■青根高伸生誕記念2013






 耳に入る音を、すべて聞いているわけではない。
 聞こえているが、聞いていない。
 要するに興味がなくて聞き流してしまう。
「だーかーらっ、なんで教えてくれなかったんですか!!」
「いちいちおめーに教える理由がねえからだろ」
「ひどい!! 鎌先さんひどい!!」
 ただ、ここのところ、そんな自分の周囲への興味の薄さとは違う理由で、『聞いていない』ことがある。
 正確には、聞いていて、理解したからこそ、聞かないことにする。
 判断できる段階で、聞いていることは間違いない。その前提で無視しているのに、内容は頭に入ってこない。この状態をどう表現すればいいのかはよく分からない。敢えて言えば、内容よりも、会話の特定の空気、色、雰囲気のようなものを感じ取った瞬間に、自動的に防音壁が自分の周囲に落ちる感覚に近かった。
 いつの頃からかは、はっきりと分からない。自覚が生まれたのは一ヶ月ほど前だ。注意深く自分を観察していれば、かなりの頻度でしていると気がつき、また驚いた。要するに、無意識でだいぶ前からしていたのだろう。だがこのことで特に困ってはいない。むしろ、しなければ困るからこそ、無意識にでもやってしまうのだ。
「ちょっと、茂庭さんからもなんとか言ってくださいよぅ!!」
「うーん……でも、確かに、わざわざ二口に教える必要っていうのも、オレたちには」
「傷ついた!! 茂庭さんまでひどいですよぅっ、マジで!!」
 では、努めて無視しなければ、どんな問題が起きるのだろう。
 そこを突き詰めて考えたことはない。考えたくもない。答えと向き合うのが怖いからこそ、無視しているのだ。本能が選んだ防御反応こそ尊重すべきだろう。
 つまり、会話を聞かない。興味を持たない。
 聞き流すというのが、最良の態度だ。幸いにして、普段から無口なので自分から積極的に会話に混じらないことを不審がられたりはしない。むしろ割って入った方が驚かれるだろう。そのぐらいの自覚はある。どちらにしろ、自分には関係のない話なのだ。今はさっさと着替えて部室から出て行くというのが、妥当な行動となる。
 意識と無意識の間くらいの思考で手を伸ばし、まずは汗でぐっしょりと濡れたTシャツを脱いだ。体育館とこの部室は申し訳程度の空調が効いているが、真夏ともなればさすがに暑い。今日は特に日が落ちかけた今もあまり気温は下がっていないようだ。夏休み中も登下校は制服のため、着込む前にもう一度タオルで体を拭いた。
「あとはもうっ、笹谷さんしかいないじゃないですか!! 茂庭さんほど優しくないのに鎌先さんより頭がいいから絶対オレこれ丸め込まれますよ!? ひどい!!」
「まあそうだよねえ、大抵の部員は鎌ちより頭いいしねえ……。」
「それに茂庭より優しい先輩とか探すのがまず無理だろ」
「さり気なく鎌ちが二口の暴言を肯定しちゃってるけど、笹谷はどう? 二口に謝ってくれる?」
 努めて無視していても、やはりなんとなくは分かってしまうものだ。
 理由のような詳細は不明だが、何かの不満を上級生に訴えているらしい。夏休み前に三年生が引退したので、今は茂庭がキャプテンであり、一番上の学年だ。その中でも、特にレギュラーに定着している三人の先輩に、あそこまで堂々と噛みつけるのは凄いと思う。それが許されるのは実力から配慮されていると当人は考えているようだが、大半はその性格を好意的に受け止めてもらえているからだろう。適当に慰められるのではないかという予想を立ててしまったのは、裏を返せば無視しようと努めていてもやはり完全にはできていなかった証拠だ。
「なんでオレが謝んなきゃいけねえんだよ、意味分かんねえ。……つか、青根」
「……!?」
「お前、自分のことでここまで揉めてるってのに、よく平然としてられるな?」
 ただ、やはり認識は薄くなっていたようだ。当該の先輩のうち、最後に名指しされた笹谷がすぐ近くに立っていることは全く気がつかなかった。話しかけられると同時に冷却スプレーを首筋に吹きつけられ、その冷たさに声が出るかと思った。だが実際には逆に息を飲み、全身が硬直したところに更に話しかけられ、混乱する。
「……!?」
「だから、二口が騒いでるのが……。」
 思わず笹谷へと振り向けば、呆れたように説明をされる。よく聞いていないのは分かっていたのだろう。だが笹谷の言葉を遮ったのは、できるだけ聞かないようにしようと努めていたあの声だ。
「あーっ、笹谷さん、なにオレの青根をイジメてんですか!!」
「……!?」
「イジメじゃねえよ、今日も練習頑張ってた可愛い後輩をねぎらってやっただけだろ」
「……。」
 憤慨された内容にまた驚くと、横から笹谷が淡々と訂正する。それに胸をほっと撫で下ろしたところで、不満そうな声がくるりと背を向けた。
「じゃあオレも頑張ってたし!! 笹谷さんっ、ほら、ほら!?」
 そして、短めに揃えられているのでほとんど上げようがない後ろ髪を手で押し、うなじを晒す。
 言葉にもしたように、単に笹谷の冷却スプレーで涼みたいだけだろう。だが何故かまともに見ていられず、視線を逸らしている間に笹谷がため息をついた。
「お前に使うのは勿体ねえ」
「えーっ、なにそれ、やっぱり笹谷さんもひどい!! 差別だ!!」
「れっきとした区別だよ、青根はいい子だからな。それはそうとして、二口には別のことをしてやろう」
「えっ、なんスか、なにくれるんスか」
 どうやらまた自分から話題は逸れたようだ。再び半分無意識に会話を無視しながら、ロッカーへと向かう。着替えがまだ途中だ。半袖の制服のシャツに腕を通し、ボタンを留めていく。だがさすがに真横で話されると、先ほどよりはずっと会話が頭に入ってくる。
「二口、この五円玉を見ろ」
「は? 今時五円で何が、買え……る、て……言、うんです、か……。」
「……?」
 言葉が不自然に途切れていく。なんとなく気になってしまい、最後のボタンを締める前に視線をやると、その先では糸で吊るされた五円玉が揺れていた。
 確か、こういうのを見たことがある。
 定番の催眠術だ。
 ただ、いわゆる子供騙しではないのだろうか。暗示や思い込みが強い性格ならば、もしかすると効くかもしれない。だが今笹谷が術をかけようとしている相手は、その極地ではないかと怪訝になったとき、更に驚いた。
「……!?」
「よし、かかったみてえだな」
「……。」
「……わぁ、ほんとだっ。笹谷にこんな特技があったなんてねえ」
「……オレも今度テストで『鎌先靖志は天才である』みたいなの、かけてもらおうかな」
「無茶言うな、術にかける前の本人にない知識はどのみち引き出せねえんだよ」
 淡々と否定した笹谷に、鎌先は頭を抱えてしゃがみこんだ。
 だが今はそこに注目はしていられない。いつも何かを見つけては好奇心から面白がってキラキラと輝いている瞳が、ぼんやりと濁ったままなのだ。
 これは、大丈夫なのだろうか。いつにない様子に不安が増したところで、五円玉を揺らしたままの笹谷がいきなり矛先を向けてくる。
「で、青根どうする?」
「……!?」
「お前のために黙らせてやったんだろ、早く決めろ」
 だが急かされても、全く意味が分からなかった。
 そもそも自分が怒鳴られたり、絡まれたりしていたわけではない。冷却スプレーをかけられるまでの会話は、話をしているようだという認識までしかなかった。仮に自分がうるさそうにしていると誤解したのだとしても、こうして催眠術をかけて、何を決めろと言うのか。困惑ばかりが増していく中で、あっけらかんと教えてくれたのは穏やかな茂庭だ。
「ああ、あのね、どうも二口は明日が青根の誕生日だって知らなかったみたいでさ?」
「……?」
「プレゼントが用意できてないって、なんで早く教えてくれなかったんだって、オレたちに騒いでたんだよ」
「……。」
 やっと今日の喧騒の理由は判明したが、ない眉を顰めるには充分だ。
 茂庭たちが誕生日を知っていたのは、さほど不思議ではない。入部届には生年月日を書くので、代替わりをしたときにその資料も引き継いだのだろう。だが、どうしてそれを教えなかったと責められればならないのか。やはり意味が分からない。
「あはは、二口も別に本気でオレたちを責めてたわけじゃないんだよ。ただ、知らなかったから、焦ってただけで」
「……。」
「ほんっと、ただの八つ当たりだよなっ」
「……。」
「けど、このままだと、次は青根本人に『なんで教えてくれなかったんだ』て責めるぞ? それは鬱陶しいだろ」
 同情するように笹谷は言ってくれたが、内心では申し訳なかった。
 尋ねられてもいないことを教えていないからといって責められるのは、可哀想だろう。笹谷たちの気遣いも分かる。だがその状況を想像すると、少しだけ胸が弾んだ。このところ、めっきり頻度が減ってしまったことを味わえるかもしれない。だが複雑な感情は傍からは分からなかったようで、笹谷はあくまでも自分のためにこの催眠術をかけてくれたようだ。
「だからな、青根、選ばせてやる」
「……?」
「オレの催眠術、一日くらいは効くからよ? 二口が大人しくなるよう、都合がいい肩書きを刷り込んどけ」
「……。」
 もしかすると、これは笹谷なりの誕生日プレゼントなのか。
 無口で大人しい自分は、饒舌で騒がしいチームメイトを疎ましがっている。そんな認識が根底にあるのだろう。丸一日と考えれば、明日の練習を終えてさっさと帰れば絡まれずに逃げることができる。
 ただ、そこに何の魅力も感じなかった。
 暗示という魔法で変えられることを、どう喜べばいいのか分からない。
 不要だという意志は、否定的な表情としか受け取れなかったらしい。少し首を傾げた笹谷は、期待とは違う言葉を続ける。
「ああ、『肩書き』てのが、分からないか? つまり、そうだな、『弟』とか、『後輩』とか。あと『弟子』とかもいいかもな、師匠なんだぞって態度だったら素直に従うかもしれねえし」
「……。」
「……いや二口が弟子でも師匠に噛みつきそうだよね?」
「……後輩の今でもこんなじゃねえか、弟とかだったマジで毎日飛び蹴りが挨拶みたいな感じだぞ絶対」
「それか、青根とは『仲が悪い』とか、『怖くて話しかけられない』とか、対人関係を示す状態もいいかもな」
「……。」
「……それは可哀想だからやめてあげてよ」
「……つか二口があのテンションのままで嫌いな相手と接するとか想像しただけで怖えよ」
「それは想像しなくても鎌先は実体験だろ」
「えっ、オレ嫌われてんの!?」
 要するに、大人しくさせるにしても、その方向性を選ばせてくれるらしい。尊敬などで態度が丁寧になる場合や、嫌いなので口を利きたくないという場合もあるだろう。一日くらいであれば、変な冗談をしていると周りも流しそうだ。そして、催眠術が解けたときには自分の誕生日は終わっており、騒ぎようがない。
 再び笹谷からの言葉で鎌先が頭を抱えている間に、チラリと視線を向けてみた。
 相変わらず、瞳はぼんやりとしたままだ。いわばスイッチを入れる直前で止めた状態なのだろう。だんだん可哀想にもなってくるし、なにより自分は特に不満はないのだ。先輩からの気遣いと分かっていても、やはり無用のものである。丁重に断ろうと久しぶりに口を開きかけたとき、笹谷がさらりと続けた言葉を思わず繰り返してしまった。
「ま、一番単純なのは好意から従わせることだろうけどなっ。たとえば、『恋人』とか」
「!? ……こい、びと?」
「……え?」
「……!?」
「あ」
 ただでさえ最近は話しかけられることが少なくなっているのに、それを率先して減らしたくはない。だからこそ断るつもりだったのに、笹谷の例示に思わず鼓動が跳ね上がった。
 だが単語を繰り返していたと気がついたのは、少し遅れてからだ。
 それまでぼんやりとしていた瞳が、急に光を取り戻した。今までとは全く違う色を讃えてこちらを捉えたと思ったときには、笹谷のぼやきが耳に届く。
「……しまった、青根の言葉に反応するようにしてたから、今の採用されたわ」
「……!!」
「えっ、じゃあ二口って……?」
「まさか、青根のことを……?」
 滅多に声を発しないからこそ、スイッチになったのかもしれない。だがそもそもそんな細かい調整ができる笹谷が凄いと感心しかけたが、直後に腕が伸びてきて思考は真っ白になる。
「青根っ、青根、なにのんびりしてんだよっ、早く着替えて帰ろうぜ!!」
「……!?」
 いきなり抱きつかれて動揺している間に、身に覚えがないことを叫ばれてまた焦る。
 別に早く帰るだとか、一緒に帰るだとか、約束していた覚えはない。駅までの道が同じなので結果的に一緒にはなることが多いが、それは他の先輩たちも同様である。早く帰りたいのだとしても、こうして肩の上から両腕を回されてギュッと抱きつかれるはずもなく、思わず笹谷に視線を向ければため息混じりに返された。
「……まあ一日で解けるはずだから我慢してろ」
「……!!」
「こらっ、青根、『恋人』のオレが話してんのに、なに他に向いてんだよっ」
「……!?」
 やはり催眠術の効果らしいと納得する前に、拗ねた物言いで顔をぐいっと押されて戻された。
 視線の先には、久しぶりに真正面から見つめたチームメイトがいる。
 再び鼓動が跳ね上がったところで、片手をそっと頬に添えられた。
「……青根が焦らすから、いけねえんだからな?」
「……!?」
 少しだけ首を傾けたまま、恐らくは踵を上げて、ゆっくりと顔が近づけられる。
 責めるような言葉を紡ぎ出す唇をじっと見つめていれば、やがて何故か嬉しそうな笑みを描いた。
「今日は、まだ、一回もちゅーしてねえのに……。」
「……。」
「……んっ」
 そんなことは当たり前だ、自分たちは決してキスをするような仲ではない。
 今日どころか、これまでも一度もしたことはない。
 いや、したことは、なかった。
 少しだけ笑みを浮かべた唇が、躊躇いなく押し当てられた。もちろん、こちらの唇に、だ。一般的にこういうのを『キス』と言うのだということぐらいは理解しているからこそ、認識が追いついたときには顔が真っ赤になる。
「……!!」
「……青根、なんで」
 驚いたのは、心のどこかでやはり催眠術を疑っていたのだろう。笹谷が得意だというのは妙な説得力があるが、かけられた側はやはり抵抗力がありそうなのだ。ましてや、よりによって自分と恋人という設定だ。いくら暗示をかけても本能が否定するのではないか。
 そんな想像は、たった一つのキスで崩される。しかも、しばらく押し当てられてから離された後、不満そうに尋ねられて眩暈がした。
「いつもみてえに、えろいキスしてくれねえの?」
「……!?」
「なあ青根、ほら、もっと、こう……舌とか、絡めた……。」
 ねだるように赤い舌を見せられて、また視野が狭くなっていく感覚がする。
 『恋人』ならば、当然そういうキスもするのだろう。だが、自分の中にはその記憶はない。事実もない。それでいて、もっととせがむ腕は、ちゃんと『知って』いるのだ。
「青根……?」
「……。」
 気がついたときには、こちらから両手を肩に置いていた。そのままぐいっと押せば、当然体が離れる。真夏の熱さより、ずっと全身が火照るのを自覚してしまう。
 所詮は、催眠術の所為だ。
 所詮は、一日で終わる夢なのだ。
 えろくないキスをしただけでも僥倖だと謙虚になりたいのに、不安そうに見上げられると心が揺れる。
「……もう、ちゅーしてくれねえの?」
「……。」
 明後日からのことを考えれば、拒絶すべきだろう。どうして止めなかったと責められる光景は、脳裏にはっきり描くことができた。
 だがどれだけ鮮明な想像も、目の前の実像には敵わない。
 軽くシャツを引っ張られながらせがまれて抗いきれるはずもなく、肩を押して離させたまま、気がついたときには呟いていた。
「……あと、で」
 絞り出すような声に、少し驚いていたように思う。
 やはり催眠術など冗談だったのかと慌てて顔を上げたとき、これまで見たことないほど嬉しそうに笑って抱きついてきた二口を、青根はもう拒めなかった。




 八月十三日。
 夏休みの真っ只中で、盆休みでもある。伊達工業バレー部でも一応の休日設定はされており、主に家庭の都合で帰省や墓参りなどで練習を休む部員が多い時期だった。
 朝からうだるような暑さだが、いつもよりだいぶ早く家を出た二口は、そんなことは全く気にならない。むしろ足取りも軽く、逸る気持ちを抑えてなんとか登校したが、部室に向かう後ろ姿を見つけると我慢は無理だった。
「青根っ、青根、おはよう!!」
「……!?」
 少し距離を残して声をかければ、先を歩くチームメイト、いや、昨日から『恋人』となった青根が驚いて振り返った。
 当然ながら、二口は催眠術などかかっていない。かかったフリをしただけだ。だが恋人になるというのは、二口にとっても僥倖だった。もっと悲惨な結果も覚悟していたのだ。
『……だからな、二口。そもそもオレたちはお前の主張が信じられねえんだよ』
『えーっ、なんでですか、絶対青根はオレのこと好きですよ!!』
『そうかあ?』
 昨日、青根の誕生日が迫っていることを知って、先輩たちに八つ当たりをしたのは事実だ。ただ、ひとつ大きく違うとすれば、それはたまたま青根のいなかった昼休憩である。買い出しのジャンケンに負け、笹谷と二人で重い飲み物を運んでいるときだ。
 二口としては、プレゼントを用意してやりたかったのにと愚痴る。
 すると、笹谷は青根は期待などしてないだろうと返す。
 内心ではその通りだと分かってはいたが、悔しくて、つい『青根は自分を好きなのだからプレゼントをもらえると嬉しいはず』と言い張る。
 それに対する笹谷の呆れた指摘が、先ほどのものだ。
 要するに、青根が二口を好きなはずがないということだ。そんなことは、いちいち指摘されずとも分かっている。だが、認めたくはない。少なくとも、入部当初は好意というか、頼りにされていた部分もあると思うのだ。青根には極端に口数が少ないという特徴があるため、それを理解されるまでは環境に馴染むのが難しい。入部したばかりの頃もそうだった。そこを、しばしばうるさいと逆に叱られる二口が通訳を勝って出たので、次第に相互理解が深まっていったはずだ。
 ただ、そうして青根が周囲と打ちとけていくにつれて、当然のように二口との接点は薄くなった。頼る必要もなくなった。あからさまに無視されていると気づくことも多くなり、傷つかないわけではない。
 それでも、しっかりと話しかければ、まだちゃんと相手をしてくれる。注意を向けてくれる。そこにすがる意味でも、鼓舞するために自己暗示を繰り返す日々だ。
『だって青根がオレを嫌いって言ってるのなんか、聞いたことないでしょ?』
『好きだって言ってるのも聞いたことねえけどな』
『青根は恥ずかしがり屋だから言えないんですよ!!』
『ま、どっちにしろそうだろうけどな。……じゃあ試してみるか』
『……え?』
 このときも、笹谷を利用して自分に言い聞かせていたようなものなのに、急な言葉には正直動揺した。
 ただ、具体的な説明を聞いて、面白いと思った。
 青根から致命的に拒絶されるという恐怖がなかったわけではない。だが青根が催眠術の内容を指定するときは、最低でも笹谷だけはいるのだ。先輩という存在があれば、内心はどうあれ、ひどいことを押し付けてはこないだろう。最も確率が高いのは、催眠術などいらない、つまり現状で満足しているというものだ。今より二口との接点が薄くなることまでは望まないという、後ろ向きの希望だけでも手にしたかった。だからこそ笹谷の提案に乗ったのだが、結果は想像もできなかったほど幸運すぎるものになった。
「青根っ、おはよ!!」
「……!!」
 一晩明け、夢だったのではないかと不安になる気持ちも、しっかりと抱きとめてくれた青根であっという間に吹き飛ぶ。
 ちなみに、催眠術の件は笹谷しか知らない。だが茂庭は気づいていたように思う。鎌先はああなので真に受けているようだ。やたら笹谷に文字通り擦り寄ってはテストや宿題という単語を口にし、暑苦しいと蹴られていた。
 ともかく、さすがの二口も、青根があのとき『恋人』と口にしたのは、笹谷の言葉に驚いて繰り返しただけだと分かっている。それをさも指定だと解釈して迫ってみれば、青根は迂闊にもキスを許した。驚きすぎて反応できなかったようだ。それだけでも充分だったはずなのに、高まった鼓動がどんどんと貪欲になり、もっととねだれば意外な言葉でかわされる。
「青根、会いたかった……。」
「……。」
 昨日、部室を出た後、青根に腕を引っ張られて校舎の裏へと行った。
 期待と自制でパニック寸前だったのをなんとか耐え切れたのは、二口以上に青根が混乱しているとあからさまだったからだ。とにかく、大人しくついていけば、暗がりで足を止め、振り返られた。ぼんやりと見上げていると、いきなりキスされそうになる。驚いて二口は動けなかったのに、唇は触れない。わずかな距離を残して止まっていた。
 ただでさえこの事態に混乱しているのに、そもそも確実に青根はキスの経験などなかったのだろう。いろんな葛藤で最後の一歩を踏み出せないのだと思えばまた愛しくて、残り数センチを二口から縮めてやれば、やっと触れた唇から舌を差し込まれた。
 正直、本当にこういうキスをしてくるとまでは思っていなかったので、二口も慌てた。それ以上に、息苦しくて、気恥ずかしくて、心地よくて堪らなかった。周囲にはいろいろ誤解されているが、二口も初めてだった。日が落ちてもまだ暑い中で抱き合っていればますます体温は高くなり、汗ばんだ体の不快指数は増すはずだ。だがより熱い舌で口内を舐められ、貪るように舌を絡められて二口はただただ幸せだった。
 きっと、催眠術にかかったのは青根の方だ。部員の誰に尋ねても、二口よりはよほど青根の方がかかりやすいと答えるだろう。だがまさか責任感という自己暗示がここまで強いとは思っておらず、誕生日プレゼントという口実もすっかり忘れてねだってしまう。
「青根、『いつもみたいに』おはようのちゅーしよ?」
「……!!」
 自分たちは恋人だ。
 もちろん部活の前後なども落ち合っていちゃついていた。
 昨日、校舎の裏で腰が抜けるようなキスをしてから、二口はちゃんと布石を打っておいた。明日も部活が始まる一時間前に待ち合わせなと念を押せば、青根は驚いたものの、すぐに頷いてくれる。もちろんそんな約束は初めてだ。元より特に青根は早めに来ているようだが、さすがにそれだけ早いと鍵を持っている上級生がいない。着替えなどを考えても、せいぜい三十分前でないと誰もいないのだ。二口は更にギリギリで、遅刻しそうなことも珍しくない。だがまるでずっとそんな早く来ていたかのように確認すれば、こうして青根は本当に現れた。
 そのまま部室に向かってもどうせ開いていないし、盆休みでもある夏休みの早朝では、他の部活の生徒などもまずいない。熱帯夜を引き摺った蒸し暑さの中でも、抱き返された体温には胸が高鳴った。そしてあと半日ほどしかない催眠術の効果時間を有効に使うためにも、気恥ずかしさをおしてあからさまにねだった二口に、青根はまた驚く。
「青根? ……わっ」
「……。」
 周囲をキョロキョロと見回すと、ぐいっと二口の肩を押して突き放す。だが焦らずにすんだのは、まさに昨日の部室でと同じ仕草だったからだ。誰もいないことを確認したのに、青根は二口の腕を掴むと再び校舎の裏へとぐいぐい引っ張っていく。
 昨日とは違い、薄暗がりなどではない。互いの顔がはっきりと拝める場所は、周囲への警戒よりも単純な羞恥を煽って困った。だが自らせがんでおいて拒むことはできず、なにより躊躇いより期待の方がずっと大きく、ようやく足を止めて振り返った青根にニッコリと笑って促した。
「青根、ちゅーしよ?」
「……。」
「……んんっ」
 両肩に手を置いて踵を上げ、軽くシャツを引っ張っただけですぐに青根は唇を合わせてくれた。
 更に戸惑いつつもしっかりと差し込まれる舌の熱さに、笹谷に繰り返した自己暗示は実は正解なのではないと、真夏の熱さでぼやける思考で二口は期待した。




 盆休みの期間となった昨日は、それでもさほど休んでいる部員はいなかった。だが今日はぐっと休みが多くなり、明日は半分くらいしか出る者はいないようだ。更に週の後半は三分の一いるかいないかということのようだが、上級生の誰かが出て指導や施設の管理をしなければならない。今年はキャプテンである茂庭の他に、笹谷、鎌先が鍵を持っているため、この三人で回すことになる。だがどうやらそれが上手くいかなくなったらしい。
「ねえ笹谷、明日って来れる?」
「悪い、明日、つか今日の夜からばーちゃんとこに車で行くんだよな」
「そっか、そうだったね。鎌ちは?」
 実際には施設の管理や練習の指導は他の二年生でもできるのだが、問題は鍵のことだろう。今日はたまたま他の二年生は休みか、早上がりが多かった。体育館を閉めるまでいたのはいつもの三人だけだ。そして着替えながら携帯電話を確認していた茂庭が急に顔を曇らせ、まずは笹谷にそう尋ねている。明日は茂庭だけが出てくる日だったはずだ。どうやら都合が悪くなったらしいと察していると、鎌先がサッと手を挙げた。
「ハイッ、ハイハイハイ!! なんだ茂庭明日都合が悪いのか仕方ねえな笹谷も来れねえならこれはもうオレが出てくるしかねえよな仕方ねえよな親戚のねーちゃんが来ててなんか凄いこわいねーちゃんが今来ててうっかりオレの期末テスト見られて『留年する気か!!』てキレて明日は一日みっちり勉強させるて息巻いてるから泣く泣く休みで申請してたけどこうなったらやっぱ親戚のねーちゃんには悪いけど勉強は断って明日は朝からオレが出」
「そっかあ、鎌ちもダメかあ」
「ああ、絶対ダメだな、つか親戚のねーちゃん頑張れ」
「頑張るのオレだろ!? つか代わってやっから、茂庭オレが代わってやっからさあっ、親戚のねーちゃんにそう断ってくれよ!?」
「やだ。絶対やだ」
 どうやら相当こわい親戚らしい。泣きながら携帯電話を押し付けてくる鎌先をさらりとかわしている茂庭に、二口はようやく手を挙げた。
「はーいっ、茂庭さん、オレ明日も来るから鍵だけなら預かりますよ」
 そしてあっさりと申し出てみれば、振り返った茂庭は安堵したように笑った。
「あ、ほんと? ありがとう、助かったぁ」
「……二口余計なことすんじゃねえよマジで空気読めこの野郎」
「空気読んだから言ってるんじゃないスか、逆恨みとかみみっちいですよ」
「うるせえ!!」
 明日は練習参加の部員がぐっと減るが、二年生はいるので体育館の照明や空調を管理することはできる。ただ、その操作盤に辿り着くまでの鍵がないだけなのだ。鍵だけは茂庭ではなく二口が持ってくるのだと他の二年生に連絡を入れておいてもらえば、それですむ。家族で帰省する笹谷はもちろんのこと、個人的な夏期講習が組まれているらしい鎌先が無理する必要はない。
 黙っていても茂庭からは二分の一の確率で頼まれただろうし、大したことでもないので、軽く手を差し出して鍵を受け取っておく。これまで何度か預かったこともあるので、さして珍しくはない。だが今日に限定すれば、部室の鍵をやけにずっしりと重く感じた。その理由は嫌というほど自覚しており、自然と乾いていく気がする喉を一度ゴクリと鳴らして、緊張で動けなくなってしまう前に二口は振り返って一歩進んだ。
「青根っ、お前も明日は来るよな?」
「……?」
 ちょうど着替え終えた青根の背中を撫でて振り向かせ、そう確認する。やや驚いて向き直り、しっかりと頷いた青根にはつい笑みがこぼれた。
 昨日この部室で催眠術にかかったことにして、キスをした。今朝もそれは継続し、昼休憩でもしっかりと懐く。物珍しそうにしている他の部員たちには、笹谷が胸を張って自分の催眠術の腕を自慢していたので、じゃれているだけだと期待通り流された。
 練習中は、いちゃつくわけにはいかない。休憩に入っても、さすがにキスしたりはできない。仕方なくやたらベタベタと懐くだけだったが、余計にストレスが溜まってしまった。
 早く、青根といやらしく触れ合いたい。
 これではまるで本当の恋人のようではないか。焦りと飢えで思考がふわつく自分を笑ってなんとか耐えていたのに、思わぬ任務を託されては鼓動が早く早くと急いて仕方がない。なにしろ、時間がないのだ。
「じゃあ二口、よろしくね」
「はぁい、了解ですっ。お疲れっした!!」
「……。」
 家から連絡があったらしい茂庭と、元々今夜から帰省予定の笹谷はさっさと荷物をまとめてドアへと向かう。鎌先だけは、明日も鍵を任せるのだから今日の戸締りくらいは先輩がしてやるべきだとひどく真っ当な主張をしていたが、恐らくいろいろ察した笹谷と茂庭に両側から拘束され、二人がかりで後ろ向きに引き摺られていった。
 そうしてあっという間に部室は静かになり、残っているのは二人だけとなった。
 もちろん、二口と青根だ。互いにもう着替えており、荷物をまとめて帰ればいい。明日も部活はあるのだ。酷暑が続く時期なので、少しでも早く家に戻って体を休めるべきだろう。そんな正論は分かっていても、最後に茂庭がもう一度手を振ってバタンと部室のドアを閉める音の余韻が消える頃には、二口はもう一歩進んでいた。
「……あっ、あの、青根!?」
「……?」
 そろそろ昨日笹谷が催眠術をかけた時間になる。効果は一日だ。厳密な二十四時間である必要はないが、早めに切れることを考慮して青根が様子見に入ることは予想がついた。だからこそ、まだ催眠術は継続中なのだと、自分たちは『恋人』なのだと訴えたかったが、焦りすぎて言葉が詰まる。これでは青根を誤解させきれないとまた焦りが増した二口は、さっさと実行してしまおうと顔をぐっと寄せた。
「……!?」
「おわっ!? ……青根?」
「……。」
 キスしてしまえばいいのだとばかりに意気込んだのに、驚いた青根の手が伸びてきて二口も驚く。だがそれはこれまでのように肩を押し返すのではなく、腰の後ろに回されてぐっと引き寄せられた。
 気温と練習で火照ったままの体が、やけに熱い。思わず顔を寄せる勢いも止まり、なんとなく青根の両肩に手を置けば、じっと瞳を覗き込まれた。
「……。」
「……。」
 部室にはもう他に誰もいないので、人目を気にする必要はない。だからこそ、青根が気にしたのは、まだ催眠術が継続中かどうかなのだろう。じっと見つめられると気恥ずかしくて目を逸らしそうになる。だがそれでは嫌がっていると解釈されるのではないか。だからといって気合いを入れて見つめ返せば、単に睨んでいるようにも見えるだろう。『恋人』に対する態度とは思えない。だが目を逸らすと、という堂々巡りをしている間に、腰に回した手はそのままで、反対の手で頬を撫でられた。
「あお、ね……んんっ、んぁ……ふ、んん……!!」
「……。」
 それにドクリと鼓動が跳ね上がったときには、またキスをしていた。すぐに舌を絡めて、深く濃厚になっていく。
 どこで納得したのかは分からないが、まだ催眠術にかかっていると判断されたようだ。それが分かれば、二口も安心する。これはあくまで催眠術による効果だという免罪符を得られれば、羞恥や警戒といった枷を外して甘えるように青根に腕を回せた。
 二口も身長は高い方だが、青根は更に高い。加えて逞しい。筋肉質な体を薄い夏制服越しに感じつつ、しっかりとしがみついて絡めてくる舌に応えた。初めてこういうキスをしたのは昨日だが、青根の癖というか、性格がもう分かる。
 とにかく、貪るしかない。
 ただでさえ経験が薄いのに、それ以外の焦りや動揺が大きいのだろう。互いに舌を絡め合ってゆったりと愛撫を交わすというのは無理なのだ。ひたすら舐めたりたまに軽く吸ったり、唇を甘噛みしてくるのを好きにさせる。下手に二口からも動くと、驚いて、恐らくは我に返って、キスを止めてしまう。結果的に、二口から応じるというのは、具体的には何もしないということだ。青根の好きにさせているのが、一番激しくて、甘ったるくて、気持ちがいい。腕だけはしっかりと回していれば後は青根がどんどん気持ちよくしてくれた。
「んっ、んぁ……んん、ふ、んぁ……!!」
「……。」
 次第に互いの唾液が混ざり合い、キスに合わせるように水音も立つ。一度ゴクリと飲み込めばそれがまたやたら大きく聞こえて、気恥ずかしさからギュッと強く瞳を閉じたとき、ぶるりと腰が震えた。
「んんっ、あ……おあっ!?」
「……!?」
「……あ」
 だが、驚いたのは震えに耐えようとして腰の力を入れたのに、そのまま崩れ落ちそうになったことだ。
 思わず目も開いて青根にギュッと抱きつく。少し落ちかけたが、なんとか間に合った。仮に腕の力も抜けていたとしても、床にへたりこむことはなかっただろう。
 なにしろ、青根の片腕は二口の腰の後ろに回されていたのだ。腕力を考えれば、充分に支えきれる。実際にこのときも青根はちゃんと抱き寄せてくれていたのだが、だからこそ、二口は焦りまくることになる。
「あっ、あの、いや、だから……ほら、その、な!? 分かるだろ!?」
「……?」
 青根に、ぐっと腰を引き寄せられた。見方を変えれば、腰を押し付ける格好になった。
 そこでやっと自分の変化に気がつくのもどうかと思うが、今はとにかく恥ずかしくて言葉を重ねる。だがポカンとして見下ろしてくる青根は、気がついていない様子だ。もしかすると、ベルトのバックルや、ポケットに入れた財布や携帯電話などが当たっていると考えているのかもしれない。いや、それよりももっと根本的に、制服越しでは本人ほどには他人には分からないかもしれない。ならば焦れば焦るほど墓穴を掘るだけだ。なんとか誤魔化そうと試みるが、一度自覚してしまうとやはり恥ずかしくて青根の顔を見られなくなってしまう。
「……だ、だから、その」
「……?」
「……し、仕方ないだろっ、お前が、こんな、えろいキス、してくっから」
「……。」
 しがみついたまま俯くと、自分の顔が火照っていることは分かった。耳まで赤いかもしれない。元々真夏で暑いのだし、慣れないキスでやや酸欠気味だ。
 だから、顔が赤くても仕方がない。
 一生懸命言い訳を考えたのに、なかなか言葉にはできなかった。動揺が通り過ぎれば、一人興奮している自分が情けなくて、格好悪くて、泣きたくなってくる。そうぐっと唇を噛み締めたとき、恐らく怪訝そうに見下ろしてきていた青根が、急に体の向きを変えた。
「えっ……青根?」
「……。」
 体を抱き寄せたまま、くるりと反転する。元々は青根がロッカーの前に立っていた。それを、二口がロッカーに背をつけてもたれかかるような格好にさせてから、少し屈んでキスしてきた。
「んっ……青根……。」
「……。」
 先ほどまでの激しさはなりをひそめ、啄ばむような軽いキスを何度も繰り返す。やや落ち着いてきた二口からも、時折甘えるように舌を差し出せば、軽く舌で撫でられてぞくぞくと腰が震えた。
 ああ、やっぱり気持ちがいい。
 うっとりと享受していく二口は、しばらくの間気がつかない。位置を変えたときに、青根の姿勢もやや変化した。具体的には、腰を引き寄せていた腕が外される。二口は両手共を青根の肩に掛けているので、背中をロッカーにつければ立っていられる。更には甘やかすようなキスをされていたので認識が遅れたが、青根は空いた両手で二口のベルトを外していた。
「ん、青根、もっと……んぁっ!?」
「……!?」
「あ、青根……!?」
「……?」
 なんとなく腰周りが騒々しいとぼんやりしていた二口も、さすがに下着の中に手を差し込まれては目が覚めた。
 青根が、ベルトを外した上で制服の前を寛げ、更に下着の中にまで手を入れていた。しかも、目的はそこで終わりではない。すっかり勃ち上がっていた二口のモノを下着から出すと、その大きくて骨ばった手でゆっくりと扱き始める。
 確かにキスで気持ちよくなり、硬くなっていたことは二口も腰を引き寄せられたときに自覚した。青根は気がつかなかったのだと思った。だが気がついたとしても、それがどうしてこの行動に繋がるのか。少しの驚きと、それよりやや大きな不満を湛えた目で顔を覗き込まれれば、嫌でも分かってしまう。
「んぁっ、ア……あお、ね……!!」
「……。」
「んんっ、んー……ふ、あぁ、だめ、オレ……もぅ、んあ……!!」
 服から出して扱くのは、制服を汚させないため。
 そもそも抜いてくれるのは、興奮させたのが青根からのキスであるため。
 根底には、『恋人だから』というのが間違いなくあると察してしまうと、二口には抵抗できない。なにより、キスとはまた種類の違う直接的な刺激に、男ならば耐えられるはずもない。
 しかも、これは青根から齎されているのだ。
 ただでさえキスで煽られていたモノが、二口も戸惑うほどあっという間に硬くなっていく。そして恥ずかしさで萎える間もなく、その大きな手に弾けさせてしまった。
「あ、んん、ん……あああぁぁっ……!!」
「……!?」
 半袖でなければ、青根の制服を汚していただろう。肘の近くまでかかった白濁の液を、青根は驚いたように見下ろしていた。
 二口はそれどころではない。ただの気温以上に、とにかく暑くて仕方がなかった。絶頂を迎えて硬直した全身は、精液を吐き出すに従って弛緩していく。次第にずるずるとロッカーに背をつけたまま腰が落ちていき、床に座りこんで深く息を吐いてから、ハッと顔を上げる。
「……あっ、あの、青根!?」
「……?」
 青根は、淡々と自分のタオルで右手を拭っていた。部活用のものなので、当然青根が持ち帰って家で洗濯するはずだ。それは申し訳ないので自分のを使ってくれればと言いかけるが、それはそれで自分のカバンにそんなものを拭いたタオルがあるのは嫌だ。だが青根はもっと嫌なはずだと、また思考がぐるぐるし始めるが、正面に座り込まれて焦る。
「えっと、その、青根、だから、ええっと……!?」
「……。」
 慌てる二口に対し、青根はどこか落ち着き払っている。まるで、大したことではないようだと思ってしまったとき、ズキリと胸が痛んで二口は動揺した。
 青根は、こんなことに慣れているのだろうか。
 そんなはずがない、キスですらあれだけ動揺していたのだ。
 ではどうして今はこんなにも落ち着いているのかとしっかり観察すれば、それがそもそも誤解なのだとやっと分かる。
「青根……。」
「……。」
 青根は混乱していた。いっそ二口より思考が空回っているのだろう。元よりさして頭を使うわけではない青根は、完全に安全装置が落ちてしまっている。つまり、思考を放棄した。
 何故か左手だけで二口の制服を調え、ベルトも締めようとしている青根を、しばらくぼんやりと見上げた。
 そして、覚悟を決める。
 自分たちは、まだ、『恋人』のはずだ。
「……青根、もう、おしまい?」
「……!?」
 青根が右手を使わないのは、先ほど二口の精液で汚れたことに配慮しているからだろう。タオルで拭っても嫌だろうという気遣いに、つい笑ってしまいながら二口は両手でギュッとその右手を握る。そして、まだ催眠術が解けていないことを示すために、精一杯の言葉で誘った。
「青根は、まだイッてねえだろ? オレも手でしてやろうか?」
「……!!」
「……それとも、『いつもみたいに』オレの中で出す?」
 手応えはあったはずだ。まさに、青根の手を握っていた。二口からも同じように手で抜くことを提案したときは、ビクッと全身を震わせた青根は、確かに期待していたはずなのだ。
 だからこそ、もっと先を狙って二口は提案した。
 『恋人』であれば、最後までしていてもおかしくない。ただ、さすがにこれが催眠術と知っている青根では、抱かれる理由がないと思った。だが逆ならばいけるかもしれない。抱く側であれば、ラッキーだと思って手を出すかもしれない。そんな予想の根底には、いつしか自己暗示を現実と誤認していたと、嫌でも思い知らされた。
「青根……?」
「……恋人じゃ、ない」
「……。」
 一度は期待で弾んだ瞳を、どこか悲しそうに、苦しそうに歪ませ、逸らす。二口に握られた右手も振り払った。その上で、深くため息をついて青根は久しぶりに言葉を発する。短いその宣言は、二口の頭を真っ白にさせるには充分だった。
 時刻としては、催眠術をかけてから二十四時間三十分ほどが経過している。もしかすると、いまだ切れない効果を訝り、まさに解除のための宣言をしただけだったのかもしれない。だが拒まれたという現実は浮かれた頭には衝撃が大きすぎて、上手く立ち回ることができない。催眠術が解けたという芝居をすればよかったのに、二口はずるい打算が出て来なくてうっかり謝ってしまう。
「あ……ああ、えっと、そうだよな、うん、ごめん」
「……。」
「いや、その、オレだってちゃんと分かってるって? いくら笹谷さんでも、あんな催眠術できるわけねえしっ」
「……?」
「青根の誕生日だからプレゼントみたいな感じでっ、いやほんと、ちょっとそういう遊び? ごっこ遊びっていうのか? そんな感じのしてただけだし!!」
「……!?」
「大丈夫、大丈夫だっての、オレはちゃんと分かってっから!? オレが青根の恋人じゃねえのは分かってる、から」
「……!!」
「だか、ら……なんで、お前が、そんなに驚いてんの?」
 いちいち宣言されずとも、恋人でないことは理解していると言い訳しているうちに、泣きたくなってきた。次に、騙していたのだと告白することで、笹谷を巻き込んで恨まれそうだと焦ってきた。
 これならば、いっそ催眠術が本物だったと言い張ればよかったかもしれない。やっとそんな計算ができるようになった頃は、もう手遅れだ。だがそこで二口はまた困惑する。
 催眠術が嘘だったと知れば、青根の反応は三つくらいしか予想がつかない。
 騙されていたと、悲しむ。あるいは、怒る。そしてやっと解放されたという安堵だ。割合はどうあれ、こういった感情の混合となるだろう。
「青根……?」
「……。」
 だが、青根は催眠術が嘘だったと知ったときに最も驚き、それから頭を抱えた。裏切られたという怒りには見えない。むしろ、悔しがっている。二口や笹谷に対して騙されたことを悔しがるのであれば分かるが、青根はどこまでも俯くばかりで、自らを責めているようにしか見えないのだ。
 無口なので淡白と思われがちだが、実は青根はかなり感情の起伏が激しい。加えて、意外と悲観的なのだ。試合中でもしばしば茂庭や二口が切り替えろと叱咤するのは、それだけミスなどを引き摺る性格だからである。自らの疎さや鈍さを認識しているからこそ、責任感の強さが悪い方向で拍車をかけ、たまに驚くほど後ろ向きな思考に陥るらしい。
 今の青根は、まさにそんな状態だった。最近は周囲も気がついて、青根が悲観的な解釈をしてそうなときはさらりと修正して浮上させている。
「えっと、青根、どうしたんだ……?」
「……。」
 だが、今はさっぱり分からない。どうして青根が自らを責めているのか、全く想像がつかない。
 仕方なく尋ねてみるが、青根はビクッと肩を震わせた後、そもそも俯いて頭を抱えているのに二口の視線から逃れようと体の向きを変えた。
 その反応で、一つだけ判明することがある。少なくとも、『あんな演技に騙された自分が情けない』という種類ではないということだ。もしそうであれば、青根は騙した二口が悪いと涙目で睨んでくる。それは正解なので、二口も異論はない。自嘲的な意味合いだけならば、二口の目から逃れたいとは思わない。だがこの反応を見れば、何かしら、二口に対して後ろめたさを感じているとしか考えられなかった。
「あー……えっと、騙されて情けない、みたいな?」
「……。」
 ただ、その後ろめたさのようなものはどうしても想像がつかず、二口は不正解と知りつつまずはそう尋ねてみる。
 すると、しばらくじっとしていた青根は、やがて小さく頷いた。それもあるにはある。そんなところだろう。だがもちろん大部分ではない。そこまでは察することができたが、違う理由は何も浮かばず、お手上げだと天井を仰いだときに苦しそうな声が聞こえた。
「……元々、ないものは」
「へ?」
「……。」
 もちろん青根の声だった。だが、すぐに意味は分からない。
 何が元々ないと言うのだろう。そして、それがどう繋がるのか。さっぱり分からないとまたため息をつきかけて、ふと、同じような言葉をちょうど一日前に聞いたことを思い出す。
「そういや、笹谷さんがなんか言ってたよな……。」
「……。」
 催眠術をかけたとき、茂庭はまだしも、鎌先は本物だと驚いた。だからこそ、自らに天才だという催眠術をかけてくれと頼んだとき、笹谷が呆れて返したのだ。
「なんか、元々ない知識はいくら催眠術をかけても無駄だって」
「……。」
「あれか、タクシー運転手だって催眠術で思わせることはできても、実際に車を運転したことがなかったら操作できないみたいなものか」
「……。」
 催眠術が嘘だったとばらせば青根は驚いていたので、かかっていると思っていたはずだ。
 その前提に立つと、『恋人』という設定を二口が演じられるのは、過去にその知識がなければできない。実際には本やテレビなどからの知識でも流用できそうだが、青根は厳格にそう思い込んでいたようだ。
 つまり、過去か、現在進行形で二口には恋人がいた。その恋人と、朝や放課後に落ち合ってキスをしたりしていた。しかも二口が抱かれる側で誘った以上は、男の恋人がいた、あるいは、いるということだ。だから拒んだというのは、性癖を疎ましがれば不思議でもない。だが実際には催眠術は嘘だったこと、つまり過去の再現とは限らないのだと知ってここまで落ち込む理由はやはり分からない。そう二口は首を傾げたが、急に息を飲んだ青根が顔を上げてガッと腕を掴んでくる。
「……!!」
「……えーと、男と寝たことがあんのかって聞きたいのか? あるわけねえだろバカ」
「……!?」
「つか、キスだって昨日が初めてだったんだっての。彼女は何人かいたことあるけど、なんか鬱陶しくて、手ぇ出したら余計に束縛されそうだったから」
 人並に性欲はあったが、付き合うまでの過程でかなりうんざりしていることが多かった二口は、むしろ手を出すと口実を与えてしまうと警戒してばかりだった。
 ため息と共に思い出したそんな経験は、更に二口を億劫にさせる。まさに、二口はそうして青根に手を出させて、束縛する口実にしたかったのだと気がつかされた。あれだけ浅ましいと呆れた元の彼女たちと同じことをしそうだったと思えば、ため息は深まる一方だ。だがそんな二口に、青根は呆然として尋ねる。
「……なん、で」
「へ? ……なんで、催眠術にかかってたわけでもないのに、過去にそういう経験があって抵抗がないわけでもないのに、誘ったのかってことか?」
「……。」
 相変わらず言葉が足りなくていまいち確信がないので、そう尋ねれば何度も大きく頷かれる。
 興味津々といった体で見つめられても、困る。今更のように恥ずかしいし、情けないので、蒸し返さないでほしい。冗談だったと流したかったが、あまりに真剣に青根から見つめられて、二口は答えるしかなくなった。
「……してみたかっただけだよ、お前と」
「……!!」
 もちろん、催眠術が解けてからいい口実になるというのもあった。
 だが、それ以上に、単純に青根としたかった。
 疲れたように告白してみれば、かなり驚いていた青根は、再び俯く。そしてやや肩を震わせているので、やはり怒っているのかと身構えた二口は、一瞬理解が追いつかない。
「……すれば、よかった」
「は? ……えっ、あ、おい、なんで泣いてんだよ!?」
「……!!」
 声も震えているので、それほどの怒りかとも想像しかけたが、明らかに違う。
 青根は、泣いていた。正確にはまだ涙はこぼれていない。だが潤んだ瞳は今にも涙が溢れ出しそうだし、耐えるように噛み締めた唇は切れて血が滲んでいる。
 この流れで、どうして泣くのか。ますます意味が分からない。ただ今はそんな困惑よりも純粋に慌ててしまい、青根が床に置いたままだったタオルを取ってゴシゴシと目元を拭った。
「……!?」
「あ。そういやこのタオルって……あっ、いやっ、その、わざとじゃねえから!?」
 青根は青根で、まさかいきなり拭われるとは思っていなかった様子で、かなり面食らっている。だが気が逸れたことで、少し落ち着いたようだ。それには謝りつつ、二口も安堵する。
 どうやら、青根が不可解に落ち込んでいたのは、まさに『すればよかった』という後悔かららしい。何をかという愚問はさすがに口にしない。セックスすればよかったという意味だろう。その意志があれば、何も我慢せずに手を出せばよかったはずだ。それなのに、催眠術を本物と誤解して、いや、要するに二口には別の恋人がいると早合点して、拒絶した。だがそもそもすべてが誤解だと判明して、まるで好機を逃したとばかりに悔しがる。
 分かりにくい複雑な感情の変遷なのに、二口はすんなりと理解できる。
 昨日は笹谷に主張した自己暗示が、現実だと仮定すれば何の矛盾もなく説明がついた。
「……だったら、今からでもすればいいだろ、したいんなら」
「……!!」
「お前、今日誕生日じゃねえか。オレ結局何もプレゼント用意できてねえし」
「……。」
 だからこそ、精一杯平静を装って言ってみれば、青根は気配を華やがせて二口を見つめた。
 それでいて、ついでに思い出したことを付け加えると、途端にまた泣きそうになって切れた唇を噛み締める。
 その頑なな横顔を見ていると、ようやく分かった気がする。青根が一番悔しかったのは、きっとそれでもいいと割り切れない自らの子供っぽさなのだろう。思わず笑ってしまいながら、二口はゆっくりと手を伸ばしていく。
「あのな、笹谷さんの催眠術、かかってなかったて言ったよな? それ、どういうことか分かってんのか?」
「……?」
 短い髪に触れて撫でていれば、やがて青根は不思議そうに振り返った。
 二口が催眠術にかかっていなかった以上、どういう肩書きを採用するかは、二口に委ねられていた。そこで選んだのが、青根がうっかり復唱しただけの『恋人』であり、実際には誤認する過去もないのにキスをしたりその先を求めたりした。
 あまり深く考えていない様子だったので、二口も教えるつもりはなかった。だが、青根は言葉以外であからさまに示してくれたのだ。ここで応えなければ意味がないとばかりに覚悟を決め、そう促せば青根は首を傾げる。
 どうやら、真面目に考えているようだ。
「……?」
「……。」
「……!?」
「……分かったか?」
 しばらく待っていれば、急に青根が慌てだした。また目が潤んでいるが、今は顔が耳まで真っ赤なので後悔などではない。何かを言いたそうだが相変わらずすぐに言葉が出てこない様子に、二口は笑って床から腰を上げた。そして、同じく床に座っていた青根の腰を遠慮なく跨いで座り直す。
「青根、誕生日おめでとう。……何が、欲しい?」
「……!!」
 そうして正面から見つめながら、軽く両手を広げてもう一度尋ねてみる。
 青根は、驚いてまたぐっと言葉を飲み込んだ。だがやがてゆっくりと二口の背中に腕を回すと、しっかりと引き寄せてから耳元で囁く。
 かかる息のくすぐったさより、やっと告げられた言葉が本当に面映くて二口はギュッと抱き返した。
「……ん、全部あげる」
「……!!」
 そして今度こそ暗示などではない恋人として抱き合うのだと喜んだ瞬間、ロッカーまでの距離を計算せずに押し倒してきた青根によって後頭部をしたたかに打ちつけた。
 仮に距離があっても、床で頭を打っただけだ。
 好きなのは分かったので少し落ち着けと、床で正座をする青根に二口は説教する羽目になる。だが青根も反省しているようだったので、すぐに許して仕切り直しをしようとすれば、今度は正座で足が痺れていた青根が前のめりにこけて同じロッカーで頭を打った。これは相当な厄日かと慄いた二口に対し、変な負けず嫌いが発動したらしい青根がなんとしても今日ヤりたいとせがんだことで、やっと繋がることができる。そして幸せいっぱいのまま抱き合っていると、急に部室内にアラームが鳴り響いて二人そろって驚いてベンチから落ちた。
 携帯電話を忘れていったらしいそのロッカーの持ち主を逆恨みすることにした二口は、凹んだ扉には動物の足跡を赤のマジックで描いておく。三日後に部活に来た先輩が動物霊の仕業かと怯えているのを笑っていれば、すっかり忘れていたらしい青根も同じように震えていた。本当にバカで子供っぽいなと同じ感想を持ったのに、それが青根だと愛しくて堪らない。だからこそ、あれは自分が描いたのだと安心させるために青根に教えてやれば、もちろん鎌先にも聞こえていて青根共々正座させられたのは二口にとっては実に理不尽だ。だがある意味ではロッカーの凹みは初めての共同作業かと楽しくなってきて、横で正座をする青根の手を握ってニコッと笑えば青根が動揺し、再び痺れた足がもつれてロッカーで頭を打った。
 盆休み明けに一連の頭突き事件を聞いた茂庭と笹谷によって、何故か鎌先も正座されられたらしいが、二口はよく知らない。
 部活が終われば、ひたすら早く部室を出たい。
 そしてやっと付き合え始めた恋人と、安全に愛を育みたかった。













ピクシブではちゃんと8/13にUPしてたんです!(言い訳)
青根きゅんおめでとう!!!
なにはともあれ おめでとう!!!

ロボっぽい何か


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