■サイレント・ボム
「なあ、ヒロト」
「……。」
「……。」
「……。」
「……。」
「……。」
「……。」
「どうしたの〜、本田くん? 呼ばれてるよ〜」
ヒロト、とは、誰のことだったか。
頻繁に聞かれる名前ではない、だが確かに極めて近しい友人の一人の名だ。
付き合いが長くなるにつれ、呼び方が変わることは多々にしてある。ただ、その変化の仕方が、名字から下の名へというものだった場合、そこに関係の深まりを見るのは自然だろう。
要するに、もうそんな仲なのか。
そんなふうに、友人たちの驚きが妙な納得と生温かい優しさへと移っていく様を目の当たりにしたとき、少し離れた席からそう指摘されて派手に反応してしまった。
ガタッと椅子が鳴った音は、昼休みの喧騒の中でもよく響く。真冬ということもあり、全員が教室で昼休みを過ごすようになってからは、いつも誰かがしゃべり、笑い、うるさいと他のクラスメートから呆れられていたこのメンバーだ。たった一言で凍りつかせた者ではなく、今ではその双子の姉としてフォローなのか煽っているのかよく分からないことをしてくれる者の穏やかな笑顔が、地味にこわい。
これは、どういう類の嫌がらせなのだろう。
必死に思考を回そうとしても、既に最初の爆弾で混乱が極まっている頭はまともに働いてくれない。ただ驚いたように、双子の姉の方を見つめてしまったのは、爆弾投下の犯人を直視する勇気がなかっただけだ。
「……ああ、そういえば、本田の下の名前ってそうだったわね」
そしてまた嫌な沈黙が訪れようとしていたとき、最初にそう口を開いたのは杏子だ。やはり女は強いということなのか。しみじみと呟かれると、何故か気恥ずかしくなってくる。ちなみに杏子は仲間内の約半数から下の名前で呼ばれてる。
「考えてみれば、不思議なことじゃないっていうか、むしろ自然だよね」
杏子の言葉を受けて頷いたのは、御伽だ。こちらは名字で呼ぶ者しかいない。男女の差ではなく、知り合った時期の違いだろう。杏子は高校で一緒のクラスになってから、傍に下の名前で呼ぶ者がいたのだ。それが移った者は、杏子を下の名前で呼んでいる。根拠となった幼馴染は、大きな目を瞬かせた後、緩く首を傾げていた。
「そっか、じゃあボクたちもそう呼んだ方がいいのかな?」
「遊戯くん、それは野暮ってものだよ」
どうやらこの中では一人邪推などせず、純粋な気持ちで驚いてくれていたらしい遊戯に、御伽がしたり顔で諭しているのが憎い。だがその御伽を睨むことはできても、相変わらず横へは向けない自分の弱さが情けなくてたまらない。
そう打ち震えている間に、遊戯の隣で不思議そうにしていたそっくりの髪形の男、今では双子の弟ということになっているかつての王は、やはりそっくりな仕草で首を傾げていた。二心同体だった時期が長いためか、この二人は時々本当の双子かのようにシンクロニシティを見せることがある。
「そういえば、本田くんも下の名前がカタカナだったな。何か由縁があるのかい?」
古代エジプトの王の魂、何かの理由で冥界の門をくぐるのにしばしの猶予をもって実体と共に戻ってきた。それ自体は喜ばしいことでも、やはりこの現代日本でそれなりに生活するには身分証がないのはつらい。因縁なのか偶然なのか、幸いなことに超法規的なことをまるっと任せられる貴公子がこの町に君臨していたこともあり、遊戯に実は双子の弟がいたという書類上の改竄は実にたやすかった。
そのため、かつてはもう一人の遊戯と呼んでいた者は、武藤アテムという名前になっている。仕事の合間に再び戸籍捏造の依頼をされ、大変気分を害されたらしいこの町の君主サマは、当初帰化した外国人のように漢字の名前で登録しようとしていたようだ。
候補は、『悪敵虫』。
それはいくらなんでも、と至極真っ当な弟君が兄の恋人サマに連絡してくれたおかげで、アテムはどこぞの暴走族のような表記にならずにすんだ。その話を聞いたとき、自分は本当に感動したものだ。たとえ弟君の密告が、『兄サマにはもっと派手で盛大でえげつない嫌がらせでないと似合わないぜぃ!!』という理由であっても、親友の当て字を止めさせようとした恋人サマがその細腕で歩く人間兵器と名高い男を拳一発で沈めたとしても、だ。ちなみに戸籍申請の書類は、殴られた際の吐血で修正がなされていたと聞く。カタカナで『アテム』と表記された血文字は、もしかすると修正のつもりではなく、乱暴な恋人を愛するが故に、たとえここで自分の命が尽きることになろうとも犯人として告発することなくその親友に罪をかぶせるつもりだったかのかもしれない。怖くて確かめたことないが、事実であればそこまでかつての王に嫌がらせをしたい執念と、乱暴な恋人を愛せる懐の深さと、どちらに慄けばいいのか分からなくなりそうだ。
そういった経緯を経て武藤アテムとなった友人だが、やはり遊戯と同じ体だったときの印象が強く、下の名で呼ぶ者はほとんどいない。遊戯、ユーギ、と呼び分けているので、さほど親しくないクラスメートたちからは紛らわしいとよく嘆かれる。そんなことをつらつらと考えてしまっていたのは、発端となった隣の席をいまだにまともに見る勇気が出ないからかもしれない。
「あれ、ユーギは知らないのか?」
「ああ、何か理由があるのなら教えてくれるかい、城之内くん? オレはまだこちらの生活に慣れてなくて、興味がないことはそもそも疑問に思うこともないんだ」
さり気なく自分の認識レベルの低さを聞かされた気がしないでもないが、それは今更なので驚きはしない。むしろ、突然楽しそうに口を挟んできた悪友の方に怪訝そうな目を向ければ、案の定だ。
「ほら、甥っ子がいただろ?」
「ええと、確か、ジョニーだったか」
「いやジェニファーだって」
「……ジョージだっての、それじゃお前性別まで変わってるじゃねえか」
「それに、飼ってる犬もブランキーだっただろ?」
「わ〜、さすがだね〜、城之内くんっ。お仲間の名前はちゃんと覚えてるんだ〜」
「つまり、簡単だっての、ユーギ? 本田ってアメリカ人なんだよ」
犬は関係ない、そしてオレは日本人デース。
心の中の否定が、ついアメリカ人の中でも特殊な部類の口調になってしまい、一人で勝手にダメージを受けてしまった。思わず俯いてしまった自分に対し、城之内の言葉を真に受けたユーギはひどく驚いている。
「そ、そうだったのか、本田くん!! いや、名字は漢字のようだし、ええと、つまり、ハーフってことかい?」
どちらのご両親がアメリカの方なのだと珍しく興味深そうに尋ねてくるユーギは、もしかすると自身をエジプトと日本のハーフのように感じているのかもしれない。この場合、両親ではなく、肉体と魂がハーフだ。そうと分かっていても、まるで同類を見つけたというようにキラキラした目を向けられるのは大変居心地が悪く、どう否定したものかと悩みかけたところで、横の椅子がガタッと鳴っていた。
「バカ犬、なんで突然そんな嘘ついてんだよ。アホで世間知らずで箱入りの王サマがすっかり騙されてんじゃねえか」
「え、だって、本田がペガサスみたいな口調になったら面白いかなって……痛たたたたっ、やめろよ、バクラ!!」
呆れたように言いながら、反対隣に座る城之内の頭を撫でて窘めていた手が、冗談の根拠を聞いてギリギリと髪を引っ張る動作に変わっている。城之内からの期待には、実は先ほど心の中だけでひっそりと応えてしまった。それを悔いていると、ふと視線を感じた。
「本田くん、城之内くんの話は……?」
「あ? いや、嘘というか、冗談に決まってるだろ? オレは両親とも生粋の日本人だっての、カタカナなのはどうせ漢字考えるのが面倒だったとか、そんな程度だと思うぜ?」
「そう、なのか……。」
妙に落ち込んでいるように見えるのは、ハーフ仲間ではなかったことではなく、親友と思っていた城之内に騙されたからだろう。変に生真面目なところがある古代の王の魂は、時に深刻に受け止めすぎる。損な性格だよなと可哀想になっていると、やっと城之内の髪から手を離した隣の人物が、呆れたようにフォローしていた。
「バカ犬、王サマにはちゃんと謝っとけ。てめーの言葉はちゃんと届くんだからよ、無駄に凹ませたくねえだろ? 面倒だし」
「え……あっ、ユーギ、さっきの本気にしちまったか? ごめんなっ、ちょっとからかってみただけで!? ユーギには悪気がなかったんだよ、信じてくれよなっ」
「ああ、もちろんだぜ城之内くん!!」
いろいろと性格に偏りがあるユーギは、あまり話が通じないことが多い。それはユーギが全体的にアレなのではなく、ちゃんと言葉を聞き入れる相手を取捨選択しているからだ。おそらく無意識なのだろうし、いまだに違和感を拭えないこの現代ですべてをまともに受け取っていてはきついのだろう。ユーギに言葉が届くのは、相棒と慕う遊戯と、親友の城之内。届いているが正確に受信されているのか不明なのが、城之内の恋人。この三人くらいだと指摘した本人は思っているのだろう。だが本当は、もう一人いる。時代の差という絶対的な溝を持ちえない黄泉返り仲間の声は、きっと届いている。
時々、そのことがどうしようもなく自分を不安にさせる。付き合いの長さが親密度や好意に比例するわけではないのは、先ほどの城之内の発言が期せずして証明してくれているが、気になるものは気になってしまうのだ。
「あれ〜、もうお弁当食べたの〜?」
「バクラ、食うの早くね?」
「お前らがくだらねえ話してただけだろうが……。」
一人また焦燥感に駆られ、ぐるぐると考え込んでいると、隣の席ではそんな会話がなされていた。どうやら立ち上がったのは弁当箱をしまうためだったらしい。
「そもそも、バクラくんが妙なこと口走るから箸が止まったんじゃない……。」
「しかも、当人は平然としてるから、やるせないよねえ」
杏子や御伽も、思い出したように昼食を再開している。ちなみに自分は、本日はパンなので一番早く食べ終わっていた。実家から登校してきたわけではないので、弁当を持参できなかったのだ。隣でさっさと弁当を食べ終えた人物は、そんな理由ではなく、そもそも大人数だとよほど気が向いたときでないと口を開かない性格が顕著になってきているからだろう。かつて宿主サマと呼ぶ双子の姉と同体だったときは、ひどく饒舌だと思っていたが、あれはしゃべりたいときに出てきていたためだったからのようだ。無理に話を合わせるでもなく、明確な用件がなければ自分から口を開くこともない。この体になって戻ってきてからしか知らないクラスメートの大半は、この者の性格を比較的大人しいと認識していることだろう。
ようやくいろいろな衝撃もすぎてきたので、そんなことを考えながら机に置いたままだったパンの空袋をくしゃりと潰す。まとめて丸め、教室の後方にあるゴミ箱へと投げてみれば、見事に入った。少し嬉しくなったが、不意に御伽の言葉にひっかかりを覚える。
「……『平然と』?」
「どうしたの、本田くん?」
呼ばれたときは驚きすぎて顔を背けてしまい、それ以降はまともに隣を見れなくなってしまったが、どうやら沈黙の爆弾を落とした当人は平然としていたらしい。
名前を呼び間違えるということは、それほど珍しくない。
教師に向かって、『お母さん』と言ってしまうようなものだ。
たまたまそれが、自分にとって動揺を誘う間違い方だったので頭がいっぱいいっぱいになってしまい、深く考えいなかったが、そもそも先の例とは明らかな相違点がある。教師をお母さんと呼ぶのは、その呼び方の方が慣れているからだ。だが、自分は呼ばれたことなどない。相手も呼び慣れているはずがない。不可抗力で間違えるはずがないのだ。もちろん、周囲はその違和感を知るはずがないため、二人きりのときはそう呼び合っていると邪推し、沈黙するしかなかったのだろうが、それが正解でないことを自分は知っている。
では、一体何故呼び間違えたのか。
その答えは、『平然と』していたと表現された態度で分かりきっていたのに、つい不思議そうに呟いてから隣を見上げれば、そこにはひどく愉しそうな笑みがあった。
「なあヒロト、もうメシ食ったんだろ? オレサマ昼寝してえんだけど?」
「……。」
ああ、こんな顔をして呼んでいたのか。
一発目は見ることが叶わなかった顔を真正面から拝むことになり、しばらく惚けて見つめてしまった。性格を知らなければ穏やかな美少女然とした双子の姉と違い、こちらはかなりきつめで冷たい印象を与える美人だ。無表情で淡々とした態度でクラスメートには接することが多く、影で氷の女王と呼ばれていることも密かに知っている。
それを聞いたとき、かつて盗賊王と名乗っていた頃とその魂を知っている自分たちは、失笑を通り越して生温かい気持ちになったものだ。確かに今では感情を見せない態度のことが多い、ただそれは表に出るほどそもそも相手に対して何も思っていないからなのだ。好意であれ、悪意であれ、気持ちが振れれば鮮やかすぎるほどにその表情は一変する。愛想など一切乗せずに素のままでいるからこそ、何かしらの感情に彩られたときのギャップは大きく、揺さぶられてしまう。魂を射抜かれてしまうような、そんな感覚だ。
さすがは元盗賊王と揶揄する余裕もなく、ポカンとただ見上げるしかなかった自分の傍では、ひそひそと仲間が話しているが当然耳には入らない。
「……ねえ、昨日も泊まったんでしょ? 本田のヤツ、それでまだ見惚れてるの?」
「しょうがないよ〜、ヤってもヤっても心が童貞みたいって妹も言ってるし〜」
「ああ、なんだか物凄く納得しちゃったよ、ボク……。」
「本田くんて、純情だよねーっ」
「なあ相棒、ヤったらもう童貞じゃないんじゃないのか? というか、心が童貞というのはどういう意味なんだ? 体ではなく、心にも童貞か否かという判断基準が……。」
「いいなあっ、オレも海馬に見とれてほしいぜ!!」
さすがは悪友というべきか、傍で恋人たちが見詰め合っていても邪魔しないようにという配慮など微塵もなく、個人の願望を恥じることなく叫んだ声のおかげで自分もハッと我に返る。
だがそれは、羞恥との闘いの始まりだ。
呼ばれたことも、呼ばれて動揺したことも、呼んできた表情にうっかり見惚れてしまっていたことも、すべてが自分を苛んだ。居たたまれなさの局地に達したとき、ほとんど無意識に椅子から立ち上がると横でまだニヤニヤしている相手の細い手首をつかむ。そのまま引き摺るようにして教室のドアに向かっている自分には、後方で行なわれた他のメンバーとのやり取りは耳に入ってこない。
「ちょっと、五時間目は課題の提出があるでしょ!! カバン勝手に開けていいの!?」
「戻らなかったらヨロシクな」
「ていうかっ、お前ら、昨日も泊まったんならいっぱいヤってんだろ!? ずりーよ、オレしばらく海馬と会えてもねえのに!!」
「知るか」
「城之内くんも海馬くんに試してみたらいいんじゃないかな〜、ていう妹なりのアドバイスだと思うよ〜」
あとこっちに泊まったときは一応遠慮してそこまでヤってないみたい〜、というどうしようもない指摘を聞かずにすんだのは、本当に幸運だった。もし聞こえていれば、場所を移動する気力すら潰えて廊下で座り込んでしまっていただろう。
妙にしっかりしている杏子と、相変わらず変に羨ましがる城之内、そしてさり気なくコートを渡してきていた双子の姉。つるんでいるメンバーのうち、女性はいずれも逞しい。そんな感想は、恋人の手を引いて結果的に教室から逃避行する羽目になった本田ヒロト以外の男も全員実感しただろう。
本田とバクラがいなくなってから、杏子はようやく食べ終えた弁当箱を片付けてから、バクラの席へと向かっている。そしてまずは机から探し、発見できなかったので宣言どおりカバンを開けているようだ。
「……ちゃんと課題はやってるのね。サボり癖はあるけど、成績は結構いい分まだマシかしら」
「いや真崎さんそこじゃなくてさ、そういうことじゃなくてさ、もっと根本的に高校生としての節度とかからの観点で助言をしてあげたりしないのかなあ、ダメなのかなあ、やっぱり期待しちゃダメなのかあ、キミたちは高校生どころか人間かすらも曖昧な枠にあるクラスメートの奇行に慣れすぎてるからさぁ……!!」
転入してきた時期が最も遅いためか、いまだに慣れることに抵抗があるらしい御伽は一人頭を抱えている。こんなとき、しっかりしろ、オレも諦めたら楽になったと肩を叩いてくれていた常識人は、既にあちら側の人間だ。ちなみに課題ははなからやっていない。
「ねえ獏良くん、結局あれはバクラくんがからかってるだけなの? 本田くん、だいぶ動揺してたみたいだけど」
「そうだよ〜、別に二人のときは下の名前で呼び合ってたりしないよ〜、本田くんはともかく、妹の方は、ねえ〜?」
「ああ、そっかぁ、そうだよねえ」
その横では、かつて闇人格を居候させていた者同士が、のんびりとした会話をこなしている。更にその横では、突然携帯電話を取り出した城之内が、小さな液晶画面を睨みつけていた。
「城之内くん、どうしたんだい?」
「いや……海馬に、メールしようと思ったんだけどよ。そういやオレ、メールはほとんど受信するばっかりで、送るのはハイかイエスくらいなんだよな。長々と打ったことねえし、そもそもなんて言えばいいのか……!!」
携帯電話の使い方の相談など、ユーギには最も人選ミスの類だろう。しかも、了解の返事しか常に送らないというのは、どういう状況なのか。あまり深く考えることのないユーギは、親友の悩みには真面目に答えていた。
「それなら、いっそ電話をしたらどうだい?」
「いや、ほら、でも、仕事中だと悪いしさ……!!」
「仕事中なら、そもそも出ないじゃないのか、アイツは? 留守番電話に入れておけば、海馬も都合がよくなってから聞いてくれると思うが」
「そっ、そうか!! それもそうだな、さすがだぜユーギ!!」
学校が昼休みということは、海馬コーポレーションも同様に昼休みの時間帯である可能性は高い。だが一社員ではなく、高校生でありながら社長でもある海馬は、そもそも休憩などあってないようなものだ。ユーギの言葉で期待してかけてみた城之内の顔は、呼び出し音が重なるにつれて曇っていく。やがて機械的な音声で留守番電話サービスへと繋がったようだが、城之内は黙り込んだままだ。
「……。」
「……?」
傍で見ていたユーギは、何故城之内が黙っているのかは分からなかった。だが自然と注目していた他の面々には、その心情は手に取るように分かる。大方、かけることに必死で伝言内容を考えていなかったのだ。混乱が極まると暴言に走りがちな性質を周りは危惧していたのだが、今回もそれは遺憾なく発揮される。
「……瀬人のバカ!!」
「……!?」
「あ〜あ、城之内くん、やっちゃったね〜」
「でも、なんとなく伝わってると思うわ、海馬くんには」
下の名前で呼んでほしい、あるいは呼んでみたい。だがそれは恥ずかしい、言うのも言われるのも恥ずかしい、こんなにも恥ずかしいのにどうして自分が言わなければならないのか、そもそも海馬から言ってくれていればこんな辱めを受けることもなかったのにお前は本当にひどい男だというか会いたいぜバカヤローという感情を凝縮した結果が、あの言葉なのだろう。以前、博物館でハッサンに向けて獏良が言い放った暴言をオマージュしたと思われる城之内は、一仕事終えた気分でいい汗をかいている。
なんだかんだで、ユーギと同じように、冥界の門をくぐることなく何故か戻ってきたバクラは城之内に甘いのだ。知能指数が低そうな小動物に懐かれると、突き放せなくなる性質らしい。微妙に海馬と似ているいう感想は、実は仲間内では暗黙の了解になっている。
そう考えれば、これはなるべくしてなった結果なのだろう。
感情の種類は違えども、最初に城之内を放っておけないと思ったのは本田だ。城之内の身を案じるという共通の趣味があったので、気も合い、交際に発展したのが馴れ初めと言えなくもない。よし二人の結婚式のスピーチはこれにしようと御伽は心に決めてみたが、おそらく自分が友人代表に選ばれることないだろうという現実も正しく認識していたので、すぐに記憶から消去しておいた。
冷静に考えれば、発端は自分だった。
『……ばくら?』
『あんだよ、その疑問形は?』
『どうしたの〜、ボクに御用事〜?』
昨日、恋人であるバクラの家、元々は獏良が一人暮らしをしていたマンションへと遊びに行った。泊まるつもりではなかったのだが、それは成り行きだ。ともかく、風呂を借りてから居間へと戻ったとき、寛いでいる二人を見たときふと本田は迷ったのだ。
戻ってきた当初はあまり似ていないと思っていたバクラと獏良だが、今ではすっかり双子としてどこに紹介しても不審がられることはない。むしろ本田だけが以前の闇人格だったときからバクラを獏良から切り離して完全な別人として扱っていたからだと散々揶揄されたが、あまり否定もできない。
ともかく、古代における本名もバクラだったようなので、二人が身体も別となってから、ユーギのように戸籍上の名前と違和感が出ることはなかった。だが、大変面倒くさいことに、呼び慣れた名前は元宿主サマの名字なのだ。そのため、アテムのように下の名前として本名を採用すれば不自然になってしまう。加えて、戸籍の捏造よりは元々あったものを復活させた方が早いという理屈で、既に鬼籍に入っていた本物の妹の名を間借りしているのだ。
バクラは相当抵抗があったようだが、主に気遣いである。姉となる獏良と、その両親からの強い勧めで獏良天音という名を借りていても、仲間内でそう呼ぶ者はいない。だが事情を知らない他のクラスメートなどからは、獏良と区別をつけるためにバクラの方を天音さんと呼ぶ者も多かった。
『ああ、いや……なんか、紛らわしいのかな、と思ってよ』
あまり意識していなかったが、確かにそうかもしれない。どちらに対して呼びかけたともなく、その響きを口にすれば、二人ともが怪訝そうに振り返ってきたことで本田にもやっとクラスメートたちの気持ちが分かった気がした。
だが端的に口にした途端、バクラの方が顔をしかめる。それだけで意図することは分かり、先手を打っておいた。
『かといって、お前をクラスのヤツらみたいに呼ぶのは違和感あるしな』
『……。』
どうでもいい相手ならば、区別のために他人の名前で呼ばれることも構わない。
だがお前にそう呼ばれるのは不愉快だという意志を察し、そう続ければバクラは少し驚いたような顔をした後、何も言わなかったが満足そうにしていた。
『だからって、ボクの方を下の名前で呼んでると、変な誤解を受けそうだしね〜』
『ああ、そうだよなあ……。』
バクラの機嫌が直ったのを確認してから口を開いたと思われる獏良の言葉にも、本田は頷いておく。普通の感覚ならば、双子のうち、片方だけを下の名で呼べばそちらとの親交が深そうに聞こえる。誤解には違いなくとも、勝手に思い込んだ周囲がバクラに尋ねでもすればそのストレスはいかばかりだろう。意外と自分との関係に関しては過敏なのだともう知っているので、わざわざ恋人の機嫌を損ねるようなことはしたくない。
あっさりと獏良の言葉にも納得はできたが、そうなると最初の疑問に戻ってしまった。
周りが紛らわしく思うのは仕方ないとしても、当人たちが面倒なのではないだろうか。実際に、先ほどもどちらとも決めないままに呼んでみれば、二人は面食らっていた。やはり何らかの対処が必要なのかと悩んでいるのが分かったらしい。獏良がどこか楽しそうに手を横に振っている。
『ああ、大丈夫だよ、普段はほとんど区別ついてるし〜?』
『そうなのか? いや、でも、さっきは……。』
『さっきのは、キミが敢えてどっちも決めずに呼んだんじゃないの〜? 全然色が違うから〜、むしろそれにビックリしたのかも〜』
もしかすると、そもそも本田が呼ぶのはバクラの方という前提があるのかもしれない。それはあまり間違っていないし、敢えて獏良を示すときは二人称ではっきり示したり、宿主サマというバクラの呼び方を倣ったりしている。
そのため、ある程度の区別はつくという言葉は分からなくもなかったが、色が違うという表現には首を傾げてしまった。まさかオーラが見えるといったようなオカルトの話かと身構えしてまっていると、それにまた獏良はひらひらと手を振っている。
『そうじゃなくて〜、声色って言うのかなあ〜?』
『ああ……?』
『音は同じでも、全然色が違うんだよ〜、キミの呼び方って。まあ無意識なんだろうけど、大抵の場合は区別がついてるから気にしないでいいよ〜』
『イントネーションとか、そういうことか? ああ、でも、遊戯とユーギも結構みんな取り違えねえよな、そういうことか』
勝手に納得してしまったが、これはあくまで獏良の方の意見だ。もう一人もこれで構わないのか、ちゃんと区別がついているのか。確認しようと視線を向ければ、何故か顔を背けられていた。
『バクラ?』
『……。』
ほらほら、それだよ〜、と獏良は言っているが、よく分からない。ただ、先ほどのやりとりでどこか機嫌を損ねるところがあったのかと不安になり、居間の入り口に立ったままだった本田はソファーへと向かっていた。実際にはソファーに座っているのは獏良の方であり、バクラはテーブルを回ったところで床に座っている。
自宅ではないが、他人の家という意識も薄い。本来なら、そもそも他人がすぐ傍にいるという状況を気にしなければならなかったのだが、突然無視される理由も分からず、つい後ろに座り込んで両腕を回してみればバクラが笑ったのが分かった。
『……バクラ?』
『なんだよ、またしたいってのか?』
『えっ!? あ、いや、そうじゃなくて……!?』
どうやら不機嫌ではないらしい。むしろ、機嫌はよさそうだ。腕の中に収めてようやく振り返るようにして視線を戻してくれたバクラだが、からかうような口調には動揺してしまった。なにしろ、風呂を借りる少し前まで、バクラの私室でまさにそういうことをしていたのだ。否定はしたものの、あの熱を思い出してしまい腕が離せなくなる。するとソファーをギシリと軋ませて立ち上がった獏良から、さらりと釘を刺された。
『するならしてもいいけど〜、せめて部屋に戻ってからにしてね〜』
『いやっ、あの、するってワケじゃ……!?』
『なんだよ、オレサマだけその気にさせといて、お預けか?』
『えっ、お預け、て、いうか、その気になっ……!?』
『あと、これからやっと遅い夕飯のつもりだったけど〜、するならキミたちご飯抜きだから〜』
続けられた言葉には、本田もバクラも一瞬黙ってしまった。
そもそも今日はバクラが食事当番だったところを、本田を連れ込んだ挙句、夕飯作りを獏良に代わってもらったのだ。キッチンへと向かい、鍋に火をかけている獏良は、双子の妹が恋人と部屋でしけこんでいても二人を待って夕飯もまだだった。優しいので、夕飯抜きと言ってももう待たないというだけの宣言と分かっていても、さすがに申し訳ない。
本田ですらそうだったので、いまだに宿主サマと慕うバクラが気にしないはずもない。実際に、腹も減っている。ここは大人しく引こうと本田が腕を放せば、バクラも獏良を手伝うために床から立ち上がる。そしてそのままキッチンに向かうのだと思ったところで、ゆっくりと唇を合わされた。
『……!?』
『……続きは、夜にな?』
そして鮮やかに色っぽく笑みを浮かべて囁かれ、本田はしばらくそこで呆然と蹲るしかなかった。もし男としての性で立ち上がれないだけであれば踏みつけてでも移動させるという物騒な話をバクラが獏良に約束しているのも耳には入らず、本田はただ、恋人との第二ラウンドに逸る気持ちを抑えるのに精一杯だった。
「……仕返しみたいなものか?」
「なんだよ、だから?」
その翌日、今は昼休みの学校だ。昼食も終わりかけた頃に、バクラから突然下の名前を呼ばれるというよく分からない攻撃を受け、恥ずかしさのあまり教室を飛び出してからそこそこ時間が経っている。昼休みの終わりを告げるチャイムがもう鳴りそうな時間のはずだが、腕の中にいるバクラは教室に戻る気配すら見せていない。
昼寝がしたいというのも、単に抜け出す口実なのだろう。冬に弱いバクラはまるで冬眠するかのようによく寝ているが、今は眠そうな様子はない。だがそれは単に寒いからかもしれないと気がつけば、本田は申し訳なさで後ろから抱きかかえる腕を強めていた。
教室を出る際にバクラが獏良にコートを持たされたと知ったのは、動揺のあまり屋上に連れて行きそうになってドアを開ける直前に凍死させる気かと後頭部にハイキックを食らってからだ。冬でも短いスカートで、そんなに足を上げると中が見えてしまうのではないか。幸いこの寒さでは屋上に続く階段にも人はいなかったことに安堵しつつ、本田はようやく少し落ち着きを取り戻し、もう寒そうにしていたバクラにコートを羽織らせた。
そこから移動も考えたのだが、暖房が入っている教室などはどこも無人ではない。休憩時間中に空き教室を探すのも二度手間だということで、そのまま屋上に続く階段へと居座ることにしたらしいバクラを、本田は慌てて後ろから抱きしめたものだ。
寒がりなバクラは、教室でもよく本田を座椅子代わりにして暖を取っている。逆を言えば、こうして抱きしめるだけならば、教室から出る必要はなかった。急に思い至ったことに本田はまた動揺するが、前に座っていたバクラがやや身を捩るようにしてきたことに意識は移った。
「仕返しってなんのことだよ?」
「いや、だから、さっきの……というか、お前、寒がりなんだろ?」
「今更すぎることで誤魔化してんじゃねえ」
完全に振り向くのではなく、少し横向きになっただけだ。だが膝を動かしたことで、制服のスカートが捲れている。
前を留めていないコートは膝近くまであるのに、制服のスカートはそれよりだいぶ短い。同じサイズの制服であるはずの獏良と比べれば相当丈が違うので、これは敢えてバクラが詰めているのだ。夏服よりはさすがに長いものの、それでも充分にミニスカートと言って差し支えがない。そこから伸びるすらりとした両足は、膝上まで黒いソックスで包まれている。裸足にサンダルが通常だった古代の感覚に引き摺られ、靴下は気持ち悪いと最後まで抵抗してたバクラだったが、やはり寒さには勝てなかったらしい。美意識なのか、スカートの下にジャージをはくよりは、オーバーニーソックスの方がマシだったらしい。
だが、膝を立てたことで腰の方へとめくれてしまったスカートを引っ張るようにして直してやっていた本田は、ずっと不思議だったのだ。しっかりとスカートを伸ばしてやっても、ソックスの端までかなり距離がある。コートを羽織っているときでも、ちょうど裾がソックスとの境くらいのようで、時々素足が垣間見えて寒そうだとはずっと思っていたのだ。
童実野高校は校則も緩く、そもそも制服を勝手に改造したり制服すら着ずにスーツで登校してもお咎めなしだ。冬場の女子の防寒対策も口うるさくはないようで、靴下に限定するようなことはないはずなのだ。肌が白いため、冷気ですぐ真っ赤になる足を可哀想だと思ったのは一度や二度ではない。スカートを長くするよりは、膝上の靴下をもっと長いものにした方がいいのではないか。触れてみれば案の定冷たさを感じた膝上部分、ソックスより上になるバクラの足をいたわるように撫でてやりながら本田は言ってみる。
「タイツって言うのか? ほら、こう、もっと長いのあるじゃねえか。足が全部隠せるような方が、暖かいんじゃねえのか?」
「……。」
靴下が伸びてそれこそ腰辺りまであるものがあると、本田は姉の洗濯物を見ていて知っている。ストッキングというほど薄手ではなく、もっと厚手で温かそうだった。仮にジャージを履いても足との隙間ができるので、タイツのようなものの方が暖かいのではないか。バクラの美意識なのかもしれないが、寒いのならば仕方ないだろう。少なくともこうして肌を冷たくしているよりはともう一度撫でたとき、腕の中でバクラは笑ったようだった。
「バクラ?」
「……ったく、てめーは、ほんと疎いよな」
「なにが……て、うわっ……!?」
ほとんど無意識に撫でていた方の足を、バクラは膝を立てるようにして動かす。一瞬嫌がったのかと思ったが、膝より上を撫でていた本田の手は、そのまま滑るようにしてバクラのスカートの中へと入ってしまった。
そんなつもりではない、いかがわしい意図はなかった。
慌てて手を抜こうとした本田に、バクラは笑ってその手を止める。
「あ、あの、バクラ……!?」
そうされれば、必然的にバクラの内腿を触ったままになってしまう。意識してしまうと余計に興奮してきてしまうと焦っている本田に、バクラはまた笑うと肩越しに向けた視線でしっかりと告げていた。
「……好きなんだろ、ここ触るの?」
「……!?」
「タイツでも、ジャージでも、覆っちまったらいちいち脱ぐのが面倒じゃねえか。健気なオレサマの気遣い、全く分かってなかったのかよ、てめーは?」
小馬鹿にするような口調だが、間違いなくそれが理由だと確信してしまった。夏服のときは、豊満な上半身が強調されすぎていたので、そちらをまともに直視する勇気がなくていつも視線をやや落としていた。実際に事に及ぶ際も、なかなかその先に触れられずに手前である内腿をやたら撫でてしまっている自覚もある。
だからこそ、バクラはそう解釈したのだろう。そして、実はそれほど間違っていない。すべすべとした肌をつい撫でてしまっていた本田は、やがて小さく口を開く。
「あ……ありがとな?」
「……バカ」
完全に認めて礼を言えば、バクラはまた呆れていた。座っていた床から腰を上げているが、怒って移動するわけではない。むしろ気を良くし、今度はしっかりと向かい合う体勢になったバクラは、本田の足を跨いで座ってくる。必然的に短いスカートの裾はもっと大きく捲れ、白い肌が露になった。
「ほら、好きなだけ触れよ?」
「……。」
「その代わり、オレサマの好みにも合わせろよ?」
そう言って笑ったバクラが、ゆっくりと顔を近づけてくる意図はもちろん分かっていた。階段に座っているので、姿勢を安定させるためにも片腕はバクラの腰の後ろへと回し、しっかりと抱えておく。もう一方の手では許された足を撫でていても、バクラが両腕でしっかりとしがみついてきてくれているので、キスをするのには問題はない。
バクラは意外とキスが好きだ。本田としては、どうしても経験不足から技術に自信がないので積極的に施せないのだが、躊躇っているとバクラから舌を捻じ込まれて嬲られてイカされそうになるので、応じるしかない。いくら惚れた弱みとそもそもの気質だと言っても、男としてのプライドは一応あるのだ。煽れば必死になってくるのが逆に悦ばせていると気がつかないまま、本田は唇を重ねる。貪り合うようなキスに夢中になっていると、遠くで昼休みの終了を告げるチャイムが鳴ったことにも気がつかない。
そうしてしばらく互いに深いキスに興じているが、ふと本田はそれを中断した。
「んっ……なん、だよ?」
「あ、いや……?」
濡れた舌でもどかしそうに唇を舐め、やや上がった息でそう不満そうに言うバクラは色っぽかったが、誤魔化す意図ではなく本田はすぐに返事ができない。
息苦しかったり、他がもう限界だったりしてキスを止めたのではない。もっと具体的に、何かが引っかかって止めたはずだった。だが甘ったるいキスを中断したものの、とっくに午後の授業に入っている校舎内は静まり返っている。視界に入る光景も特におかしいことはなく、自分は一体何が気になって止めたのだったのか。そう本田が怪訝に思ったとき、突然の轟音が少し上から降ってきた。
「……!?」
「……あー、そういや、ヘリの音してたか」
直後に真冬の寒風が吹き込んできたことで、屋上へと続くドアが破られたのだと分かる。鍵は校舎内からしか掛からないので、もちろん屋上側から破られたのだ。そもそも手で開けようとすることすら試みず、恐らくはいつも持っているジュラルミンケースでぶち破ったのだろう。カツカツと革靴の音を響かせて階段を下りてくる足音は、踊り場近くにいる自分たちの存在など気がつきもしていない。できればそのまま無視して通り過ぎてほしいと願っていたが、生憎とそうもいかないようだ。
「よぉ、いきなりどうしたよ? 珍しいじゃねえか」
「……貴様らか」
腰に座ってきているバクラがあっさりと声をかければ、今は止んでいるヘリの音を響かせて校舎の屋上に下り立った人物、クラスメートでもある海馬が怪訝そうに足を止めた。確かに自分たちは面識もあるが、普段の海馬であれば声をかけられても無視していただろう。
なにしろ、海馬がスーツのまま、車ではなくヘリで乗り付けてくるなどよほどの緊急事態だ。可愛い可愛い恋人絡みであることは間違いない。だがそれでも足を止めたということは、海馬も情報を欲しがっているに他ならず、案の定少し逡巡した様子を見せてから唐突に尋ねてきた。
「貴様ら、あの犬に何を言った」
「バカ犬には何も言ってねえよ」
「……オレの犬の前で、何をした」
今回に限っては、バクラは積極的に城之内を焚きつけたわけではない。だが、傍で見ていた城之内が勝手に羨ましがり、あるいは感銘を受け、自分たちもしてみたいと足りない言葉と不必要で不可解な解釈を持ち込み、海馬を混乱させることはこれまで幾度もあったのだ。さすがに学習しているらしい海馬からの質問に、自分たちが教室を出てから城之内が意味不明な電話でもしたのだろうと本田は正確に悟る。だが、バクラが海馬へとニヤリと人の悪い笑みを浮かべたのは見えていなかった。
直後に、本田へと向き直ってきたためだ。そのときにはもう、バクラは胡散臭いまでに切なげな表情を浮かべてみせていた。
「……ヒロト」
「……!?」
「……なるほどな。まあ、それ自体は感謝してやってもいいが、それが何故あれになる」
尋ねているというより、独白のようだ。大方留守電にでも罵声が入っていたのだろうという推測は、からかっていると分かっていても再び名を呼ばれ、更に軽くキスまでされれば思考を留めておけなかった。だが混乱している本田を笑い、触れるだけのキスで終わらせたバクラは、さっさと階段を下りていっている海馬へと声をかける。
「感謝してんなら、態度で示せよ。ほっとかれすぎてバカ犬そろそろ限界だったぞ」
「……分かっておる」
不機嫌そうに吐き捨てられたのは後半に対してだけだと思っていたが、どうやら前半も含めていたらしい。踊場を過ぎようとしたところで足を止めた海馬は、先ほど屋上に続くドアを臨終させたジュラルミンケースを開けると、何かを取り出していた。煙草のようにも見えたが、確かめる前に海馬によって投げつけられる。
「おわっ!?」
「ったく、あのヤローも素直じゃねえよなあ……。」
義理は果たしたとばかりに海馬が階段を下りていってから、バクラはそう呆れたようにぼやいていた。賛同する余裕はない。なにしろ、海馬が何かを投げたと思ったとき、反射的に本田は手を出して取ってしまっていたからだ。軌道がバクラの頭を狙っているように見えたからだが、カードで人を殺せる豪腕の持ち主なので、自分の手が弾けとんでもおかしくなかった。後になってそれに気がつき、恐怖で震えていた本田だったが、なんとか常人の手でも受け取れたことを思えばさすがの海馬も加減をしていたのかもしれない。
「で、それ何だよ?」
「ああ、えっと……?」
深呼吸でようやく落ち着いてきた本田は、バクラの言葉でようやく手を前へと戻す。そして煙草のように見えていたものを確認すれば、思わず盛大なため息が出てしまった。
「……どういう感謝なんだよ、これ」
煙草に見えたのは、箱のサイズがほぼ同じだったからだ。だが中身は全く違う。そう思われても仕方ない状況だと分かっていても、居たたまれなさは消えない。
「あのヤローにしては、真っ当な気遣いじゃねえか」
「いや、でも……そんな、箱ごともらってもよ……。」
「予備があるんじゃねえのか? それか、バカ犬が持ってんだろ、きっと」
そういうことではない、海馬の在庫管理能力を論じたいわけではない。
そもそも海馬はスーツだったのだし、仕事の合間のわずかな休憩時間にこうして足を運んだのだろう。ヘリが離れていく音がしなかったことを思えば、まだ屋上に待機しているはずだ。だから海馬たちはそもそもこれからヤったりしないのだろうという説を披露するのも疲れるので、本田は取り敢えずバクラを膝から下ろし、立ち上がっていた。
「なんだよ、やめんのか?」
階段からも立ち上がり、海馬から渡された避妊具の箱をポケットへと捻じ込むと、まだ座りこんだままのバクラが不満そうな声を上げていた。それに頷けたならば、きっともっと自分は余裕を持った大人になれるはずだ。だがバクラの手を引いて立ち上がらせながら、本田は自分の若さに嘆きつつ答える。
「……場所、変えようぜ。海馬が壊したドア、どうせ直せねえだろし、ここじゃ寒いだろ」
「……。」
開けっ放しになっているだけなら閉めればすむが、恐らく完全に変形してまともに寒風を防いでくれなくなっているだろう。五時間目の授業も始まっているので、どこかの空き教室を探した方がいい。そう示した本田に、バクラはしばらく不満そうにしていた顔を、あっさりと喜色へと変えた。
「仕方ねえなっ。まあ寒いのは御免だしな、とっとと移動しようぜっ」
「そもそもなんで急に、というか……あ、そうだ、バクラ」
「ああ?」
ごく自然と手を繋いでくるバクラの手を、本田もほとんど無意識に握り返す。そのまま二人で階段を下りて行きながら、本田は思い出しように伝えておいた。
「お前、あれ、やめろよ」
「『あれ』?」
「……だから、その。急に下の名前で呼ぶの」
「ああ。……なんだよ、嫌だったのか?」
階段の途中で足を止め、ニヤニヤしながら尋ねてくるのは、当然そうではないと分かっているからだ。だが本田としても、嘘を言っているつもりではない。横へと向き直る余裕もない情けなさに苛まれつつ、やや早口で返しておいた。
「嫌じゃねえけど……興奮して、困る」
「……。」
「その、呼びたいなら、それでもいいんだけどよ。ちょっとずつ馴らしてくれ、せめて学校ではしばらく我慢してくれ」
そもそもはからかう意図が大半だろうし、バクラも努めて呼びたいわけではないのだろう。だがたとえバクラは冗談でも、本田は動揺して仕方がないのだ。ただ照れるだけならばいいが、どうしても深い仲であることを揶揄されているようで居たたまれない。周囲に見られること以上に、自分の身体的な我慢が効かなくなりそうでそう頼んだのだが、しばらくバクラは黙っていた。
あまり気にせず階段を先に降り始めた本田は、数段進んだところで手を繋いだままのバクラがついてきていないことに気がつく。足を止めて振り返れば、どこかぼんやりしていたバクラがハッと気がつく。そして慌てて降り始め、本田の二段後ろまで来たとき、また足を止めていた。
「ん……?」
「……バカ。てめー、だからいつまでも心が童貞だってんだよ。ほら、さっさと行くぞ、本田」
「あ、ああ……?」
いきなりキスをしてきたバクラだが、さっさと唇を外すとそう言ってあっという間に本田を追い越し、引っ張るようにして階段を下りていく。
心が童貞という罵りは比較的よくされるので、今更気にはならない。だが、このタイミングでキスをしてきた理由はよく分からず、本田は面食らってしまった。
それでも、呼び方が名字に戻っているので、一応聞き入れてはくれたようだ。機嫌を損ねたわけではないのだろう。ほんの少し寂しさも感じたが、やはりまだ下の名前で呼ばれ続ける耐性はない。繋いだ手がゆっくりと熱を混ぜていくのを心地好く感じながら、本田はバクラと歩いていた。
適当な空き教室を見つけ、まずは性急に繋がって深く熱を分け合う。いっそ、六時間目もサボってしまうか。熱の余韻の中でそう話しているとき、どういう嗅覚なのかいきなりドアを勢いよく開け放って踏み込んできた城之内に、本田とバクラはひどく驚いた。
どうやら察していたように海馬は少し恋人を撫でるだけで仕事に戻るつもりだったらしい。だがたとえ少しでも時間があるならヤりたいとせがまれてしまい、仕方なく避妊具がないことを海馬が口にすれば、当然のごとく城之内はその理由を追及する。話してしまった海馬を、我が身可愛さ故の保身とは責められないだろう。
『バクラッ、ゴム返して!?』
『……!?』
『……!?』
『え、もう全部使っちまった?』
本田って早撃ちだなー、と感心している城之内に、この短時間で箱に入っていた残り十数個を使えるかと呆れていられたのはバクラだけだ。まだ繋がったままだった本田は、羞恥と共に驚いたバクラにキュッと締め付けられて地味に痛い。黙っていることで勝手に嘆いている城之内に少し遅れて追いついた海馬は、脚力で負けたのではなく、取り敢えず殴られていたからだろう。
最早涙ぐましいまでの頑丈さで回復したらしい海馬は、床に置いていた箱を手に取ると中身を半分出し、スーツのポケットへと入れる。そして何も言わずに恋人を引き摺って出て行ってくれていたが、廊下からは城之内が『オレも上に乗る!!』という声が響いていた。明らかにバクラを見て影響され、宣言していると思われる城之内の言葉だったが、後半は次第にモゴモゴと聞き取りにくくなったので、海馬にいやらしくない意味で口を塞がれたに違いない。
さすがに最中に踏み込まれたことはなかったので何も言えずに唖然とするばかりであったが、衝撃が過ぎてからやっと口を開くことができる。
「……もっかいするか」
「バクラ、お前……まさか、見られて興奮するとか、そういう……?」
「バカ言え、てめーだってこんなじゃねえかっ」
繋がったままの腰を揺らせば、本田は気恥ずかしそうに視線を逸らしている。
そういう顔をするから、虐めたくなるのだ。
そう笑ってやろうとしたとき、いきなり体を起こしてきた本田に驚き、しがみついてしまう。
「うわっ……!?」
「ああ、悪い。大丈夫か?」
「……。」
正確には仰向けになっていたわけではなく、壁を背もたれにしてかなり浅く座っていたような格好だ。それでも繋がったままでしっかりと上体を起こされると、バクラは反対に後ろに倒れそうになる。慌ててしがみつき、また本田からも腕を回されて倒れるようなことなかったが、非難がましい視線もすぐに消さざるをえない。
どうやらバクラの言葉への意趣返しではなかったらしい。元々、そういうふうに思考が回る男でもないのだ。分かってはいたものの、だからこそふと気になって尋ねてみた。
「……仕返しって、なんのことだよ」
「あ?」
よく考えれば、あれはバクラの方が仕返しをしてきたという意味だった。それならば比較的よくあることではあるが、そもそも仕返しをされるようなことをした自覚でもあるのだろうか。仕返しと表現された自らの行為すらよく分かっていないバクラがそう尋ねれば、しばらく考え込んでいた本田も、ようやく思い当たったらしい。
「いや、だから、いきなりオレの下の名前呼んできただろ? 仕返しみたいなものだったのかな、て」
「全然意味が分かんねえよ、大体オレサマが仕返ししたくなるほど何されたってんだ」
「ええと、されてないというか、できないというか、それで機嫌悪くさせちまったのかな、て……。」
曖昧な言葉で、なんとなくバクラにも分かった気がした。要するに、バクラが戸籍上の下の名前で呼ばれることを嫌がったので、同じことをされれば本田も嫌だろうと思い、実行した。そんなふうに解釈していたらしい。
さすがに呆れたバクラは、愛想笑いで誤魔化そうとしている本田にため息をついてみせる。
「……お前のは、本名だろ。オレサマが嫌がる根拠がそもそもねえじゃねえか」
「まあそれも分かってんだけどよ、他に理由も思いつかねえし。そういえば、なんで急に呼んできたんだ?」
そして今更のように尋ねてくる本田には、バクラはわざとではなく呆れてしまう。
そんなのは当然、本田をからかっただけだ。答えが顔に出ていたのだろう、まあそうだと思ってたけどと勝手に頷いている本田に、バクラは軽くキスをする。
「バクラ……?」
「……まあ、仕返しと言えば、仕返しかもしれねえな。気になるなら、宿主サマにもっかい尋ねとけ」
「なんで獏良の方に、て……うわっ、あ、オイ……!?」
誘うように腰を揺らせば、すぐに焦ったように腰を支えてくる本田が、本当に獏良に尋ねるかは分からない。記憶力が乏しいことは学習済みだ。それは美徳でもあり、あまり気にせず集中してくれることには普段からよく助けられている。
昨日、確かにバクラは本田に苛立ったのだ。
だがそれは下の名前で区別をつけるという話ではない。それが不要だと言った後、獏良が理由を説明したことに愕然とした。
同じ音でも、色が違うから区別はつく。
そう獏良があっさりと表現したとき、本当に驚いた。否定したかったのではない、肯定しか生まれない歴然たる事実だからこそ動揺した。まさか、獏良も気がついているとは思っていなかった。根が正直で、感情に不必要な偽装をすることがない本田は、特に理由がなければ気持ちがだだ漏れだ。態度にも、声にも、実によく出ている。思えば、獏良と共にいるときに呼ばれても、最初からほとんど間違えたことはない。
本田が自分を呼んでいるときは、そうと分かるのだ。
獏良を呼ぶ際には決して混じらない色が、慕情だと知ったのは何ヶ月も経ってからだ。そこまであからさまに色が違えば、さすがに区別はつく。だが、獏良まで同じ根拠で区別をつけていたとは思っておらず、突然人前でずっと愛を叫ばれていたような錯覚に陥った。
それは嬉しかったが、大半は恥ずかしい。
仕返しというか、似たような気分を本田も味わえばいいと思いはしたが、自分にはそんな芸当はできそうにない。だから下の名前で呼んでみたというのも、理由としては確かにあった。
「なあ、バクラ……!!」
「なんだよ、その気がねえならやめちまうぞ?」
本気ではないが、軽口にみせた脅しをすれば、ハッと息を飲んだ本田が慌てて抱きしめてきた。
「んっ……!!」
「……分かった、その話は後で獏良にきいとくから。だから、な? 機嫌直してくれるよな?」
「……。」
そもそも最初から機嫌を損ねてなどいないのだが、教えてやるのも勿体無い。せいぜい不機嫌そうな顔を今更のように取り繕ってから、バクラは回していた腕で抱き返す。そして本田の耳元へと口を寄せ、吐息がかかるように呆れてみせてから、頷いてやる。
「……仕方ねえな。好きにしていいぞ、ヒロト?」
「……!!」
ビクッと体を震わせた本田は、確かに興奮するらしい。煽るなと非難するように訴えてくる目には、一度目よりはるかに強い情欲に濡れているようで、バクラもまた愉悦が増した。
言葉一つで、簡単なことだとは思う。
だがかつての王の名に神が宿っていたように、互いの名前には、それだけで特別な意味があることも素直に納得できた冬の日だった。
ちなみに、感慨深く余韻に浸っていられたのも、二度目が終わるまでだ。六時間目が始まるチャイムが鳴ってしばらく経った頃、ガラガラとゆっくりドアを開けて再びこの教室へと入ってきた城之内は、『海馬が一個しか使わねえで帰っちまったから』と律儀に余りを返しに来る。
嫌がらせなのか、本気での気遣いなのか。
恐らく後者に違いない城之内からの誠意を、本田はため息で諦め、バクラは高笑いの後に教育的指導として殴っていた。
| ▲SSメニューに戻る −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 取り敢えず、復帰に向けた肩慣らしと思って。 書いてみたんだけど、なんかこう、あれバクラさんてこんなに本田のこと好きだったっけ!?と動揺したようないやなんでもない。 あと珍しくこのパターンで海馬さんも出てきたのにいつも不憫! まあいろいろ手探りで確かめつつ書いてみた… お城は、うん、相変わらずだったことに自分でビックリかな… ロボっぽい何か |