【お試し版】
『はつこい!』収録-01.





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 もう、十年近くも前のことだ。朧気にしかないその記憶は、おそらく三歳か、四歳くらいの頃だったと思う。
『……かわいい。かわいい』
『……?』
 子供心にも、そう頭を撫でてくれた女性のイントネーションが、なんとなくおかしいことは感じていた。周りには普段近所で見る人とはだいぶ違う感じの人が多かったし、その女性もやはりどこか違う。髪が黒くないのに、おばあさんにも見えない。覗き込まれる目はどこまでも綺麗な緑色をしており、家の戸棚に隠した宝物のビー玉を連想させた。
 おそらくとても美人だったのだろうが、幼かったこともあり、そういった意識よりは単純に優しそうだという印象が強く残った。だが、抱きかかえてくれていた母親のような温もりとは違う、寂しそうで儚い優しさだ。長い髪も、白い肌も、綺麗な瞳もまるで絵本の中のお姫様のようで、現実味がない。
 なにより、それまでよく分からない言葉を話していたのに、急に理解できる単語で撫でられたことにひどく驚いてしまう。昔から人見知りはしない性格だと言われていたし、自分でもそう思っている。だがこのときは何故かとても恥ずかしくなって、そのお姫様に何も言えず、母親の胸に顔を埋めてしまった。
『あっ……す、すいませんねぃ? 普段はもっと愛想がいい子なんですけど、あんまり綺麗な人だから、照れちまったのかねぃ……!!』
 内容はよく理解できなかったが、父親が慌てたように謝罪したことも覚えている。
 それに、お姫様が何と返したのかは母親の胸に顔を埋めていたので聞こえなかったし、仮に耳に入っても分からなかっただろう。同じく困った様子で口を開いた母親から、やはり理解できない言葉が紡がれた。お姫様は、また何かを答えている。
 凛と透き通った声は頭に響くのに、意味を成さない。まるで歌のない音楽のようだ。やわらかい声色は子守唄のようでもあり、少しうとうとしていた頃に、母親との話も終わったらしい。後から思えば、父親はその国の言葉をあまり話せなかったのだろう。そして、お姫様の方は、こちらの言語が流暢というほどではない。そのため母親が通訳のような形で間に立っていた。
 二言三言、会話を交わしてから、もう一度お姫様に頭を撫でられる。
 それに、気恥ずかしくなりながらも顔を上げてみれば、優しい緑のビー玉は濡れている気がした。
『ごめん、なさい。いや、だった?』
『……んーん』
 もしかすると、お姫様は本当に泣いていたのかもしれない。このときは、大人が自分の所為で泣いてしまったのかと焦り、恥ずかしさより申し訳なさが上回って顔は背けずに否定をした。
 すると、そのお姫様はほっとしたようにふわっと笑った。
 それがあまりに綺麗で、少しビックリしている間に続けられる。
『わたしの、むすこと……なかよく、してくれる?』
『……ん。すゆ』
『よかった。ありがとう……むすこを、よろしく、おねがいします……。』
 驚いていたこともあり、思わず頷けばまた笑ってくれた。それが嬉しくてもう一度頷こうとしている間に、深々とお辞儀をされてまた驚いた。
 後に考えれば、感謝を示す際に頭を下げるというのは、あの女性の文化にはなかったことのはずだ。だが知識として、日本ではそうするのだと知っていた。だからこそ、年端もいかない子供に対してであっても、すがりたいような気持ちがそうさせたのだ。
 そんな考察をするようになるまでには、更に時間がかかる。
 なにより、こうして異国で綺麗な女性と会い、約束をしたことなど、それから二年以上も思い出さなかった。
「……とうちゃん」
「わっ!? ……た、武、どうしたんでぃ?」
 小学校に上がる直前、母親が他界した。死という概念はいまいち理解できていなかったが、もう母親と会えないのだということだけは分かっていた。自営業だったこともあり、幼稚園から家に帰ればいつも両親がいた。店が開いている時間は一人で遊ぶことも多かったが、気配は感じていたのでそれほど寂しいとは思っていなかった。
 だがその母親が死に、黒い服装の人たちがたくさん集まっての不思議な会も済んだ頃、ふと父親がいなくなる。死んだという感覚は曖昧でも、母親がもういないことは理解していたので、散々泣き喚き続けた後だ。家のどこにも母親がおらず、店によく来てくれる近所のおじさんやおばさんも皆泣いていたことで余計に悲しいというより混乱して泣いたのだが、その一方で父親を困らせていると頭の隅では分かっていた。
 だからこそ、父親までいなくなってしまったのかと慌てた。
 本当は男の子が欲しかったことや、強く逞しく育つようにという願いが名前に込められていることも知っている。
 それにも関わらず、泣き続けて困らせてしまったので捨てられてしまったのかと思い、混乱したままで近所を探し歩く。すると、よく仕事の合間に母親と遊んだ公園のベンチに座り込む父親を見つけた。安堵はしつつ、やはりまだ捨てられたのかもしれないと思えば怖くて、おずおずと声をかければひどく驚かれた。
「とうちゃん……?」
「い、いや、なんでもねぇよ、これはなんでもねぇ。それより武、どうしたんでぃ? 田舎のおばさんがお菓子買ってきてくれてたろ? いっぱい食わしてもらったか?」
「……。」
 仕事場にいるときはいつも白い服なのに、その日は真っ黒な服を着たままの父親は袖で目元をゴシゴシと擦っていた。擦りすぎたのか、若干目元が赤くなっている。
 だが洟をすすり上げていれば、泣いていたことは誤魔化せない。
 幼かった自分にもそれは分かり、ようやく悲しいという意味が分かった気がした。
 いつも、強くて、大きくて、頼もしかった父親までもが泣いてしまうような出来事なのだと、分かってしまった。
「……武、とうちゃんはダメだな。男なら涙なんか見せねえ、て、いつもアイツに強がってたのに、このザマでぃ」
「……。」
「でも、とうちゃんは泣いても仕方ねえんだ。だって、大好きな人が遠くに行っちゃったんだからな、ちょっとくれねえ泣いてもいいんだ、今だけは……。」
 それはきっと、父親にできた精一杯の強がりだったのだろう。そう言って大きく息を吐いた後、ベンチに座ったままの父親はゆっくりと手を伸ばしてきて、ポンと頭に置いた。
「……けど、武、明日からは、とうちゃんはもう泣かねえ。アイツとも約束したしな、たとえどっちかが先立つことがあっても、葬式の翌日からは笑って暮らそうって。武に心配かけねえようにしよう、て」
「……。」
「だから、武も、もう泣かねえでくれるよな?」
 母親の死因は詳しくは知らなかったが、その約束はどちらかと言えば過去の所業ゆえに父親が突然命を落とすことを想定してのものだったはずだ。だがそれを聞いたとき、動揺してしまった。急に寂しくなった理由は、つい口を開いて言ってしまったような些細なことだ。
「……やくそく、してない」
「ん?」
「おれ、かあちゃんと、そんなやくそく、してないのな……!!」
 幼かったことより、泣きすぎたことと異常な事態の連続から、不安定になってしまっていたのが原因だ。
 もう泣くなと言われたことではなく、母親とそんな約束を自分はしていないということがとても悲しくなった。仲間はずれにされたような寂しさでまた涙腺が緩みかけたとき、慌ててガシッと両肩を掴んできた父親が、困ったように口を開く。
「ああっ、いや、そうかもしれねえけど……そ、そうだ武、イタリアに行ったときのこと、覚えてるだろう?」
「いた、りあ……?」
 この頃には、イタリアというのが外国だということだけは理解していたので、急な言葉には面食らってしまった。だがすぐに、朧気だった記憶に結びつく。
 ああ、あれはイタリアだったのか。
 鮮明に脳裏に甦った異国の情景と、もういない母親の温もり。そして、とても綺麗なお姫様がいたと思ったところで、父親に念を押された。
「そこで、綺麗なお嬢さんと、約束しただろ?」
「……ん」
「あのお嬢さんの息子さんと、武は仲良くするって約束してあげたよな? だったら、泣いてちゃダメだ、そんな顔してたら、逆に心配かけるばっかりだ。アイツもいる場で、ちゃんと約束したよな? 武にも、まだ会ったことはねえけど、支えていかなきゃならねえ大切な人がいるんだ。いずれ出会うときのために、武は強くなってくれねえと、天国のかあちゃんも困るからねぃ……。」
 だから泣かないでくれと諭されたことは、とても衝撃的だった。
 正直こうして話されるまで忘れていたし、あのとき頷いた約束がそれほど重要な意味を持っているとは思っていなかったのだ。おそらく父親としては、もっと娘も成長してから改めて話すつもりだったのだろう。だが母親の他界でひどく不安定になってしまった娘をなんとかしっかりさせようとして、あのときの約束を持ち出し、不器用に励ましてくれたようだった。
 そのときから、悲しくても泣かないように頑張った。
 天国の母親も、男手一つで一生懸命育ててくれている父親も、困らせたくなかった。
「……ん。わかった。おれ、もうなかない」
「そうかぃ、武はやっぱり強い子だ……。」
 そうして自分の中で支えとなったのは、もっと別の誰かだ。
 遠い異国の地で、綺麗なお姫様のような人の息子。
 いつしかイメージは王子様になった会ったこともない誰かのために、強くなろうと心に誓った。






 母親が死んでから更に六年以上が過ぎ、中学校に進学したばかりの頃には、そんな自己欺瞞に似た思い込みは自分の中で勝手に真実になっている。顔も名前も知らないことが、夢を膨らませ、同時に現実味を薄れさせた。年齢的には思春期を迎え、体は二次性徴の真っ只中でも、クラスメートの女子のように学校の先輩や芸能人などに興味を持てない。そんな自分にとっては、あの女性との約束という記憶は、いい方向に働いていたようだ。
「や、山本さん!! 僕、ずっと前から好きだったんだ、付き合ってくれ!!」
「ごめんなっ、無理」
「……。」
 自分ではさっぱり理解できないのだが、小学校の終わり頃から、男子生徒からのこういった申し出を受けるようになった。特に中学に上がってからは、まだやっと二ヶ月が過ぎようとしているくらいなのに、既に何人もの男子生徒から告白を受けている。
 いずれも、小学校が違った者や、クラスが違う者、学年が違う先輩など、あまり親しくないことが多い。スポーツをするのに邪魔だとしか思っていない育ちすぎた胸が、悪目立ちをしているようだ。それぐらいはさすがに理解しており、ため息を深める日々だが、なかなかクラスの女子には共感してもらえない。自分としては、相手のことをほとんど知らないのに交際などできるはずもなく、そもそも恋人を欲しいとも思わない。並盛中学には珍しく女子の野球部があり、そこでの練習の方が楽しくて仕方がないのだ。
 それなのに、こんなふうに呼び出され、告白してくる者は後を絶たない。どうしてほとんど話したこともないのに付き合いたいと思うのか不思議でしょうがないが、このときの男子生徒は怪訝そうに追及してきた。
「えっと……それは、どうして? もしあれなら、最初は友達からでも僕としてはいいんだけど」
 顔に全く見覚えがなかったので、おそらく先輩だったはずだ。顔も整っている気がしないでもなく、そこはかとなく自信が漂う様子で申し出られたことには、一応頷いておく。
「友達なら、別にいいけど」
「それじゃあ……!!」
「でも、付き合うのはナシな。ごめん。えっと、先輩なのかな? お付き合いはできないです、ごめんなさい」
 一瞬ほころびかけた表情が、一気に慳貪なものに変わっていったので、慌てて口調を改める。後輩からタメ口で返されて、不愉快になったのかもしれない。
 そう察して丁寧に繰り返してみたが、険しい表情はそのままだ。それが逆に不思議だったが、キュッと口は結ばれていたので、もう話は終わりかと帰りかければ引き止められた。
「ま、待ってくれよっ、だからどうして付き合えないんだよ!?」
 そして重ねて尋ねられて、ようやくその部分を答えていないのだと思い出した。
 確かに、友人付き合いから恋人に発展することは一般論としてはあるだろう。だが、自分にはありえない。誰とも付き合えないのだと説明するたびに、少しだけ照れくさくなってしまうときだけ、自分も女の子なのかなと思ったものだ。
「ああ、オレ、許婚がいるんで?」
「……え?」
「だから、ごめんなさい。王子様が待ってるから、付き合えないのな?」
 ごめんなさい、と再び頭を下げてみれば、掴まれていた手からも力が抜けたようだ。
 どうやらこの先輩も分かってくれたらしい。そうと安心すればもうこうして無駄に時間を費やす必要はなく、晴れやかな気分で部活へと向かえた。
 ふと見上げた空は、梅雨入り前の最後の足掻きのように青く澄み渡っている。
 実在しているかも分からない許婚も同じ空を見ているのだろうかと思ったが、イタリアでは夜かもしれない。時差など本気で調べる気はなく、なんとなくでしか考えていない自分にとって、口にしたほどの執着はなかった。
 だが完全な夢物語でもない。
 いつか会ってみたい、あるいは会わなければいけなくなるのだろうと漠然と思う程度の許婚を、自分の中にずっと住まわせていた。











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