■リップクリーム
冬は乾燥する。
だから、対策をする。
何も不自然な理屈はないのに、部活が終わって着替えた後、身だしなみを整える一環として取り出したものを塗っていると、強烈な視線を感じた。
「……。」
「……。」
「……なんですか、先輩」
片方はもう慣れたものだ。どうせ唇に視線が引き寄せられて、変に動揺しただけだろう。いつものことなので、無視していい。
だが明らかに青根とは違う理由で、かなりのしかめ面で睨んでくる方には念のため尋ねてみた。スティックタイプのリップクリームを塗り終え、キャップをしめてから向き直る。すると鎌先はますます険しい顔をした。背を向ける格好になった青根は、息を飲む声だけが聞こえた。
最近少し調子に乗りすぎなので、拗ねても放置しておく。試合や、部活に関することならば、実力主義なのでいくらでも暴れてくれていい。だがそれ以外のところでひっそりと続いている関係において、このところ青根がやたら図々しい。甘やかすと果てしなく甘えてくるともう知ったので、また躾けなければと思っていたところでもあり、どうせ面白くないことを言われると分かっていても青根ではなく鎌先へと向いた。
すると案の定顔をしかめていた鎌先だが、いきなり声を荒げることはない。淡々と口を開かれた方がより不気味だ。
「……オレは、男がそういうのを使うのは否定派だ」
「そうですか。まあ人それぞれっスからね、いつも騒がしい鎌先さんは唇とか乾燥しなさそうだし」
「男が使うと、見ていてなんだか気持ち悪い」
「だったら見てないでくださいよ、としか」
「だが、お前は似合ってる気がした」
「……はあ、それはどうも」
「だから余計に気持ち悪いからやめろって言ってんだよっ、二口!!」
大層な言いがかりだ、さっぱり意味が分からない。
ようやく怒鳴った鎌先に呆れた外国人のジャスチャーをしてみれば、余計に怒鳴られた。他の部員たちも大半が着替え終わっており、暴れだした鎌先をやや遠巻きにしている。だが部室を使えるような部員は、もう慣れたものだ。ひたすら自らに飛び火しないように、距離は保ちつつ、面白がるように眺めている。
鎌先の言い分も、分からないわけではない。やはり口紅を塗る仕草が似ているので、男が使うのを見ると違和感があるのだろう。ただ、自分は気にならないし、実際に乾燥で唇が切れたりした方が嫌だ。中学の頃から使っているので冬場はこれがないと厳しいと思ったとき、ふと気がついた。
「……あれ? 鎌先さん、唇切れてません?」
「あ? ……ああ、そうかも」
乾燥ならば唇の筋にそって縦に割れることが多いが、鎌先は横に少しだけ裂けている。恐らく、歯で噛み締めてしまう癖があるのだろう。その場合、季節に関係なく切れてしまうし、冬場は乾燥と相俟ってもっとひどくなるのではないか。自分としては純粋な親切で、持っていたリップクリームを差し出してみた。
「使います?」
だがその途端、また鎌先には怒鳴られた。
「使うわけねえだろっ、バカか!! おめーと間接キスとか!! 死ね!!」
「そこまで言わなくてもというか、鎌先さんていちいち小学生みたいですよね」
「うるせーバカ!!」
罵声がひどくなるほど、何故か子供じみていくので傷つくことはない。ただ、単純に鎌先の精神年齢的なものが心配になった。それでも、他人のリップクリームを借りることに抵抗があるのは分かるし、そもそも鎌先は使用すら否定派だ。痛そうなのは気になるが、強要するつもりもない。
純粋な厚意だったリップクリームは引っ込め、カバンにしまおうとしたところでガタッとベンチが鳴る。
「……。」
「……なんだよ、お前は使うか?」
部室には壁に沿うようにロッカーや用具入れが配置されており、中央に長いベンチがある。自分はそこに腰を下ろしていたのたが、跨ぐようにしていきなり隣に座ってきたのは、予想どおり青根だった。鎌先との会話が思ったより長くて、拗ねるのも限界がきたらしい。傍から見れば殺意でも抱いているのではないかと思うほど鋭い眼光で睨んでくるが、内心では子供じみた嫉妬しかない。
もっと、構え。自分に、構え。
そう訴えてくる瞳に呆れて尋ねてみれば、大きく首を縦に振られた。
そもそも、鎌先よりずっと唇を噛む癖があるのは青根だ。おかげで、いつも少し荒れている。だがもうそれが普通になっているようで、これまで痛がったりしたことはない。それが、ここにきてリップクリームを貸してくれと手を差し出すのは呆れるほどの焼餅でしかなくて、苦笑して渡しかけたが、わざとらしくハッと手を止めた。
「……?」
「いや、でも青根に貸したら、また男がそんなもの使うなんてって鎌先さんに怒られそうだよな」
「なんだ、どうした、二口いきなり物分りがいいじゃないか」
「だから、オレが塗ってやるな?」
「……!!」
「やめろ限界マックスに気持ち悪い!!」
そう暴れると思って、わざとキャップを外して青根に向けてみれば、鎌先は頭を抱えてしゃがみこんだ。
止めたくても、不愉快な方向の場合は胸倉を掴んできたりしない。これは一つ学習したと頷いたところで、青根がじっとこちらを期待の目で見ていることに気がついた。
どうやら、青根には鎌先を一緒にからかうという高度なことは無理らしい。言葉を額面どおりに受け取って、塗ってもらうことを待っている。
それには少し困ってしまった。リップクリームを塗ってやる行為自体には何の抵抗もないが、実行すれば鎌先の暴れ方がさすがにこちらに来ないとも限らない。それはそれで面倒くさいと悩んでいると、いつも頼りになるキャプテンが軽く手を叩いて割って入ってくれた。
「はいはいっ、そこまで。鎌ちは悩みすぎ、二口はからかいすぎ」
「そんなっ、オレは本当に……!!」
「はあ、すいません」
「おめーオレをからかってただけなのか!? やっぱ死ね!!」
「だからさ、これで解決にしない?」
ただ、厳密な部活中以外では、茂庭の仲裁はえてして騒動を大きくする気がする。このときも、穏やかに差し出したのはまだ包装された小さなチューブだ。一見すると、歯磨き粉や洗顔料の旅行用サイズや試供品にも見える。だがタイプが違うだけで、それもまたれっきとしたリップクリームだった。
「……?」
「……キャプテン、それ」
「実は買ったばかりのなくしたと思って、新しいのまた買ったんだよね。そしたら、使いかけのが出てきて、もったいなかったなって思ってたところなんだ。鎌ちはスティックタイプは嫌みたいだから、これ、あげようか?」
「いらねえ!!」
「じゃあ青根いる?」
「……。」
茂庭こそ、本当に全く混じり気のない親切心からだろう。だが、傍迷惑すぎた。案の定、最初は何か分からなかったらしい鎌先も、ようやく形が違うリップクリームだと察して盛大に拒否した。ここまでくると、何故そんなに嫌がるのか、不思議になってくる。過去にスティック糊と間違えていつまでも貼れずにめそめそ泣いたトラウマでもあるのだろうか。
理由はどうあれ、鎌先に断られたので、茂庭は当然のように青根にふってきた。
青根は、決して唇の荒れを気にしていたり、リップクリームを使ってみたかったわけではない。だが傍からはそう見えただろうし、何より青根は先輩に気遣われるのを非常に喜ぶ。大きく頷いた後、差し出した手にまだ開けていないチューブ型のリップクリームを乗せられ、おっかなびっくりしていた。
「使い方は、二口が教えてあげてくれよな?」
「なんでオレが……まあ、いいですけど、というか、使い方ってほど大袈裟な……。」
「小指では塗るなよ!?」
「……!?」
「……不可解すぎて青根がびっくりするから、端的すぎる命令はやめてもらえますかね」
「そういう柔らかいタイプのを直接塗るのもスティックと一緒で気持ち悪いがっ、いちいち小指で取って塗るのはマジで紅引いてるみたいで一番気持ち悪いから絶対するなよっ、青根!?」
「……!!」
「よし、解散!!」
呆れ半分の指摘に、何故か律儀に鎌先が詳しく繰り返せば、たぶん内容は理解していないが勢いに押されて青根は何度も頷いていた。それに気を良くして、あるいはこれ以上リップクリームの話を長引かせたくなくて、鎌先はそう宣言して床に置いていた荷物を肩に掛ける。
部活が終わってから、もう随分時間も経ってしまった。そろそろ帰ることには賛成だ。ずっと手にしたままだったスティックタイプのリップクリームを今度こそカバンに戻し、先にベンチから立ち上がる。
「ほら、帰るぞ」
「……。」
まだ座ったままの青根に促せば、不満そうに見上げられた。
構われ足りないと、言葉以外が雄弁に語っている。
ただ、すぐに手元のチューブ型のリップクリームに視線を落とし、思案するような表情を見せた。
「……。」
「……。」
このまま部室でねばっても、鍵を持っているのは茂庭を中心に二年生の数人だけなので、どうせ追い出されるだけだ。帰るしか選択肢がないのであれば、しょうがない。
だが外に出れば、多少寒くても二人きりになれる可能性が比較的高い。差し引きするまでもなく、そちらの方が断然いいとやっと気がついたらしい青根がリップクリームをギュッと握り締めたところで、もう一度同じ声をかけた。
「ほら、帰るぞ?」
「……。」
今度は大きく頷いて、すぐにベンチから立ち上がるとロッカーに突っ込んでいたカバンを取りに行った。分かりやすい反応に呆れつつも、先にドアへと向かえば茂庭と鎌先が待ってくれている。
「ほんと、青根って二口には懐いてるよなー」
「……あれは、懐いているというか」
「もう通訳じゃなくて、飼い主って感じだな」
「……いや、そう褒めてもらえるほど、躾はできてないっていうか」
他の部員は、もう帰ったか、部室の外に出ているらしい。最後になった青根が慌てて荷物を抱えてドアまで来れば、茂庭が照明と申し訳程度の暖房を消して、部室へと鍵を掛けた。
今日も、これで部活は終わりだ。
だが青根との時間は、もう少しだけ続くことは、自分にもちゃんと分かっていた。
部活の後に、全員で食事に行ったり、スポーツ店などに向かう用事がなければ、基本的には校門のところで集団からは離れる。帰り道が一緒の方向の部員も何人かいるのだが、レギュラーになるまでは他の学年とそこまで親しくなかったし、同じ学年の部員は遠慮していた。
二口にではない、青根に対してだ。怖かったとも言う。ともかく、気遣いであれ、敬遠であれ、門を出れば二人になる。なんとなく続いているこの習慣を、あからさまに喜んでいるのは青根だ。二人きりになって最初の信号を渡り、先輩たちの姿が見えなくなってから、急に雰囲気が弾んだ。
「……でもよ、お前、それほんとに痛くないの」
「……?」
「唇。わりとよく切れてるだろ」
まさに懐きたがっている意志は痛いくらいに感じたが、敢えて無視して二口は会話を続けた。
まだ季節としては秋だが、日が暮れると相当気温が下がる。手袋やマフラーといった防寒用品がないと、少しつらい。吐く息の白さにそう思う。朝も早朝練習に向かう時間は日が出ておらず、やはり寒い。まだ早いと考えていたが、そろそろ本格的に冬の準備をした方がいいのかもしれない。
そんな二口の横で、青根は実に平気そうだ。真冬でも、マフラーなどがいらない人種なのかもしれない。今も唇の噛み癖を指摘すれば、不思議そうな顔をされた。やはり、もう癖になっていて痛みも麻痺しているようだ。
本人はそれでいいかもしれないが、こちらは困る。多少は痛い。なにより、痛いのではないかと気になってしまうことは事実だったので、いい機会だと手を差し出した。
「……!!」
「バカッ、繋げって意味じゃねえよ、つかこんな街中で平気で繋いでくんなっ」
「……。」
「拗ねるな、面倒くさい。そうじゃなくて、キャプテンにもらったの、寄越せって言ってんだよ」
「……?」
冷たくなりかけていた手に、いきなり青根の大きな手が重ねられて、その熱に驚いた。やはり体温は普通でも高いらしい。知っていたつもりだが、改めて驚いたのがなんだか悔しくて、少し強めにはたいて拒否すればまた唇を噛まれた。
つくづく、躾がなっていない。ただでさえ身長で目立つのに、二人でいれば更に人目を引く。外では控えろと常々言い聞かせているが、青根はすぐ触れたがる。いつまでも理性的に拒めるとは限らないので、早く自制できるようになってほしいと二口はいつも願っていた。ただ、拗ねても青根は気持ちの切り替えが早く、あまり引き摺らないのだけは感心する。今も話題を変えればすぐにそちらに意識が向いたようだ。
「……ああ、これ結構高いやつだよな。お前、明日にでもキャプテンに礼言っとけよ」
「……!?」
メーカーにもよるが、大抵の場合はソフトなタイプが高いものだ。青根から受け取ったリップクリームの包装を剥がしながら、二口はそう言っておく。街灯でなんとか読み取ったロゴは、二口も買ってみようかと手にとって、値段でやめたものだった。
高い分、もちろん効果はあるのだろう。逆を言えば、それだけ茂庭は唇の乾燥が深刻なのだろうか。だが茂庭には唇が荒れているという印象はない。このリップクリームの効果かもしれないし、あんなタイミングで出してきたのでいつか噛み癖があるチームのミドルブロッカーたちにあげたいと準備していたのかもしれない。そういう気遣いはできるキャプテンだ。さり気なさすぎて、どちらなのか判断は難しい。
「キャプテンが言ってただろ、使い方教えてやれって」
「……。」
「まあ教えるってほどのことじゃないけど、一応はキャプテンに約束したし、ほら、あっちに行くぞ」
「……!!」
進む先として示したのは、帰路から少し外れた公園だ。帰り道にあるいくつかの穴場の一つで、幸い人影など全くない。薄暗い公園だが、通い慣れているので不気味さを感じることもない。他の場所より、人目にはつかないが街灯が近く、明るいのが利点だ。今日も使えそうでよかったと思いながら先を進む二口を、青根がはしゃぐようについてくるのがよく分かる。
大方、期待しているのだろう。だが外でするのは、もう嫌だ。服は汚れるし、後始末に困る。何よりもう寒い。完全にその気になって、いつもの場所に辿り着いたところで後ろから回されそうになった腕を素早く避けた。
「……!?」
「だーかーらっ、もう外ではしないって言っただろ」
「……。」
「こればっかりは、拗ねても無駄だからな。だったらここに何しに来たって、これだよ、これ、使い方教えるって言ったばかりじゃねえか」
明かりがあるので不満そうな顔をはっきりと拝ませてくる青根に、二口は茂庭からもらったリップクリームをビシッと突きつけた。一応、青根の動きが止まった。どこまでも部活に重きを置いており、特に今のキャプテンである茂庭はかなり青根に配慮してくれるので、それこそまともな意味で懐いている。
そのキャプテンがくれて、しかも使い方を教えてもらえと言ったのだ。
欲求を律儀さでなんとか抑えている様子に、よしよしと内心で褒めてやりつつ、二口はまずキャップをしたままで自分の口元に寄せた。
「鎌先さんが言ってた、『直接塗る』ってのは、こういうのだ。クリームを出して、そのまま塗る。鎌先さんが気持ち悪がるからってのを除いても、お前うまく塗れそうにないし、これはやめとけ」
「……。」
青根が何度も頷いたところで、二口はキャップを外す。そしてチューブから少しだけ中身を出し、クリームがどういうものかを見せた。
「で、『小指で塗る』ってのは、このクリームを小指ですくって唇に塗りつけるって仕草だ。これはオレも、男はどうかと思うし、やめとけ」
「……?」
「いや、お前じゃなかったとしても、男がこういう仕草してたら、変だろ?」
「……!?」
まさに紅を引く仕草だが、やや古風だ。鎌先の観点は、幼いのかその逆なのか、たまによく分からない。
ただ、青根にはいまいち分からなかったようなので、二口は小指ですくう仕草だけをして、自分の唇に触れさせてみた。すると、青根は驚いたように目を見開く。どうやら説得力は皆無にしてしまったらしい。甚だ不本意でも、青根がむしろ興奮したことは理解したので、二口はため息をついて念を押した。
「だから、お前が、だよ」
「……!!」
「お前は、やるな。いいな?」
「……。」
どうやら脳内でやっと自分がする仕草として認識できたらしい。
それは、嫌だ。
あからさまに険しくなった顔で、青根は大きく頷いた。だがすぐにまた首を傾げる。ではどうやって塗ればいいのか、疑問になったのだろう。
「小指がダメなら、他の指で塗ればいいんだよ。まあ、普通は人差し指だろうな」
「……。」
なるほどと、青根も頷いている。どの指でもいいだろうが、大抵の人間は人差し指が一番器用だろうし、青根もそうだろう。下手にどれでもいいと言えばまた悩まれてしまうので、どうでもいいことは、こうして決めておいてやる。
先ほどは少ししか出さなかったチューブを、二口は再びぐっと押す。すると思ったより柔らかくて、かなり大量にクリームが出てしまった。
「あっ、やべ、出しすぎた。……まあいっか、今は手本見せてるだけだし」
「……。」
「ほんとは、こんなにいらないからな? 半分くらいで充分だ」
「……。」
戻せそうにないので仕方なく人差し指で全部すくってから、二口は先にキャップを閉めた。
後はこれを唇に塗るだけだ。どう考えても、青根は期待している。部室で塗ってもらうはずだったスティックタイプのもの以上に、二口からされることを待ち望んでいるのは分かったが、それには呆れて笑うしかない。
「ほら、こうやって……塗ったら、終わりだ」
「……!!」
「なに驚いてんだよ、教えてやるって言っただろ?」
クリームを乗せた指を自らの唇に当て、すっと引いてみれば青根はあからさまにがっかりした。実に分かりやすい。だが仮にここで青根の唇に塗ってやったところで、実践を伴わない教え方では理解度が乏しいことは身に染みて分かっている。
つまり、青根がやってみなければ覚えられない。今ならば、次は青根がやれとリップクリームを渡すべきだった。
「……つか、やっぱこれ、量が多かったよな。すごいネバネバする」
「……?」
元々普段使っているものを部室で塗ったばかりだ。そこで、すぐにまたソフトなタイプを、しかもかなり多めに塗ってしまった。話すたびに唇がくっついて引っ張られるような感触が、やたら気持ち悪い。拭えばいいだけとは分かっていたが、もったいないような気もして迷っている間に、不思議そうに覗き込まれて悔しいくらい鼓動が弾んだ。
「……バカ、近えよ」
「……。」
教えるのであれば、リップクリームを青根に渡すべきだ。頭では分かっていたはずなのに、顔が近いと押し返しつつ、手にしていたチューブは青根のカバンへと返しておく。
「だから、朝、鎌先さんに見られると面倒くさいから、できれば登校する前。さっきみたいな感じで、家で塗ってこい」
「……。」
「……でも、まあ、いきなり習慣づけるのは難しいだろうし。もし忘れたときは、オレが、こうしてやるから」
こんなふうに言えば、絶対に青根は家で塗ってきたりしないだろう。むしろ、嬉々として毎朝忘れたと差し出してくるに違いない。それが分かっていても、止められそうにない。精一杯の抵抗として、あくまでリップクリームを塗るためだという主張で舌は絡めずに何度も唇を擦りつけるようにして押し当てた。
「ん……まあ、こんな感じかな」
「……。」
珍しく青根は大人しくしていた。予想外で驚いたのかと思ったが、そういう雰囲気ではない。ただ、興奮したままで、じっと見つめてくる。その視線に落ち着かなくなりながら、二口はなんとなく指を伸ばす。
「……ああ、やっぱこれじゃちゃんと塗れねえな」
「……。」
「最後は指で整えた方がいいか」
唇で塗っただけでは、やはり均一にはならない。だが、クリームがついたところは、自分の唇が触れたところなのだと証明されているようなものだ。本当に青根とキスしているんだなと、何故かぼんやりと思った。もう何度もしているし、実感がなかったわけでもない。それなのに、違う方向から急に突きつけられた気がして、少し気恥ずかしくなりながら指を離したところで、ようやくギュッと青根に抱き締められた。
「青根……?」
「……。」
だがやはりそれだけで、次の動作には移らない。その気がないとは思えないのは、また近くなった顔は息が荒くなっているし、伝わる鼓動もやけに早い。痛いくらいに腕を回してくる強さには葛藤を感じた気がして、二口からも背中に腕を回しつつ、理由を考えてみた。
「……ああ、別にキスもしないとは言ってないぞ?」
「……!?」
もしかして、誤解しているのだろうか。
外ではもうしないという釘刺しで、すべて拒絶された気になっていたらしい。だからこそ、最初にクリームを乗せた指を二口が自分の唇に当てたことを、あれほど残念がっていたのだろう。二口から唇を寄せられて興奮しても、本当にクリームの塗り方講習の延長なのかと、困惑して耐えていたのか。
少し笑いながら耳元で訂正してやれば、大きく息を飲んで驚いた後、まぎらわしいことを言うなと責めるかのようにまた回された腕が強くなった。痛みに文句を言う前に、その腕もすぐに緩む。さすがに少しくらいは学習しているらしい。
「……。」
「ほんとに、キスくらいならいいって? ……なあ青根、しようぜ?」
「……!!」
「んんっ……ん、あ……!!」
まだ不安そうな顔に甘ったるく促せば、ようやく吹っ切れたのか、我慢の限界だったのか、青根はすぐに唇を合わせてきた。
いつにない苦味を感じるのは、こちらの唇から舐め取ったリップクリームが、絡められる舌から口内に渡されてしまうからだろう。塗るのは、キスの後の方がいいのかもしれない。漠然と考えながら、二口は学生服の背中をギュッと握り締める。身長は高い方なのに、もっと高くて、体格としても大柄な相手に抱きすくめられる。去年の自分が聞けば、微妙に嫌そうな顔をして遠慮したがっただろう。だが今はこんなに気持ちが良くて、夢中になれるのだと知っている。
激しいだけの最初の頃よりは少しだけマシになって、青根もこちらの呼吸に配慮したり、舌を絡めるのを合わせてくれるようになった。
「ふ、んぅっ……んん、んぁっ、あ……!!」
「……。」
それは単純な気遣いで、嬉しくなる。
それ以上に、過剰すぎない快楽が長く続いて、どうしようもなく気持ちよくなってしまう。しがみつくように回した手は、もう制服を握るのも苦労するほど力が入らない。腰がとっくに砕けてしまっても、地面に落ちないで済むのは青根がしっかりと支えてくれるからだ。
だからといって、青根はキスで気持ちよくないわけではない。そのことは、押し付けられる腰の熱で疑いようもない。そうであれば、ちゃんと立てているのは鍛え方の差なのだろうか。少し悔しくなっても、絡めた舌を強く吸われると軽い痛みすら快楽と区別がつかなくなって、ビクビクと腰が震えてしまった。
「ん……ん、青根、オレ……。」
「……。」
普段は圧倒的に二口から手を伸ばすことが多いのに、こういうときだけは甘やかすように頭を撫でてくる青根がムカツク。外では駄目だと、むしろこういうことを頻繁にやりすぎだと自制させようとすることを、無理しなくていいと労わられた錯覚がする。
そういうわけではない、青根は単にしたいだけだ。
させてくれと、おねだりしているようなものだ。
分かっているつもりなのに、いつも抗えない。制服のシャツの下へと滑りこんでくるあまり冷たくはない手に、期待でぞくぞくしてしまう。
「青根、だから……もう、外では……。」
「……。」
気がつけば互いに地面に座りこみ、すっかり抱え込まれていても最後の抵抗を試みる。
だがぴたりと止まった手に、寂しくなった。無意識に瞳を上げれば、じっと見つめ返されて、また降参してしまう。
飼い主だと揶揄されても、全く躾けることはできない。
こんな猛獣を、手懐けることなど、きっと誰にも無理だ。
「外だと、ダメ、だからな。……次からは」
「……。」
精一杯の強がりにも、青根は頷かなかった。いつものことだ。
首を横に振らないので、否定ではない。かなり消極的な肯定だ、また撤回されることを望んでいる。返事をしないというずるい反応をしながら、今度は甘えるようなゆったりしたキスを施された。
粗暴なようでいて、青根は意外に器用でもある。教えたわけでもないのに、変に手管は巧くなっていく。
疑っていたわけではないのだが、一度やけに心配になって尋ねたことがあった。
『……お前、キスとか巧くなったよな』
『……!?』
『つっても、まだまだだけどよ』
青根が異常なほど喜んだので、調子に乗らせないようにすぐに付け足しておく。すると、まだ上達具合に自信がなかったらしい青根は、落ち込むように項垂れた。そこまで凹まれると可哀想になってくるので、今度は慰めようかと悩んでいると、珍しく青根が口を開いた。
『……いっぱい、練習する』
『……。』
ただ、久しぶりの声にも、二口の気分が浮上することはない。真摯で健気な決意表明だろうが、少し苛立った。それを言葉にしてみると、随分きついものになる。
『なんだよ練習って、他のヤツで練習するってことか』
『……!?』
『違うんなら、オレで練習すんのか? ……じゃあ、いつ本番するつもりなんだよ、ふざけんな』
『……!!』
いくらキスやそれ以上が巧くなりたいからといって、他の誰かで技術を磨くことは青根の性格としてありえない。そうなると、もちろん二口が練習相手になるのだろうが、それはそれで不愉快だ。
青根には深い意味はなかっただろうし、頑張るという主旨とほぼ変わらないだろう。だが、それでも二口は怒ったように吐き捨ててしまった。途端に慌てて雰囲気だけでおろおろし始める青根に、内心で気分を良くし、そんな自分の性格の悪さに嫌気が差す。だがそれ以上に誇れない悦びが強く心を占めて、わざとらしく両手を広げてやった。
『いつも本番のつもりで来ないんなら、オレだって適当にしか相手してやらねえからな』
『……!!』
ちゃんと構われたかったら、いつも本気で触れてこい。
戯言の延長のようなやりとりのつもりだったが、青根はこのときから、明らかに貪欲になった。一方的に貪るような焦りは落ち着いていくのに、より深いところまで愛撫してくるような、そういう懐き方になっていった。
その結果が、このザマだ。本気でしたいと手を伸ばされると、二口はもうほとんど逆らえない。躾けられたのはどちらだと、自嘲しそうにもなる。
「んんっ、ん……んぁっ、ふ、あぁっ……!!」
「……。」
それでも、青根は今でもちゃんと甘えてくる。
二口に、許してほしい。二口から、触れてほしい。
時折外されるキスの合間がそう訴えていて、少し笑ってしまいそうになりながら、痺れかけている舌で囁いてやった。
「あお、ね……。」
「……。」
愛の言葉など、恥ずかしくて紡いだことはない。だが、青根によって高められた快楽を隠しもせず、声色に乗せてうっとりと名を呼ぶ。すると、びくりと青根の体が跳ねて、また昂揚したことが分かった。
本当に、素直で可愛いヤツだと思う。
猛獣のくせに、愛玩動物だ。再び肌をまさぐりだした手の後は、きっと唇が触れてくる。
リップクリームで治そうとした噛み癖は、もちろん歯で自分の唇を噛むことだ。だがこちらの噛み癖も治してやらなければと思うのに、何故か最初から甘噛みで、歯型が残ることもまずない。怪我などしたことがないのに、気持ちよすぎておかしくなりそうという理由で止めさせるわけにもいかない。
そんなことを迷いながら快楽に落ちていくことが、それほど嫌ではないことが今の一番の悩みだと思いながら、今日も二口は力の入らない腕で精一杯青根を抱き締めた。
| 当社比で少し可愛く大人しくさせてみた二口さん。 相変わらず申し訳ない鎌先さん。 最近青根きゅんが羨ましくなってきた。 ロボっぽい何か |