■beyond the...






「というわけで、海馬、屋敷のプールを提供しろ!!」
「断る」
 ビシッと突きつけられた人差し指を鬱陶しそうに眺めながら、海馬はそう一言で却下していた。
 今日も今日とて、会社は忙しい。一般的な高校生には夏休みでも、社会人としての生活の方が多くを占める海馬にとっては普段と差がない。むしろ学校に時間を取られない分、仕事に集中していられる。恋人である可愛い駄犬を撫でる機会が減ることだけは心苦しく思うものの、こうして一日会社にいても誰にも文句を言われないという意味においては、海馬も夏休みを歓迎していた。
 それなのに、密度の濃い有意義な会議を終えて社長室へと戻ったところで、来客を秘書から告げられた。新商品の開発に向けた士気を一気に下降させるに充分な訪問者だったが、無下にはできない。
 なにしろ、決闘においては最大のライバルなのだ。
 もしや遂に決闘王の称号を返上にきたのではないかという淡い期待で面会を許可した海馬だったが、もしそれを聞いていればこの訪問者はそもそもそんな恥ずかしい称号などいらないと床に叩きつけてくれていただろう。
「何故オレがそのようなことに協力してやらねばならん、寝言は寝て言え。いや、死人ならば死語か」
「海馬っ、オレがちょっと黄泉返りだと思って動揺させるのは卑怯だぜ!! ……死語とは、死者が話す言語のことなのか?」
「辞書を引け、引き方も辞書で調べろ」
 とにかく時間の無駄だ、関わりたくない。
 そう隠しもせずに態度に表しているのだが、相手は全く聞く耳を持たない。
 決闘のときであれば、対戦者のブラフに惑わされない強靭な精神ということだろう。だが日常においては、単なる意思疎通が不自由なミイラだ。あれは自らのデッキを信じる強さではなく、人の話を聞かないだけだったのだと、海馬はしみじみ思っていた。ちなみに海馬自身も周りにそう思われていることは気づいていない。
 そんなふうに、社長室にいきなり乗り込んできたのは、かつての王の魂であったもう一人の遊戯だ。二ヶ月ほど前に冥界の扉をくぐったはずなのだが、何故か次の週には平然として戻ってきていた。しかも、どんなオカルトを用いたのか、実体まで伴っている。
『き、貴様、何故甦った……!?』
『いや、オレにも分からない。ただ、そうだな、もしかすると一つ心残りがあるのかもしれない』
『それではまるっきり成仏し損ねた怨霊ではないか!!』
 敢えてそんな単語を選んだのは、傍で感動していた可愛い駄犬を怯えさせるためだ。かつての器、遊戯の体と二心同体であった頃から、海馬の恋人でもある城之内はこちらの遊戯も親友だと豪語して仲良くしていた。ましてや、今では専用の実体まで伴っているのだ。ますます構われてはたまらないと予防線を張った海馬に対し、もう一人の遊戯、いや、今では区別のためにユーギと呼ばれているかつての王は平然としている。傍にいた城之内だけが、怖いことを言うなと海馬を渾身のアッパーで殴っていた。
 それはともかくとして、以前のように人格交代を起こすのではなく、完全に別の実体を得て歩き回るのはこの日本社会ではいささか面倒だ。放っておけば何をしでかすか分からないと海馬は思い、主に恋人からの求めで戸籍を捏造してやることになる。そのため、今では武藤遊戯の双子の弟、武藤アテムとして登録されている。ただ、アテムという名は呼び慣れていなかったり、他の配慮もあって周囲は大抵ユーギとかつての王の魂を呼んでいた。
 何から何まで、オカルトな存在だ。冥界の扉をくぐったとき、エジプトの地で祝砲代わりの大砲を空に打ち出してやっていた海馬は、あやうく外交問題に発展しそうだったことを思い出し憂鬱になった。たった一週間で戻るなら、最初からそう言ってほしかった。祝砲の件を揉み消すのにはかなりの実弾が必要だったので、ユーギには是非土下座してでも謝ってほしい。
 そう心から思っていても、どうやら戻ってきたこと自体は、ユーギの意思ではなかったらしい。正確には、無意識ということだろう。戻るつもりはなかったが、戻ってしまったのであれば理由を察することができる。最初は遊戯の家に現れたらしく、翌日になって面識があるメンバーが学校に集められ、紹介されたときに、ユーギはそんなふうに言っていた。
『な、なあユーギ、お前、現世にどんな未練が……!?』
 怨霊という表現が効いているのか、やや躊躇いがちにそう口を開いたのは城之内だ。ちなみに豊満な胸と凶暴な拳を持つ海馬の恋人である。褥では快楽に従順な仔猫のようだが、普段は躾ができていない狂犬だ。このときも不穏当なことを言った海馬を拳で沈めた後、傍目には可愛く怯えながらそう尋ねていた。
 それを海馬は血の海から甦りつつ聞いていたのだが、ユーギはすぐに答えなかった。言いよどんだのではなく、はっきりと意思を灯した目をある人物に向けている。
『……?』
 そのとき、ようやく海馬も気がついていた。
 すっかりユーギの早すぎる埋葬に無駄になった祝砲代を嘆くばかりだったが、同じように甦った人物がいたのだ。
 こちらは正確には冥界の扉をくぐっておらず、ユーギとの記憶のゲームに敗北して消滅していたらしい。だが、今ではユーギと同じように実体を伴ってそこに立っている。宿主である少女のところにユーギと同じく舞い戻ったらしい凶悪な面構えをしたかつての盗賊王は、似合わないワンピースに身を包んでずっと押し黙っていた。
『あ〜、そうだ、海馬くん〜。彼女の戸籍も、よろしくね〜?』
『あ、ああ……いや、何故オレが!? そこまでせねばならん!!』
 おっとりしていると表現するには不気味さが抜け切らない城之内のクラスメートは、確か獏良了という名である。いきなり話しかけられ、ついまともな会話を拒絶したくて適当に頷きかけたが、海馬はすぐに理不尽さに気がついて反論する。だが、どんなベテラン社員でも震え上がるような怒声で返したのに、獏良はニコニコしたままだ。それにまた不気味さを感じて目を逸らしたことで、もう一人分の戸籍を捏造してやらなければならないのは決定事項になった。
 そんな敗北感に打ち震えていても仕方がないので、海馬は明晰と謳われる頭脳で考える。
 記憶のゲームには参加していないが、一通りのことは城之内から聞いている。聞きたくもないのに、聞かされた。ともかく、それによれば、獏良了に居候していた闇人格のバクラとは、三千年前に闇人格の遊戯、アテムの宿敵だったらしい。いろいろあったがアテムが勝ったとは聞いていた。バクラにも王国を恨むには充分の理由があり、そして王国としてもバクラを討つべき甚大な被害を受けた。
 かつて盗賊王と名乗っていた頃に比べれば随分と華奢で、普通の女子高生のようにしか見えないが、その性格は凶悪なはずだ。もしまだ闇の力とやらが使えれば、討つべき相手に変わりない。
『……なるほどな』
『海馬……?』
 あまりオカルト話を吟味したくなかったので推測も遅れたが、海馬にもやっと納得できた気がした。
 冥界行きを拒み、かつての盗賊王の魂だけが現世に実体を伴って甦った。それを察し、今度こそ完全に斃すためにユーギもまた甦った。つまらなそうに視線を逸らすバクラを、ユーギはじっと睨み続けている。それが心残りとやらであり、一度は決めた冥界行きを覆す原因となったのだ。
 手っ取り早くあのバクラとやらを殺せばユーギも消えてくれるのだろうかと真剣に考え始めていると、そのユーギがゆっくりと歩き始める。向かう先は、もちろんバクラだ。バクラの方はここにきたときから、面白くなさそうに窓の外を眺めたままである。
『……バクラ、オレはお前がしたことは許されるべきじゃないと思っている』
 そして硬い声でそう切り出したユーギに、海馬も含めた全員は息を飲んで見守っていた。緊張した空気が辺りを占めるが、誰もが予想したような狂気じみた高笑いが返されることはない。
『それは、そっくりそのまま、てめーにも返してやるよ』
『ああ、それも分かっている。王国だって、間違ったことをしたんだ』
『……今更謝罪か? まあ、原因と結果ははっきりしてるからな。てめーらがあんなことしなけりゃ、オレサマが喧嘩売ることもなかった』
『だが千年アイテムがなければ、お前が喧嘩を売ろうとしたときにもう国はなくなっていただろう』
『今度は正当化かよ。てめー、何が言いてえんだ?』
 女であっても、バクラの方がユーギよりはかなり背も高い。まだ実体を得たばかりであり、元々の器に体格は近くなっているようだ。睨み上げるようにして見つめてくるユーギを、バクラはようやくチラリと視線を戻して視界へと入れたようだ。
 その瞳には、かつてのような苛烈な憎悪は灯っていない。
 ただ、すべてを諦めてしまったような、無気力な闇だけが広がっている。
 少し離れた場所で見ている海馬にもそれは分かったので、当然ユーギも気がついているはずだ。だがそうなると、最初の疑問に立ち返る。
 どうして、バクラは戻ってきたのだろう。
 少なくとも今はかつての王に対して以前ほどの嫌悪はないように思える。つまらなそうに外を眺めていたのは、ユーギ以上にどうして実体を伴って戻ってきたのか分からず、困惑していただけなのかもしれない。かなり目つきが悪いのできつそうな顔立ちだが、そこに表情というものがほとんどない。
『オレが言いたいのは、バクラ、正義なんて簡単に語れるものじゃない、善悪はいつも表裏一体ということだ』
『……。』
『オレたちは、既に一度死んでいる。それで、許し合わないか? せっかくこうして互いに戻ってきたんだ。オレは、お前と、新しい関係を築きたいと願っている』
 だが、無表情に見えていたバクラも、ユーギからの言葉には鮮やかに感情の色を乗せていた。
 誰もが驚いて息を飲むような、そんな提案だ。
 互いに全力で戦った、過去については決着をつけた。だから、これからは違う関係を未来に築いていこう。そんな提案を、心からできるのはさすがはユーギだろうと思う。だが、普通は受け入れられるはずがない。当然のように、バクラがようやく強い色を見せた感情とは、不愉快さを隠そうともしない嫌悪感だ。
『……なに言ってんだよ、てめーは? 忘れることなんざできるわけがねえだろ』
『忘れろとは言わない、むしろ忘れてはいけないと思っているぜ。その上で、お前と和解して未来に繋げたい。この手を取ってくれないか、バクラ?』
『……。』
 このとき、傍観するしかなかった周囲は、どれくらいの人間がユーギの勝利を信じていたのだろう。
 どれだけ過去にこだわろうが、もう三千年経っているのだ。一度決着もついたのに、それを引き摺る必要はない。とても前向きで理想的な提案だが、バクラが応じる義理はない。むしろ、そういうユーギの一種夢見がちな潔癖さを嫌悪し、断罪して再び対立するのではないか。
 海馬のように、バクラが漠然と敵らしいとしか知らない者には、到底和解などありえないと思っていた。記憶のゲームに参加し、盗賊王として残忍で凶暴な姿を目の当たりにしていた者たちも、和解できるような精神構造にないと考えていただろう。
 だが一人だけ、ニコニコとして二人を見つめている者がいる。ずっと宿主としてかつての盗賊王の魂を居候させていた少女だけは、何かを確信していたように笑っていた。
『……オレサマは和解なんざしねえよ。てめーとは、生れ落ちたときから袂は分かってんだ』
『バクラ……。』
 それはもしかすると、かつて闇人格のバクラが宿主である獏良の孤独を感じ取っていたように、獏良もまた三千年の孤独を知っていたからなのかもしれない。
 吐き捨てるような言葉にやはり拒絶だとほとんどの者が思ったとき、ゆっくりと体ごと向き直ったバクラは、もしかすると初めて自然に笑っていた。
『……!?』
『けどまあ、せっかくのボーナスステージみたいなモンなんだし、いがみ合うのも勿体ねえてのは同意してやる。死ぬ前までとは違った関係を築いてやるよ、王サマ?』
『バクラ……!!』
 バクラから握り返した手は、和解ではなく、決別の挨拶だ。
 三千年もの間、宿敵として執着していた関係を終わらせる。もう関わることはない。互いに過去を清算し、この実体が尽きるまで無関係で過ごすという提案を受け入れた。憎悪を乗せることもない自然な笑みが、その証拠だろう。記憶のゲームに敗北し、消滅した際に、バクラの中でもユーギへの強い執着は削がれていたのかもしれない。
 そんなバクラに、ユーギは驚いたように息を飲み、そして強く手を握り返していた。感動しやすい性格なので、きっと嬉し泣きでもするのだろう。そうやや胡散臭く眺めていた海馬は、直後のユーギの言動がしばらく理解できなかった。
『そうかっ、ありがとうバクラ!! 必ず幸せにするっ、安心してオレについてきてくれ!!』
『ああ? てめー、なに言っ……おわっ!?』
 バクラは、互いに関わらないという新しい関係を築くことにした。
 だが、ユーギはどうやらそういう意図での提案ではなかったらしい。
『んんー……!?』
 握ったままの手を強く引き、思わずバランスを崩したバクラをユーギはなんとか受け止める。そしてぶつける勢いで唇を合わせたとき、上がった悲鳴は別の女子のものだ。
『……い、いやぁぁあああああああ!?』
『お、落ち着け杏子っ、あれはきっと事故で!?』
『そ、そうだよ真崎さんっ、きっとユーギくんはああいうのが挨拶とかで!?』
『ほんとに挨拶だったら〜、遊戯くんの体に同居してたときもしてたはずだよね〜』
 とどめを刺すなと、海馬はいまだ名前を覚えていない男二人が獏良を止めているが、無駄のようだ。当のユーギが、意気揚々と宣言している。
『実は前々から可愛いと思っていたんだ、必ず正室に迎えるからまずは恋人から始めてくれ!!』
『なっ……に、言ってやがんだっ、てめーは!? 正室ってなんだよ、最初から側室置く気満々でこの現世で口説くバカがいるか!! もっかい死んでこい!!』
 いまだ手は握られたままのバクラは、顔を真っ赤にしてそう怒鳴り散らしている。傍目にも、完全なる怒りだ。だがそんなバクラに、ユーギは軽くウインクをして返していた。
『照れるお前も可愛いぜ? ちなみに正室とは言葉のアヤだ、オレはお前一筋だと約束するぜ!!』
『照れてねえっ、そんな約束もいらねえ!! つか気持ち悪すぎてスルーしてたけどよっ、オレサマのこと可愛いとか言うな!!』
『なにを言ってるんだバクラ、お前はずっと可愛いぜ? もっと自信を持つんだ!!』
『それは、あれだ、前は宿主サマの体借りてたからだろ!? 今はそこまで宿主サマにも似てねえだろうが!?』
『確かに、体格、というか……体つきは、あまり似てないようだな……。』
『しみじみ胸見て言うんじゃねえよっ、この童貞王が!!』
 身長や体重で言えば、このバクラもかつての宿主である獏良と大差がないのだろう。だが女性としての特徴で言えば、二人には明らかな差異がある。ユーギの身長ではちょうど見やすかったようで、凝視している様はなかなかにして変態だ。ちなみに、それまでずっとニコニコとしていた獏良が、ユーギくん後で覚えておいてね〜、と呟いてるのが地味に怖い。
『バクラ、そんなことは当たり前だろう? オレは昨日この体で戻ったばかりなんだ、心に決めた可愛い相手がいるのに戻って二日で童貞を捨てるような節操のない男じゃないぜ!!』
『そういうこと言ってんじゃねえだろうが、というか、だから、可愛いとか言うんじゃねえ、オレサマの本来の姿は盗賊王だった頃のだって分かってんだろうが、ユーギぃぃいいい……!!』
 ちなみに、盗賊王の頃ももちろん女性ではあった。ただあまりに言動が凶悪すぎて、女だてらに、という言い回しすら思いつかないほどだったと、海馬は城之内から聞いている。
『ああ、もちろん盗賊王の頃は別だ』
『そ、そうか、ならまあ……?』
『好戦的で、血まみれで、召喚獣を使わずともその身一つで血路を開いていくお前を、オレは敵ながら美しいと思っていたぜ?』
『……。』
『ちなみに、神を見たときにうっとりした海馬が「美しい……。」と呟いた口調で想像してくれ』
『したかねえよっ、気持ち悪い!!』
 さりげなくとばっちりで貶された気がしないでもないが、ここまでくれば海馬にもようやく察することができる。
 どうやら策略などではなく、本気でユーギはバクラを口説いているらしい。
 だがそれはそれで不可解になってしまう海馬がそっと隣を見下ろせば、恋人である城之内はなんとも微妙な顔で教えてくれていた。
『いや……実は、結構、ユーギってバクラのこと前から気に入ってて……。』
『そうなのか?』
『なんとか更正させてお付き合いしたいみたいに言ってたんだけど、でも、記憶のゲームで二人の溝がとんでもなく深いって判明しちゃっただろ?』
 さすがに無理だと諦めていたところに、予期せぬ形での再会となったのだ。募った想いが暴走しているらしいと海馬も察するが、正直愛を叫ぶユーギなど気持ち悪いという失礼な印象しかなかった。城之内と付き合い始めた当初は自分もそう周りに思われていたとは気づきもしていない海馬は、ため息をついて離れることにする。
『海馬? 帰んの?』
『他人の恋愛事情などどうでもいい、オレには関係ない。眺めているだけ時間の無駄だ』
 いまだにユーギとバクラは大声で叫び合っているようだが、既に興味をなくした海馬は教室から出て行くことにする。それに、城之内は少し躊躇ったようだが、結局はついてこない。やはり戻ってきたお友達二人が気になっているのだろう。
 自分は恋人だ、ちゃんと愛されてはいるのだ。だから寂しくなどないと自分に言い聞かせながら会社へと戻った海馬は、かつての闇人格が実体を得て戻ってきたということが、自らにどう関わってくるのかを全く予想していなかった。
「とにかく!! 屋敷のプールなんて、どうせ遊ばせているだけだろう? それをちょっと使わせてくれればいいんだ」
「プールの使用頻度がどれだけ低かろうが、ミイラを浮かせる趣味はない」
 ユーギに関しては、決闘では多少関わりがあるだろうとは思っていた。だがバクラの方はそもそも決闘者としての側面も薄く、戸籍を作るよう指示してやった以外はほとんど気にもしていなかったのだが、本当に厄介だったのはこちらだ。
 直接的に海馬に何かするのではない。むしろ、何もしない。相変わらず暑苦しく愛を叫ぶユーギを、ずっと袖にしているらしい。戻ってきたのが六月の終わりだったので、あれからもう二ヶ月近く経っている。おかげで、たまに登校をすれば、ユーギから尊大な相談を一方的に投げつけられた。やっと夏休みに入って静かになったと安心していれば、実は今日でもう五回目の来訪だ。
 いずれも内容はいまだにつれないバクラへのアプローチの仕方と愚痴である。聞くに堪えないと海馬は言葉にして毎回追い返しているのだが、ユーギはめげずに通ってくる。その理由は、つるんでいる仲間内ではユーギが望む立場にある者、要するに彼女持ちが海馬しかいないためだ。
『だがっ、恋人がおらずとも他の男どもが助言すればいいだけだろう!?』
『あー……そこが、ちょっと、ややこしいんだよなあ……。』
 経験者の方が信用できる気持ちは分からなくもないが、かといってわざわざ会社まで足を運ぶのも労力である。つるんでいる連中には男が三人もいるのだから、そこに相談すればいいとあるとき憤慨していた海馬に、珍しくバイトが休みで屋敷に遊びに来ていた城之内は唸っていた。
『どの程度だったかはオレにも分かんねえんだけど、杏子がさ、ユーギのこと好きだったから』
『ああ、そういえば悲鳴を上げていたな』
『で、周りはそれを知ってるワケ』
『……だから、ユーギとあのバクラとかいう女を後押しできないということか?』
『そこも難しくて、遊戯の方は杏子のこと好きなんだよなあ』
『ならば、ユーギとバクラを後押しし、その後に遊戯と真崎を押せばいいのではないか?』
『人の気持ちなんだからっ、そうスパッと上手くいくわけねえだろ。大体さ?……バクラも、杏子がユーギを好きなのも知ってたからなあ、優しいからまだ迷ってるみてえ』
 どうやら想像していたよりも、ずっと面倒くさいことになっているらしい。海馬には関係のないことなので勝手にしていろとも思うが、おかげで仲間内に相談できずにユーギがこちらに来るのは勘弁してもらいたい。そうため息をついて城之内を抱きしめたとき、ふと海馬は引っかかりを覚えた単語を繰り返していた。
『……「優しい」?』
 それに、腕の中の城之内は不思議そうに肩越しに視線を向けてくる。
『海馬? ああ、バクラが優しいってのが、信じられねえ?』
『まあ、そうだな……。』
 海馬は実際に記憶のゲームで見たわけではないが、相当な猛者だったとは聞き及んでいる。極悪非道の権化だったのではないかと怪訝そうにすれば、城之内は困ったように笑っていた。
『まあなあ、手段はとんでもなく残忍だったんだけどよ?』
『ああ……?』
『その発端となったのは、たぶんメチャクチャ深い情だと思うんだよな。だから、バクラって、すんごく優しくて、とんでもなく凶暴って感じなんだ』
『……なんとなく分からないでもないのは、似たようなヤツをオレは抱いているからか?』
 味方にすれば限りなく頼もしいが、敵に回せばたった一人で国を相手に潰しにかかるような豪傑だ。民を纏め上げ、人望と信頼の上に君臨していたアテムとは根本的に存在が違う。だからこそ対立し、だからこそ惹かれるものがあるのかもしれない。
 だが今となってはそんな因縁もなくなったのだし、ユーギとなった男からの求愛を、受け入れるなら受け入れる、断るなら断るではっきりすればいいと海馬は思う。大半はおかげで迷惑を受けているからであるが、思わずそう呟けば城之内はまた笑った。
『まあ、オレはバクラの気持ちが分かるぜ?……ずっと敵だと思ってたヤツにいきなり告白されたって、なかなか信じられねえよ』
『……。』
『信じられたら、次は怖くなる。だって相手のこと、そんなふうに考えたことなかったんだもんな。真剣に求められるほど、悩んじまう。もう敵じゃない、憎むべき相手じゃないって分かったからこそ、受け入れたときに自分が変わっていく気がしてこわくて堪んねえんだ』
 軽い調子で話す城之内だが、明らかにそれは自分の体験からだろう。
 敵というほどではないが、海馬と城之内はよく対立をしていた。互いに、決して相容れない存在だと信じて疑わなかった。だがどれほど打ち負かされても立ち上がるその姿に、最初に好意を確信したのは海馬だ。そこからは押して押して押しまくったが、城之内は最初は相手にもしない。急に好きだと言い出した海馬を、ただの冗談か悪質なからかいだと怪しんだのだろう。次第に本心だとは理解してくれていったようだが、そうなると余計に城之内の顔は苦しそうに歪められていく。
 そんなにも、この気持ちは重荷なのだろうか。
 明確な拒絶はあまりなかったが、歓迎されていないことぐらいは当時の海馬も察していた。半ば諦めかけたとき、まるで罪でも告白するかのように城之内から交際の承諾をもらえたのだ。
『……オレは運がよかったということか』
 あれほど悩まれたくらいなので、勝算はかなり悪かったはずだ。それにも関わらず、海馬は今こうして城之内を腕に抱けている。これは奇跡だったのだろうと改めて実感し、強く抱きしめるが、城之内はその腕から逃れるようにして体ごと振り返ってきた。
『城之内?』
『やっぱバカだな、海馬って』
『なんだと、貴様!?』
 甘えたいのかと気を良くしたところだったので、バカにした言葉にはつい反射的に返してしまう。だが正面から見つめてきた城之内は、海馬の見間違いでなければ、とても嬉しそうだった。
『悩む段階で、気持ちは決まってるってことだろ?』
『……!?』
『受け入れたら変わっちまう、それがこわいって怯えるのは、そんだけお前がとっくにオレの中にいたってことだっての。バクラも早く腹括っちまえばいいのな。そしたら、こうして、すんごく幸せになれるのに』
 両腕を背中へと回し、ぎゅっと抱きついてきた城之内に、海馬はしばらく愕然とした。
 海馬から求めて求めて強引に押し切って仕方なく城之内も始めた関係だとばかり思っていたのだ。そうではなく、最初から城之内もそれなりに海馬を想う気持ちはあったらしい。更に今ではこうして抱き合えるのが幸せだとはにかまれ、衝撃が過ぎればじわじわと胸の奥が熱くなってくる。
 それが、照れ隠しで力の限り抱きしめてくる城之内からの攻撃による激痛と酸欠からでも構わない。自分はこの凡骨を生涯をかけて愛するのだと、海馬は決意を新たにした。
「……海馬っ、真面目に話を聞かないか!!」
 ついでにその後は久しぶりに城之内と朝まで抱き合って実に有意義な時間となったとまで思い出したところで、耳障りな声と机を叩く音が海馬の意識を引き戻した。
「城之内くんとの営みを思い出してオレの話から逃げるなんてっ、絶対に許さないぜ!!」
「……貴様、何故分かった」
「いいからプールを貸せ、お前にも悪い話じゃないだろう?」
 既に千年アイテムはないはずなのだが、いまだに闇の力でも使えるのかと海馬は怪訝そうにする。単に自分が独り言をこぼしていたとは気がついていない。ともかく、愉しい回顧を邪魔された海馬は不機嫌そうにため息をつくが、取り敢えずは相手をしないと帰ってくれなさそうだと腹を括っていた。
 今日の用件は、珍しくただの愚痴ではなく海馬にしかできない明確な話だ。
「何故そうなるのかは聞く気もないが、プールなどいくらでもあるだろう? 勝手に行けばいいではないか」
 どうやらユーギはバクラをプールに誘いたいらしい。だが泳ぐだけならば夏休み前の学校でも体育の授業であったはずだし、町民プールのような公的施設もたくさんある。
「海馬、お前は何も分かっちゃいない。学校のプール授業は男女別なんだっ、オレはいまだにバクラの水着姿を拝んでいないぜ!!」
「……そうか」
「それに、町営のプールのような人混みは危険すぎるぜ!! ほんとに想像力が乏しいようだなっ、海馬!!」
 挑発するような物言いには相当苛立つものの、海馬は努めて無視しておく。当初はどうしてもいちいち食ってかかってしまっていたのだが、相手をすると話が長くなるとようやく学習したのだ。ユーギのおかげで海馬が最近大人になったと城之内が吹聴して回っているのを、海馬自身は知らない。
「……他の男どもに見せたくない、ということか」
 かといって無視をしても堂々巡りに陥るだけなので、大変不本意ながらも海馬はまともに考えてみていた。
 自分の身に置き換えれば、城之内が町営プールなどに行き、その豊満な肉体を水着に包んで見知らぬ男たちの前に晒すことになるのだ。幸いにして城之内はバイトが忙しすぎてプールなどに行く暇はないようだが、それでは自分も拝むことができない。今更のようにその事実に動揺しかけた海馬だったが、何故かユーギは呆れ返っていた。
「海馬、お前はやはりその程度なのか」
「なんだと……?」
 せっかく挑発に乗らないようにと努めているのに、ユーギの物言いは相変わらずだ。つい慳貪に聞き返せば、まるで必殺コンボを発動させるときかのようにユーギは高らかに宣言をする。
「忘れてるわけじゃないだろうな、海馬? ……オレは童貞なんだぜ!!」
「……いまだかつて、これほどまで誇らしげに童貞であることを公言した男に会ったことはないが、それがどうした」
「それなのにっ、いきなり好きな女の水着姿なんて、どう興奮するか分かったものじゃないだろう!?」
「分かっておけっ、というか屋敷のプールなら興奮しても構わんという理屈も撤回しろ!!」
 どうやら想像以上にくだらない理由からだったらしい。妙なところで思い切りがいいユーギなので、まかり間違って屋敷のプールが二人の記念すべき初めての場所になりでもしたら、海馬は恐らく翌日にはそのプールを潰すだろう。
 気のせいではなく、本当に気持ちが悪くなってきた海馬だったが、続いたユーギの言葉には思わず顔を上げた。
「いや、さすがのオレだって親友の前では耐えてみせるぜ!! あくまで保険という意味だ」
「……待て貴様、まさか城之内を?」
「だから言っただろう、お前にも悪い話ではないと」
 怪訝そうに聞き返せば、ユーギはあっさりと教えてくれる。
「実は、先日みんなでプールには行ったんだ。城之内くんはバイトの都合が合わなくてパス、バクラは人混みが嫌いだとごねて家から出もしなかった」
「……。」
 だから海馬邸のプールにという展開では、ユーギは単に人混みが嫌だというバクラの口実を真に受けているだけなのだろう。だが以前城之内から仲間内での事情を聞いていた海馬は、単にバクラは遠慮しただけではないかと想像する。
「……真崎はどうだったのだ?」
「杏子? いや、杏子はいたぜ、そもそもプールに行こうと言い出したのも杏子だ。杏子は優しいからな、最後までバクラも誘ってくれていたんだが、バクラがのらりくらりとかわして結局は来なかった。だからこうして別の機会を設けようとしているんだ、やれやれ、手のかかる仔兎ちゃんだぜっ」
「……。」
 もし杏子がバクラを逆恨みし、より複雑なことになっているのであれば、これ以上巻き込まれたくない。そう思っての確認だったが、どうやらあまりどろどろした展開にはなっていないようだ。海馬は直接の面識はないものの、城之内から聞く話では杏子は姉御肌でかなり面倒見のいい性格らしい。このユーギに惚れていたのであれば悪趣味だと海馬は思うものの、いい加減に目が覚めたのか、あるいは応援できるほどの度量がある女だったのかもしれない。
 あれから、二ヶ月近く経つのだ。たまに会社に襲撃を受ける海馬と違い、夏休みに入るまでは毎日教室でユーギはバクラへと届かない愛を叫んでいたのだろう。既に杏子は気持ちの割り切りはついているのではないかと海馬でも思うのだが、城之内の言葉を借りればとても情に深いらしいバクラはまだ気にしているのか。
 そんなことを考えて海馬が黙っていると、ユーギも怪訝そうにする。
「どうした、急に杏子のことなんて尋ねてきて?……浮気なら許さないぜっ、海馬!! 城之内くんが悲しむ!!」
「戯言を抜かすなっ、オレはあの駄犬を愛しておるわ!! ……そうではなく、いつもの連中全員ではなく、城之内とあの女だけ呼ぶつもりか?」
「なにしろ人混みは嫌いらしいからな。先日行き損ねた埋め合わせという意味でも、それがいいと言われたぜ」
 誰に、と尋ねるのをやめたのは、恐らく今では戸籍上双子の姉となっている獏良だと察したためだ。仲間内では、唯一に近く公然と最初からユーギを後押ししている。そのことからも、バクラの方も満更ではないのではないかと周囲が思っているという話を海馬は聞いている。
 ただ特別に指名するのではなく、あくまで埋め合わせだと主張するのは確かに口実としては適切だろう。だがこの計画を聞いて、海馬は少し実行性には不安があると感じた。
「……城之内が参加すると思っているのか?」
「どういう意味だ?」
 なにしろ、城之内は本当にバイトが忙しい。特に日中はほぼ毎日何かしらのバイトか補習が入っているのだ。夏休みの残りを考えれば、来れそうな日は一日しかないとスケジュールを完璧に覚えている海馬は知っている。
 そんな貴重な休みだからこそ、城之内は全員で集まれるような遊び方を求めるように思う。認めるのは悔しいが、時に我を殺してでも友情を優先させるのが城之内なのだ。バクラとユーギ、三人だけで海馬邸に遊びに来るということは、抜け駆けでもしているようで気が引けるだろう。内心では恋人である自分に会いたいはずだと信じているが、だからこそ、我慢してしまうものだともう分かっている。
「夜でも泳げなくはないが、一応は昼間に泳ぐことを想定したプールだ。まあ、照明をこれから設置すれば、あるいは……。」
 日中が完全に開いているのはあと一日しかないが、夕方以降であれば複数あるはずだ。そこならばあるいは城之内も応じるのではと考えている海馬に、ユーギは何故か呆れている。
「海馬、お前は本当に城之内くんのことを分かってないな」
「なんだと……!?」
「友情に篤い城之内くんだからこそっ、親友であるオレの願いを聞き入れてくれると信じてるぜ!!」
「それはそれで不愉快だ!!」
「大体、獏良の方が城之内くんには既に話を通してくれている」
「……!?」
 至れり尽くせりだぜっ、と感激しているユーギには悪いが、勝手に話をまとめる前に施設提供者の許可を取れと海馬は苦々しく思う。だが、取り敢えずは納得できる部分もあった。当事者であるユーギからではなく、あくまでこの計画を立案したらしい獏良からの頼みであれば、城之内は応じそうだ。そもそも城之内はバクラに肩入れしている様子もあったので、これで二人の仲が進展するならと考えそうだというのは分からないでもなかった。
「……だが、あの女の方が応じるとは限らんだろう」
 それでも、バクラが参加するかはまた別問題だ。人混みが嫌いというのは口実だろうし、杏子への気兼ねがなくなったとしても、根本的にユーギと出かけることを由とするだろうか。もし応じるならば、ユーギがここまで迷走していないはずだ。たとえ杏子がいないとしても、黙っていればいいという狡さを持ちえていない。
「これも双子の姉が根回し済みなのか?」
 いろいろ勘繰るよりも、杏子のことがなくともバクラはユーギを毛嫌いしていると考えた方が早い。そう思っている海馬は一つの可能性を思いついて確認するが、あっさり否定された。
「いや、それは断られたらしい」
「貴様、ならばそもそも……!!」
「だが、ちゃんとお前が使用許可を出して、城之内くんから誘えばバクラは絶対応じるはずだぜ?」
「……そんなに仲が良かったのか?」
 はっきり決まったわけではない計画に参加の是非を決められないという趣旨ならば分かる。だが何故城之内が誘えば応じるのか、確かに話はよく聞くがそれはあくまで友人グループの一人だと思っていた海馬は不思議そうに聞き返す。
 すると、ユーギは誇らしげに胸を張っていた。
「城之内くんは、ほんとはお前に会いたいだろう?」
「……。」
「バクラもそれは分かっている。あいつは、情に篤いんだ」
 情が深いとは何度も聞いているが、そうだとしても城之内に対して向けられているのだろうか。
 その確認はできなかったが、もしそうであれば、バクラは城之内を海馬に会わせるために応じてやるという予測だ。本気で言っているのであれば、ユーギも随分と情けない。あるいは水着が見たいだけだと豪語しているので、根拠はどうでもいいのだろうか。
 ただ、本当にバクラがこの計画に乗ってくれば、少なくともバクラから見て城之内は海馬に会いたそうにしていたということなのだろう。夏休みに入り、仕事時間をまとめて取れるようになったことで、学校があるときより会えていない。城之内もバイトが忙しいようなので気にしていないとばかり思っていたが、もしかすると会えないことを予想してシフトを入れていただけなのだろうか。そう想像してしまうと、もう期待は止められなくなった。
「……貴様ら、なかなかの策士だな」
 立案は獏良だろうが、ユーギでなければ海馬を動かすことはできなかっただろう。
 ついそんなふうに呟けば、応接セットのソファーから立ち上がったユーギは部屋を出る前に笑って返す。
「褒め言葉としてとっておいてやるぜ」
「……いや、褒め言葉のつもりだったのだが」
「日程が決まったら、お前も屋敷にいろよ? いないと城之内くんががっかりするし、城之内くんががっかりするとバクラが不機嫌になる」
 言われずとも、城之内が丸一日空いている日は海馬も午後から休めるように調整していた。
 その最初の数時間にユーギなどの顔を見るのは不愉快だが、もし城之内が本当に水着姿ではしゃいでくれるなら、差し引きして余りあると海馬は笑みを深めていた。






「お邪魔しまーすっ!!」
「よく来たな」
 数日後、城之内のバイトが全く入っていない日の昼下がり、海馬邸にはそんな声が響いていた。叫ばずとも監視カメラで分かるのだが、機嫌がよさそうな城之内に海馬は何を言うでもなく門まで出迎えてやった。
 本日も残暑は厳しく、まさにプール日和である。ユーギが会社に乗り込んできてからすぐに清掃を命じ、今朝からは既に水も張ってある。
「あれ、モクバは?」
「今日は会社だ。オレがこうして休んでいるのだから仕方がない。まあ、夜には帰ってくるぞ」
「そっか、仕方ないニーチャンのために頑張ってるんだな」
 モクバはえらいと褒め称えているのにはいろいろ文句も言いたくなったが、ここで機嫌を損ねて帰られても困る。そうぐっと耐えている海馬は、城之内の水着に思ったより期待していた。
 そんな海馬の視界には可愛い恋人しか映っていなかったが、城之内の右手の先には当然のように同行者がいる。
「……なんで、オレサマが」
「往生際が悪いぜっ、バクラ!! ここまで来たら思う存分プールで楽しむべきだ!!」
「うぜえ、うるせえ、黙れよ王サマ、余計暑くなるだろうが」
 ぐったりしたように返しているのは、本当にやってきたバクラだ。どうやらユーギの読みは正しかったらしい。だが、何故城之内と手を繋いでいるのか。女同士なので目くじらを立てるほどではないのだが、つい不思議に思いその手を見れば、それぞれ違った反応が返ってきた。
「ああ、こうしとかないとバクラが勝手に帰っちまうから?」
「……違えよ、久しぶりに恋人サマに会えるってはしゃいだバカ犬が、信号とか無視して走り出すのを止めるためだ」
「バクラッ、オレも走り出すから是非反対の手を繋いでくれ!!」
「てめーは勝手に車に跳ねられてろ、大体両手にてめーら繋いでたらオレサマまるっきり引率の先生じゃねえか」
 それは言い得て妙だと海馬は納得したので、取り敢えずバクラの弁を正解としてやることにした。
 身長はバクラが一番高く、やや低いのが城之内で、だいぶ低いのがユーギだ。だが遊戯とは別の実体を得てから、たった二ヶ月で身長が伸びてきているらしい。本来の体型はもう少し背が高かったようで、そちらに近づいていっているのだろう。誇らしげに身長のことを以前報告にしに来たユーギを、海馬はわざわざ椅子から立ち上がって間近から無言で見下ろしてやったものだ。
 そんなことを思い出していると、屋敷の門を通ってやっと城之内から手を離したバクラが、フードの下から不快そうな目を向けてくる。
「大体よぉ、屋敷まで来いってんなら、車くらい回せよ。干乾びるかと思ったじゃねえか」
 ミイラ仲間なので問題ないのではないかと思ったが、下手な発言をすると城之内からもユーギからも抗議をされて実に面倒くさい。ちなみに、当初は海馬も車を寄越すつもりではあったのだが、大した距離ではないと城之内に断られたので深く考えてはいなかった。
「元エジプト人のくせに、軟弱だな」
「うるせえな、この体は全然鍛えてねえんだよ、あと湿気が全然違う」
「オレは平気だぜバクラ!!」
「王サマはてめー自身が暑苦しいから相殺されてんだろうな、そこのバカ犬と一緒で」
 仕方なく別の返答をしたのだが、海馬はまた軽く驚いてしまう。
 城之内に関しては納得できないこともあるが、日常会話のように散りばめられるユーギへの罵りは実に的確だ。もしかすると、このバクラという女はいい奴なのかもしれない。極めて限定的な理由で評価を高めつつある海馬は、城之内の手をごく自然と取って歩き出しながら返しておく。
「だが、暑いならばそんな服は脱げばいいだろう」
 暑い暑いと繰り返しているバクラが、実は見た目も最も暑い。Tシャツに短めのスカートというのは城之内とほぼ変わらないが、その上に長袖で丈が膝下まであるような上着を羽織っているのだ。素材はさすがに薄く通気性もよさそうだが、そんな上着のフードまですっぽりとかぶっていれば暑くて当然だ。そう指摘をすれば、何故か横を歩く城之内が先に答えていた。
「ああ、バクラってああいうの羽織ってない方が大変なんだってよ?」
「そうなのか?」
「……社長サマだって同じじゃねえか、長袖なんか着込みやがってよ。日に焼けたら痛えんだよ、くそっ、だから外出したくなかったってのに」
「バクラッ、日焼け止めを塗るのなら任せてくれ!!」
「任せねえよっ、この童貞王が!!」
 後ろでまた仲良く喧嘩をしているようだが、海馬にも実によく分かる理由だった。単純に、肌が白いので日焼けはただ痛いだけなのだ。元の体は肌も浅黒かったのだろうが、今は元の宿主の影響なのかバクラはかなり白い。ユーギの方は、遊戯が極端に色白というわけではないので、日本人として一般的な色味であり、さほど気にならないのだろう。
 適当に納得した海馬は、手を繋いでいる城之内に尋ねてみる。
「すぐに泳ぐのか?」
 後ろでは、ユーギがまたバクラと手を繋ぎたいと主張して罵声を浴びせられているが、海馬の耳には入ってこない。
「もちろん!!」
「それなら、更衣室代わりの客間に案内する。部屋のテラスから出れば、目の前にプールがあるぞ」
 テラスに続く客間は二つだけなのだが、ユーギが一つ、城之内とバクラで一つを使えば問題ないだろう。そう説明したところで屋敷の建物内に入れば、ここからは空調が効いておりかなり涼しい。後ろでバクラがほっと息をつき、フードも外した気配がした。
「海馬は?」
「オレはいい、少し目を通す書類があるからな」
「えっ、泳がねえの!?」
「……テラスには行く。オレのことは気にせず遊んでいろ」
 泳ぐつもりはない、だが仕事だと言い張るならば書斎に篭っていないとおかしいだろう。そのため、予め用意していた言い訳を口にしてみるが、城之内は不思議そうだ。
「仕事、終わってねえのか? えっと、それなら、オレたち勝手に遊んでるから、海馬は部屋でゆっくり仕事してても……?」
 そして案の定危惧していた殊勝さを見せられて海馬が内心慌てていると、後ろから城之内の髪へと手が伸ばされる。
「わっ!? ……バクラ?」
「社長サマが外でもできるって言ってんだから、いいじゃねえか? どうせ大した書類じゃねえよ、目が届くところにいてもらえよ」
 海馬とは反対側の隣へと足を進めたバクラは、そんなふうに城之内へと勧めていた。それに、城之内は軽く目を見張った後、海馬へと再度確認してくる。
「……ほんとに、大丈夫なのか?」
「ああ」
「ほらな? 大体ほんとに重要な仕事なら会社から戻ってねえって」
 どうやらバクラの言葉で城之内も納得したらしい。嬉しそうに頷かれると、海馬もほっと胸を撫で下ろす。
 これで、なんとか城之内の水着姿をじっくりたっぷり眺めることができそうだ。
「よかったな、海馬!! これでお前も城之内くんの水着……グハッ!!」
「王サマは黙っとけ」
「ユーギ? いきなり腹押さえて、どうしたんだ?」
 だが余計なことを言いかけたユーギを、バクラはノールックエルボーで黙らせていた。
 実にいい腕だ。
 社長室の横に常駐し、ユーギが訪ねてくるたびにああして黙らせてほしい。本気で雇うことも内心計算していた海馬だが、ふと城之内の頭越しにバクラと目が合った。
「……。」
「……ところでバカ犬、宿題は終わってんのか?」
「えっ、今そんなヤなこときくなよ!!」
 城之内に話しかける直前、声には出さずにバクラが海馬に言ったのは、『ヘンタイ』という四文字だった。
 どうやらこちらの意図をすべて分かった上で、城之内の希望に沿う言動はしているが、海馬に賛同してたわけではないらしい。それに対し、海馬は特に反論もない。
 好きな女の水着を見たくて何が悪い。
 そんな開き直りで無言を貫く海馬と違い、『ずるいぜ海馬、オレもバクラとアイコンタクトがしたい!!』とユーギは腹を押さえながら唸っていた。






 妙なことになったと、バクラは深いため息をつく。
 いや、そもそも現世に戻ってきたことからして妙なのだが、それ以降も珍現象続きなのだ。いっそこれは、崩れゆく地下の祭壇で死の直前に見ている長い夢なのではないかとまで疑ってしまう。
「なあなあ、バクラの水着ってどんなの?」
「……。」
「お前、プールの授業全部休んでたよなあ?」
 だがもしこれがすべて自分の夢であれば、不可解極まりない。少なくとも、この暑い中に水遊びをするために、かつての神官の一人、こちらの勢力に引き込み損ねた男、更に言えばアテムの次に王となった者が転生した魂の屋敷に足を運ぶはずがない。煌びやかな内装が施された一階の客間に案内され、ドアを閉めたところでバクラは再びため息を深めたものだ。
 思えば、先週プールの誘いを断ったのがすべての発端なのだろう。気乗りがしなかったので普通に断ったのだが、何故かしつこく誘われた。どうやらすっかりつるむ仲間として認定されていることは理解しているが、納得はしていない。ついでに言えば、声をかけてくるのがあの杏子だというのもバクラは警戒してしまった。宿主だった獏良と二心同体だったときから見ていて、杏子がいわゆる逆恨みや卑怯なことをするとは思えない。それでも、心に深く根ざした不信感は消えないのだ。
 杏子だからではない、自分と深く関わろうとする者はとにかく疑ってかかる。
 それは、三千年前にたった一人で国と喧嘩をすると決めたときから、誰も信用しないことを是としたからだろう。
 もちろん、人混みも鬱陶しいし、この暑さで出歩くことは億劫だった。ユーギが水着を見たいと騒いでいることも当然聞き及んでいたのでますます足は遠のいたが、理由としてはやはり杏子のことが大きかった。
「もしかして、バクラって泳げねえの?」
「そういうわけじゃねえよ。ただ、転入した時期が微妙だったしな。オレサマは帰国子女てことになってるし、まだこっちの文化に慣れてねえから不安だって言ってみたら、免除されただけだ」
「ふうん、バクラって猫かぶるのほんと上手いよな」
 恋愛感情というものは、よく分からない。ただ、巻き込まれるのはひたすら面倒くさい。だからこそ、ユーギに求められたときは、憎悪や嫌悪より、厄介事に巻き込みやがってという苛立ちが大きかった。
 つるんでいる連中で、杏子がユーギに想いを寄せていることを知らなかったのは当人だけだろう。誰もが杏子に同情し、自分を泥棒猫かのように非難してくる。奪いたくて奪ったわけでもないのに、それはあまりに理不尽だ。そんな展開を予想したからこそきっぱりと拒絶したのだが、ユーギはなかなか諦めてくれない。だがもっと意外だったのは、実際にはあの連中からは蔑むような目を向けられなかったことだろう。
 宿主である獏良は実質身元引受人なので甘くなったとしても、城之内はやたら応援してくるし、他の者も静観している。やや暴走気味なユーギに呆れ、バクラに同情してくることもあるほどだ。
『あのね、私、ユーギのことが好きだったの』
『……知ってる』
 人がいいにもほどがあると呆れて久しいが、さすがに二日前に杏子に呼び出されたときは緊張した。プールを断ってから数日後、既に今日の約束は取り付けた後だ。獏良からは念のためみんなには穴埋め計画を伝えておくとは聞いていたので、当然杏子の耳にも入っているのだろう。
 ダンススクールの帰りらしい杏子から、マンションの下まで来たので少し話さないかと電話がかかってきた。今では本来の意味で宿主である獏良と同居しているため、部屋に上げることは躊躇い、下まで一人で降りたバクラに杏子はそう切り出したのだ。
 それに、バクラはどう答えるべきか分からず、取り敢えず頷いておいた。
 自分には関係ない、責められるのはお門違いだ。そう吐き捨てていいものか、迷っている間に杏子は続ける。
『もちろん今でも好きよ、嫌いになったりしてない』
『……物好きだな』
『ねえ、私がユーギのどういうところを好きになったのか、分かる?』
 そんなことを尋ねられても困る。きっと、杏子とは全く感性が違うのだ。怪訝そうに睨むだけで否定を返せば、杏子は少し笑って教えてくれていた。
『もう一人の遊戯ってね、とにかく格好よかったの。いつも自信に満ち溢れてて、とても強くて』
『……偉そうなのはもう性格だろ、アレは』
『でも、そのうちそれだけじゃないって分かった。いろんな困難に遭遇したし、時には負けたことだってあるわ。それでも、もう一人の遊戯はいつも最後には勝ってくれた。窮地に追い込まれたって、必ず逆転の一手を信じて最後まで戦い続ける。そんな姿が、とても魅力的だったのね』
 戦い抜く根性ならば城之内や海馬にも共通するものがあるが、元々は幼馴染の遊戯を知っていたからこそ、もう一人の遊戯とのギャップが余計に杏子に鮮明な印象を与えたことは想像に難くない。だがそんな話をされたところで、そうですかと頷くことしかできないバクラに、杏子はしっかりと瞳を合わせて繰り返してきた。
『あのね?……私は、どんなに勝ち目がないような状況でも、全力で立ち向かうユーギを素敵だと思ったのね』
『ああ、それは聞いたけどよ……?』
 何故念を押してきたのかと不思議に思ったバクラに、杏子はこのとき初めて寂しそうな顔をしたかもしれなかった。
『……正直、寂しいとか、つらいとか、そういう気持ちはあるわ。だって好きな人に、告白する前にふられちゃったんだもの』
『……。』
『でも同時に、何故か素敵だと思う気持ちは消えないの。だって、今、ユーギは頑張ってるでしょ?』
 あなたを射止めるために。
 言葉に出されなくとも、やっとバクラは分かった気がした。
 確かに、杏子が戦い続けるユーギに惚れたのであれば、まさに今ユーギは絶賛攻略戦中である。その対象が、ゲームではなく、恋愛だというだけだ。
『こうなってから思うと、私の気持ちもちゃんと恋だったのかはよく分からないの。だって、最初は遊戯の性格の一部かと思ってたし、全くの別人なんだって知ってからも薄々いなくなっちゃうことは感じてたから』
『……。』
 それは本心なのかもしれないし、叶いそうにないと察してからの自己欺瞞なのかもしれない。だが少なくとも、杏子はバクラを恋敵として憎む気持ちはないらしい。ユーギを応援したいとすら思っていたのであれば、たとえ慕情が本物だったとしても、それ以上の友情をユーギに対しても抱いていたのだろう。
『だから、知ってほしいのは二つだけ。まず一つ、私のことは気にしないで? 変な遠慮だけはしなくていいからね』
『……してねえよ、遠慮なんか』
『それから、もう一つ。これは知っていてほしいというか、単なる私のお願いなんだけど……。』
 ユーギの気持ちに応えないのは、杏子への配慮だけではない。そう重ねて言うべきかと迷っている間に、杏子からの言葉が胸に刺さっていた。
『ユーギの気持ちから、逃げないでほしいの』
『……。』
『受け入れるにしても、断るにしても、ちゃんと答えてあげて。そうでないと、ユーギは勝つまで続けると思うわ。結果がはっきり出ないと、ユーギも、あなたも、その先へは進めないと思うから』
 そんなことは、分かっている。
 だが感じたことのないような胸の痛みで、言葉にはならない。仕方なく視線を逸らしてやや呼吸を整えたバクラは、吐き捨てるように返しておいた。
『……オレサマは、ずっと断ってるっての。誰が今更あのヤローとつるむかよ、バカにすんのも大概にしろってんだ』
 それでも、自分でも情けなくなるほど言葉に覇気がなくて、バクラは焦ってしまう。それに杏子は優しく笑っただけで、何も言わなかった。また休み明けに学校でと挨拶をしただけで立ち去る後ろ姿は、それでも寂しそうに見える。そのまま見送るつもりだったが、ふと足を止めた杏子が振り返り、尋ねていた。
『……そういえば、城之内には甘いわよね。どうして懐かせてあげてるの?』
 その指摘にはやや驚いたが、否定も出来ない。ついでに言えば、理由も明らかだ。
『あっちがなんで懐くかは知らねえが、好きにさせてる理由は簡単だ。あれは単純なバカ犬だからな、警戒しなくていいんだよ』
 もちろん城之内も精神構造は複雑なので、すべてが単純なわけではない。ただ、単純なところと、そうでないところが、傍目にもはっきりしているのだ。少なくとも、バクラに対しては単純さしか発揮していない。警戒すべき対象ではないからこそ、懐かれていると表現されるような状態にも甘んじていられる。
 そう答えてみれば、杏子もまた予想していたのだろう。特に驚いた様子はなく笑っていた。
『じゃあ、ユーギのこともそんなふうに思ったらどうかしら?』
『……いや、さすがにあれよりは賢いだろ』
『そうかな? ユーギって、結構単純なとこもあるから……て、それは知ってるか』
 あれほど積極的に口説かれていれば、さすがにそれぐらいはバクラも分かっている。ちょうど携帯電話がメールの着信を告げたので思わず見てみれば、案の定ユーギからだ。海馬邸のプールに行くのを楽しみにしているだとか、暇ならこれから一緒に夕食をといった内容だ。毎度のことなので返信はせず、携帯電話を畳んでため息をつく。すると、それだけでメールの送り主が分かったらしい杏子は首を傾げていた。
『どうしたの? ユーギからでしょ、返信しなくていいの?』
 あるいは自分がいるから返信や通話に躊躇っていると思ったのか、杏子は手を振って今度こそ帰ろうとしている。それを、バクラは引き止めることはない。だが完全に背中を向けられたのを確認してから、一言だけ口を開いておいた。
『……わざわざ、ありがとな』
 嫌味ではない、本心からそう告げておいた。
 聞こえなかったふりで立ち去った杏子だが、本当は一瞬だけ肩が揺れたのが分かっていた。
 どういう心理でこうして会いにきたのか、バクラが正確に推し量れることはない。ただ、それでも、優しさだったのだろうとは思う。バクラに対してだけでなく、周りが変に気遣うことへの申し訳なさも大きいのだろう。大切な仲間のために、自らの痛みを推してでも事態の打開を図る。とても強いと感じるが、自分とは似ていない。
 杏子は、生きている仲間のために頑張れる。
 自分は、死んでしまった仲間のために一人で戦った。それは戦いを続けても死者が裏切ることがないと知っていたからなのかもしれない。あの復讐をバクラは微塵も後悔はしていないが、強さと共に臆病さも得てしまったことは随分前から自覚していた。
「……だーかーらっ、バクラ、どんな水着なんだよ!?」
「ああ?」
 少しぼんやりして二日前のことを思い出していると、急に袖を引っ張られてバクラは意識がそちらへと向いた。日除け代わりの上着をつかんでいるのは、もちろん城之内だ。通された客間もクーラーが効いており、とても涼しい。これからまた外に出ることは正直気が進まず、備え付けられているベッドで昼寝をしたい欲求に駆られたが、そうもいかないだろう。
 仕方なくバクラは城之内の手を外させ、まずは上着を脱いだ。
「てめーこそ、どんなのだよ」
 答えれば確実に非難轟々だと分かっていたので、バクラは先にそう尋ねてみる。すると持っていた小さすぎるカバンをソファーへと投げた城之内は、いきなりガバッとTシャツを脱いでいた。
「これ!!」
「……まあ、そうだと思ってたけどよ」
 あれほどすぐ泳ぎたいと城之内が主張していたのは、既に水着を着ていたからだと察していた。さっさとスカートも脱ぎ、サンダルを履きかえれば城之内はもう準備万端だ。だがふと気になったバクラは尋ねてみる。
「てめー、着替えは持ってきてんのか?」
 学校にもそうして着込んできて、着替えを忘れたと嘆いていた城之内だ。キョトンとした顔をされたので、まさかまた忘れたのかとバクラは思いかけたが、自分の方が失念していただけだとすぐに悟る。
「着替えならこの屋敷にいっぱいあるけど?」
「……そういや、ここ、てめーのダンナの家だったな」
「ダンナじゃねえよっ、結婚してないっての!!」
 変なところを訂正してくる城之内だが、いずれそうなるだろうとバクラは勝手に思っている。まず海馬の方が離さないだろうし、城之内も離れたがらないだろう。互いに多忙すぎて時間が取れず、また遠慮してしまってますます会う時間が減っているらしいとはまだリングの中にいた頃から知っていたことだ。だがそれは決して関係が浅いということではなく、時間さえ取れればお泊りをしてしっかり深くまで繋がるような仲なのだ。そうでなくとも海馬はこんな屋敷に住んでいるくらいの金持ちなので、可愛い恋人の着替えくらい山のように準備しているのだろう。
 くだらない質問をしてしまったと、何故か落ち込むバクラに、水着になった城之内がまた近づいてくる。
「なあなあ、だから、バクラの水着って?」
「……。」
 ちなみに、城之内の水着には教科書くらいありそうな白い布で名前が書かれていた。要するに、学校の授業でも使っているスクール水着だ。豊満な胸はかなり強調されているが、それ以外は露出も低い。金銭的に苦しく、また恋人からの援助を潔しとしない城之内が自前で用意できる水着などこれしかないと分かっていたが、内心で少しだけ海馬に同情していた。
 だが、問題は自分の方だ。今も興味深そうに見つめてくる城之内の前で、カバンから出すのは少しばかり抵抗がある。
「……なんで着替え出してんの?」
 かといって、このまま黙っておくこともできない。仕方なくカバンから取り出した衣類に、城之内は首を傾げていた。
「着替えじゃねえよ、これが水着だ」
「へ?」
「水着というか、水着代わりだな。さっきも言っただろうが、オレサマはプールの授業に出る気がそもそもなかったんだよ。だから、学校の水着すら買ってねえ」
 市販の水着など、言わずもがなだ。
 先週の町営プールへのお誘いを断るときも、水着を持ってないことはいちいち言っていない。理由にしたところで、獏良がニコニコしながら用意してくれると知っているからだ。今日の計画も獏良の発案だったらしいので、当然のように買いに行こうと促されたが、バクラは頑なに断っておいた。
「ええーっ、なんだよそれ、そんな山でキャンプしてて川遊びして溺れる人みたいな格好で泳ぐのか!?」
「ここは山でもねえしキャンプもしてねえし川じゃない上にオレサマは泳げるから心配すんな」
「心配してんじゃねえよっ、オレもバクラの水着姿見たかったのに!!」
「なんでだよ、てめーが見ても楽しくねえだろうが……。」
 今着ているものよりは少し動きやすいTシャツと短パンだ。それらに着替えていると、城之内はまだ不満そうにしている。
「楽しい!! だってバクラすげースタイルいいからオレも見たかった!!」
「……いいから、さっさと行けよ。そもそも、ここに来るのもオレサマは乗り気じゃなかったんだよ、水着じゃなくてこの格好でというのは宿主サマにも納得させた参加条件だ」
 そう言ってみれば、城之内もぐっと言葉に詰まっている。あまりごねるようなら帰るという言外の声も聞こえたのだろう。しばらくはまだふくれっ面をしていたが、やがて大きくため息をつくと、気持ちを切り替えたようだ。
「まあ、仕方ないよなっ、来てくれただけで奇跡だし!!」
「そう思っとけ」
「じゃあバクラ、オレ、先に行ってくるな!!」
 水着になって部屋にいつまでも留まるという状況に、居心地の悪さを感じていたのだろう。そう宣言すると、城之内はテラスに続く全面窓を開け、一人で先に外へと出ていた。しばらくして水音がしたので、そのまま走って飛び込んだのかもしれない。
 そう思いながら、バクラは適当に着替えておく。髪をまとめようかと思ったが、積極的に水に入りたいわけではないのでやめておいた。なにより、この実体になって戻ってから獏良より短めに切ったので、まとめにくかったのだ。肩よりは長いのだが、後ろ姿でも区別がつくようになったと概ね好評である。
「……?」
 着替えることは着替えたので、面倒だがテラスへと向かいかけたところで、ふとテーブルに置かれている箱に気がついた。タオルなどの横に置かれているその大きくて薄い箱には、『城之内様用』と書かれている。どうやら城之内は全く気づかないままにプールに向かったようだが、本来海馬はこれを着せたかったのだろう。
 中身は水着だと確信し、どれだけ布地が少ないものなのかと好奇心に抗えずバクラは箱を開けてみる。
 だが予想とは違うが、ある意味正統派の水着が収まっているのを確認してから、そっと蓋を閉めておいた。
「……まあ、オレサマには関係ねえしな」
 どこのシンクロナイズド・スイミングの衣装だと思いながら、バクラはテラスへと出た。
 すると、むわっとした熱気に足が竦みそうになった。だがテラスの先には、瓢箪のような形をしたプールがあり、日の光にキラキラと反射する水面は見る分にはとても涼しげだ。その中に既に城之内は入っており、頭までぐっしょりと濡れてプールサイドに手をかけている。
「バ、バクラ……?」
「……?」
 その手前、プールサイドのタイルの上に、水着に着替えていたユーギが呆然としたようにこちらを見ていた。
 愕然とした表情には、やや首を傾げてしまう。どうして幽霊にでも会ったかのように顔を引き攣らせているのかと不思議に思ったが、プールの中でバシャバシャと水面を叩きながら城之内が叫んだ言葉でなんとなく察した。
「だから言っただろーっ、ユーギ!! バクラのヤツ、ほんっと、ひどいよな!!」
「そんなっ、どうして水着になってくれないんだバクラ!?」
「そうだな、その理由を一つずつ教えてやっから、てめーはそこのタイルを一つずつ下がれ」
「なにそれ、海馬ごっこ?」
「バクラ、是非教えてくれ!!」
「まず一つ、てめーがうざい」
 律儀にタイル一つ分下がったユーギは、そのまま後ろ向きにプールへと落ちていた。
 派手に上がった水しぶきに満足して、バクラはテラスに用意されている椅子の一つへと腰をおろす。
「……貴様、オレに何か恨みでもあるのか?」
 その近くには、やたら薄い書類を手にした海馬が同じように優雅に座っていた。だがその表情は優雅さには程遠く、かなり嫌そうに歪められている。どうやらデュエリスト・キングダムでの再現をさせたことが、相当お気に召さなかったらしい。それに、バクラは適当に用意されていた飲み物へ勝手に手を伸ばして返しておいた。
「そういうわけじゃねえよ、ただユーギがプールに落ちたら面白いだろうなって思っただけだ」
「……。」
 やはりこの女を雇うべきかと海馬がぶつぶつ悩んでいるが、バクラは気に留めることはない。プールへと目を向ければ、取り敢えず水着を着ている者同士で楽しもうと思ったのか、城之内とユーギはビーチボールで遊んでいる。いや、身長の関係からか、ユーギはほとんど顔面ブロックになっているようだが、楽しそうなのでいいのだろう。
 それをひとしきり眺めていたバクラは、ふと思い出して海馬へと尋ねていた。
「それより、社長サマ的にはどうなんだよ? バカ犬のあの水着は」
「……。」
「安心しろ、てめーが用意してた箱にはそもそも気がつかなかったようだからな」
 嫌がって着なかったのではない、そもそも気づかなかったので持参した水着を着ただけだ。
 海馬はそう都合よく解釈しているのだろう。実際のところは、城之内があの水着に気がついていれば一悶着あったに違いないので、殴られなくてよかったなというバクラの感想だ。だがバクラの言葉に書類から顔をあげ、プールではしゃぐ城之内をじっと眺めていた海馬は、やがて頷いていた。
「……あれは、あれで、いい」
「そういうものなのか」
 しみじみ呟く海馬に、スクール水着の良さを語られるのも嫌だったので、バクラは適当に流しておいた。シンプルだからこそ、体の線が強調されるように見えるのかもしれない。あるいは露出が少ないほど逆に興奮するタイプかとも思ったバクラは、ついでに指摘しておく。
「そういや、あの水着。どうせなら真紅眼の黒竜の方がいいんじゃねえのか」
「……。」
 箱を開けたとき、白の布地に白く輝くスパンコールで描かれた荘厳な青眼の白龍がガラス玉の青い目でこちらを睨んできており、バクラは一瞬バースト・ストリームを食らった気分になったものだ。
 バクラからの指摘に海馬はムッとした気配をさせるが、意外にも怒鳴り散らすようなことはない。
「……貴様の意見なら、参考にしよう」
「あ、ああ……?」
 海馬の中で、ユーギに対する傍若無人ぷり故に評価がうなぎのぼりになっていることなど知る由もないバクラは、素直な言葉にかなり面食らいつつも頷いておいた。
 すると、しばらく会話が途切れる。元々バクラは海馬と仲がいいわけでもないし、海馬はすすんで世間話をするタイプでもない。互いにプールを眺めていれば、やがて穏やかな風が通り過ぎる。
 こんな日が来るとは、思っていなかった。
 眺めている光景より、眺めているのが他人の体を間借りしているのではなく、自分自身のものであることがいまだに信じられない。
 そして、あれほど憎悪の対象だったアテムの魂とこんなふうに、と思ったとき、ふと海馬が口を開いていた。
「……実際のところ、貴様はどういうつもりなのだ。ユーギを弄んでいるだけなのか」
「……!?」
 プールまでは距離もあり、また遊んでいる二人が水音を立てているのでテラスの会話は声を張らないと聞こえないだろう。聞かせるつもりのない音量でそう尋ねてきた海馬に、バクラはかなり驚いた。
 まさか、海馬に尋ねられるとは思っていなかった。一瞬、そうであればひどいという非難かとも勘繰ったが、海馬に限ってそれはないだろう。弄んでいるのが事実だとしても、それが倫理的に許せないのではない。単に翻弄されたユーギが、こうして押しかけたりして迷惑をかけることを疎ましく思っているだけだと分かると、バクラも城之内に対してとは別の意味で身構える必要がないと警戒を解いた。
「どういうつもりでもねえよ、オレサマはずっと断ってんのにヤツが聞き入れねえだけだ」
 苦笑も交えてそう答えるが、海馬は怪訝そうだ。それに、仕方なくもう一言付け加えてやる。
「……大体、信じられるはずがねえだろ。てめーは直接見てねえ、あるいは全然思い出さねえから実感がねえんだろうけどよ、オレサマたちは本気で殺し合いをした敵同士なんだぜ?」
 そんな相手から、もう互いに一度死んで決着もついているのだから今度は愛し合おうと手を差し出され、あっさり信じる方がどうかしている。
 そう答えてみれば、何故か海馬は驚いたようにこちらを見つめてきている。この感想は海馬が最も賛同できると思っていたので、バクラもつられて驚いてしまう。だがやがて億劫そうにため息をついた海馬がぼやいたのは、バクラにしてみれば少し意味不明だった。
「……なんだ、貴様はまだその段階なのか」
「どういう意味だよ、それ?」
 当然かつて城之内と話した内容など知りえないバクラは怪訝そうにするが、海馬は半ば独り言のように続けている。
「ユーギはデュエルではしばしばトリッキーな手を使うが、基本は単純だ。よく言えば真っ直ぐ、ありていに言えばバカ正直だ」
「……。」
「そのうち、貴様もユーギの言葉が真実だとは分かるだろう。そうすると、貴様は怯えるのだろうな」
 まるで未来でも諳んじるかのように淡々と述べた海馬に、バクラはまたギュッと胸が痛くなった。
 二日前に杏子にも言われたが、少なくともユーギは騙しているようなことはないのだろう。だからこそちゃんと答えてほしいと頼まれたのだ。実を言えば、バクラもそうではないかとだいぶ傾いている。完全に信じるに至らないのは、元々の警戒感が半分と、信じそうになるとまさに怯えてしまうからだ。
 それがどういう種類の不安なのか、まだバクラにはよく分かってはいない。
 ただ、他人に指摘されたことで鼓動は嫌な具合に跳ね上がっており、かつてならば闇の力が発動しそうな勢いで心の中がぐちゃぐちゃに吹き荒れる。
「誰でも、意識的であれ無意識であれ、何かを拠りどころにしているものだ」
「……。」
「それがなくなるのは当然としても、意味が変わることも不安になるのは当然だろう」
「……てめーにも経験があるのか?」
「何度マインドクラッシュを食らったと思っている? まあそれは特殊だとしても、このオレですら、あの駄犬を好きなのだと認めるのは天地がひっくり返るくらいの動揺だったことは教えておいてやる」
 海馬の場合、城之内やバクラと違って、相手に告白されたわけではない。だが自分で気がついたというだけの違いであり、やはり既に定義づけていた城之内克也という存在を変更し直すということは、相当な葛藤を伴っていたのだ。
 そんなことを尊大に伝えてきた海馬に、バクラはなんとか平静を保って笑っておく。
「そりゃ親切に、どーも。でもいらねえアドバイスだな、オレサマは何も怯えてなんかねえよ」
 それに、海馬も軽く鼻を鳴らして笑っていた。
「フン、その強がりがいつまで続くか見物だなっ。まあ、オレとしては本心でも構わんが。貴様がどちらに転ぼうとも、ユーギが大人しくなればそれでいい」
「とことん自己中だよな、てめーは……。」
 やはり親切や正義感などではなく、どこまでも海馬の都合だったらしい。いや、実際に海馬はかなりの被害を受けているので正当な主張なのかもしれない。
 そう思い、また呆れたところで、ふとやけに静かなことに気がつく。
 先ほどから水音がしていない。海馬と共にプールへと視線を向けてみれば、ビーチボールで遊ぶことに飽きたらしい二人が、それぞれ違った表情でこちらを見ていた。
「海馬ぁっ、お前、恋人のオレのことは放っといて、なにバクラと楽しげに話してんだよ!!」
「なに言ってやがんだ、あのバカ犬は……。」
 城之内の方は、どこか拗ねたような顔だ。水遊びに混じらないことは納得しても、海馬が他の者と話し込んでいるのは嫌だったのだろう。プールの中から叫ばれたそんな物言いにバクラは呆れるが、横のユーギも似たようなことを考えているのだろうと察して憂鬱になる。
「海馬、海馬、お前仕事終わったのかよ!? だったら、ちょっとこっちに来て、オレのこと引っ張り上げてくれよ!!」
 だが特に何も言わないユーギと違い、城之内はそんなことを言うとバシャバシャと水面を叩いてから、両手を伸ばしていた。
 本当にプールから出たいのであれば、その手をプールサイドにつけばいい。少し離れた場所に梯子もついている。どう考えても口実でしかない誘いだが、ギシリと椅子を軋ませて立ち上がった海馬には魅力的だったようだ。
「……おい、念のためケータイとか持ってんなら置いていけよ」
 スラックスにシャツという格好は水に入るのに適していないが、濡れても乾かせばすむ。だが精密機械はまずいだろうとバクラはそう釘を刺しておくが、海馬は尊大に返すだけだ。
「駄犬に遅れを取ったりはせん」
「知らねえぞ、それで仕事にも使う大事なケータイが壊れたりしても」
「……まあ、万一のときは完全防水なので大丈夫だ」
 少しだけ不安になったのか、微妙に言い回しを変えてきた海馬だが、バクラが心配してやったのは水没だけではない。だがそこまで自信があるならお手並み拝見だとばかりにテラスで眺めていれば、やがて海馬はプールサイドに立っていた。そしてやや屈むようにして城之内へと手を伸ばしている。
「ほら?」
「海馬……うわっ!?」
 そして海馬の右手を城之内が両手で掴んだ途端、引っ張られるより先に海馬が思い切り持ち上げていた。
「ワハハハハーッ!! 凡骨の考えることなどっ、オレにはすべてお見通しだ!!」
 体格差もあり、更に海馬の筋力は常識の範囲外だ。軽々と片手一本で持ち上げられ、水中からザバッと浮き出ることになった城之内はかなり驚いている。
 だが、海馬が剛の者であれば、城之内は柔の者だ。
「バカッ、これも予想してたっての!!」
「フンッ、負け惜しみを……ぅぐっ!?」
「更にこう」
「ぐぁっ!?」
 片手で吊り上げられたまま、城之内は勢いをつけてまずは海馬の腹を蹴った。だがそれは攻撃というより、足場の確保だったのだろう。蹴られた衝撃でやや前屈みになった海馬の上体を駆け上がるようにして、肩まで足を乗せたところで、城之内は海馬の右腕に両足を絡ませるようにして肘に関節技を決めたのだ。
 さすがの海馬も痛みに反応し、体が揺れたところで城之内は自らの頭側、要するにプールの方へと身を揺らしてそのまま海馬ごと水中に没していた。
「……ぷはっ!! どうよ、海馬ぁっ!?」
「き、貴様ぁぁあああ……!!」
 仲良く沈んですぐに顔を出してきた城之内に、全身ずぶ濡れになった海馬は怒り狂っていた。
 だから言ったのにとバクラはテラスで優雅に眺める。いかに携帯電話が完全防水でも、水没前に物理的な衝撃を加えられれば壊れないとも限らないのだ。
 ちなみにプールの中に立ったまま、間近で海馬の脅威の腕力と城之内の流れるような関節技を目撃する羽目になったユーギは、やや呆然としている。城之内を讃えるようないつもの発言がない辺り、相当引いたか、ビビッたのだろう。
「なあ海馬っ、涼しいだろ!? 仕事終わったんなら遊ぼうぜ!!」
「この、凡骨が……!!」
 その横で、恋人を引きずり込むことができてご満悦な城之内は、はしゃぎながら海馬へと抱きついていた。相変わらず字面では怒っている海馬だが、すっかり怒気をなくしている。やはりスクール水着というのは何かしら性癖を煽るものらしい。そんな感想を深めていると、何故かずぶ濡れの海馬に睨まれていた。
「……?」
「城之内、せっかくならヤツとも遊んだらどうだ? オレとは違って、一応あれは水着代わりなのだろう?」
「おっ、海馬、たまにはいいこと言うな!!」
 完全な八つ当たりじゃねえかとバクラは思わず呟くが、海馬の心の狭さは先ほど実感したばかりだ。更には調子のいい城之内はあっさりその提案に乗っている。
 実を言えば、一応着替えたのは無理矢理プールに落とされることもあるだろうと予測していたためだ。だが簡単に餌食になるのは癪であるし、やはりテラスを出て直射日光が当たるプールに入るのは遠慮したい。どうしたものかと悩んでいるバクラに対し、目を輝かせている傍迷惑なカップルは、何故か矛先を変えていた。
「よしっ、じゃあユーギ、頑張れ!!」
「えっ、あ、城之内くん、オレが……!?」
「そもそも貴様が誘った女だろうっ、今なら水も滴るヒトデ男だぞ!!」
「そ、そうか、よし、それじゃあ……!!」
 城之内はともかく、海馬の応援は完全なる悪口だろう。だが根がバカ正直と言われるのがよく分かるほど、ユーギはあっさりと真に受けて片手を伸ばしてきていた。
「バクラッ、お前も来ないか!?」
「……。」
 おだてられやすさはそのままに、自信たっぷりに手を伸ばしてきたユーギを無視して、また泣かせたい衝動にも駆られる。
 だがそれだと、そのうち水から上がってきたカップルに抱え上げられて落とされそうだ。それは勘弁してほしいとため息をついたバクラは、仕方なく椅子から立ち上がってやる。
「バ、バクラ……?」
「なんだよ、てめーが呼んだんだろうが」
 そうして客間に戻ることもなく、プールサイドへと向かってやれば、何故かユーギが一番動揺していた。
 屋根の部分から出れば、肌を焼くような日光を感じた。熱気も増した気がするが、バクラはそのまま足を進め、プールサイドへと立つ。
「オレサマも、ちょっと水に入りたくなってきたんだよ」
「あ、ああ、そうなのか!! なら、この手を……!!」
「ユーギ、両手出せ」
 そして屈むようにしてからそう命令すれば、片手を差し出していたユーギは、迷うことなくもう一方の手も伸ばしてきていた。
 ユーギも、傍で見ている二人も、どんな無視の仕方をするのだろうと思っているのだろう。だが、バクラはユーギの両手をそのまま握る。
「えっ……!?」
「あれ、バクラ、ほんとに水に入んの?」
「貴様ではユーギを持ち上げることは難しいぞ?」
「……誰がそんな二番煎じをするかよ」
 やはり信用していなかったらしい海馬と城之内に呆れてみせてから、バクラはユーギと繋いでいる手を指を絡ませるようなしっかりしたものへと変える。それにユーギが動揺したのは分かったが、バクラは満面の笑みを浮かべて一歩踏み出していた。
「ほんっと、今日は、暑っちぃなあ」
「バク、ラ……うわあぁああっ!?」
 向かい合って両手を繋いだまま、高い方のプールサイドからバクラは足を伸ばした。
 最初に踏んだのはプールの底ではなく、ユーギの顔面だ。そのまま仰向けに倒すように水中へと踏み倒しながら飛び込めば、城之内は呆れ、海馬は絶賛してくれた。




「くそっ、暑い、重い、なんでオレサマがこんなことしなきゃいけねえんだよ……!!」
「……。」
 それから数時間後、ようやく日も落ちてきた夕方にバクラは重い荷物を背負いながらそうぼやいていた。
 実は、バクラがプールに入ってすぐ、ユーギが怪我をしてしまったのだ。
『バクラ、それ、は……!?』
『ハ?』
 ちなみに、顔を踏みながら水中に沈めたことは直接の原因ではない。ユーギが完全にプールの底にひっくり返った時点で手も足も外してやり、バクラは横へと避けてやった。相当驚き、苦しそうにしていたユーギだったが、仕打ちの前の手繋ぎにかなり気を良くしていたらしい。特に怒るようなこともなく、息を整えていたところで、急に愕然としていた。
 原因が分からず面食らったバクラの前で、急にふらついたユーギはプールサイドへと倒れこむ。その際に顔を打ち、足を捻った。鼻血は顔を打つ前から出ていたのではないかと城之内は言っていたが、真偽のほどは分からない。
「だいたい、オレサマの所為じゃねえだろ、王サマが童貞なのが原因じゃねえか……!!」
「……。」
 朦朧とする意識の中、ユーギがプールで指摘したのは、濡れたことで体の形にそってぴったりと張り付いていたTシャツだ。客間で着替えた際に、下着などは外している。透けない色を選んでいるが、シルエットが浮き彫りになるだけで相当な視覚的効果だったらしい。
 それに動揺し、足がもつれ、プールサイドで顔を打った挙句に足も捻った。
 どこからどう見てもユーギの自業自得だと思うのだが、何故か海馬と城之内にはバクラが非難された。ユーギが童貞なのは知っているのだから、もっと配慮すべきだという理屈だ。甚だ納得はいかなかったものの、さすがにユーギが憐れにもなったのでその場では適当に頷いてやっておいたのがいけなかったらしい。
「ああ、くそ、暑い、重い……!!」
「……。」
 鼻血が出たことで軽い貧血を起こし、そもそも今日が楽しみであまり眠れず寝不足だったらしいユーギは、足を捻った痛みにも相当凹んでいた。
 すっかり忘れていたのだが、ユーギは一度凹むとかなりしつこい。なかなか立ち直れない。デュエルなどで次の対戦が迫れば強制的に意識も切り替えられるようなのだが、逆を言えばそういう外部的な要因がなければいつまでも引き摺るタイプだ。
 海馬邸で着替えてから手当てもしてもらい、やたら高級な菓子を頬張っていても落ち込んだままだった。最初はいろいろと慰めていた城之内も、やがてそっとしておいた方がいいと察したのか、あるいは単に飽きたのか、海馬とじゃれることに夢中になっていく。海馬は最初こそ無視していたが、やがて最大のライバルと認めた男がいつまでもよく分からない理由で落ち込んでいるのが苛立ったらしく、突然叫びだす。
『ええいっ、いつまでも鬱陶しく落ち込むだけなら帰れ!! そこの加害者が連れて行け!!』
 言われなくとも、そろそろ辞する時間ではあった。城之内は一緒に夕飯もと申し出てくれていたが、あまり長居して邪魔をしないようにと、獏良によく言い聞かせられていたのだ。そのため帰ることに不満はなかったが、急に城之内がポンと手を叩く。
『ああ、バクラが連れて帰ればいいんじゃね?』
『だからっ、そこの加害者が連れ帰れと……!!』
『だって、ユーギ歩けねえし。バクラがそこは責任持ってユーギの家まで送り届けてやれよ』
 ユーギが居候している遊戯の家は、海馬邸から比較的近い。だが歩いて十五分の距離は、足首を捻っている同行者に合わせると何分になるのだろう。日が落ちかけとはいえ、外はまだ暑い。そんなに長く歩くのは嫌だし、なにより怪我人を歩かせるなと思っていたバクラは、城之内の提案が、文字通り連れて帰ることだと分かったときには本当に愕然とした。
「車の一つも出してくれりゃあ、それでいいじゃねえか……!!」
「……。」
「なんで、オレサマが……よりによって、こんな、童貞王なんざを……!!」
 ぶつぶつと文句を言っても疲れるだけだと分かっていても、バクラはそう愚痴らずにはいられなかった。
 あと一つ角を曲がれば、ようやく亀のゲーム屋が見えてくる。随分長い道のりで、海馬邸でシャワーも借りたのにもう汗だくだ。羽織っている長袖の上着はもうぴったりと肌にはりついており、苛立ちが頂点に増したバクラは思わず後ろへと怒鳴る。
「おいっ、てめー、なんとか言ったらどうなんだよ!?」
 フードをかぶっているので、そうしても顔を拝むことはできない。だが海馬邸からずっとバクラに負ぶわれたままのユーギの声は、相変わらず覇気がなかった。
「……すまない。足が治ったら、必ずお礼に背負い返してやるから」
「そういうこと言ってんじゃねえだろうが、王サマよぉ……!!」
 足を怪我して歩きづらい人間を、負ぶって移動することはあるだろう。だが普通に歩いても十五分かかる距離であれば、他の手段を考えてもよさそうだ。いくら体格はバクラの方がよくても、やはり女だと筋力の差もある。鍛えていないので仕方ないと分かっていても、無駄な負けず嫌いが仇となり、バクラはつい運べると豪語してしまった。
 素直に負ぶわれるユーギもどうかと思ったのだが、あるいは身体的な接触を期待してのことかもしれない。胸を揉まれるくらいは覚悟していたが、実際には本当に落ち込んでいるだけのようで、肩にしがみついて以降はまともに会話も成立しなかった。
 それがまた腹立たしさを助長させたが、なんとかあと少しというところまで進めた。だが遂に我慢の限界を迎える。
「バクラ?……うわっ!?」
「……ユーギ、てめー、いい加減にしろよ」
「あ、ああ……?」
 足を抱え込むようにしていた手を外し、完全に体を起こせば背後でユーギがドサリと落ちる。アスファルトの上であるが、さほど高さはないので怪我はしていないだろう。
 ゆっくりと振り返れば、ユーギは面食らったように見上げてきている。やはり何も分かっていなさそうな顔をもう一度踏んでやりたい衝動に抗いながら、バクラは初めて尋ねていた。
「てめー、何をそんなに拗ねてんだよ」
「……。」
 海馬邸でも、城之内と海馬は幾度となく尋ねていた。それに対し、ユーギの答えは同じだ。
「……拗ねているわけじゃない。ただ、ちょっと落ち込んでしまっただけだ」
 微妙な心情の違いを指摘するだけで、詳しいことは決して言わないのだ。だからこそ、城之内はそっとしておいたのだろうし、海馬は苛立って放り出そうとしたのだろう。怪我をしたのが原因としても、どうしてそこまで落ち込むのか、さっぱり理解できないのはバクラも同じだ。道路に座り込んだまま、ユーギは目を逸らしている。やはり話す気がないなら顔を踏みつけてから去ってやろうと考えていたバクラに、その声が届く。
「バクラ、オレは、本当にお前の水着姿を楽しみにしてたんだ」
「……ハ?」
 どうやら落ち込んでいる原因を説明してくれる気になったらしいとは分かるのだが、切り出された内容はあんまりだ。
「それが叶わぬ夢と知ったときは、絶望した」
「……打たれ弱すぎだろ、それはさすがに」
「だが!! ……お前から手を繋いできてくれて、オレは、本当に嬉しくて!!」
「てめーの顔を踏むためだったけどな」
「しかもっ、濡れた服が張り付く様は、水着とはまた違った魅力があると、オレは知ったんだ!!」
「往来でなに叫んでんだよ、この童貞王が」
「それなのに!! ……オレは、それをたっぷり堪能する間もなく、プールから上がる羽目になってしまった」
 それが本当に情けないと項垂れたユーギを、バクラはしばらく無言で見下ろす。
 理由は分かった。要するに、自分の不注意で怪我をしてしまい、そのためにバクラの様子をたっぷりじっくり観察できなかったことが不甲斐ないということだ。
 一言で感想を述べるならば、こんなにもバカだっただろうか、というものだ。
 照れや気恥ずかしさは、さすがにこの二ヶ月で不本意ながらだいぶ慣れてしまっている。そのため、違和感がある説明ではないことがまた違和感で、馬鹿馬鹿しいと怒り狂うより先に、バクラは呆れてしまった。
「……なあユーギ、ほんとのところはどうなんだよ?」
「なんのことだ?」
 ふざけるなと蹴り飛ばしても、きっとユーギは変わらない。杏子の言葉を借りれば、負けたと思うまで戦い続けてしまうのだろう。
 幸いにして、往来ではあるもののさほど人通りが多い場所でもない。相変わらず道路に座り込んでいる格好になるユーギの前に、バクラは膝を突くようにして姿勢を落とした。
「なんで、オレサマなんだ? 好きだの愛してるだのは訊いてねえ、他にこうしてオレサマを選ぶ根拠もあったんだろうが?」
「……。」
 そんなことはない、オレはただバクラを愛しているだけだ。
 もしこの場に、海馬でも、城之内でも、他の人間がいればユーギは威勢よく宣言してくれただろう。だが、現実には複雑そうな顔で黙り込んだ。
 海馬はまだ信じきれていないのかと呆れていたが、結局はそれが正しいと知っている。
 ユーギは、ただ慕情だけで自分を口説いているわけではない。
 それがはっきりと分かって安堵もするのに、胸がまた痛くなるのは何故なのだろう。
「……バクラ、オレたちがこうして戻ってこれたのは、どうしてだと思っている?」
 やがて落ち着いた声で尋ねてきたユーギに、軽く肩を竦めてみせる。
「さあな、オレサマにはさっぱり分かんねえよ。てめーは?」
「……オレにも、よく分からない。つまり、始まりが分からないものは、終わりも分からないということだ」
 もしこれが『普通の』人間であれば、始まりは出産だ。終わりは、肉体が生命活動を維持できなくなっての死だ。だが始まり方がそもそも不可解なこの実体では、どうすれば終わるのかもよく分からない。怪我をしたり、重い病気になったりという、分かりやすい条件が当てはまるのかも謎だ。いっそ、始まりと同じように、理由が分からないまま突然消えていなくなるというのが、最も考えられることではあった。
 頭では分かっていたが、少しだけ体が震えた。そのことが、バクラには鬱陶しい。
 戻った翌日、仲間内が集められた教室でユーギにも言ったように、今のこれはボーナスステージのようなものだと思っている。せいぜいラッキーだと気楽に構えるしかないのに、まるで失いたくないと怯えるかのような体の反応を疎ましく思ったとき、膝の少し上に置いていた手に体温が触れた。
「……!?」
「だから、まだ存在していられる限りは、相棒や、みんなと、できるだけ一緒にいたいと思っている」
「ああ……?」
「……それと同時に、未来に渡って何かを残すような、特別に深い関係を持つのは相手に対して失礼だとも、オレは思ってるんだ」
 道路に座るユーギに視線を合わせるため、しゃがみこんでいたバクラの手に、ユーギは上からそっと手を重ねていた。先ほど震えてしまったのを、見抜かれていたのだろう。だがそれを情けなく思うより、続けられたユーギの言葉にバクラは目を瞠っていた。
「……真崎のこと、知ってたのか」
「……。」
 友人ならば共に過ごしたい、だが恋人や妻となればこんな不安定さは不誠実でしかないだろう。
 だから、応じるつもりはない。ちゃんとした生を受けた相手と、恋愛をするつもりもない。
 ユーギからの決意を正確に受け取ったバクラは、妙に納得した。てっきり知らないと思っていたが、どうやら杏子の気持ちには薄々感づいていたようだ。
 正面から断るのは、そもそも告白もされていないのに失礼だと考えたのだろう。だからこそ、杏子が諦めてくれるように仕向けた。その相手として、元々敵で、相容れることは絶対になく、いくら愛を叫ぼうが応じられる心配もない同等に不安定な存在が、バクラだったということだ。
「まあ、それならそれでいいけどよ。真崎もだいぶ諦めはついてるみてえだし、そろそろこんなことも止めるんだな」
 いまだ重ねられたままの手を取り、バクラは立ち上がるついでにユーギも道路から起こしておく。片足が上手く動かず、ふらついてはいるが、立っていられないということはない。少し先の角を曲がればもう家が見えるし、ゆっくりとであれば歩けない距離でもないだろう。あるいは先に自分だけが遊戯が待つ家に行き、誰か助けられる者を呼んできてやるかと歩き始めたところで、ギュッと手を握られた。
「……あ?」
「どうして止めなきゃいけないんだ? オレはまだ、お前から快い返事をもらっていない」
「ユーギ……?」
 道路から引っ張り上げる際に手を掴みはしたが、もちろんすぐに離してバクラは先に進むつもりだった。
 それを引き止められ、やや驚いて振り返れば、ユーギはひどく深刻な顔をしている。少し不機嫌そうにも見えるが、闘志というよりはどこか傷ついている色だ。
「いや、だから、真崎とか、まあ今後お節介を焼くような連中が出てこないように牽制するために、オレサマを好きだとか寝言ほざいてたんだろ? それはだいぶ浸透しただろうし、もういいんじゃねえのかって言ってんだよ」
 杏子だけを労わるのであれば、そっと呼び出して告げればよかった。だがたとえ杏子が分かってくれても、いつもつるんでいる連中から、やがて彼女を作らないのかと親切から勧められても困る。
 そういう予防線として、全員の前であれだけ愛を叫んで見せたのだろうとバクラは分かっている。
 そして、それはもう仲間内にはしっかりと広まった。今後は、多少不本意だろうが、ふられてもまだバクラが好きという設定を貫けば、ユーギの中での決意は一つ保たれるはずだ。
「そういう目的があったことは否定しない。だが、大部分はそうじゃない。そちらが達成されていないのに、諦めるわけにはいかないだろう」
「ユーギ……?」
 打算が微塵もなかったわけではない。そこまで認めてしまうのが、バカ正直と評される所以なのだろう。
 だがこのとき、バクラは嫌な予感がしていた。牽制以外の大部分の目的とやらが、分からなかったからだ。
 いや、真剣なユーギの目を見ていれば、本当は分かっていて信じたくないだけだ。
 いまだ手を離さず、目を逸らすこともないユーギに、海馬に指摘された恐怖がまたせりあがってくる。それがこわくてつい顔を背けたが、片足で一歩踏み出し、踵を上げたユーギに唇を押し当てられてしまった。
「んっ……!?」
「……オレは、お前だから好きだと言ったんだ。たとえ同等の存在が近くにいたとしても、お前でなければこんなことはしない。口説きたいとは思わない」
「ユーギ……?」
「オレは、お前に、惚れている。いい加減、この気持ちだけは分かってくれ、バクラ」
 真っ直ぐすぎる瞳に、嘘は見えなかった。
 理屈でも、本能でも、ユーギの言葉は本心だとバクラの中でも何かが叫んでいる。
 だが、まだ受け入れるのはこわかった。憎悪も、復讐も、ちゃんと記憶に残っている。それが実感という意味で色褪せていくような喪失感に怯え、バクラはまだ一言返すのが精一杯だった。
「……考えとく」
「相変わらず、つれないな。まあ完全に拒絶されなかっただけマシだと思うべきだよな。バクラ、覚悟をしとけよ?」
 そういえば、またキスされてしまった。そもそも付き合ってもいないのに、こういうことをしてくるのはどうなのだ。そう遅ればせながら怪訝に思い始めているバクラに、ようやく調子を取り戻したユーギは自信たっぷりに告げる。
「オレは、必ずお前を落としてみせるぜっ」
「……。」
 落ちるかどうかならば、とっくに落とされている。ずっと支えにしてきた憎悪の対象としてのユーギは、瓦解しているからだ。
 ただ、そこからどう這い上がるのか、決めかねているのが現状だ。
 そのままずるずると闇に溶け込むか、あるいは他の支えを用意するか。
「……せいぜい、お手並み拝見させてもらいますかねえ」
 一番こわい選択肢は、瓦解したはずの支えが新たな意味を得て伸ばしてきた手を取ることだ。
 本物なのか、信じていいのか、まずはそこで惑う。更に信じられたとしても、取ったときにはこれまで漂っていた世界が一変すると知っているので、怖気づいてしまう。
 それを知られたくなくて強がって返せば、いまだ片手は握ったままのユーギはしっかりと頷いていた。
「ああ、見ていてくれ、バクラ。見てさえいてくれれば、オレがお前に本気だというのは必ず伝わるはずだからな」
「……。」
「ところで、足が痛いのであと少し運んでくれないか」
 どこまでがハッタリなのか、あるいはユーギは本当に確信があるのかもしれない。
 自信に満ち溢れた言葉に、一瞬ざわりと胸の奥が震えたが、恐怖とはまた違う色である気がした。それを自分の中で分析する前に、さらりと続けられた言葉で一気に肩の力が抜け、バクラはため息をつく。
「……腕回せ」
「なんだ、もう背負ってくれないのか」
「てめーよぉ、一応オレサマは好きな女なんだろ? それに負ぶわれて、家に帰って、情けなくはならねえのか?」
「怪我をしているのだから仕方ないだろう? それに、肩を担がれるより密着できるからオレは嬉しいぜ」
「……暑いし重いからもうこれで我慢しとけ」
 怪我をしている側の腕を肩に回させて担ぎ、バクラはようやく歩き始める。
 三千年前なら、考えられもしなかったことだ。
 だが、今は三千年前ではない。
「バクラ、暑いならその上着を脱いだらどうだ」
「てめー、このやりとり何回したと思ってんだ? だから、オレサマは日に焼けると……。」
「もうだいぶ日は落ちているし、脱いでくれた方が素肌に触れる部分が多くなってオレが愉しい」
「……。」
 どうやらすっかり気力が回復してしまっているらしいユーギに、バクラはもう無言で足を進めた。
 あの角を曲がれば、すぐに遊戯の家だ。こうして密着するのも、あとわずかの間だけである。
 遠い中東の乾いた大地と違い、ここは湿度も高く蒸し暑い。そんな中では他人の体温など、鬱陶しさしかないはずなのに、少しだけ名残惜しいと思ってしまった自分がバクラはこわかった。




 今はまだ、答えを出せそうにない。
 それでも、ユーギに触れられるたびに募っていく恐怖のその先を、確かめてみるのもいいかもしれないと思えた夏の終わりだった。







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王バクは、好きなんだけど、成立するにはいろいろ解消しないといけない問題がある気がして、なんだか長くなってしまう・・・
でも、成立さえしてしまえば!!!
凄く愉しいカップルになれると信じてるので、そこまで至らなかったのが、残念だ・・・
海城も珍しくまともだった、と、信じたい今日この頃。

ロボっぽい何か