『JOKER plan.』お試し版



■00






 あれは、七月も終わりに差し掛かった頃だった。
「おわっ、ほんとに降ったんだなー……。」
 夏休み中も足しげく学校に通うのは、部活があるわけではない。やむにやまれぬ事情、すっぽかせば早くも留年をちらつかされる補習を課せられたためだ。二年生になって最初の定期テスト、一学期の中間テストからして、もうやばかった。期末テストは、それに輪をかける。
 仕方がない、なにしろいろんなことがあったのだ。
 町全体がバトルシティなるものに指定された同じ町民であるならば、教師もまた勉強に集中できなかった理由は察してくれるだろう。だが、それは甘い目論見だった。遊戯や城之内ならまだしも、自分は決闘者ではなく、それなりに巻き込まれて大変だったと主張しても疑わしいらしい。同じように参加していた、というか、主催者である社長サマが相変わらずの不登校気味でも学年トップの成績だと持ち出されると、ぐうの音も出ない。なにより、大変だったらしいことは教師も認める遊戯や城之内も、別に補習は免除されていないので、出るものは血の涙くらいなのかもしれなかった。
 それでも、二人はそれなりに頑張った。すべてが終わり、一度は別れたと思った友人が、一ヶ月ほどして何故か戻ってくる。六月の話だ。いろいろと非合法な手段をゴリ押ししてもらった結果、今では遊戯の双子の弟として戸籍を持ち、かつての王は転入もしている。二心同体だった頃と違い、四六時中専用の実体があるというのは、もう一人の遊戯、いや、アテムにはなかなか珍しい感覚のようだ。好奇心旺盛だが、どこかズレているアテムに、遊戯はいつもはらはらしている。城之内は、単純に友人が増えて楽しそうだ。せっかくならば夏休みもしっかり遊びたいからと、補習が少なくてすむように頑張ろうと誓い合ったのは約一ヶ月前、結果として惨敗したのは自分だけだ。
「……いや、あれは別にオレがアテムと遊びたくないからじゃなくて」
 今でも、結果が出たときの友人たちの冷たい視線が思い出される。
 ちなみに、遊戯と城之内、それから興味がなさ過ぎて点数がひどいことになっているアテムも、決して褒められるような出来ではない。だが底辺同士がそれなりに頑張ると、多少なりとも得意分野と不得意分野で差が出る。
 それがたまたま、追試や追課題ですませてくれる教科と、問答無用で補習行きとなる教科として違いが出てしまっただけだ。遊戯たちも、夏休みの宿題は増えたが、学校に強制的に通わされることは免れた。稼ぎ時としてバイトに精を出したい城之内にすれば、実に有り難いことだろう。ちなみにアテムはテストの成績に関わらず、帰国子女の転入生への配慮して任意の補習参加が組まれている。だが、強制ではないものに出るはずがなく、どの補習にいつ出席してもいいはずだが、今まで一度も見かけたことはなかった。
「……。」
 そこまで考えたところで、今日は珍しい姿を見かけたことを思い出す。
 アテムと同じように、帰国子女の転入生。そういうことになっているクラスメートが、何故か補習に参加していた。この授業は今日で三日目で、しかもチャイムと同時に入ってきたので、教師もやや驚いたようだ。たまたま用があった部活の生徒か、あるいは別の補習授業と間違えたと思ったのだろう。何かを言いかけて、その特徴的な容姿に教師はハッと気がついたような顔をする。そしてもう一度補習対象者リストを確認して、恐らく任意の欄に名前を見つけたらしく、何も言わなかった。
 いくら人数が少なくとも前の方には座りたくなく、身長の関係もあっていつも後ろの方の席を陣取っている。だが一番後ろに座られると、さすがに見ることは叶わない。ドアが開いたときは反射的に振り返ったので誰なのかは分かったが、一度前を向いてしまうと用もなく見ることはできなくなり、衝動を抑えることに苦労したものだ。
 どうして、わざわざ補習に来たのだろう。
 今まで、一度も来なかったくせに。
 同じ立場のアテムは、一度も来ていない。
 唯一理由になりそうな戸籍上の双子の姉もいないのに、どうして、この教室にあいつがいるのだろうか。
「……。」
 考え出すと止まらなくて、いつにも増して補習の内容がさっぱり頭に入らなかった。これが終わってから、どうするべきか。話しかけないのも変な感じだが、かといって話しかけるのも気後れする。
 なにしろ、アテムと同じ時期に戻ってきたのに、アテムとは全く違う状況にある。
 当然と言えば、当然かもしれない。二心同体のときから、友人ではなかったのだ。だが、そうにしてももう少し愛想というか、会話は成立していたように思う。日増しに表情は険しくなり、他のクラスメートたちは怖がって声もかけられないようだ。一応つるむ仲間である自分たちですら、まともに話しかけているのは戸籍上の双子の姉くらいだろう。あとは、何も気にしないアテムが話しかけては、よく無視されている。一応視線くらいは向けるのでマシな方であり、自分などが何を言ってもきっと聞こえているという反応すらないとは簡単に予想がついた。
 それなのに、補習が終わってからどうすべきか、悩んでしまった。あるいは、浮かれてしまった。
 こんなチャンスは、二度とない。
 何故かそこそこ成績もいいらしく、補習も強制ではない。明日には、もう来ないかもしれない。あるいは付き添いと称して他の友人たちがいれば、自分が声をかける理由も失う。
 今日ならば、他のクラスの連中しかいないこの補習参加者の中で、まず間違いなく最も面識があると自信が持てる。会話の内容も、『珍しいな、どうしたんだ』で問題がない。何から何まで自然すぎる会話が期待でき、意気込みと尻込みを繰り返した結果、授業の最後に行なわれた確認テストがひどいことになった。
「……とんだ災難だよな」
 思い出すと、憂鬱なため息が出る。昨日までの授業では、確認テストなど行なっていなかった。だが三日目ということで、理解度を測るテストが組まれていたらしい。いっそ昨日までの分野の方が書けたくらいに、今日の分野はペンが止まった。できた者から帰っていいという無慈悲なデスマッチに、結局一時間近くさらされることになる。
 当然ながら、ものの十分もしないうちに、一番後ろに座っていたクラスメートはさっさとプリントを提出して出て行った。教卓で受け取る教師がその場で一応確認しているので、出席していなかった二日分の問題も難なく解いていたらしい。そのことに焦っていればますます頭は混乱し、正解を導くどころか遠ざからせた。
 三十分ほど経ったところで、教師も暇になったのか呆れたのか、教科書を見てもいいと妥協を見せる。苦しんでいた他の参加者たちも、そこでなんとか辿り着けたらしい。次々プリントを完成させて教室を出て行くが、気持ちは徐々に焦りを失せさせた。
 今更急いだところで、どうせもう間に合わないのだ。
 期待してしまった分、落胆するとその差に凹む。やる気をなくしたことが傍目からもあからさまだったようで、教科書を眺めてもなかなか進まない態度に、最後の一人となったところで教師の堪忍袋の緒が切れた。
 ぐちぐちと説教をされつつ解き方を教えられ、なんとか終えることができたときには授業が終わってから一時間近くが経っている。そのことにまた肩を落とし、下駄箱まできたところで、ザーッという雨の音が強くなりやっとこの天気に意識がいく。
「まあ、こっちの方は運がいいって言うべきかな……。」
 今朝は快晴だった。真夏に相応しく太陽はギラギラと照りつけ、雲ひとつ浮かんでいない。澄み切った青空がとても清々しく、こんな日に補習にあるなんてとガッカリしたものだ。
 だが昼前には雨になるからと、母親に折り畳み傘を持たされた。到底降るような天気には見えなかったし、荷物になるのは嫌だ。それでも意地を張るほどのことではない。今日は特に補習の後に予定もなかったので、邪魔になってもそれだけだと考え、カバンに入れておいた。
 黒のシンプルな折り畳み傘を開き、雨足が強い外に出る。
 校門を出れば行き交う人々はそれぞれ傘を手にしており、足元を流れる水量にも、今しがた降り出したわけではないと察した。きっと、まだ授業が行なわれていたときから、空は曇り、あるいはもう雨粒が落ちていたのだろう。自分が他のことに気を取られすぎて、気づかなかっただけだ。音ではっきり認識できるほどの強さになったのは少し前からのようだが、その時点ではもうずっと雨が降っていた。
 湿気を帯びた空気は、肺を満たし、体に纏わりつく。蒸し暑さを助長して鬱陶しいが、やや涼しくもあるのでかなり前から降り出していたという予測を裏付けている。夏休み中ということもあり、そもそもサンダルで登校していたので、水溜りも気にせずバシャバシャと雨の中を進んだ。
「……。」
 きっと、この雨は神様か何かが『頭を冷やせ』と言っているのだ。
 本当に、話しかけられると思っていたのか。
 会話が成立するなど、考えていたのか。
 仮に何かしらの言葉が返ってきても、それは決して好意的なものではない。
 無視されるよりはマシなのだと、どちらも得たことがない自分がどうして比較できたのか。
「……?」
 あのとき、教室のドアが開く音にいちいち振り返ったりしなければ、意外な人物が登校したことには気がつかなかっただろう。気がつかなければ、もう少し授業もまともに聞いたはずだ。確認テストも早めに終わっただろうし、もしかすると驚きすぎて悩むより先に声をかけられたかもしれない。
 つまり、変に時間があったばっかりに、出来が悪いと自認している頭が許容量を超えた負荷に機能停止してしまった。きっと、自分は気づいたときには動いているくらいの方がいいのだ。
 そんなことを未練がましく考えていたからかは分からないが、気がついたときには、本当に走り出していた。
「……おいっ、お前、どうしたんだよ!?」
「……?」
「あ……いや、その」
 角を曲がり、比較的すぐのところで佇まれていたのもあるのだろう。
 水を撥ねながら駆け寄り、傘を差し出してそう叫ぶ。
 すると、ゆっくりと視線を向けられた。雨の所為だと分かっていても、濡れた瞳に飛び上がりそうなほど鼓動が暴れ、思わず視線を逸らしてなんとか『自然な』会話を試みる。
「ず、ずぶ濡れじゃねえか、風邪ひくぞ……!!」
「……。」
 折り畳み傘をカバンから出す際、ハンカチ代わりのタオルが突っ込んだままだったことを急に思い出す。いつ入れた物かは怪しいが、ないよりはマシだろう。そう考え、親切のつもりで慌ててカバンから引っ張り出した。
「ほらっ、拭け、て……!?」
「……!?」
「あ……いやっ、その、悪い!?」
 そして他の友人に向けてするように、強引に顔を拭いてやろうとタオルを当てたところで、ビクッと驚かれてこちらも手を引いた。
 いくら顔見知りでも、いきなりタオルを当てられると驚くだろう。
 ましてや、警戒心の強さは折り紙つきで、自分などそもそも認識されているのかも怪しい。不躾な仕草は嫌がられるには充分であり、反射的に謝って離したときには、タオルが地面へと落ちた。
「ああっ!?」
「……!?」
「……て、あああああっ、マジで悪い、痛かったよな!? わざとじゃねえんだよ、ほんっと、悪かった!!」
 下はアスファルトなので、土に落ちるよりはまだいい。だが落ちたタオルを拾おうとしゃがみかけて、ガツンッという音と衝撃にもう血の気が引く。
 誰かを傘に入れたままで、姿勢を低くすれば当然の事故だ。相手を傘から外すか、渡してしまわなければぶつかってしまう。そんな当たり前のことにも想像が及ばず、慌てて姿勢を正せば、不満そうに睨まれた。痛そうに頭へと手が伸ばされるのを見て、思わず自分も手を重ねて撫でそうになり、接触を嫌がられたばかりなのにと慌てて止めることにも情けなさが増す。
 ともかく、一度落ち着こう。傘を渡してからタオルを拾おうと深呼吸している間に、すっと睨む視線が外され、低くなる。
「……!?」
「……これ、もう拭くどころじゃねえだろ」
 相手がしゃがみ、タオルを拾う。正面から見下ろすと、大きく開いた胸の谷間に雫が流れ落ちる様を目の当りにして、思わず息を飲み込んだ。
 夏休み前からサンダルで登校している白い脚は、惜しげもなくさらされている。短めのスカートは濡れても色があるが、シャツの方はそうもいかない。白い布地はぐっしょりと濡れて肌に貼りつき、胸を覆う下着をくっきりと浮かび上がらせていた。透けることなど気にしていないと思われる柄物の下着を直視することなどできず、気恥ずかしくて視線を逸らしている間に相手は拾ったタオルをギュッと搾ったようだ。
「……あっ、おい、待てよ!?」
「だから、なんだよ……。」
 地面にも落ちて汚れたタオルは、カバンに戻す意味がない。適当に搾ってから広げ、こちらのカバンの紐に引っ掛けたところで、さっさと離れようとした相手を思わず引き止めた。
 怪訝そうに振り返られると、こちらも腰が引けそうだ。相も変わらず不機嫌そうで、正直やや怖い。だが、これで引き下がっては男が廃るとまで気合いを入れることができたのは、この雨だからこそ、会話に困らないからだろう。
「な、なにって、それはこっちのセリフだろ!? お前、この雨の中なにしてんだよ!?」
 傘がないにしても、どこかで雨宿りをしながら帰ればいい。幸いにして、道の反対側には商店が並び、軒先にはそれぞれの屋根があるのだ。マンションまでの道のりを想像しても、ここまで濡れることはない。ましてや、一時間近く前に学校を出ているはずである。どうしてまだこんなところにいるのか。やむのを待っていたが諦めたのであれば、もう少し濡れないような道を選ぶはずだという根拠で混乱していると、軽くため息をつかれる。
「え……?」
「……最近、ずっと暑かっただろ。通り雨ならもっと蒸し暑くなるだけだけどよ、こんぐれえ降るとさすがにちょっとは涼しい」
「ああ、まあな……?」
「気持ち良さそうだなて思ったら、こうなってた」
 それはどこの小学生だ。
 思わず指摘したくなったが、ため息を繰り返す当人が一番自覚している様子だったので、なんとか飲み込んだ。要するに、久しぶりのまとまった雨にはしゃいで飛び出し、この惨状らしい。こちらも呆れたため息をつきそうになったが、そうにしてはやはり時間の経過がおかしいと気がつく。
「お前、こんなとこで何してたんだ……?」
「……。」
 一時間近くも前に下校する際、既に雨が降っていて飛び出したならば、こんな場所にまだいるはずがないのだ。だが今度こそあからさまに不機嫌ですと顔に書いて黙られたので、もう会話は終わりかと諦め、代わりに傘を差し出す。
「まあ、言いたくないならいいけどよ。とにかく、傘貸してやっから、早く帰って着替えろ。いくら真夏でも、そんだけ濡れてたらマジで風邪ひくかもしれねえぞ」
 最近暑かったという言葉からも、戻ってきたばかりのこの実体は三千年前と違い鍛えられておらず、体力がないようだとは薄々察していた。本当に風邪までいくかは別にしても、急な温度差で夏バテを促進させることはよくある話だ。
 ただ、そういうふうに気遣われるのを嫌がることも予想していたので、差し出した傘を受け取られなくても驚きはしない。
「……いらねえよ」
「いいから使えって、たぶんないよりはマシだから」
 断られても、強引に握らせる。決してその過程で手に触れたいわけではないと自分に言い訳しつつ、相手の手を取ろうとしたところで、今度の理由には驚いてしまった。
「いらねえって言ってるだろ。……オレサマ、傘持ってんだよ」
「……は? あ、壊れてる、とか?」
「壊れてねえ」
「……使い方分からねえ、とか?」
「バカにしてんのか、てめー」
「あっ、いや、ええっと、じゃあなんだ……差すのが恥ずかしいような柄なのか?」
「ただの折り畳み傘で開けもしねえって、どんな柄だよ。オレサマ、必要があれば青眼の白龍柄だろうが気にせず差せるっての」
 それは一般人にはだいぶハードルが高いのではないか。
 余計なことを言いそうになったが、こういう話題のときばかり神出鬼没なこの町の君主サマが通りがかったりするので、ぐっと堪える。まだ死にたくはない。
 だが傘を持っていることが事実だとすれば、やはり当初の疑問に立ち返る。
 こんなところで、傘も差さずに、何をしているのか。
 涼むだけなら、もう充分だろう。不思議そうにしている雰囲気が伝わったらしく、ふいっと視線を逸らした後に、拗ねたような唇がやっと教えてくれた。
「……言い訳、考えてた」
「は?」
 ただ、理解が及ぶにはまだ遠いらしい。つい聞き返せば、ムッとしたような視線が戻ってくるが、今は濡れた瞳を向けられるだけでも嬉しくてどうかなりそうだ。
「マンション出る前に、宿主サマに傘持たされたんだよ。もうすぐ雨が降るから、て」
「まあ、そうだろうな、天気予報でも雨だったみてえだし」
「で、オレサマはこのザマなわけだ」
「ああ……?」
「……絶対怒られるから、言い訳考えてた」
 不貞腐れたように言う説明には、今度は素直に納得できた。
 今では戸籍上の双子となっている姉は、アテムに対する遊戯と同じか、ある意味ではそれ以上に過保護だ。一つはアテムと違い、こちらは元々は敵だったことで周囲との橋渡しになろうという意識が強いからだろう。もっと大きな理由としては、アテム以上に危なっかしくて目が離せないからだ。
 三千年前の盗賊王だった時代と、三千年間の闇人格だった頃の感覚に引き摺られているのか、良くも悪くも今の実体への自覚が乏しい。この外見で、普通よりも体力がない女子高生が、現代で生きていくにはいろいろと自衛も必要だ。簡単なことからは『野菜もちゃんと食べるようにね』などといった食事への助言に始まる。更に、やたら短く開放的な制服や、興味がなさ過ぎる男子生徒への態度など、余計なトラブルを招きそうな言動を細かく注意している姿は実は何度も見かけた。
 そのたびに、嫌そうな顔はする。だが一応聞き入れ、食事ならば食べようとしているし、服装の乱れは直そうともしていた。納得はしていないのだろうが、戸籍上の双子の姉に怒られるのは嫌らしい。過保護具合を想像すれば、傘を持たせたのに差さずに濡れて帰れば、確実に怒られる。自分でも確信が持てる。それを回避したくて、言い訳を考えていたらしい。いっそ学校で傘を盗まれたかなくしたと言えば早そうだが、そのために渡された傘を処分することもできない辺りに、今もかつても宿主と呼ぶクラスメートへの分かりにくい配慮が垣間見えた。
「まあ、こんだけ濡れてたら言い訳しようがねえよな……。」
「うるせえな、分かってること念押ししてくんじゃねえよ。どうせならてめーもなんか知恵出せ」
 放っていれば、雨がやんでもここでぼんやりと立っていそうだとまで思えば、ついそんなことを口にしてしまう。すると嫌そうに何故か矛先を向けられるが、言われなくとも出せる知恵があるなら提供したい。
 いくら雨に打たれても、本当に風邪を引く確率はこの気温では低そうだ。だがそのことより、別の理由からせめて移動してほしいとは願う。今も白いシャツは肌にはりつき、下着を透けさせている。こんな格好で、いつまでも町中をうろつかせたくはない。
 怒られるのを覚悟で早くマンションに帰れと言うのが正論だが、この調子ではごねられそうだ。ただ時間的にも、なかなか帰ってこない妹を心配していそうでもある。睨む瞳は解決策など期待していないのだろう。言ったところで、『それなら帰宅した方がマシだ』と返される気もし、むしろそれを期待していたからこそこんな提案もするりと口を突いて出た。
「……うちに来るか?」
「あ?」
「要するに、制服が乾いてればいいんだろ。うちの乾燥機使って、あとドライヤーも使って髪乾かして。ちょうど昼時だし、補習でオレに会ってメシ食ってくるとかって連絡しとけば、まずバレねえだろ」
 補習で会ったのも、服や髪を乾かしてからファストフードにでも寄れば食事をしてくることも、どちらも嘘にはならない。双子の姉もさして不審がらないだろう。少なくとも、見ず知らずの男子生徒といきなり食事に行くよりは、信憑性も出る。なにより本当に服などを乾かしてから食べに行けばいい。
 会って、食事に行く間に、雨で濡れたことを言わないだけだ。完璧な案だろうと自画自賛するが、ポカンと不思議そうな目で見られるとやや居たたまれない。
「……なんだよ、嫌なら別にいいんだぞ?」
 何も、本気で誘ったわけではない。いや、応じられると思って言ったつもりではない。杏子なども含め、自分の部屋には環境的な利点で気軽に訪ねてこれるが、だからこそ警戒されたとしても理解できる。母屋の隣に立つガレージの二階、昔は従業員寮として使っていた一室を自室にしているのだ。風呂やトイレはもちろん、ほとんど使用していないが台所もある。母屋で使っていたお古の洗濯乾燥機も備えられており、シーツやタオルケットなどはいちいち運ぶのが面倒なので部屋で洗うように洗剤などまで用意されているのだ。
 ただ、そのことをこの人物が知っているかは謎だ。知らなくて、家族に遭遇することを考えれば嫌がるだろう。知っていれば、警戒するかもしれない。どちらにしろ断られ、それなら家に帰るという答えを期待していたのに、口元が鮮やかに笑みを形作ると思考が止まるほど驚いてしまう。
「……!?」
「いや、てめーが意外に頭良くて、驚いてた。バカなだけのバカかと思ってたけど、たまには役に立つんだな、バカでも」
「あ、ああ……!?」
 まともな解釈などできるはずもなく、バカだと繰り返されてもつい頷いてしまう。
 これはまさか、提案に乗ったということなのか。
 浮かれた予感を嘲笑うかのように、嬉しそうな表情の顔はすぐに背けられ、傘から出るように歩き出す。
「え、あっ……!?」
「……なあ、てめーの家ってどっちだったか?」
 やはり期待するだけバカということかと項垂れる間もないほど、すぐに足を止めて振り返った相手から、傘を持つ手に触れられた。
 長く雨に打たれていた所為か、指先は少し冷たかった。驚いて傘が揺れ、溜まっていた水滴がバラバラと音を立てて落ちる。それに相手が不思議そうにする前に、思いきって歩き出す。
「いや……えっと、こっちだ。そんなに遠くねえよ」
「そうなのか」
 だからちゃんとついてきてほしい、途中で気が変わったりしないでほしい。
 心の底から祈りながら誘導すると、自然と足を向けてくれたことに胸がまた高鳴る。どうやらカバンに入ったままの傘を出す気はないようで、黒の小さな折り畳み傘で一緒に雨を凌ぐ。
 さすがに狭く、時折肩や腕が当たる。そのたびに鼓動はまた跳ね上がり、平気な顔をするのが必死だった。
「……そ、そういや、なんで急に補習に来たんだよ」
「オレサマは出るつもりなかったんだけどよ、宿主サマが、少しは顔出せって」
「あ、ああ……やっぱり、そうか……。」
 ただ、これがいつにない幸運、二度はない奇跡だとも分かっていた。だからこそとにかく話していたくて、会話を続ける。
「明日も、出るのか……?」
「さあ……どうだろうな、面倒くせえけど、宿主サマに追い出されるかもしれねえし……。」
 大した意味のない会話でも、本当に嬉しい。そもそも自分に対して注意が払われ、あるいは反応があり、こうして言葉も向けられること自体、望んでも得られなかったことだからだ。
 部屋に行けば、まだ話せる。言い訳を事実にするために、服を乾かしてから食事にも行ってくれるのだろう。
 それを期待すると、もうどうしようもなく胸が弾んだ。
 誓って言えるが、このときは、本当にまだそれだけだった。










■01




「……ということがありまして、このたび、ワタクシこと本田ヒロトは男になりました」
「は? いきなり話がぶっ飛びすぎだろ!!」
「さすがの僕でも全然繋がりが分からないよ、本田くん」
 あれから約二ヶ月、もう九月の終わりに入っている。バイトが早まり、一度帰宅するのが面倒だと言う城之内に、店番を頼まれている遊戯とアテムは申し訳なさそうに帰って行った。杏子もダンススクールがあるので、遊戯たちと一緒に下校している。獏良は新作のゲームが届く日なので早々に帰りたがり、今では戸籍上の双子の妹も当然のようについていった。
 暇だったのは、本田と御伽だけだ。バイトまでの時間を潰す城之内に付き合うつもりで教室でしばらくしゃべっていると、城之内の携帯電話にやはりいつもの時間からでいいとメールが入ったらしい。するとそれはそれでまた中途半端な時間が余り、苛々したらしい城之内から『面白い話をしろ』とせっつかれ、本田は遂に吐露してしまった。
「ええと、なんだ、要するにまとめると知り合いの女と二ヶ月くらい前の雨の日にばったり会ったんだよな?」
「そ、そうだ……!!」
「それで、濡れた服を乾かすために部屋に誘ったんだよね?」
 面白くはないかもしれないが、実は相談がある。
 深刻な顔をして切り出した本田に、友情には篤い城之内と、意外にアドバイスすることが好きらしい御伽は身を乗り出すようにして聞いてくれた。
 本音で言えば、ずっと相談はしたかった。ただ、迷ってはいたし、いくら仲間内でも簡単には話せない。むしろ仲間内だからこそ黙っていようと考えていたのに、その自制が緩んだのは、相談できるとすればこの二人だと思っていたまさにその組み合わせでこうして話す時間ができたからだ。
 だがやはり言えないことも多くてぼかして説明すると、不可解すぎたらしい。二人からはあからさまなブーイングを受けてしまう。
「服乾かすとか、そんなの口実だろ。どう考えたってそういう目的で最初から本田は誘ってんじゃねえか」
「い、いや、違うんだっての!?」
「僕も下心がなかったようには聞こえないなあ」
「ほんとに違うんだよっ、オレはそんなつもりじゃなかった!!」
 せめて、相手の名前を出せれば二人も納得できたかもしれない。
 そういうことをする、あるいは、できる相手だなどと高望み過ぎる人物なのだ。
 高嶺の花過ぎて、話せるだけでも嬉しくて、そんなことまでは本当に期待していなかった。だがそこを説明できないでいると、どうやら違った勘繰りに移ったらしい。
「そもそも、オレには明らかに不自然だと思うトコがある」
「な、なんだよ……?」
 腕を組み、やたら偉そうに言う城之内に警戒して聞き返すが、横の御伽からあっさりと抉られる。
「ああ、ほんとに脱童貞したんなら二ヶ月もしてからじゃなくすぐに本田くん嬉しそうに報告しそうだよね」
「……!?」
「御伽っ、お前オレより先に言うなよ!? 先に気づいたのオレなんだからな!! まあっ、その通りなんだけどよ」
 その指摘は、痛いくらいに理解できてしまうのが本田も悲しい。
 いくら夏休み中だったとはいえ、連絡を取る手段はいくらでもあったし、週に二回以上の頻度で遊びや宿題をする目的で集まっていた。杏子たちがいて女子の前では憚られたとしても、男だけになったことはいくらでもある。特に城之内には中学の頃から本田がいかに童貞であることを引け目に思い、それでいながら初体験に夢を抱いているかも知られていたので、余計に不自然な態度には映るのだろう。鋭すぎる二人からの指摘に、思わず言いよどんでいると、どんどん失礼な心配になっていくようだ。
「そんな本田が、この時期になって言うなんて、どう考えてもおかしいだろ?」
「見栄張る意味も分かんないしね、どちらかと言うと初体験で失敗しちゃったってことかな?」
「……!!」
「オレとしては、やっぱり部屋に誘ったけど拒まれていまだに童貞って方がありそうな気もしてるけど」
「そうだよねえ、濡れた服を乾かしに来いなんてあからさますぎるもんねえ」
「……だっ、だから、違うって言ってるだろ!? オレはそんなつもりで誘ったんじゃねえっ、でもそういうことになったんだよ、ちゃんとヤったんだっての、信じろよお前ら!?」
 証拠を出せと言われても、写真も何も残っていない。仮にあったとしても、見せられるはずもない。
 本田にできることは、事実なのだと主張することだけだ。だがいくら力強く同じことを繰り返しても、友人たちの目には不信感が灯っている。
 それだけ、自分は信用がないのだと分かると寂しかった。友人としてというより、男として、あるいは非童貞らしさがないということだろう。
「……まあ、本田がそういうつもりで誘ったわけじゃねえってのは、理解できなくもねえよ」
「そ、そうか城之内、お前はやっぱり付き合いが長いだけあるぜ……!!」
 だが打ちひしがれている間にあっさりと撤回され、嬉々として顔を上げたが、ぬか喜びだった。
「けど、だからこそ、そういうことに至ったっていうのが信じられねえんだろ。お前、準備万端で女の子誘っても失敗しそうな顔してるし」
「……顔からしてオレはそうなのか」
「本田くんの話を鵜呑みにすると、そもそも知り合いの女の子に会ったことからして、偶然だったんだよね? 雨が降ってて、彼女が濡れてて、しかも家族に怒られるっていう事情がなかったら本田くんの家に来なかったんだろうし。それだけの偶然を重ねての突発的なチャンスだったんなら、それはもう、一生分の策略を張り巡らして完遂するまで帰さないくらいの意気込みでないとできそうにないオーラがあるよね、キミって」
「……オーラとか、そんな見えもしないものでまで漂ってんのかオレは」
 簡潔な言葉と、丁寧な言い回しで、それぞれから不甲斐なさを淡々と語られて本田はまた肩を落とす。
 二人が言うことも分かるのだ。これがまだ、御伽くらいに女性の扱いに慣れた玄人であれば、こういう突発的な事態でも行為に至ることはできるかもしれない。だが完全なる童貞で、そもそも女性と交際したこともなく、よりによって本田の性格なのだ。信じられないという反応が素直なのだと分かったからこそ、思いきって口を開いた。
「……だから、その、部屋に連れてきたときは、ほんとに服乾かして、メシでも食いに行くだけのつもりだったんだよ。けど、一応シャワー浴びてから部屋着に着替えたら、あいつが」
「本田……?」
「本田くん……?」
 不思議そうにしている二人が、信じられないのではなく、何故そんなにも苦しそうな顔で話しているのかという点に首を傾げていると気づくこともなく、本田は続けた。
 名前は絶対に出さず、特定に繋がるような情報も口にできない。
 それでいて経緯を説明することに細心の注意を払いつつ、本田は二ヶ月前の続きを話し始めた。




 二ヶ月前、まだ夏休み中だった七月の終わり。
 本田は退屈な補習の授業で、予期せぬ人物に会う。
 アテムと同じく、六月に『戻って』きたもう一人、バクラだ。今では海馬の手を借り、アテムと同じように非合法な戸籍を手に入れ、獏良の双子の妹として童実野高校に転入していた。
「……お前、これ全部洗うのか」
「ああ。全部濡れてんだからついでにな。あ、なんか問題あんのか?」
「……いや、ねえけど」
 戸籍上は、鬼籍に入っていた本当の妹の名前を借りている。だが事情を知らないクラスメート以外で、バクラを天音と呼ぶ者はいない。闇人格でなくなっても、バクラはバクラだ。獏良とは微妙なニュアンスで区別がつくらしく、今のところは当人たちは困っていなかった。
 そのバクラが、この日、何故か雨に打たれてぼんやりと立っていた。話しかければ、傘を渡されていたのに濡れてしまったので、獏良に怒られることを恐れて言い訳を考えているのだと言う。
 拗ねたような口調を、可愛いと思った。
 それ以上に、透けすぎたシャツのまま放置したくなかった。
 自室に誘ったのは事実だが、頷かれるとは思っていなかったし、承諾されてもせいぜいもっと一緒にいられるようだと嬉しくなっただけだ。二ヵ月後に教室で友人たちに勘繰られるような下心は、本当になかった。だからこそ、戸惑ってしまったとも言える。
「……じゃあ、これ一応水洗いしてそのまま乾燥させるな」
「ああ、頼む」
 雨の中連れ立って帰宅した本田は、母屋には寄らず、そのまま離れの自室に案内した。ガレージの二階という立地に、階段を上がりながらバクラはまず首を傾げる。そして部屋のドアを開けたときには、不思議そうに尋ねたものだ。
『……一人暮らしなのか?』
『ここはオレの部屋なだけだ。母屋はあっちで、食事とかはほとんど向こうで取ってる』
『ああ、そういうことか』
 バクラが来るのは初めてだが、二心同体だった頃には獏良は何度か他の面々と連れ立って来たことがある。どうやらそのときの記憶はないらしい。自分への関心の低さを示された気もしたが、いつものことだと流していると、バクラはなんの躊躇もなく玄関の中へと入った。
 本田も多少濡れていたが、バクラほどではない。サンダルを脱がずに大人しくしているバクラの横から先に廊下へと上がり、自分の足をタオルで拭いた。更に別のタオルを取って投げれば、ようやくバクラも服や足を拭う。
『バクラ、体冷えてるだろ? 念のためシャワー浴びてあったまっとけ』
 玄関を開けてすぐのところにある浴室を示せば、バクラは素直に頷いている。給湯器をつけ、使い方を簡単に説明した後、タオルや制服を入れる洗濯カゴを示す。
『それと、お前がシャワー浴びてる間に、着替えと飲み物は用意しとくから。分かんねえことあったら浴室から叫べば聞こえるし、あと他にあるか?』
『……。』
『なんだよ?』
 よく見れば、バクラが貸したタオルで包むようにしているカバンも布の色が変わるほど濡れていた。シャワーを浴びる前に、中を出して拭いた方がいいのかもしれない。さすがに女子は勝手にカバンを漁られたくないだろうと考えたのだが、じっと見上げられる視線に落ち着かなくなってそう尋ねれると、ふっと笑われた。
『……!?』
『いや、至れり尽くせりだと思っただけだ。なあ、だったら一つ頼みがある。このカバンも、適当に中出して拭いといてくれ。大したモンは入ってねえけど、教科書とか、ちょっとヤバイかもしれねえ』
『あ、ああ……!!』
 どうやらバクラはカバンを預けることに抵抗がないらしい。一つ新しい発見をした気分になりながらタオルごと受け取ったとき、突然シンプルな呼び出し音が鳴る。
『あ、やべえ、宿主サマだ……!!』
 慌ててカバンから携帯電話を取り出すのを待ってから、本田は自分のカバンと共に机やベッドがある部屋へと移動しておいた。引き戸を閉めれば、一応は見えなくなる。だが声はなんとなく聞こえ、帰ってこないことを心配した様子の獏良に、バクラが言い訳しているのが分かった。
 補習で本田に会ったので、昼飯を食べて帰ることにした。少し遊んでくるので帰宅は夕方になると説明している。食事だけであればとっくに終わっていてもおかしくないので、妥当な説明だろう。そんなことを思いながら本田もまずは着替えておく。
 それほど濡れているわけではなかったが、シャツは毎日洗うし、制服のズボンは裾が濡れた地面から跳ね返った水で汚れている。ついでに洗濯しておこうと、バクラ用の着替えを用意してから声をかけ、いないことを確認してから洗濯機に放り込んだ。そしてまた間の引き戸を閉めて戻り、頼まれたようにカバンを開けて中身を出しておく。
 筆記用具と教科書、ノート、財布に折り畳み傘くらいしか入っていない。化粧道具とは言わないが、もっと身だしなみに関わるようなものがあるイメージがあったのでやや意外だが、バクラならばそうかもしれないとも納得する。なにしろ、まだ戻ってきて二ヶ月も経っていない。四六時中実体があることを持て余しているのは、きっとアテムよりもひどい。今はまだ警戒心が不機嫌な顔となって表に出ているので予防線になっているが、その造詣は既に噂になりつつある。これで、もっと魅力的になられると、不安が増すのでやめてほしい。身勝手な願望だと知りつつ丁寧に教科書などを拭いていき、最後にカバンも拭いたところで、本当にただシャワーを浴びただけで済ませたらしいバクラが引き戸を開けて本田は驚いた。
『……お、お前なんでシャツだけなんだよ!?』
『裾が長いから充分だろ、それよりドライヤーってあるのか?』
 本田はちゃんとTシャツと短パンを用意しておいた。だが片手では携帯電話を持ち、もう一方の手でタオルで髪を拭いているバクラは、Tシャツしか着ていない。確かに裾は長く、太腿の半分くらいまではある。だが、半分はさらされているのだ。しかも大きめのものを選んだつもりだが、胸周りはかなりぴったりしたサイズになってしまっているらしい。直視できない形を浮かび上がらせそうで、それ以上指摘できなかった本田は、黙って立ち上がり来客用に一応置いてある型の古いドライヤーを渡してから、忘れていた飲み物を用意する。
 正直に言えば、このときにはさすがに意識をした。だがそれは本田から積極的に手を出したいというものではなく、無防備すぎる相手に下手な興奮をしないように自制する方向だ。クーラーの効いた部屋に入ってドライヤーを使うバクラと入れ違いに、本田は引き戸の向こうに行き、さて洗濯をするかと思い硬直する。
 自分の制服は直接洗濯機に入れたし、洗濯カゴの一番上にはシャツがあったのですぐには気がつかなかった。だが制服の上下だけと思い込んで手に持ったとき、妙に硬いと不思議に思ったものは、シャツの下に透けていたブラジャーだった。つい取り落としそうになり、手からこぼれたのはさすがに濡れても透けて見えることのなかったスカートの中にあるはずの下着だ。
 本田には姉がいて、母屋でもよく洗濯などの家事は手伝わされたので女性用の下着を見たことがないとまでは言わない。だが、予期せぬ形で、しかも脱ぎたてに近いものを触れるような状況に陥って、混乱しないほど達観もできていない。
 ついこれも洗うのかとリビング側にいるバクラに尋ねてしまったが、バクラは出力の弱いドライヤーを使いながら平然と頷いていた。本田が見ていることも、あるいは触っていることにも、抵抗はないらしい。これはカバンの中身より、ずっと秘めておくべきものではないのか。いろいろと言いたいことは頭をよぎったが、結局何一つ口にすることはなく、本田は淡々と洗濯に集中した。
 どういう洗剤を使えばいいのか分からないし、下手に時間がかかるのもよくない。だが少しくらいは汚れているだろうし、一応水洗いを一回してからそのまま乾燥に移るコースを選択した。これで、一時間から一時間半で乾くはずだ。それを待ってから出かけてもいいし、腹が減っているならば母屋からインスタント麺などを調達してきてもいい。なんとか下着の衝撃を脳裏から消そうと頑張って違うことを考えた本田は、洗濯機が回り始めたのを確認して、気合を入れ直した。
「……な、なあバクラ、メシってどうする?」
 ドライヤーの音は止まっている。もう髪は乾いたのだろうか。長さを思えば早い気もしながら引き戸の向こうに戻ると、まだしっとりしている髪を手櫛で整えながら、バクラは反対の手をコップに伸ばしていた。
「服乾くの、どれくれえかかる?」
「長くても一時間半てとこだな」
「だったら、乾いてからでいい」
 朝も遅かったしと言ってスポーツドリンクを一口飲んだバクラは、ふと視線を向けてくる。
「……てめーは?」
「オレも遅かったからまだ平気だ」
 バクラはまず間違いなく、補習の時間に合わせて起き、朝食を取ってきたのだろう。だが本田もそうとは限らず、もっと早くに食べていればもう腹が減るのではないか。そんな気遣いを見せられた気がして、勝手な想像と分かっていても本田は少し嬉しくなった。
 ともかく、食事は制服が乾いてから、駅前のファストフードにでも行けばちょうどいいだろう。カバンなどもその頃には乾いているだろうし、雨もやんでいるかもしれない。獏良にはシャワーの前に電話をしていたし、しばらくは一緒にいられるのだ。そう自覚すると急に落ち着かなくなり、取り敢えずは床に腰を下ろしたところで、本田は尋ねようとした。
「じゃあ、その、それまで何して……?」
「……なあ、ベッドあがってもいいか?」
「……!?」
 好みに合うかは分からないが、この部屋には漫画やゲームもある。まさか夏休みの宿題などはしないだろう。テレビをつけてぼんやり眺めてもいいし、小腹が空くなら菓子を母屋から持ってきてもいい。どうやって時間を潰すかと尋ねかけた本田に、バクラが逆にそんなことを言い出してひどく驚いてしまう。
「……ダメならいいけどよ」
「えっ、あ、いやダメじゃねえんだけど、ていうかオレのベッドだぞ!?」
「他のヤツのベッドだった方がビックリじゃねえか」
「それはそうなんだけど、いや、でも……!?」
「いいなら勝手に上がるぞ、つか眠い」
 横になりたいと言い出され、本田は更に焦った。
 見ず知らずの人間であれば抵抗もあるが、友人ならばそこまで気にならない。むしろ、そろそろシーツを洗おうかと思っていたところで、気が引けてしまうくらいだ。ましてやバクラであれば匂いを残していってほしいくらいだが、許可を得てベッドに上がる後ろ姿はやたらTシャツの裾が上がっていて思わず視線を逸らした。
「……!!」
「眠れるかは分かんねえけど、だりぃから、寝たい。万一眠ってたら、乾燥が終わった頃に起こせ」
 一方的にそう言うと、バクラは足元のタオルケットを引っ張り上げて寝転がる。視覚的には刺激は減ったと予想し、本田は視線を戻しながら尋ねてみた。
「だるいって、お前、マジで風邪とかひいたっぽいのか?」
 そうであればクーラーが効きすぎているかもしれないし、ちゃんと下もはいた方がいい。真っ当な心配をしている本田に、一度枕に頭を置いたバクラが、何故か体を起こした。
「いや、そうじゃなくて単に寝不足っていうか……?」
「バクラ……?」
「……なんだこれ」
 朝が遅かったと言いつつ、寝不足だということは、もしかするとすっかり夜型生活になっているのかもしれない。本田もバイトや補習がなければそうなりがちだ。特に今は昼間が暑く、どうしても過ごしやすい夜に長く活動してしまう。
 そんな会話をしながら、体を起こしたバクラが壁の方へと手を伸ばす。本田のベッドは壁に寄せているが、ピッタリとくっつけているわけではない。少しだけ隙間があるため、たまに寝転がって読んだ雑誌や漫画などが落ちてしまうことはあった。
「ああ、たぶんオレが読んでた雑誌かなんかだろ?」
 どうやらそれが視界に入ったようで、バクラはわざわざ起き上がって手を差し込んでいる。本田も取ろうとはするのだが、手が入らないことが多く、結局何冊も落ちてから仕方なくベッドを動かして回収する。だがバクラはあっさりと隙間に手が入ったようで、やはり女の子なのだなと妙なところで実感した。
 ここのところは回収作業をしておらず、正直何が挟まったままなのかは想像もつかない。漫画であってもすぐに読み返さなければないと気がつかないし、雑誌はまずしないので発掘気分だ。そのため、拾ってもらえるなら助かるくらいに考えていた本田は、バクラが引っ張り出したものに一瞬卒倒しかけた。
「……へええ、こういうのがお好みなのか」
「え?……おわあっ!?」
 わざとらしく頷かれ、何事かと手元を見れば裸の女性が悩ましげな格好をしていた。どうやら、途中のページが開いた状態で落ちていたらしい。そういえば義理の兄に礼を言っていないと逃避したことを考えるより先に、もう体は動いていた。
「バカッ、なに出してんだよ!?」
「親切にも拾ってやったのに、バカとはなんだよ、バカとは? んー?」
「あ、いやっ……その、あの、あ、アリガトウゴザイマス……!!」
 思わず奪い返したが、必然的に体がぐっと近くなる。押し倒さなかったのが奇跡と思えるほど、かろうじて触れることはなく、雑誌をひったくることはできた。その際につい怒鳴ってしまうと、全く動じた様子もなく切り返され、馬鹿にされていると分かっても愉しそうな様子に鼓動は高鳴った。
 だが、今は奪い返したアダルト雑誌の方が問題だ。なんとかページを閉じてベッドの近くに積んでいたバイク雑誌の下に捻じ込む。そんなことをしても、見つかった事実は消せない。こういうものを持っていると、知られてしまった。健全な男子高校生として恥じることではないと反論したいが、そもそも責められてもいないので、自分からはそんな情けないことを口にはできない。
「……えっと、その、これは、姉貴の旦那さんが処分に困るからって、いつも」
 わずか数秒の沈黙にも耐え切れず、結局本田はそんな言い訳じみたことを言ってしまう。間違いなく真実なのだが、だからといって本田が見ていないという証明にはならない。焦るばかりの本田に、バクラの反応はやや予想外だ。
「別に、盗んだものとは思ってねえよ。買ったにしても、もらったにしても、拾ってきたにしても問題ねえならいいだろ」
「え……あ……?」
 どうやら、出所の言い訳だと思ったらしい。いつの間にかしっかりと体を起こし、壁へと背をつけて座っているバクラは、笑いながら指を差す。
「……うわあああ!?」
「DVDとかも、いっぱいあるみてえだし。相当な趣味なんだろ、だったら集めるくらい自然だって分かってるっての」
「い、いやいやいやっ、あれは、その、違う!? あっちはもらったんじゃなくて義理の兄さんに借りたっていうかそこじゃねえんだけどっ、ああもう、うわあああ!!」
「なにそんな発狂してんだ?」
 バクラの視線の先には、テレビ、その下のDVDレコーダー前に積み上げられたままのいかがわしいケースがあった。補習に明け暮れる夏休みだと知った義理の兄が、わざわざ気遣って昨日の夜に届けてくれたのだ。忙しかったこともあり、まだ見ていない。むしろどれにしようとパッケージを吟味したまま積み上げ、今日こそはと楽しみにしていたことを、本田は今の今まですっかり忘れていた。
 どうやらバクラはそちらに先に気がついており、だからこそ雑誌も不思議ではなかったらしい。
 例えば、バイクに関するDVDがいっぱいあれば、相当バイクに興味があるので雑誌も集めていても不思議ではないだろう。それと同じ理論で、あれだけアダルトDVDを持っているくらいなのでアダルト雑誌にも驚かなかったということらしいが、なんとなくずれていると思う。それ以上に、精神的なダメージが計り知れなかった。
「これが発狂せずにいられるかよ!? 言っとくけどな、この部屋に女子で一人で来たのってお前だけなんだぞ、しかもそんな格好でベッドで寝られたのなんか初めてなんだぞ、なのにこんなときにオレは!! なんで!! よりによって!! アダルトコレクション・オープンなんだよ!!」
「前後の繋がりが全く分かんねえよ、あとトラップカード・オープンみたいに言うな。オレサマが来たのが急だったんだし、部屋が片付いてないくらいで文句言ったりしねえよ」
「わ、分かってくれ、信じてくれよバクラ!? これはわざとじゃねえんだ、お前が来るってことで浮かれてなかったらオレはちゃんと片付けてた!!」
 急に来たことは事実だったが、バクラがこちらの部屋に入らず、シャワーを浴びている間に隠せばよかっただけの話だ。ほのぼのしながらカバンの中身を拭いている場合ではなかった。問答無用でバレたのではなく、片付けるチャンスがあったのに気がつきもしなかったことが本田をまた落ち込ませる。
 もう、ここまで堂々と見つかってしまうと、片付けることすら気恥ずかしい。せめて邪推だけはしないでくれと懇願すれば、バクラは不思議そうな顔をする。
「てめーの部屋に、てめーの持ち物があって、なんでオレサマが怒んなきゃいけねえんだ? 言っただろ、片付けてなくても文句はねえって」
「い、いや、怒るっていうか、疑うっていうか、警戒するっていうか、セクハラだって軽蔑するっていうか……。」
 要するに、下心があって部屋に呼んだと思われたくない。
 情けない見栄なのだが、次第に小さくなっていく声にバクラはまた首を傾げている。どうやら、悪い方には受け取っていないようだ。それ自体は助かるが、恥ずかしがる様子もないことにまさか慣れているのかと嫌な想像が沸きかけたところで、理由が判明した。
「そういや、せっかくなら分からせてほしいことがあるんだけどよ」
「あ、ああ……?」
「人がしてるの見て、楽しいのか?」
「……。」
 単にバクラは免疫がなさすぎたらしい。考えてみれば、三千年前はこんなDVDなどなかったし、この三千年間は復讐に関すること以外で表には出てこなかったので、興味がなければ本当に接する機会がなかったのだろう。男女の行為も、それを収録した映像や雑誌があることも、それらを男性が一般的に所持していることは知識として分かっている。だが、それを見て楽しめるのかという疑問が出るくらいに、バクラにとっては理解が及ばないものらしい。
「いや、でも、スポーツやらねえけどスポーツ観戦が趣味ってヤツもいるか。そういうことか?」
「……いや、観戦が趣味ってわけでは」
「格闘技とかだと、見るのはいいけどやるのは嫌だってヤツも多そうだしな。見る方が楽しいこともあるんだろうな」
「いやだからそうじゃねえよっ、これはそういう類じゃねえよ!! そりゃあ実戦の方がいいけど無理だからこういうので補ってんだよっ、当たり前だろ!?」
 実際には、結婚したりしてする相手がいても見る男性は多いようなので、それはそれ、これはこれなのかもしれない。
 だが少なくとも、健全な男子高校生である本田にとっては、実体験で得られないことを仕方なく補給している部分が大きい。ましてや、実戦より観戦の方が好きだなどとありえず、つい力強く否定すればまたバクラは驚いていた。
「……そうなのか?」
「あ、ああ……!!」
 真顔で確認されると気恥ずかしくなってくるが、誤解されたままよりはマシだろう。そう腹を括って頷けば、何故かバクラはニヤリと笑って両手を伸ばしてくる。
「バクラ……?」
「じゃあ、実戦してみるか?」
「……!?」
 オレサマと。
 伸ばした手で当然ながら実戦相手を示しながらの言葉に、本田は一瞬眩暈がした。
 これは、どんな幸運なのか。あるいはバクラがシャワーを浴びている間に、自分が寝てしまい、夢でも見ているのか。いやどうせ夢ならば、補習の授業中に眠っているのかもしれない。バクラが部屋にいて、Tシャツ一枚でベッドに座り、そんな行為に誘ってくるはずがない。どこかからかうような笑みを見つめたままだとこの夢に溺れてしまいそうで、本田はゴクリと唾を嚥下してから、視線をなんとか逸らした。
「……そ、そういうこと、気安く言うなよ。オレが本気にしたらどうすんだ」
 それでも、万が一、これが現実ならば。
 混乱しきった頭でなんとか言葉を搾り出せば、バクラは呆れる。
「本気にしていいんだぜ?」
「……い、いいわけがないだろっ、ダメだって、そんな簡単に、こういうこと」
「なんだ、やっぱ実戦には興味がねえのか? それとも怖気づいたのかよ」
「そういうことじゃねえだろ!? だ、だいたい、なんで急に……。」
 バクラの強気な性格と、挑発的な物言いは充分に知っている。だがさすがにこんなことでからかわれると、真に受けてしまいそうな自分がこわくて、本田は声を荒げるしかない。
 まさに、負け犬の遠吠えだ。虚勢を怒声で誤魔化そうとする。情けなさは増す一方なのに、性的な認識には疎くとも、暴力と悪意の応酬には慣れているバクラは怯むようなことはない。
「なんで急にって、一応は世話になったからだろ?」
「……。」
「お礼をしてやろうっていうオレサマの謙虚な申し出だっての」
 黙ってしまったのは、嘘だと思ったからではない。むしろ、それが真実だろうと痛いくらいに理解できた。
 所詮、バクラにとってはその程度のことで、礼をしようと思ったこと自体が気紛れなのだ。シャワーを貸したり、服を乾かしてやることなど、大した手間ではない。いちいち礼を要求するつもりは本田にもなかった。ただ、少しの間一緒にいられるならば勝手に嬉しいと思っていたくらいだ。
 それなのに、バクラは簡単に申し出る。行為そのものを軽く考えていると分かる言動は、悲しいのに、誘われたこと自体には興奮する。それがまた情けなくて、本田は黙るしかない。
「……まあ、嫌なら別にいいっての」
「……。」
 やがて本田の無言を拒絶と取ったらしいバクラは、腕を下ろし、やや不機嫌そうにそう吐き捨てる。
 どこまで本気なのか分からないと思っているのに、撤回されると惜しいことをしたと後悔する。千載一遇のチャンスを、確実にふいにした。じわじわとその実感が沸いてくれば先ほどとは違った眩暈を起こしそうだが、まだバクラに話しかけられてなんとか踏みとどまれる。
「なあ、そういやメシってどこに行くんだ?」
「え……あ、ああ、そうだな、適当なファストフードでいいんじゃねえか……。」
 動揺しすぎた自覚もあり、本田はできるだけ自然に返しながら床へと腰を下ろす。ただ、バクラを見ている自信はなくて、ベッドには背を向ける。
 口をつけていなかった自分の方のコップに手を伸ばし、取り敢えず飲み干してみた。まだ冷たさが残るスポーツドリンクは、胃だけでなく頭も冷やしてくれたようだ。ようやく回り始めた思考で、家からも比較的近く、ファストフードが多い通りを想像する。
「……駅前に、バーガーショップが三つと、ドーナツ屋、ファミレスとか他にもいろいろあったよな」
「オレサマ、ドミノバーガーが食いたい」
 ドミノバーガーは地元密着のバーガーショップで、杏子がかつてバイトをしていたバーガーワールドより更に安価だ。中高生も多く、本田たちもよく利用している。バイトの途中にあることもあり、最も馴染みのある店を指名され、少しばかり気が緩んでしまった。
「ああ。じゃあそこにするか」
「宿主サマが厳しくて、ああいうのは栄養バランスが悪いとかでみんなで行くときぐれえしか食べさせてくれねえんだよな」
「獏良ならそう言いそうだよなあ……。」
 昼休みにみんなで弁当を囲んでいるときの言動を思い出せば、素直に頷ける。禁止にはしないが、回数を制限する。それに対し、バクラはジャンクフードが好きそうなので、これはいい機会なのだろう。簡単についてきたのはそこにも期待したからかと納得したとき、ベッドを背にして座る本田に、後ろからするりと腕が伸ばされた。
「……だから、後で奢れよ?」
「なっ……!?」
 どうして自分が奢らなければならなのいか。
 それが、より対価の増える『世話』になるからだとは、すぐに理解できた。いや、理解させられた。笑いながら後ろから腕を回して抱きついてきたバクラに、驚いて振り向いたところでいきなり唇を塞がれる。
「んんん……!?」
 童貞である本田は、キスもしたことがなかったのだ。いくら知識は豊富でも、突然押し付けられた唇の感触は、驚きすぎてまともに味わえない。瞳を閉じることもなく間近から覗き込んでいたバクラは、振り返った本田の肩に手を置き、唇を離してから笑った。
「……オレサマは、本気だぞ?」
「……!?」
「観戦より実戦だって言い張るんなら、試してみろよ、本田?」
 そう煽って今度は見つめ合ったままキスをしてきたときよりも、一瞬前に、きっと本田は落ちていた。
 名前を呼ばれ、どうしようもなく興奮した。
 ちゃんと自分だと認識して誘っているのだと理解できたときには、本田はもう自らベッドに押し倒し、映像ではない体感を夢中で貪っていた。
 



「……。」
「……。」
「ほ、ほら、オレが最初から下心ありきで誘ったんじゃねえって分かっただろ?……つか黙るなよお前らっ、やっぱなんか失敗してんのかって怖くなるだろうが!?」
 あれから約二ヵ月後、初めての経験に至る経緯を説明し終えた本田は、聞きたいと追及した友人二人が微妙な顔で黙り込む様につい叫んでしまった。
 もちろん、相手の名前や、特定に繋がるような情報はすべて誤魔化している。
 もしかすると、それ故に話が分かりにくかったのかもしれない。
 好意的な解釈をして、なんとか気持ちを持ち直そうとしたところで、ようやく二人揃って大きすぎるため息をつく。
「……うわあ」
「本田、お前それ単に思いっきり流されただけじゃねえか」
 あの手この手で策略を張り巡らし、いたいけな少女をまんまと手篭めにしたわけではない。
 そこは納得してくれたようだが、むしろ逆のような印象を与えたようだ。とにかく相手が誰だか分からないようにぼかして話したことで、余計にそう思わせたらしい。
「誘い方が手馴れてるよね。相当遊んでる子なの?」
「い、いや、そんなことは……!?」
「知り合いっつーから勝手に同い年くらいだと思ってたけど、もしかして年上のオネーサマなのか? 本田があからさまに童貞すぎて、からかった延長で食われただけじゃねえの?」
「か、からかったのもオレが童貞すぎたのもたぶん事実だろうけどっ、でも、そういう方向で遊んでるってことはねえよ!! だって、あいつ処女だったんだぞ!?」
 誤解されなければ言うつもりはなかった。だがバクラの名誉のためにもそこは主張しておきたいと意気込み、直後に気恥ずかしさから顔が真っ赤になる。
 だが、撤回はしない。むしろ本田も最初はそう思ったというか、興奮しすぎて逆に経験がないという配慮に頭がいかず、痛い苦しい抜かないと殺すとまで叫ばれながら腹部を蹴り上げられたのだ。そこまで抵抗されればさすがに少し我に返り、動揺してしまう。無理強いはしたくないが、今更止めることもできない。随分と情けない顔でおろおろしたまま見下ろしていれば、やがて大きくため息をついたバクラが、ゆっくりならしていいと許可してくれてやっと繋がることができた。
 やや震えていたのも、緊張で体を強張っていたのも、何より一度終えた後にわずかだが血が流れ出したのも本当だ。本田は感動と罪悪感でそれを呆然と眺めてしまったが、バクラにとっては何かが吹っ切れる合図だったらしい。どうせ初めてより痛いことはないのだろうと開き直り、気持ちよくなるまで練習してみろと煽られる。本田は結局この日四度もしてしまい、いい加減腹が減ったとまた蹴られてやっと終えたのだ。
 普段の言動からも誤解されがちだが、そもそもバクラが今の体で戻って二ヶ月もしない時期の話なので、処女だったとしても全く不思議はない。ただ、それは相手の名を伏せないで説明すればこそだとも分かっており、複雑な表情で黙りこめばまた城之内と御伽は首を傾げている。
「……なんか、オレが想像する未経験の女の子のイメージとやっぱ違うんだけどよ? そういうもの?」
「耳年増というか、最後までは初めてってだけで抵抗が薄いってこともあるだろうけど、でも、ねえ?」
「そうじゃねえって、あいつはキスとかもオレとが初めてだったんだぜ!? と、とにかく、そこはいいだろ、オレの相談をきいてくれよ!!」
 ちなみに、城之内も女性経験はない。中学時代に共に暴れていて、いっそ本田よりそういうことには疎かった。自分よりはモテていたが、自分以上に女子からはある意味で怖がられていたのもある。拳で戦う仲間以外の友人すらまともに築けないほど荒れていた当時では、女の子と付き合うことなどやはり無理だっただろう。
 一方の御伽は自分たちとは対極で、学年でも有名な美男子として名に恥じない振る舞いだ。女性には分け隔てなく優しく、人気も非常に高い。特定の女性とお付き合いをしているような話は聞かないものの、いろんな意味で経験豊富ではあるらしい。
 本田の説明が不可解すぎるようで、経験値がゼロの城之内は御伽に尋ねてみているが、御伽の反応もいまいちだ。理解してほしくて説明を重ねるうちにうっかり名前を出すようなことを危惧し、なんとか強引に進めようとするが、二人がかりでは敵わない。
「相談には乗ってあげたいんだよ、だからこそもうちょっとちゃんと教えてほしいな、その子のこと。実在してるかも怪しいレベルじゃまともな助言なんてできないでしょ?」
「そっ、それは、そうかもしれねえけど……!!」
「本田、お前マジでそれ妄想彼女じゃねえだろうな? 童貞こじらせるとこんな症状が出るって学会で発表されたくなかったら、そうだな、まずは名前教えろ」
「……!!」
 信じきれないが、信じてやりたい。友人たちからすれば、真っ当な反応だろう。そして、初歩の初歩とばかりに城之内から尋ねられた質問に、本田は早くも窮地に追い込まれた。
「……そ、それは、まだ勘弁してくれ」
 いずれは言わなければならないだろう。だがどう転ぶか分からない以上、ずるいと非難されても本田はまだ名を明かしたくない。なにより、相手がバクラだとばれた時点で、二人からの答えなど分かりきっている。
 駄目だ。
 無理だ。
 諦めろ。
 バクラのことをちゃんと知っているからこその友人たちの言葉には重みがあり、いくら自覚があることとはいえ、一縷の望みすら断たれそうで本田には怖かったのだ。
「名前は教えてくれないの?……もしかしたら、僕たちも知ってる子だったりする?」
「……!!」
「えっ、そうなのか!? 誰だよ!?」
「まあまあ、城之内くん、もしかしたら、だからこそ本田くんは言いたくないのかも? むしろ、僕も知り合いならまだ聞かない方がいいかもなあ、それまでのイメージとかで先入観もあるだろうし」
「知り合いだったら、教えてもらってこそ的確なアドバイスがオレらもできるんじゃねえの? まあ、御伽が言うならいいけどよ」
 御伽の鋭さには心臓が止まりかけたが、男女の仲というものに理解がありすぎるのか、本田の肩を持ってくれる。城之内はやや不満そうだったが、こういうことは御伽の方が慣れているという意識が強いのだろう。あっさり倣ってくれたことには、本当に助かった。
「だからさ、本田くん? 名前はいいけど、そうだな、どんな感じの子かとか、そういうのでいいから教えてくれるかな?」
「あ、ああ……!!」
 名前以外のところに移して尋ねてきた御伽に、本田はやや緊張して頷いた。
「ええっと、まず、その……す、凄く、可愛い」
「……そう」
「……いやこれ実は結構凄い情報かもしれねえぞ? 本田ってかなり面食いだしな、しかも清楚系の方向で」
「せ、性格的には、そうだな、積極的ではあるけど、そういう知識には疎いっていうか、免疫がなさ過ぎて逆に抵抗がないっていうか……!!」
「……誘い方を聞く限りじゃとてもそうは思えないけど、どういうことなんだろ」
「……やっぱ本田が騙されてるだけじゃねえの。それか、よっぽど人の気持ち手の平で転がすのが得意ってことか」
「だからっ、その、なんていうか!! ……いろいろと、危なっかしくて。目が離せなかったんだよ、ずっと」
 戻ってきてからは、本当に存在が不安定なのだ。日に日にこの世界を苦痛に感じていくのか、険しくなるばかりの表情に、本田はいつもはらはらしていた。
 いつか、諦めてしまうのではないか。
 実体を得て戻ってきたことを悔いて、すべて投げ出してしまうのではないか。
「……本田くん?」
「本田、なあお前、それって……?」
 だからこそ、雨で濡れた姿を見て、消えてしまいそうで不安になった。
 原因を聞いて、意外に幼い感性に嬉しくなった。
 触れてそこに本当にいるのだと実感してしまうと、もう止められなかったのだ。
 どんな子なのかと説明しているうちに、本田はついあのときの熱を思い出しそうになる。性的には、もちろん愉しかった。感動もした。だがそれと同じくらい、安心もしたのだ。
 ああ、バクラはちゃんとここにいる。
 疲れて腕の中で眠るバクラを抱きしめていると、何故か本田も自分がここにいるのだと強く認識できた。
「ねえ本田くん、つまりキミの相談ていうのは?」
「……そいつと、恋人になりてえ」
 初めて体を重ねたのは、もう二ヶ月も前だ。だがあの一度きりということではない。むしろあれから週に二回以上の頻度で会い、することもしているが、自分たちは恋人同士ではない。
 それでもいいと達観できるほど大人ではない。恋人でないならしたくないと突っぱねられるほど、潔癖な子供にもなれない。ずるずると関係を続け、仲も絆も深まっていくと確信しているのに、何一つ恋情的な約束ができないことは、ずっと毒のように本田の中に溜まっていった。
「ああ、やっぱりそれか。予想はしてたけど、お付き合いはしてないんだね」
「本田が好きでもねえ女を抱けるとは思ってなかったけどよ、でも、その一回だけならマジで相手からしても事故みたいなものって思われてんじゃね?」
「一応、そんときだけじゃねえんだ。むしろ、その、今も結構頻繁に会っててそういうこともしてるっていうか……。」
 二人とも本田の部屋のことは知っているので、女性とそういう仲になってもする場所に困らないことはすぐ理解できたのだろう。関係が継続していることを告げれば、また難しそうな顔になる。城之内は既に理解の範疇を超えたのか、御伽が核心を突こうとしたとき、いきなり軽快な着信音が鳴り響いた。
「ねえ本田くん、その子って結局……?」
「おわっ!? ……あ。あっ、いや、この話はまた今度な!?」
 唯一着信音の設定を変えているため、開く前から送信主は分かっていた。反射的にポケットから出して確認をし、その文面に思わず口元が緩みそうになった本田は、慌てて閉じてから友人たちには一方的に告げる。
「オレ先に帰るわっ、城之内はバイト頑張れよ!!」
「ちょっと、本田くん!?」
「本田っ、お前こんな途中で……!?」
 『五分で来なかったら帰る。』
 学校から駅前まではどう頑張っても十五分はかかる。だからこそ焦りながら自分のカバンをつかんで本田は教室を飛び出した。元々夜に会う約束はしていたが、予想より早くマンションを抜け出せたらしい。既に待ち合わせ場所にいると思われる相手からのメールは、あまりに唐突で、且つ理不尽だ。
 それでも胸が弾むのは、怒りや嘆きではない。何時間も早く会えそうだというだけで、鼓動は高鳴って仕方がない。五分など、待てるはずもない。
「……あっ、もしもし!?」
『遅えよ、まだバカ犬の暇潰しに付き合ってんのか』
 靴を履き替え、校門を出たところでまずは電話をかけた。一コールで出た相手は言葉こそ不機嫌そうでも、雰囲気はずっと柔らかく、楽しそうだ。走って行くのでもう少し待っていてくれと言えば、仕方なさそうにでも頷いてくれる。待つのに飽きたら帰ると脅していても、ちゃんと待っていてくれるともう知っている。
 そして、笑顔で迎えてくれるのだ。
 部屋に戻ってからのことも期待していいと分かっているのに、それでもバクラは恋人ではなかった。





 






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こんな感じで、単発の本バク女体の話です。
他のキャラもいつも通り出てます。

ロボっぽい何か