんだろ?」
「……!!」
「引っ掻き傷、凄いもんな」
どうやら家では猫を飼っていたらしい。どちらかと言えば大型犬と併走していそうなイメージなので、猫だったことは意外だ。
だが、本当に飼っていたというのは、あくまで偶然だ。懐かれていないことを指摘され、青根がややショックを受けたのも度重なる奇跡にすぎない。
鎌先が予想した根拠は、青根の背中である。ちょうどTシャツを脱いで新しい物に替えようとしていたので、上半身が裸だった。素肌の背中に何本も走るまさに引っ掻いたような傷跡に、鎌先は猫の仕業だと想像した。だがそうにしては爪の間隔が広い。なにより、ペットの猫が懐かないのは青根を確実に猛獣として恐れているからだろうし、何度も何度も背中を攻撃してくるとは考えにくい。実際に自宅の猫には背中を引っ掻かれた記憶がないのか、落ち込む雰囲気から首を傾げかけた青根に、二口は手にしていた替えのTシャツを取った。
「……?」
「まあ猫っていうか、ネコがやったんですけど、そもそも鎌先さんはなんでいちいち青根が着替えてるの見てたんですか、セクハラですよ」
「なんでセクハラだよ!? 男だろ、男だよな!?」
裾側から袖へと手を入れてまとめ、まずはズボッと頭を通させる。どうやら着替えさせてくれるのだと分かったらしい青根の気配が弾んだので、そのまま腕も通させ、傷を晒したままの背中をぐいっと下ろしたTシャツで隠した。
夏場ならば開襟シャツ一枚だが、さすがに真冬が近づく季節なので青根も中にTシャツを着ている。先に下は制服へと着替えていたので、裾を中に入れ、だらしなく下がっていたベルトも締めてやった。その間、青根は二口の両肩に手を置いて大人しくしている。甘え慣れた反応はやはり一人っ子か年の離れた末っ子なのだろうと思いつつ、二口はふと気になって自分の指先を見た。
「……?」
「……ああ、やっぱちょっと爪伸びてるよなあ」
「だからっ、おい、無視すんな!! なんでセクハラなんだよ!! つかほんとにセクハラなのか!? セクハラとかって、受けたと思った側がそう思ったらそうなんだよな、つまり青根は今のオレの質問でセクハラだと思ったってことか!? 悪かった!!」
「……?」
「いや、たぶん青根は何も考えてないです。単にオレが嫌だったんで」
「ふざけんなこの野郎!!」
今度は制服のシャツを着せるべく、青根のカバンから勝手に出したところで、やけに動揺していた鎌先がいきなり謝っていた。そんなつもりはなかったので、不思議そうにしている青根に代わって説明しておくが、余計に鎌先は憤慨している。一瞬手を伸ばされそうになるが、鎌先が自制した。二口の胸倉をつかむには、まずは両肩に手を置いて立っている青根をどかせる必要があるからだろう。だがそんな防波堤代わりの青根に、二口は淡々と命令する。
「青根、後ろ向け」
「……。」
「左からな」
真っ白な長袖のシャツに、まずは左手から通させる。半分ほど入ったところで今度は右手を通させ、肩の辺りまで自然と上がれば、二口は腰の辺りを軽く叩いて戻らせた。
「そんで、こっち向け」
「……。」
「お前、またでかくなってねえか? 夏服になるときは、サイズ上げた方がいいんじゃねえの」
再び向かい合うと、まずは襟元を引っ張って調え、更に裾も下げておく。中にTシャツを着ている所為もあるが、かなりギリギリだ。首元は二つ開け、その下からボタンを留めていく二口は、そう言いながら見上げてみた。
なんとなく、目線が高くなっている気がした。まだ高校一年生なので、二口も身長は伸びている。だが青根はもっと伸びていそうだ。そろそろ190の大台に乗っているのではと想像する二口に対し、青根はどこまでも嬉しそうに頷くだけだ。
「……なんなんだ、二口のやつ。青根には急に優しくなりやがって」
そんな光景を見せつけられる格好になった鎌先がぼやいていると、ポンと肩を叩いて慰めたのは同じ二年生たちだ。
「そんな言い方じゃ、まるで今まで鎌ちが二口に優しくされたことがあったみたいじゃない」
「なかったわけじゃねえよ!? ……た、たぶんな。たぶんだけどな。そこまで嫌われてないはずだけどな」
「気にするなよ、二口は単に怪我の謝罪で青根に構ってやってるだけだし」
「は? 何言ってんだよ、青根の怪我っていうか、背中のアレは飼い猫の所為なんだろ? なんで二口が謝るんだ? あっ、二口の家の飼い猫なのか!?」
いやだがそうだったとしても二口の家の飼い猫が青根を引っ掻くわけがないしと首を傾げている鎌先は、ほぼ毎週青根が泊まりに来ていることにいまだに気がついていないようだ。ちなみに、二口の家はそもそもペットがいないので、青根が泊まりに来ても引っ掻かれることはない。祖父母の家では犬を飼っていたが、新築を建てて引っ越してからは、新しいペットを飼わなかったのだ。家族が帰省したがるのは、祖父母の家にいる犬たちに会いたいからでもある。
そのことを、二口は青根に言っている。青根が覚えているかは別として、伝えている。
だが、二口は青根の家で猫を飼っていることを全く知らなかった。尋ねれば教えてくれたはずだという確信はあっても、最初に知ったのが他の者であったということが、不可解なくらい悔しくて困惑する。
「……?」
「……ああもう、マジで鎌先さんが許せねえ」
「え!? な、なんだよ、やっぱりセクハラだったのか!? つか青根じゃなくてなんでおめーがショック受けてんだよ、意味分かんねえじゃねえかっ、分かんないなりに焦るからやめろ!! メシ奢ってやっから!?」
自分の格好悪さは自覚していたので、青根の腰に腕を回してギュッと引き寄せ、肩に顔を伏せて二口は嘆く。完全なる八つ当たりだ。だがうっかり鎌先を動揺させてしまったらしく、いきなりの言葉に二口は一瞬遅れて青根の肩から顔を上げた。
「え、マジすか」
「お、おう、たまにはオレだって先輩として……!?」
「わーっ、ありがとう鎌ち、やったー!!」
「太っ腹だなっ、鎌先!!」
「先輩、ゴチになりますっ」
「なんでおめーらもなんだよ!? せめて青根までだろ、ついてくるにしても!?」
ここのところ、しつこいくらいに頼り甲斐をアピールしてくる鎌先なので、思わぬ誘いに嬉しそうに確認すれば胸を張って頷かれた。だが直後に周囲からも歓声と感謝が上がり、鎌先はまた焦っている。
体育会系の部活では上級生が奢ることはさほど珍しくないが、なにしろ伊達工業のバレー部は人数が多い。全員に奢っていれば破産しかねないし、誰には奢ったが誰には奢っていないという不平等が出ても面倒くさい。そのため、監督やコーチからも申し合わせがあり、試合の打ち上げなどでは保護者会からのカンパなどで賄われるようになっている。通常の練習でも気負わなくていいとなっているが、禁止まではされていない。それこそ、今部室に残っているメンバーはほぼスタメンばかりであり、学年を越えて親しいのでたまに食事に行き、上級生が出すことはこれまでもあった。
「なに言ってるの、鎌ちのためなんだよ?」
「なんで!? どうして!? オレが茂庭たちにまで奢らなきゃなんねえんだ!?」
ただ、その際もあくまで二年生が全額を割り勘するということで、今回のように誰か一人が出したわけではない。当然反論する鎌先に、身長では低くとも鎌先よりは一枚も二枚も上手な茂庭と笹谷が、それぞれ両肩にポンと手を置いた。
「だって、二口だけ誘って二人で行ったりしたら、タイマンであの口の悪さを延々と向けられる上に、別の方向からもいらない嫉妬を買っていいことなしだよ?」
「そ、それもそうだな、さすがのオレも二口と二人でメシとか、冒険が過ぎたよな……つか、嫉妬って?」
「かといって、青根と三人で行ってみろ。ただでさえしゃべらない青根と、青根にしか興味がない二口に、ずっと無視され続けるぞ。しかも下手に割って入って、よりによって青根に話しかけたりしたら、今までが充分気遣われてたって泣く羽目になるほど二口にひどいこと言われるだろうな、きっと」
「そ、それは確かにっ、余計寂しくなるのは予想できるな……て、なんで青根に話しかけたら二口がキレるんだ?」
「だからっ、オレたちもお呼ばれしてあげるよ」
肝心なことは何も教えないままで、茂庭と笹谷は言い包めていた。ああ言っていても、実際に会計の場になれば二人も鎌先と共に払う気がする。二年生たちの素晴らしい連携を眺めている間に、話がまとまったようだ。この三人と、一年生で残っていた小原はもう着替え終わってカバンを肩に掛けている。二口は着替えだけが終わり、青根に至ってはまだ制服の上着すら羽織っていない。
自分たち以外の四人が部室のドアに向かうのを見て、慌てて手を離して帰る準備をしようとした二口に、茂庭が笑って言ってくれた。
「ああ、オレたち先に行って席を取っとくから、ここの戸締りはよろしくね」
「はい、了解っス!!」
店は決まったらメールしておくと手を振った茂庭に対し、笹谷は早く来いよと念を押した。小原は苦笑して何も言わず、鎌先は既に財布を出して中身を確認している。
手を振り返している間に四人が部室を出て行き、ドアが閉まると急に静かになった。
大きくため息をつき、二口は肩を落とす。先輩たちに甘えている自覚はあっても、気遣われるとやはり嬉しい。
「……?」
「……背中、痛かっただろ。ごめんな?」
離しかけていた手を戻し、一歩進んで二口は再びギュッと青根に抱きついた。
着替えているときに見えた傷は、最近のものと、古いものがあった。古くてもまだ痕として残っているということは、かなり深く爪を立てていた証拠だ。もちろん、そうしてしがみつかないと堪えられないほど、揺さぶってくる青根が悪い。気持ちよくさせる青根の責任だ。
そうは思っていても、やはり自分の手で傷つけてしまったのだ。背中に回した手で、今はシャツの上から見えない傷を撫でておく。せめてちゃんと爪はこまめに切ろうとため息を重ねた二口に、青根は一度首を横に振る。だが、すぐに戸惑うように止めた。
「……。」
「青根……?」
痛くないと否定しかけて、嘘をつくことになると気がついたのだろう。実際に、その瞬間には気にならなくとも、たまに洗濯するシャツの背中に血がついていたようなので後からは痛んだはずだ。
かといって、痛かったと謝罪を受け入れれば二口が落ち込みそうだし、なによりもう腕を回してくれなくなっても困る。そんな葛藤まで正確に読み取れるほど考え込んでいた青根は、やがて二口の背中に手を回すと、珍しく口を開いた。
「……いたくても、いい」
「……。」
少し予想していたとはいえ、耳元で囁かれる低い声にはぞくぞくした。
先輩たちが待っているのに、部室の鍵もかけていないのに、煽られて仕方がない。青根としたくてたまらなくなる。特に今回はあまりに合流するのが遅いと鎌先が怒って迎えに来そうだ。そのとき、先日幽霊かと間違われた以上の衝撃を与えるのは居たたまれないので、二口はなんとか欲求を抑えて顔を上げた。
「バカ、痛くていいわけがないだろ。でもまあ、できるだけ怪我はさせないよう、気をつける。だから、青根……。」
「……?」
「……んっ、んん」
だが、顔を上げたのはそもそも失敗だった。抱き合う状態では距離がなさ過ぎて、顔を近づけられると拒めない。
いや、今は二口の方から、ずっと強くねだってしまった。期待通りに重ねられた唇に胸は弾み、すぐに差し込まれた舌を絡められて更に鼓動が早くなる。うっとり蕩けていく体をきつく抱き締められ、深いキスの合間に二口は尋ねてみた。
「んんっ、んぁ……なあ、猫、飼ってんだよな? 一匹?」
「……。」
「二匹……?」
「……。」
「そっか。二匹、飼ってんのか。なんか……お前のこと、また知れた気がして、嬉しい。……んんっ、んぁ、んんー……!!」
鎌先も、青根の家では猫が二匹飼われているということまでは知らないはずだ。
だから、自分が一番知っている。
情けない優越感でも、嬉しくて思わず呟けば、すぐにまた唇を塞がれた。少し激しくなったのは、どうでもいい会話で中断されたことに怒っているのかもしれない。だが抱き返す青根には、拗ねた様子はない。むしろ喜んでいるようにも感じる。
「ん……なあ、青根、そろそろ行かねえ、と……んぁっ、ふ、んん……!!」
「……。」
頭の隅には食事会のことがあり、早くキスをやめて追いかけるべきだとは分かっていた。
だが次第に深まっていく快楽に、二口は抗えそうにない。このところ、どんどん抵抗力が落ちている気がする。
青根は猛獣に喩えられることが多いが、下半身もまさにそうであり、一度火がつくと自制は期待できない。だから自分がしっかりしなければと思っていたのに、今はもうまともに立ってもいられない。疼く腰をギュッと抱き寄せられ、ベンチへと腰を下ろした青根の足を跨ぐようにして座らされる。目線がいつもとは逆に二口の方が高くなり、それがなんとなく気恥ずかしくなりながら頭を抱き込むようにして腕を回し直し、顔を寄せたところで囁かれた。
「……がんばる」
「え……んんっ、んぁ……!!」
ぼんやりしかけていたので戸惑ったが、理解できたと思ったときにはまた唇を塞がれた。
性急にベルトも外されているので、きっとたくさんするという意味だと二口は解釈した。部室の鍵も掛けず、照明はついて目立ったままだ。しかも人を待たせているのに及ぶべきではない。紡がなければならない正論は、甘い息に飲み込まれた。下手をすれば本当に鎌先などに踏み込まれてもおかしくなかったのに、青根を止めることができなかった。
結論から言えば、この日そんな心配はいらなかった。青根が互いに手で抜くだけで終えたからだ。『がんばる』という言葉は、二口が求めたようにちゃんと食事会に合流できるように頑張るという意思表示だった。
ある意味においては青根も成長してくれたということなのに、二口はどこか釈然としないものが胸の内に残る。それがみっともない感情からだとも自覚していれば、余計に落ち込んでしまう。
青根は、言うほどバカでもない。
教えればむしろ飲み込みは早いし、興奮していても二口よりはよほど理性も残っている。
取り扱いに慣れるまでが厄介なだけで、コツを掴めばさほど困った人種でもない。
それでも、世話を焼きたがったり、ダメな奴だから仕方ないという態度で接するのは、単なる虚勢だ。自分がいてやらないと青根はダメなのだと、二口の方が思い込みたいのだ。そうでなければ、これほどの執着はすぐに消える気がした。飽きられて、捨てられるのが怖い。とにかく青根から自分が好かれる理由ばかり探してしまうのは、本当はいつ嫌われてもおかしくない爆弾を抱え続けている恐怖の裏返しでもあった。
ただ、勝手な未来に不安がっていても、青根からの執着は相変わらず凄い。性的なことも、そこまでには至らない独占欲も、呆れるほどだ。
だから、言ってしまっても大丈夫なのではないか。
いや、大丈夫だと言えるような根拠はない。
期待と自制で揺れ続ける二口は、少し疲れてきていたことは否定できない。口が軽いとよく言われるということは、秘密を長く抱えておくのが苦手なのだ。しかも、時間が経てば経つほど毒性を増していき、今となっては表に出したときに致死量になりかねない。
こんなことならば、早く言っておけばよかった。
そんな後悔ばかりが頭をよぎるのに、青根から抱き締められるとまた嬉しくなって、この幸せを手放したくなくて、毒を胸のずっと奥に押し込めた。いっそ忘れてしまえばいいのに、それをするのも躊躇われて、とにかく今の青根しか考えたくなくて二口はまた抱き返す腕を強めるしかなかった。
後から思えば、いっそ部室で最後までして食事の約束を反故にすればよかったのだ。だが青根からの珍しい自制と、少しでも『いつもどおり』の生活を送りたい二口の葛藤から、三十分ほど遅れてやっとファストフード店についた。
「……あ。おーいっ、二口、青根も、こっちだよー!!」
入ってすぐのところにレジがあり、そこから両側へと座席が広がっている。右側の奥の一画で、外壁ガラスとは反対の壁、椅子がソファーとなっているボックス席に茂庭たちはいた。大柄な者が多いので、個別の椅子では少し窮屈なのだ。平日の夜ということもあり、駅前から離れている店にはさほど客も多くない。手を振って呼んでくれた茂庭に軽く手を挙げて返事をし、注文の前に荷物を置きに行く。
「遅くなりましたっ、オレらもすぐに買ってきます」
「……。」
青根と共に空いている一画にスポーツバッグを置き、レジに戻ろうとすれば呆れられた。
「お前らよー、ちゃんと注意したじゃねえか、早く来いって」
「すみません、メール見るのが遅くなって……。」
飲み物の入ったカップを回すように揺らしながら言ったのは笹谷だ。だが怒っているほどではない。
テーブルに広げられたハンバーガーやポテトは、それぞれが半分くらいなくなっていた。三十分前に来ていたならば、むしろ食べるのが遅いくらいだろう。自分たちを待ってゆっくり食べていたのだろうと思えば申し訳なくなったところで、格好だけ責める笹谷を茂庭が窘める。
「でもさ、この時間ならむしろ早いくらいじゃない? 褒めてあげてもいいんじゃないかと思うんだけど」
「茂庭さん……?」
「まあそうだよな、むしろ来ないんじゃねえかってオレは思ってたし」
「あの、笹谷さん……?」
「……来ないってどういうことだよ!? そんなにオレが奢られるのがイヤなのか、だから部室で時間でも潰してたのかよっ、なんでそんなにオレばっかり邪険にするんだ!!」
「……!?」
「……鎌先さん?」
来ないつもりはなかった、だが部室でいちゃついていたのとは別の理由もあって、思った以上に遅れたのだ。だがそれを否定する前に、鎌先が早合点して頭を抱える。さすがに店なので静かにした方がいいのではないか。だが見回してみればこの右側の一画は自分たち以外に客もいないようなので、ほっとして二口も説明した。
「取り敢えず、急に叫んで青根をびびらすのはやめてほしいんですけど、遅れた理由は他にもあって。オレ、てっきりファミレスの方だと思い込んでて、途中までそっちの道に行ってたんスよ」
もちろん、遅れていることには変わりがなかったため、急いでいたのもある。部室を閉め、校門を出て、ファミレスの方へとしばらく歩いてから茂庭の言葉を思い出した。念のため携帯電話を確認すると、ちゃんとメールが届いていた。だが内容はいつものファミレスではなく、少し遠いファストフード店に集合というもので、ひどく焦る。方向としては真逆になるため、結果的に余計に遅れたのだと説明してから二口は首を傾げた。
「つか、なんでこっちなんですか?」
「……うるせえ」
「それが、オレたちもファミレスの方だと思ってたんだけどさ、鎌ちが」
「どうしても、こっちにするって言うからな」
「クーポンでも持ってたとか?」
「ああその通りだよっ、いいからコレから選べ!! 二つまでなら好きなの奢ってやっから!!」
オレたちも出すって言ったんだけどねと茂庭は苦笑しているので、どうやら二年生の二人はやはり出す気だったらしい。だが鎌先が一度言い出した以上はと譲らなかった。そのため、財布の中身が心許ない鎌先からの希望で、より安く食事ができる方になったようだ。
いくつか使ってなくなっているクーポン券の一覧をバンッとテーブルに置いて立ち上がった鎌先は、財布をしっかり握り締めていた。どうやら本当に奢ってくれるらしい。遠慮しても面倒くさそうだったので、ここは素直にご馳走になることにする。
「鎌先さん、あざーすっ」
「……。」
「そ、そうか、まあ感謝してくれるなら、オレはそれでいいんだ……。」
青根と共に頭を下げれば、鎌先はだいぶ気を良くしたようだ。
「……なんだか鎌ちもそろそろ可哀想だよねえ。二口の態度が悪いのはあれが素で、特別嫌われてるからじゃないって気づけばいいのに」
「……でも、鎌先は鈍感すぎて本当に少し二口から疎まれてる気がするんだが」
「あの、先輩たち、鎌先さんにも聞こえてて……なんだか、複雑そうにまた落ち込んでるから、それくらいにしてあげては……?」
小原は茂庭や笹谷に控えめな意見を言っていたが、少なくとも茂庭の弁は鎌先も理解している気がする。二口としても、特別嫌っているつもりはない。ただ同時に、笹谷が言うようにどこまでも常識的すぎて、こちらの不安を煽るような言動に出ることが多いので、つい当たりがきつくなってしまうのだ。
青根との関係を公言できればいいのだろうが、鎌先にだけは無理だ。言葉の端々に女性への興味が溢れている鎌先には、絶対に知られるわけにはいかない。薄々察していそうな面々も、あくまで二口たちが認めたりしないので、流してくれているだけだろう。そこを吐き違えて堂々と交際を宣言しても、強制的に退部させられる未来しか想像できない。別れたところで、自分はまだしもスポーツ推薦で入学した青根には下手をすれば学校にも居られなくなるかもしれないのだ。
そんな危険をおかしてまで、鎌先にとっても知りたくない不愉快な現実を教えるつもりはなかった。気分が沈みがちなときには、些細な事でもすぐに最悪の事態まで想像してしまう。楽観的で考えが浅いと叱られがちな性格を思うと、今の自分は随分と重症だとため息をついたとき、怪訝そうに顔を覗き込まれた。
「……欲しいメニューのが、ないのか?」
「へ? ああ、いやそうじゃないっス。……青根はどれにする?」
鎌先たちが来たときには恐らく全部揃っていたクーポンも、今はいくつか使用されてなくなっている。それが食べたかったので、見つからずに落ち込んでいるのかと気遣われると、二口は笑ってしまいそうになった。
本人は妙に気にしているようだが、鎌先は間違いなく頼りになる先輩だ。ただ、頼り甲斐にも種類がいろいろある。比較的おっとりしていて優しく気遣うのが、キャプテンでありまとめ役の茂庭だ。冷静で淡々と状況を分析し、知的な方面で頼りになるのは笹谷である。そして鎌先はそのどちらでもなく、気概と鼓舞が最大の魅力で、全体の士気を高めて引っ張っていくのが身上だ。
今の二年生は、実にバランスが取れていると思う。世代が変わったとき、恐らく中心になるのは今ここにいる三人の一年生なのだろうが、同じようにできるだろうか。どの役目だとしても自分は果たせそうになかったので、三つまとめて小原に任せようと二口はひっそりと思った。
つまり、鎌先が向けてくる気遣いは、どちらかと言えば茂庭がしそうなことなのだ。無理をしているのがあからさまなので、向けられた側も戸惑って、余計に心配をかけてしまう。面倒くさい先輩だなと笑えば鎌先がますます混乱しそうであり、適当に流そうと青根へと振り返ると目が合った。
「……青根?」
「……!?」
青根は、テーブルに置かれたクーポンではなく、二口をじっと見ていた。
部室での行為が物足りなくて拗ねているとか、鎌先とばかり話すのに不満がっているわけではない。ただ、怪訝そうにじっと二口を見つめていた。目が合ってもしばらく逸らさず、二口が名を呼べばハッと気が付いた様子で、慌ててクーポンを見始めている。
青根は何を考えていたのだろう。
あまり見たことがない色だった上に、消されては確かめようがない。すっかり先輩が促すままにクーポンからメニューを選ぶのに専念している青根に蒸し返すこともできず、二口は不安だけがざわざわと胸の内に沸いた。
「……おい、二口。お前も選べって」
「あ……ああ、はい、すみません」
少し思考が止まっていると、再び鎌先から促された。どうやら青根はさっさと決めたようだ。見ていなかったので、恐る恐る尋ねてみる。
「……青根は、どれにした?」
「……。」
「じゃあ、オレも同じので」
「なんだよっ、おめーらほんっと仲良いよなっ」
訊けばあっさり教えてくれるのを思えば、青根は自分に対して怒ったりしているわけではないらしい。不可解な視線ではあったが、否定的な感情からではないようだと確認できれば二口も安心する。メニューも決まったので注文に行くかと足を進めかけるが、それはクーポンを千切っている鎌先に断られた。
「よし、買ってきてやっから座ってろ。……いや、ちょっと多いか、青根だけついてこい」
「……。」
「あっ、鎌先さん、オレも……?」
お言葉に甘えて二セットずつ選んでいるので、さすがに鎌先一人では運べないだろう。奢ってもらう上に運ばせるのは悪いと申し出るが、意外な事を言われた。
「いいから、二口は座っとけよ。なんか顔色悪いし」
「……え?」
「体調悪いんだろ、それぐらいオレでも分かる。青根も心配してるだろうし、いいから座って待ってろ」
「……。」
青根からも頷かれ、二口はついていき損ねた。
鏡がないので分からないが、そんなに自分は顔色が悪いのだろうか。急な指摘にしばらく首を傾げていれば、座っている茂庭がポンポンと横のソファーを叩く。
「座りなよ、オレたちもちょっと心配だしさ」
「……オレ、そんなに顔色悪いですか?」
もしかすると、先ほどの青根の視線も、それを気遣うものだったのだろうか。だがもしそうであった場合、青根はもっと取り乱すような気がした。自らが頑丈すぎる分、たとえば風邪などの苦しみもあまり分からないため、過剰に心配してしまうのだ。だが青根はそこまでではなかった。
再び困惑が増しながら、茂庭に促されたのでソファーには素直に座っておく。だが頭痛や眩暈といった分かりやすい症状はない。それでも顔色が悪いのかと不思議になっていると、茂庭は少し首を横に振った。
「そんなには、悪くない」
「……。」
「でも、二口、体調が悪いの?」
「……え?」
どうやら顔色は鎌先が言うほど悪くはないらしい。それでも体調を気遣われ、二口はますます面食らってしまった。笹谷や小原も特に茂庭には不思議そうにしないので、似たような感想を持っているらしい。そもそも、体調が悪いのだと周りにも確信があれば、こうして食事会に誘ったりしないだろう。いろいろ不可解だと思った結果、二口はあまり頭も回らなくなってきたので素直に答えることにした。
「……体調は、特に悪いって感じはないです。普通に食べてるし、寝てるし、どっか痛いとかもないし」
「そっか。それなら、まずはいいんだけど」
少しだけ付け加えるとすれば、睡眠時間は同じでも、眠りが浅いような、疲れが取れないような日がここのところ続いている。だが単に寒くなってきたからか、あるいは先日まであった中間テストで苦労した後遺症だろう。自分も随分と繊細になったものだと他人事のようにため息をついたところで、茂庭からだいぶ声を落として慎重に尋ねられた。
「……青根とは、上手くいってる?」
「え? ……え、なんですか、それ」
不意打ちの質問に、思わず足が揺れてガンッとテーブルに当たった。やけに大きな音が響いたが、幸いにして乗っていたジュースなどはこぼれなかったようだ。
だが安堵する余裕は二口にはない。
その質問は、どういう意味なのだろうか。先月派手に喧嘩をしたので、それを心配されているのだろうか。だが、今回は喧嘩はしていない。ちゃんと仲良くしているつもりだ。それなのに、茂庭から尋ねられるということは、青根の方から何かを察するものがあったのだろうか。
至ってしまった推測で、二口は自覚が出るほどザッと青褪めた。だが斜め前から笹谷が淡々と否定する。
「青根はいつもどおり、『仲直り』してからずっと浮かれっぱなしだ」
「はあ、まあ、ええと……?」
「深入りするつもりはない、ただ二口が悩んでる原因が青根にあるのかどうかだけ確認したい」
「……。」
「このところ、ずっと元気ないよね? もしかして、部室ではいいよってオレたちがOKしたの、二口には負担になってる?」
硬直しきった思考でも、やっと理解できた気がした。
『仲直り』とは対外的な表現で、二人の中では復縁だ。縒りを戻してから、確かに部室でくらいなら青根が懐いてもいいとお墨付きをもらえた。だがそれが、二口には負担だったのではないか。良かれと思って後押ししたが、それは一方的に青根にだけ配慮したものではなかったのか。そんなふうに考えているのだと分かり、なんとなくおかしくなりながら二口は首を横に振った。
「……いいえ」
「そう? それならいいんだけど……あ、鎌ちはほんとに気づいてないよ、ああだからさ。まあ教えても面倒くさいからそのままにしてるんだけど、オレたちからさり気なく言った方がいい?」
「……いえ、結構です」
もしかすると、この話をするために鎌先は青根だけをレジへと連れ出したのか。そう二口が勘繰る前に、茂庭が苦笑しながら教えてくれる。やはり鎌先は察していないらしい。だがそれよりも、茂庭と笹谷、それに小原はやはり分かっていたのだと確定して動揺がじわじわと染み込んでくる。
黙認してくれているのだろうと予想することと、実際にそうなのだと当人たちから言葉で示されるのは天と地ほどの差がある。先ほどは体調不良はないと思ったばかりなのに、妙な眩暈がしてきそうだ。
「じゃあ、オレたちも今のままで鎌ちには言わないでおくね。それでさ、質問が戻るんだけど……元気がないのって、青根の所為なの?」
「……。」
「青根の所為じゃないの?」
「……オレの所為です」
ここまでくれば、認めるしかないようだ。『仲直り』をして、青根から好きだ好きだと態度でも言葉でも示してもらえるようになってから、埋めたはずの地雷が顔を出してきた。しかも、心の奥底に隠している間に、随分と威力を増した劇物になっている。
要するに、破裂させてしまったときに壊れるかもしれないものが、より大きく、より大切になってしまったからだ。青根との関係が望ましいものであればあるほど、失うかもしれない恐怖も大きくなる。自分一人で勝手に悩んでいたつもりだが、どうやら周囲にも心配されるほど顔に出ていたらしい。
ため息をつくと、ますます気が重くなった。そんな二口を見て、顔を見合わせていた茂庭と笹谷、それに小原だったが、やはり代表するように話しかけてくるのは茂庭だ。
「それって、二口が自分で解決できそう? もしオレたちに何かできることがあるなら、遠慮なく……?」
「……おーいっ、メシ買ってやったぞ、て、二口?」
「……!?」
「ああ、どうもすみませ……青根?」
だがその気遣いは口上も半ばで止まった。二セットずつトレーに載せて、鎌先と青根が戻ってきたためだ。得意げな鎌先だったが、テーブルに近づくに連れて不思議そうにする。どうしたのかと二口も不思議になるが、少し後ろを歩いていた青根がハッと息を飲み、持っていたトレーをテーブルに置くと横のソファーに片膝をつくようにして手を伸ばしてきた。
「……。」
「……なあ、青根?」
「二口、さっきよりもっと顔色悪くなってねえか? マジで体調悪いなら帰った方がいいだろ」
「へ? ……ああ、食欲あるんで平気っス」
しかも前髪をかきあげるようにして額に触れてくるので何事かと思ったが、鎌先に言われてやっと理解できた。
どうやら待っている間に茂庭たちと話したことで青褪めた余韻が引いていなかったらしい。貧血でも起こしているように見えたのであれば、額に手を当てて熱を測るのはおかしいだろう。それが青根の病気とは無縁なのを示しているようで、やや羨ましくなりつつも手を外させる。
「青根、マジで大丈夫だから? 心配するな」
「……。」
ただの気遣いではない、青根に心配されて直に触れられると、嬉しくて本当に落ち着いてきたのだ。きっと、顔色も戻りつつあるだろう。青根はまだ不安そうだったが、じっとしばらく見つめてからやっとソファーに座り直した。どうやら一応は納得してくれたようで、前に置かれたトレーを引き寄せながら、二口は鎌先に礼を言っておく。
「鎌先さん、ゴチになりますっ」
「おーおー、食え食え。そんで元気になっとけ」
「……あざーすっ」
体調不良ではないので食べたところで改善はしないのだろうが、気遣われていることへの有り難さと、それより大きな後ろめたさで元気は出るような気がした。無理ならば、元気になったと見えるように振る舞わなければならない。もっと上手く装うにはどうすればいいだろうと考えて食べ始める二口は、結局のところ浮上できる自信がないも同然だ。
「でもよお、二口。お前ほんとに体調は大丈夫なのか?」
「はあ、大丈夫です」
鎌先も食事を再開しながら、また同じような会話が繰り返される。
レジに行っている間に茂庭たちと話したことを鎌先は当然知らないので、仕方がない。だからこそ、体調不良を否定すれば、次の質問も予測はしていた。
「でも、変に元気がないよな、いやオレへの嫌味は絶好調だけど。相変わらず怒濤の口撃で凹みそうになるけど、でも以前よりは威勢がないし」
「そんなに鎌先さんだけに言ってるつもりはないんですけど、そうですかね?」
首を傾げてみせれば、やはり同じ流れに至った。
「なんか悩みでもあるのか?」
「……いえ、別に」
「女か!!」
「……!?」
「青根がびっくりして喉に詰まらせてるじゃないですか、ほんといい加減にいきなり叫ぶのやめてもらえますかね、いくら温厚なオレでもたまにはキレますよ」
だが、茂庭たちとは全く違う原因を鎌先は推理したようだ。
ある意味においては、実に鎌先らしい。自分の身に置き替えて想像するという、真摯な態度の結果なのだろうか、正直本当に嫌味ではなく傍迷惑だ。声の大きさ以外のところでも驚いてハンバーガーを喉に詰まらせ、苦しそうにしている青根の背中を二口は軽く叩いてやる。咳き込みかけたことでやや涙目になったまま、不安そうに見つめてくる青根には、そんなわけがないだろと呆れながら飲み物を差し出しておいた。
「……二口が温厚かどうかは別として、悩みはそれじゃないと思うなあ」
「……むしろ二口は温厚って言葉に謝ってくるべきだと思うが、オレも悩みは別な気がするぞ」
「あの、二口、今『温厚』て単語、検索してあげてるから、ちゃんと日本語としての本来の意味を……。」
青根をいたわっている間に、茂庭と笹谷からは微妙な修正が鎌先へとなされる。小原は何故か必死に携帯電話の辞書機能を操作していた。それは不要だと断った上で、二口は鎌先に呆れて返しておいた。
「だから、違いますよ、そんなんじゃないですって。鎌先さんと一緒にしないでください」
だが一言余計だったようで、鎌先は俄然身を乗り出す。
「いいや、否定するところが余計に怪しい。しかもオレを貶めることでオレが怒って話題を有耶無耶にさせようって魂胆だろうが、そうはいかねえぞ」
「……鎌先さん、気がついてたんですね」
「マジでそうなのかよ!? つかいつもやたらオレばっか貶されるのってやっぱそういうことだったのか!!」
あしらいやすい先輩だってバカにしやがってと鎌先は頭を抱えるが、それこそまさに貶すことで話題を逸らされていた。
ちなみに、二口はわざとやっていたつもりはない。他の者にも似たような返答をするが、鎌先だけがやけに突っかかってくるので、耐性がないのだなと感心していただけだ。だがさすがに自覚が出てきたらしい鎌先は、なんとか深呼吸をして落ち着いたようだ。それはつまり、誤魔化されてくれないということだ。これは厄介なことになりそうだと、二口はもうため息をつく。
「い、いや、また二口の手に乗るところだったぜ……だからっ、あれだろ、恋煩いとかなんだろ!?」
「……!?」
「鎌先さんの口からそんな可愛い単語が出ると、笑いそうになりますね。あと余計なこと言わないでもらえますか、青根が動揺するし」
「オレには恋煩いを口にする権利もないのかよ!? さすがモテ男は違ってらっしゃいますねっ、チクショウ!!」
鎌先が混乱するのはどうでもいいが、青根が驚いたり、無駄に不安がるのはいただけない。若干本気で迷惑になってきて声が冷たくなったのに気がついたのか、鎌先は悲しそうに叫ぶとまた頭を抱えた。
非常に面倒くさいが、これには茂庭たちもやや非難がましい目を向けてくる。モテない同志として鎌先に同情する部分があるのだろう。だが見た目だけなら鎌先はそれなりに彼女ができてもおかしくないので、自業自得だと呆れている二口は、チラリと横の青根を見上げた。
「……?」
「……ところで、前から気になってたんスけど、いつからオレがモテることになってるんですか」
いつの間にかハンバーガーも二つ目で、もう片手でも充分に食べられる量だ。ポテトや飲み物ももちろん同じであり、使わなくても食事ができる左手の袖をそっと引っ張った。青根は不思議そうにしていたが、ハンバーガーに添えていた左手を外し、テーブルの下へとおろす。それと、自分の右手を指を絡めるようにしてギュッと握ってから、二口は鎌先に質問を重ねた。
「……!?」
「オレ、そんなこと言ったことがありましたっけ」
「二口、おめー散々自慢してたじゃねえか……!!」
「そんな記憶、全然ありませんけど……?」
どういう方向に話題が転んでも、青根が不安にならないようにしたかった。それと同じくらい、単純に手を繋ぎたかった。鎌先からはテーブルの陰になっているし、唯一見えるかもしれない茂庭は絶対に指摘しないだろう。少し落ち着いてきた二口は左手だけで食事を続けながら首を傾げるが、すっかり忘れかけていたことを鎌先からビシッと告げられる。
「ほらっ、二学期になってから青根が他校の女子に手紙もらったとき!! 手紙くらい普通もらうだろみたいに、平然としてたじゃねえか!!」
「……ああ、そんなこともありましたね」
少し記憶が遠かったのは、その出来事自体を忘れていたのではない。当時は青根への気持ちを自覚していなかったので、とにかく青根があの女子と付き合うのではないかと思うだけで苛々して堪らなかった。おかげで、自分がどういう発言をしたのか、青根に対してのもの以外はいまいち覚えていなかったのだ。だが確かにそんなことを口にしたような記憶もあり、やや遅れて頷けば鎌先は顔を輝かせた。
「嘘だったのか!?」
「え?」
「飽きるほどもらってるって言ってたけどよっ、やっぱ見栄張っただけだったのか!?」
「見栄というか……飽きるほど、てのは、確かに失礼でしたよね。そこは反省します」
「……はい?」
「飽きるというか、うんざりするっていうか。だから男子校に来たのにっていうか、いや完全な男子校じゃないってのは分かってたつもりだったんですけど、でも絶対数的にというか……。」
伊達工業も、昔は完全な男子校だったらしい。数年前から女子生徒にも門戸は開かれたが、毎年女子の入学者は十名前後で、専攻の学科に関わらずどの学年もA組にまとめられている。そのため、A組だけが男女比率に差がある共学で、B組以降がすべて男子校のようなものだ。
できれば自分もB組以降、もっと言えば青根と同じE組がよかったと二口はしみじみ思った。そういえば、小原もE組だ。なんとなく羨ましくなって視線を向けると、何故か小原もこらちを見ていた。
「……小原?」
「二口って、学年でも有名だよな。もちろんバレー部の主力ってことはあるけど、部活に興味がないヤツまで知ってるのは、A組の女子全員から告白されたって噂があるからなんだろうけど、ほんとなのか?」
「……。」
「……。」
「……二口っ、おめーマジで飽きるほど手紙もらってたんだな!? 全員斬りってどんな偉業だよ!!」
「待ってください鎌先さん、オレ斬ってないですから、みんな断ったし、つか小原!! なんだよその噂、ほんとなわけがねえだろ!? ……あと鎌先さん、高校になってからは手紙じゃなくて直接とメールばっかですよ」
「ああ、やっぱり噂なんだ。ほんとは何人?」
「半分もいないっての、四人だ、四人。全員断った」
ただ、よく分からないのだが、その四人以外にも『部活が一番なら彼女とか考える余裕はないよね』といった一方的なメールを送ってきた女子もいるので、それらを合わせると半分は越える。残りもいずれかの女子とは仲がいいため、友人をふった男という認識で結託され、冷たく接されている。
二口としては静かになってむしろ助かっており、悩みどころかこの件に関しては今は心穏やかだ。慌てたのは話が膨らんで広がっているらしいと知ったことと、青根が呆然と隣から眺めてくるからである。ちゃんと全員断っていると目を見て繰り返し、テーブルの下で握った手にもギュッと力を込める。すると、青根もハッと気がつき、何度も頷いてくれたのには安心した。
「たとえ断っても告白されてるってだけでムカツクんだよ!! ……ところで、中学の頃もモテてたのか?」
「ムカツクなら聞かなくていいじゃないですか……。」
その間に鎌先は吐き捨てるが、少し悩むようにしてから、妙に興味津々で尋ねてきた。
鎌先のこの手の話題を鬱陶しいと撥ね退けきれないのは、嫉妬より好奇心があからさまなためだ。モテる男を非難していても、実際にモテた状況は聞きたいらしい。言えば言ったでまた怒鳴るのだろうし、言わないでいると臍を曲げる。
実に面倒くさい先輩だ。問題は、程度に差があっても、鎌先以外も皆聞きたそうにしていることである。だが武勇伝かも微妙な話を披露するには、まだ躊躇いがあった。いくら過去のことでも青根が気にするなら言いたくない。だが横から恐る恐る見上げてみれば、どうやら先輩たちのために我慢するという悲壮な決意が見て取れて、またため息が出た。
「……だから、手紙とかよくもらったのは、中学の頃ってことですよ」
仕方なく曖昧に認めてみれば、案の定鎌先がすぐに食いついてきた。
「よくもらったって言うけどよ、どれくらい?」
「どれくらい、て……え、正確に数えるんですか? 断ったのも含めて? つか、手紙だけでいいんですか? そうにしても全部覚えてる自信は更々ないんですけど」
「死ね!! ……いや、やっぱ生き返っていい。続き、聞かせろ」
「はあ……。」
いっそ死んだままで話も終わらせたかったが、どうにも聞きたいらしい鎌先に、二口もなんとか記憶を手繰り寄せた。
「ええと……交際の申し出をしてきた人数、で、いいんですよね? 一人が何回も手紙くれても、カウントは一ですよね? あと、付き合う気はないけど告白してくるのって、数に入れますか?」
「なんだそれ!?」
「へ? だから、『好きだということだけ伝えかった』的な、言い逃げみたいな告白っていうか、卒業式に多かったですけど……?」
「……二口って、ほんと、オレたちの知らない世界で生きてきたんだねえ」
「……羨ましいはずなのに、だから捻くれて今があるのかと思うと複雑だな」
「……オレにはそれでも羨ましいですよ、女子と話したこともあんまりないですし」
「もうそれも含めてさっさと数えろ!!」
「ええと……たぶん、三十か、四十。いや、そこまではないかな、ああでも、告白なのか微妙なのも多かったし、間を取って適当に三十五でいいです」
「いいわけあるか!!」
一年生の頃は、それでもまだ数人だったと思う。何故か二年生の頃が最も多く、三年生は卒業式に言い逃げされてまた数がぐっと増えた。ちなみに他校も十人近く居る。バレー部で一応はエースだったので、ファンレターなのかラブレターなのか、判断がつきにくいものはまるっと除外しておいた。
それでも、なんとなく覚えている事例を数えていったので、そこそこ正確だと思うのに鎌先からは怒られた。実に理不尽だ。だが何故か鎌先が泣きそうになっているので非難できずにいると、大きく深呼吸をしてからやたら低い声で切り出す。
「……で、そのうちの何人と付き合ったんだ?」
「へ?」
高校になってから申し込まれた同じクラスの四人と、言っていないが他校の一人と、中学の後輩の二人はすべて断った。だが中学時代は、どうだったのか。さすがに全部断ったわけではないだろうと睨む鎌先より、青根の方が気になってしまう。それでも、変に誤魔化すよりはいっそちゃんと説明すべきかもしれない。もれなく自分の非情さも晒してしまうことになるが、これ以上違う地雷を抱えたくはない。
「ああ、えっと……付き合う、て、何日以上からですか?」
「……は? お前っ、そんなにとっかえひっかえだったのか!?」
「違いますよ。告白されて、OKしても、オレすぐにふられるんですよ」
だが腹を決めて話し始めても、鎌先からの誤解で二口は仕方なく先に言うしかない。非常に情けない話なのだが、事実だ。だが鎌先たちからすれば、告白してきた女子が、交際を始めて、すぐに女子の方から終えたがることが信じられないらしい。
「告白されたのにか!?」
「告白されたのに、です」
「……なんで?」
「なんか、ほとんどの子はオレが部活してるのを見て好きになったとか言うんですけど、付き合いだしてもオレが部活に熱心だったらそれが嫌だって泣くんですよ」
「……うわあ、それはどうしようもないよね」
「……女って、そういうとこあるよな。全員じゃないんだろうけど」
「……笹谷さんに驚きかけましたけど、納得できたのはお姉さんがいるからですね」
「オレだって泣かれても困るし、部活をやめたりサボッたりする気もないし、別れるならそれでいいよって言うとまた泣くし、ほんと、あれトラウマになりますよ。おかげで、最長でも一ヶ月もった子はいなくて、一番短い子だとその日のうちにふられました」
「二口……お前、なんていうか……。」
一番長く交際していた子も、単純に他校だったので会う機会が少なく、相手からの限界宣言が届くのが遅かっただけのようにも思う。とにかく、今も当時も一番である部活に関して、否定的なことを求められて泣かれると困った。絶対に譲れないので余計に泣かせてしまうことが明らかだからだ。だがふと青根の手から力が抜けている気がして、横を見上げるとやや青褪めている。どうして動揺しているのかと首を傾げそうになって、思わず笑ってしまいながらギュッと手を握った。
「……!?」
「オレは、『部活に行くな』って泣かれると、困るだけだ。勘違いすんな」
「……。」
青根はそんなことを口走るはずがなく、ましてやそれで泣くはずもない。注意を引いてから念を押せば、青根も大きく頷いて手を握り返してくれた。それに安心したところで、二口は鎌先にまとめておく。
「だから、実際に付き合ったのは十五人くらいですかね。ほとんどが一週間以内に別れてますけど」
だがそれには、鎌先だけでなく茂庭たちもやや驚いたようだ。
「あれ、結構OKしてるんだ? 泣かれたのがトラウマになって、最初の二・三人で懲りたのかと思ったけど」
「あー……いや、ほら、オレもガキだったんで? やっぱ好きだって言われるのは嬉しかったんですよ、全員が全員、部活のことで泣くわけじゃなかったし。結局相手が不満を爆発させてふられるのは同じなんですけど、オレの都合もあって、つい」
確かに、今から思い返せば最初の数人で凝りて後はすべて断っていればよかったとは思う。だが、中学時代の二口は、特に強豪校でもないバレー部で、没頭したいのだと今ほど胸を張って言い切れなかった。一生懸命であることが、恥ずかしい年頃だったのかもしれない。おかげで、付き合う気もないのに承諾して悪かったと当時の彼女たちに思うものの、ほとんど顔も名前も思い出せない。本当に興味がなかったのだと分かればますます申し訳ないが、ため息をついている間に何故か周囲から引かれていた。
「……ん?」
「お前、都合がいいからって……。」
「いくら思春期だからって、それは……。」
「男としては仕方ない衝動だったかもしれないけどさ……。」
「……は?」
「二口っ、体が目的で付き合ってたとか、見損なったぞ!? やっぱり童貞じゃないのかよっ、つか経験人数十五名か!!」
「はあ!? なんでそんな話に……て、青根っ、信じるな!? 全部童貞こじらせた鎌先さんの陰謀だ!!」
「……!!」
どうやら言葉が足りていなかったらしく、とんでもない解釈をされたようだ。
好きだと言われて嬉しかった以外にも、当時の二口には彼女が欲しい理由があった。周囲への自慢だとか、圧力があったというわけではない。もしかすると、それよりずっとひどい理由で、二口には彼女が必要だった。
「違うって、オレの都合ってのは、『今は彼女がいるから』って言ったら、コクってくる女子もすんなり引き下がってくれて助かってたからだからな!?」
「……!?」
他の誰に誤解されても、青根には真実を伝えておきたい。他には言えないことがあるのだからという裏返しで、二口は余計に必死になった。
右手はテーブルの下で繋いだまま、狭いところでなんとか体を反転させるようにして青根と向き合い、左手で頬をぐっとつかむようにしてしっかりと言い聞かせる。もちろん青根は驚いていたが、ゆっくりと理解が追いついたようで、やがて大きく頷いてくれた。どうやら誤解は解けたらしい。安堵して左手で今度は頭を撫でてやる二口の背中に、呆れたような声がかけられる。
「それは事実なんだろうけど、だとしたら、二口も随分とひどいよねえ」
「自覚はあるんで、勘弁してくださいよ……。」
「……いやでも、だからって手を出さなかったとは限らないよな?」
「……!?」
「限りますよ、オレ結構な潔癖症だから基本的にスキンシップとか嫌な方ですし。部活とかは、まあそういうものだと思ってるし、慣れてるから肩とか叩かれても平気ですけど、大して仲良くもない好きで付き合ってるわけでもない子とか、手を繋ぐだけでもハードル高いっスよ」
言えば言うほど、自分のひどさを晒しているようで居たたまれなかった。当時は中学生だったこともあり、ただでさえ接触が苦手なのに、思春期のよく分からないプライドもあってますます無理だった。そのため、何人かとはせがまれて手だけは繋いだが、いずれも冬場で手袋越しだったのでできたことだ。あれは当時の彼女もさり気なく傷ついただろうと思っていると、茂庭や小原も納得している。
「でも、二口って普通に円陣とか……ああ、そっか、部活だから平気なのか」
「そうです」
「言われてみれば、練習以外だと呼び止めるのに肩叩いたりとかしてないよな。もしかして、よくしゃべるのってそういうのを避けるためにわざとなのか?」
「……考えたことなかったけど、そうだったのかもしれねえ。どっちが先は分かんねえけど」
「でも青根にはベタベタさせるし、ベタベタするじゃねえか、今だって?」
「……。」
だが鎌先だけは不満そうにしてきて、二口も困った。
茂庭や小原、それに笹谷がそこを指摘しないのは、青根は二口が中学時代に付き合っていた彼女たちとは明らかに違う対象だと知っているからだ。それを説明するわけにいかず、二口も少し黙る。だが変に誤魔化すことはやはりしたくなかったので、もう一度青根を撫でてやってから、二口はソファーに座り直した。
「……青根はいいんですよ、青根だから」
「……!?」
「なんだよその理由、なんか納得できそうで悔しいっての。それより、潔癖でもやっぱ思春期には勝てないだろ、結局どうなんだ? ハードルを越えたのか?」
どうやら鎌先にとっては思春期は性衝動しか顕著にならないという認識らしい。いろいろなものに潔癖になるのも思春期の特徴だと二口は思うのだが、理解されないようだ。そもそも、今ではそこまでスキンシップを過度に嫌がってもいないので、潔癖症だと思っていたことも思春期の影響が大きかったのだろう。
だいぶ丸くなった今なら、求められて手を出せただろうか。
ぼんやりと想像してみたが、上手く結果を描けない。きっと、女子から告白されて付き合っても、中学と同じ結果だったように思う。今こうして手を繋げているのは、青根だからだとつくづく二口は実感した。
「……部活に夢中すぎるって泣かれた話をしましたけど、それ以外の原因で別れたのは、手を出してくれないってやっぱ泣かれたからです」
仕方なく答えてみれば、さすがの鎌先もやや呆れた。
「お前、女子の方からそうやって泣くって、よっぽどだろ……。」
「知りませんよ、オレに告白してくる子がたまたま性欲強かっただけかもしれないですし」
実を言えば、性的にがっつくのは男の方だという印象があったので、まだ中学生だった二口は付き合った初日から赤裸々に求めてくる女子にはやや引いた。女子の方が早熟というのもあるだろうが、それよりとにかく二口にその気がなさすぎたのが原因のほとんどだろう。
「でもそれなら、尚更いろいろしてみたくならなかったのか? あ、凄い面食いだとか?」
「……いや、一般的には可愛い子が多かったと思いますけど、そもそもオレ顔が重視じゃないんで」
「……?」
なんとなく青根を見上げながら言えば、当人と鎌先以外は大きく頷いていた。だが伝わらない鎌先は違った解釈をしたようで、実に痛ましげな表情で失礼なことを尋ねてくる。
「二口、お前……実はその年でもう不能なのか?」
「自分で疑ったことがあったのは事実ですけどね、おかげさまで今じゃ杞憂だって判明しました」
自慰ではいけるので当時もそれほど本気で心配したわけではなかったが、今では逆に早いのではないかと不安になる。青根がどんどん遅くなっていっている気がするのが、余計に拍車をかけた。我慢が利くようになったのであればいいが、もし自分との行為が気持ちよくないのであれば困る。もっと青根も興奮できるようにと奉仕をしたくても、先に前戯を施されるとそれどころではなくなってしまう。
青根は、自分との行為でちゃんと気持ちよくなっているのだろうか。
遅くとも出してはいるので大丈夫だろうと自分に言い聞かせた二口は、そこでまた深くため息をついた。
「……でも、最近になって、中学の頃は付き合ってた子たちに随分ひどいことしてたんだなって思うんスよ」
心から申し訳なく思う気持ちを吐露したのに、鎌先にはやはり呆れられた。
「お前、反省するの遅すぎだろ……。」
「だって、好きになったら触りたくなるものだってこと、ほんとに理解してなかったし。逆の立場になったとしたら、こっちは好きで付き合ってるのに、手も握ってもらえない、キスだの何だのも一切なし。当然好きとも言ってはもらえないわけで、そんなの、耐えられないですよね?」
反省も同情もする、だが償うことはできそうにない。もし過去に戻ってやり直すことができるとすれば、期待させないように最初から全員断ることだけだ。
テーブルの下で手を繋いだままの青根を横から見上げてみれば、あくまで一般論として聞き流しているのか、特に反応はない。だが言葉を選ぶようにして尋ねてきたのは茂庭だ。
「そうだねえ、つらいよねえ……それって、実感から?」
「へ?」
「二口やっぱおめー彼女いんのか!?」
「……!?」
「違いますって、想像です、想像。仮に恋人から手を出してもらえない状況にあったらつらいだろうなって分かるようなっただけで、オレが実際にそうなわけじゃないです、大丈夫ですから」
「……。」
「それならよかった」
「いいのか、それは……?」
認識に差がある茂庭と鎌先は、両極端な反応をしていた。だが二口には横の青根が安堵してくれただけで嬉しい。今もまだ手を繋いでいるのだ、恋人が触れてもくれない状況にあるはずもない。むしろ過剰なくらいなのに、体温を感じると安心する。素肌に近い接触ほど、興奮して幸せにもなる。自分は潔癖症で、部活ならばそこそこ慣れるという認識そのものが、青根と触れるようになってどんどん崩されていく。
「まあとにかく、悩みが女関係じゃないってことだけは理解した。それが判明するまでに、随分とオレたちの精神力が削られたが、それも可愛い後輩のためだ、尊い犠牲だったよな」
「鎌先さんが勝手に誤解して勝手にしゃべらせて勝手に傷ついただけじゃないですか、オレだっていい迷惑ですよ」
鎌先は自業自得としても、確実に自分の人間性への評価は下がっただろう。だから言いたくなかったのだ。ただのモテ自慢だったり、純粋な恋愛をしていたのであれば、まだよかった。だがこの話では二口のひどさしか伝わらない。しかもそれは何の反論も出来ない事実であり、またため息が出る。
せめて青根には嫌われたくないと願っているが、どうにも先ほどから反応がやや薄い。それでも手を繋いでくれているので、焦るほどもない。だがやはり気になって青根の顔色ばかり窺っている二口は、茂庭たちも別に軽蔑したりしていないことにはあまり気がついていなかった。
「……なあ二口、実はオレ、入学したときから気になってたことがあるんだけど」
「なんだよ、小原?」
そのうち、珍しくそんなふうに小原が切り出してくる。入学したときからであれば、もう半年以上も抱えていたことになるのだ。だったら早く尋ねればいいのにと首を傾げて聞き返した二口だったが、小原が口にしたのはあまりに今更のことだ。
「二口ってさ、どこの中学?」
「へ? そんなの、自己紹介の時に……あ、言わないのか。入部届に書いただけだったか?」
「中学のときも、もちろんバレー部だったんだよな?」
入部の挨拶では、クラスと名前、それに意気込みだけだった。人数が多いので、出身中学までは言っていない。だが入部届には書く欄があったような気がするので、二年生以上や監督などは当然知っているのだろう。そう首を傾げている間に、もっと当たり前のことを尋ねられて、二口はますます首を傾げつつ頷く。
「そうだけど、それが……?」
だが、本当は嫌な予感がしていた。繋いだ手が汗ばみそうなほど、心臓が緊張でうるさい。
「オレ、二年生の時に試合してる気がする」
「……え?」
「春の大会。二年生エースが一人で引っ張ってるチームと当たってさ、まあ正直無名だったし一回戦だから楽に勝てると思っちゃって調子に乗ってたオレたちの中学を、物凄くいい笑顔で軽く叩き潰さなかったか?」
「……。」
「ストレートで、負けたんだよなあ。サーブも上手いし、スパイクも強烈だし、後列からでもバックアタックでガンガン点稼いでく二年生がいてさあ、ちょっとトラウマになりかけた」
「……いや、でも、それがオレだとは」
「で、二口ってどこの中学だった? オレさ、その負け試合で一番印象に残ったの、相手のエースのプレーそのものよりも、ずっと笑ってたことなんだよな。ぶっちゃけ、すげー怖かった」
「……。」
「でも、そのチーム、二回戦で……?」
小原が更に続けようとしたとき、テーブルに右手が下からガンッと当たってしまい、派手な音を立てた。これ以上、青根と手を繋いでいられなくて離してしまったのだ。その音に小原は驚いて言葉を切るが、茂庭が穏やかに続きを尋ねる。
「……その、笑顔のエースがいるチーム、二回戦でどうだったの?」
「あ、はい。いやオレたち、勝つつもりだったからバスまでの時間もあって、悔しさ半分と勉強半分で二回戦も見に行ったんですけど。やっぱり一人だけが特別上手いチームじゃ限界があったみたいで、相手チームのブロックに完全にエースが止められて、惨敗してました」
「そうなんだ……。」
「でも、そのエースは笑ってて」
「……そう、なんだ」
「凄い精神力だなって、そんとき思ったんです。いや、ほんとは、なんで負けてへらへらできるんだろとも最初は思ったんですけど、でも、やっぱり一人だけがずば抜けてたチームだったし、エースが凹んだら困るって考えて、笑ってるんだろうなって思い直して。で、そのエースを二回戦で破ったチームっていうのが……?」
「……あー、小原、悪い、オレ全然覚えてないや。つか、それほんとにオレ? 違う中学と間違えてんじゃねえの?」
遮るために言葉にしたが、決して嘘ではない。二年生の春の大会、二口の中学は奇跡の一回戦突破を果たした。中学自体がまだ創立して数年ということもあり、バレー部では初の快挙だ。周りからもよくやったと褒められたし、その功労者として随分と讃えられた。
だが、その一回戦で破った相手の中学は、かろうじて学校名を覚えているくらいだ。チームにいた選手など、さっぱり分からない。記憶力の問題もあるが、午前中の祝勝気分を完全に吹き飛ばすのほどの衝撃が、午後の二回戦で起きたからだろう。
「まあ、勝った側はそんなものだよな」
「あ……いやっ、その、そういう意味じゃなくて!? なんつか、ほら、オレ忘れっぽいからさ!?」
「たぶん、オレたちの中学が惜敗だったら二口の印象にも残ってたと思うんだよな。でも実力からいえば当然だし、むしろそれを励みにしてオレはまた練習に打ち込めた。二口も、そうだったんじゃねえの?」
「……!!」
「オレ、てっきり二口が伊達工に来たのって、あのときの試合が……。」
それは違う、本当に偶然だ。強豪校に行くだろうという予想ぐらいはあったが、まさか自宅から最も近いというだけで選んだこの高校で、再会するなどと思っていなかった。
言えるはずがない言い訳で青褪める二口に、小原は途中で言葉を止めた。何かを察したのかもしれない。話を促した茂庭と、黙ったままの笹谷は勘がいいので気がついていそうだ。鎌先は一人不思議そうに首を傾げている。横に座る青根には、視線を向けることもできない。
自然と静まり返ったとき、急に携帯電話が震えだした。
「あっ……あ、すみませんっ、親から早く帰れってメール入ったんで、オレ帰ります!!」
「あ、ああ、お疲れ……?」
実際には帰りが遅いので夕飯がいるのかどうかだけの確認だったが、適当なことを言って二口はボックス席から抜け出した。わざわざ茂庭と小原の前を通り、客がいない隣の席に置いていたカバンをつかむ。
「鎌先さんっ、ご馳走様でした!! 失礼します!!」
「ああ、また明日な」
そのままファストフード店から出て行った二口を、残された部員たちはそれぞれ複雑そうに見送る。だがやがてそうしていても仕方がないので、冷めたポテトなどを食べ始めたところで、小原がため息をついてから呟いた。
「……さっきの話、まずかったんですかね?」
不安げな声には、茂庭も困った。
「まずかったんだろうけど、普通はまずいって思わないよねえ。小原はわだかまりがあるわけじゃないし、どちらかと言えば、二口を褒めたかったんだよね?」
「……はい。正直、同じチームだって四月に知って、ほっとしたんです。技術的なものはもちろんですけど、それ以外でも。オレは割と追い詰められる方だし、それが顔にも出るし。へらへら笑うとまではいかなくても、余裕を捨てないでコートに立てる選手がいるのって、やっぱ違いますから」
「そうだよねえ、二口のあの独特の精神力は、貴重だよねえ……。」
もちろん技術的な実力もあって支えになるものだが、青根への信頼感とはまた別の頼もしさが二口にはある。
中学時代のプライベートばかり暴露される形になり、選手としても優秀だったと小原は言いたかったのかもしれない。だが、わずかな親切心で切り出した話に、二口はあの反応だ。どう考えても、認めたくない過去らしい。
「……ねえ、青根? お前は中学二年の春の大会のこと、覚えてる?」
「……?」
小原ははっきりと言わなかったが、二口が二回戦で当たった中学は、確実に青根がいたところだろう。その青根は、覚えているのだろうか。やはり二口と同じように、勝った側なので記憶に残っていないのだろうか。
慎重に尋ねてみれば、何故かじっと自らの左手を見下ろしていた青根が、不思議そうに顔を上げる。考え込む仕草だが、思い出せないのか、質問の意図が分からないのか、茂庭では判断がつかない。
「……まあ、勝ち続けてる奴なんていないんだ、誰だって一度や二度、思いっきり負けてそれで成長したことぐらいあるだろ。珍しいことじゃない」
「そうですよね、笹谷さん……。」
「珍しいとすれば、深い仲になってもそれを隠してるっぽいことだよねえ……。」
笹谷たちが話している間も、青根はずっと考え込んでいる。小原が対戦した中学の時ほどは、二口も試合中に笑っているわけではない。少なくとも、プレーが切れるまでは集中している。だが合間では割と余裕があるのも事実なのだ。
試合ですらそうなので、練習や、それ以外では二口は青根とは違った意味でマイペースだ。調子が軽い。おかげで、いつも鎌先とは衝突する。だからこそ、あれほど焦っている二口を見たのは、二人が『仲直り』をする前にもなかったように思えて、不安になるのだ。
「まあとにかく、二口はほんとにモテてたムカツク野郎ってことだよなっ。それが分かっただけでも、ああもう、マジであいつムカツクな!!」
「……鎌ちは平和でいいよねえ」
「なんで!?」
話をまとめてくれたつもりらしい鎌先には、肩の力が抜けて笑ってしまった。この鎌先もまた、全く違う意味で二口にはストレスになっているようだが、教えないでくれと頼まれた以上は勝手なこともできない。難しいなあと茂庭がため息をついている間も、青根はまだ悩んでいた。だが視線は再び左手へと落とされており、名残惜しそうな瞳で、ああ繋いでもらっていたのかと、やっと気がつけた。
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